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今日ボクが見た風景

従軍慰安婦問題で大儲けした元日本軍人

Category: ブログ  


1991.5.22朝日新聞(大阪版)

「女たちの太平洋戦争」で韓国から寄せられた投稿にある、”挺身隊員として連行された” 女性への言及。一方、多数の朝鮮人を強制連行した側からの証言がある。1942年(昭和17年)、朝鮮人の徴用を目的に発足した「山口県労務報国会下関支部」の動員部長になり、それから3年間、朝鮮人約6000人を強制連行した吉田さん(77)=千葉県=である。
 「手を下した側から従軍慰安婦について証言できるのはもう私1人しかいないかもしれない。政府は『民間の業者がやったこと』と言うがそんなことはない。とはいえ、その実態は歴史から消えている。慰安婦だった人は過去を知られたくないのは当然で、日本人の側が、犯した罪を証言し、記録しておく義務がある。沖縄決戦についての慰安婦の実態もみえてこない。朝鮮から沖縄へ慰安婦として強制連行された人たちは数千人いたと推定できる」と吉田さんは言い、現在、当時のことを記録に残そうと書き続けている。
 吉田さんは自著「私の戦争犯罪ーー朝鮮人強制連行」(三一書房)などで自己の戦争犯罪を問い続ける。86年8月、大阪で開かれた「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」に招かれ、従軍慰安婦について大要次のように証言した。 (以下は、「アジアの声 侵略戦争への告発」=戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版=から)
 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の1つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです。従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が10人か15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官50人か100人を動員します。そして警察官の護送トラックを5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣をもっていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます。そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、3日から5日の間に、予定の100人あるいは200人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡線で下関へ運んだのです。下関では74部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を3年間やっておりました。
 10万とも20万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に1人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちはすべて郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。
 今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中で過ごしていらっしゃる方、10万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。従軍慰安婦と原爆被災者の2つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。従って私は戦犯の証人として、ここに立って皆様にそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。







吉田清治の転落人生
(「良心の呵責に苦しむ元日本軍人」から「強制連行物を得意ネタとする目立ちたがり屋の詐欺師」に)

・朝日新聞 [91.5.22] 「済州島で従軍慰安婦を木剣ふるい無理やり動員」(写真入り)。
・朝日新聞 [91.10.10] 吉田清治氏は、慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供を引き
 はがして連行、政府は資料を隠していると語った。(井上裕雅編集委員、写真入り)。
・朝日新聞夕刊「窓」欄 [92.1.23] 連行した女性は950人、「私が強制連行した朝鮮人
 のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」と吉田清治氏。「
・「マスコミに吉田清治さんの名前が出れば迷惑がかかるのではないか。心配で尋ねると、
 腹がすわっているのだろう、<いえいえ、もうかまいません>と(北畠清泰論説委員の紹介記事)
・吉田さんと部下、十人か十五人が朝鮮半島に出張する。総督府の五十人あるいは 人の警官と
 いっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り蹴り、
 トラックに詰め込む。一つの村から三人、十人と連行して予定の百人二百人になれば下関に運ぶ。
・朝日新聞 [92.5.25] 吉田清治氏、7月、韓国に「謝罪の旅」に出るとの記事。
 男女6000人を朝鮮半島で強制連行した体験を「国会でもどこでも行って話す」つもりだが、
 いまだに実現しないと報じる。
(↓↓ますますエスカレートしていって、どうにもとまらない吉田君) 
・ニューヨーク・タイムズ [92.8.8]東京支局長のインタビュー記事(写真入り)。
・毎日新聞 [92.8.13] 吉田清治氏は8月12日ソウル市内の慰霊祭で元慰安婦らに謝罪、
 また補償のため日本による韓国新幹線計画の費用負担を主張。
・週刊新潮 [92.11.24] 吉田清治氏は、93年春に訪米して米マスコミ、在米朝鮮人(約100万人)に働きかけ、
 国連事務総長に慰安婦問題をアピールする予定と語る。

 ↓↓↓↓↓↓ 真相がばれる


・「昭和史の謎を追う」下巻 文藝春秋 1999年 秦郁彦
1)慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、
 関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。
 依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄管理下にあり、
 内地から出張しての狩りこみはありえず、もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずと述べている。
2)第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年出版)には、
 四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、
 第二作(1983年出版)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する。
3)第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、
 死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。

・済州島の『済州新聞』(1989年8月14日付)
 解放44周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が
 刊行され大きな証言を与えている。しかし裏付け証言がなく波紋を投げている。
 この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制挑発したり、
 法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏付け証言する人は
 ほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して
 強く疑問を投げかけている

 城山里の住民のチョン・オク・タン(85歳の女性)は「
250余の家しかないこの村で、
 十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった
」と語った。
 郷土史家の金奉玉(キム・ポン・オク)氏は「1983年に日本語版が出てから、
 何年かの間追跡調査した結果、事実でない事を発見した

・平成8年(1996年)吉田君へのインタビュー(5月29日週刊新潮)
 「
本に真実を書いても何の利益もない。 事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、
  新聞だってやるじゃないか!




本名、吉田雄兎、別名は東司、栄司
1913年10月15日生まれ。本籍は福岡県芦屋町西浜
1937年、満州国地籍整理局に就職
1996年3月結婚
1942年9月、労報下関支部に就職
1947年4月、下関市議に共産党から出馬して落選
1970年頃、門司の日ソ協会の役員をしていた
1977年3月、『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を出版。その中では、朝鮮人慰安婦調達に関わる体験談がハイライトになっている。(ただし、慰安婦は狩り立てではなく、朝鮮人地区の女ボスが話をつけて労報へ中継ぎする方式になっている)
1982年9月2日、朝日新聞(大阪版)に大阪での市民集会の講演内容が掲載され、慰安婦狩りの告白が初登場。
1983年7月、『私の戦争犯罪(三一書房)』を出版。慰安婦狩りの生き証人としてマスコミ等でもてはやされる。

※参考:秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書1999.6


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死んでも靖国には逝けぬな・・・地獄の業火に焼かれ続けろ・・・永遠に
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