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漫画「はだしのゲン」英訳本完成

Category: 原爆  

漫画「はだしのゲン」英訳本完成 全米の子どもに「読んで」
原爆が投下された広島をたくましく生きる少年を描いた漫画「はだしのゲン」全10巻の英訳が完成し、広島市で26日、記念祝賀会が開かれた。作者の中沢啓治さん(70)も出席し「全米の子どもに読んでほしい。戦争や原爆の愚かさが世界中に伝わるまでゲンの役割は終わらない」と訴えた。
祝賀会には翻訳ボランティアやファンら約100人が参加。核兵器廃絶を掲げたオバマ米大統領の広島訪問を呼び掛けるメッセージと、ゲンのイラスト入りの色紙に寄せ書きした。英訳本とともに、大統領に贈る。
英訳は、金沢市の浅妻南海江さん(66)らのグループが9年かけて完成させた。戦後のゲンの成長を描いた後半部の英訳は初めて。最後の9~10巻は、インターネットを通じて10月に発売する。
浅妻さんは祝賀会で「世界で核廃絶の機運が盛り上がり、ゲンに寄せられる期待は一層高まっている。世界中の人に愛されてほしい」とあいさつした。
中沢さんが自らの被爆体験を元に描いた「はだしのゲン」は1973年から約1年半、週刊漫画誌に連載された。
浅妻さんらはこれまでにロシア語や韓国語など5カ国語に全訳。一部をドイツ語など8カ国語に翻訳している。(共同通信 2009/07/27)

「ゲン」翻訳者が作者と対面
チェルノブイリ原発事故で被災したウクライナの詩人ヴァシレンコ・ニーナさん(73)が26日、被爆地広島市を訪れ、漫画「はだしのゲン」の原作者中沢啓治さん(70)=埼玉県在住=と対面した。ヴァシレンコさんは「はだしのゲン」全10巻をウクライナ語に翻訳中。8月6日には完成した第1巻を携え、平和記念式典に出席する。
チェルノブイリ原発事故の起きた1986年、ヴァシレンコさんは南西75キロのマカレヴィッチ村で小学校教諭をしていた。住民の多くが白血病やがんを患い、夫もがんを発症。2000年に61歳で死亡した。
「ゲン」とは91年に出合った。日本の知人から、ロシア語版の第1巻を贈られ、被爆後の広島で生き抜くゲンの姿に感動した。学校退職後の04年、ウクライナ語への翻訳作業に取りかかった。
今回、広島には「はだしのゲン」全巻の英訳の完了祝賀会に招かれた。中沢さんと原爆ドーム周辺を散策し、ヴァシレンコさんは「ヒロシマとチェルノブイリは1本の鎖でつながっている。ゲンからは勇気をもらった」と感謝の気持ちを伝えた。中沢さんも「原発事故後に苦しむ多くの人に、懸命に生きるゲンの姿を伝えてほしい」と励ました。(中国新聞 2009/07/27)

広島原爆:カルテを入手 今なら救える命も 臨界事故で治療、医療グループが分析
1945年8月6日の広島原爆投下後、被爆者の治療にあたった東広島市の傷痍(しょうい)軍人広島療養所(当時)の19人分のカルテを毎日新聞が独自に入手した。このカルテについて、99年に起きた核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県)の臨界事故で、緊急治療にあたった医療グループが分析。現代の被ばく医療の視点から、死因や被ばく線量などを推定した。【辻加奈子、井上梢】

医療グループは東大名誉教授、前川和彦氏(68)▽放射線災害医療研究所副所長、衣笠達也氏(62)▽同研究所研究参与、神裕氏(52)の3人。先月24日、被爆から20日後の8月26日に同療養所に入院し、翌9月4日に死亡した警察官、田川正之さん(当時33歳)のカルテを遺族の了承を得て主に分析した。
田川さんの遺族らによると、田川さんは爆心地から南約1.1キロの警察練習所1階で被爆。10日後、広島市郊外の家族の疎開先に姿を見せた。元気な様子だったが、体調は急変し死に至ったという。
カルテから放射線障害の前駆(前ぶれ)症状や放射線による臓器障害を詳細に検討。血液1立方ミリメートル中の白血球数は徐々に減り死亡時には370個(通常4000~9000個)に落ち込んでいた。被爆で骨髄の造血細胞が傷ついたとみられる。他の検討結果と総合し「基礎にあるのは白血球の減少と感染症。死因は敗血症」とした。
症例検討と過去の放射線事故症例での白血球数の推移を基に作られた推定式を用い、田川さんの被ばく線量を3~4グレイと推定。爆心地からの距離などによる物理的計算式「DS02」での被ばく線量は2グレイ弱で、今回の検討結果の方が高い傾向が出た。他数人分の検討でも同様で、前川氏は「周辺の放射化も加わり、被爆者は2次被爆もしたろう。患者をみて被ばく線量を決めるのが重要」と述べた。
田川さんのカルテには「大腿(だいたい)骨上半と胸骨の赤色髄」の記載もあった。これについて医療グループは「死亡時に造血機能はまだあった」と分析。また、カルテの患者らの被ばく線量はいずれも2~6グレイだった。集中治療と造血細胞を刺激するサイトカイン療法が有効なレベルで、医療グループは「限られた人数であれば、今なら急性期の救命はできる」とみている。前川氏は「カルテを読み込めば、現在も新たな知識が得られる。こういうものを伝承する文化を持たなくては」とも語った。(毎日新聞 2009/08/03)

◆被ばく線量(グレイ)と主な症状
0.25  ほとんど臨床的症状なし
0.5  白血球(リンパ球)一時減少
1.0  リンパ球著しく減(吐き気、嘔吐(おうと)、全身倦怠(けんたい))
1.5  50%に放射線宿酔(同上)
2.0  5%死亡、脱毛
4.0  30日間に50%死亡
6.0  14日間に90%死亡
7.0  100%死亡

核廃絶訴え、米大陸横断へ 原爆展に衝撃の元海兵隊員
「核兵器のない世界」の実現を訴え、米大陸横断ツアーを計画している元米海兵隊員パトリック・コフィさん(35)が1日、広島市で開かれた国際平和シンポジウムのトークセッションに参加。
広島、長崎の被爆両市が2007年に全米で開催した原爆展で衝撃を受けた体験を披露し「苦しみの中で被爆者が証言を続ける姿に心を打たれた」などと語った。
1992年から約6年間、海兵隊員だったコフィさんは湾岸戦争に従軍したほか、韓国や沖縄にも駐留。原爆投下は第2次世界大戦を終わらせ、多くの米軍兵士の命を救ったと信じていた。
だが退役後入ったデュポール大学での原爆展を見て、「正義」への自信が揺らぐ。疑問を解消しようと広島、長崎を訪れ、原爆資料館や原爆ドームを見学。熱線に逃げ惑う市民や放射線の後遺症に苦しむ被爆者らの「原爆を落とされた側の現実」を見ようとしていなかったことに気付いた。
帰国後、広島市長が会長を務め、2020年までの核廃絶を目指す平和市長会議への賛同を求める署名活動に参加、シカゴ市とエバンストン市の加盟に結び付いた。
計画は、日米の学生8人が9月に東海岸を出発。各地の高校や教会で原爆の写真や被爆者の証言などを紹介しながら、約3カ月かけて西海岸を目指す。(共同通信 2009/08/01)

広島原爆:エノラ・ゲイ乗組員ジェプソン氏 放射線被害、これほどとは…
◇オバマ大統領の道義的責任発言に「世間知らず、間違いだ」
1945年8月6日、広島に世界初の原子爆弾を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」乗組員(12人)の1人で爆発物の監視を担当したモリス・ジェプソンさん(87)が2日までに、米ラスベガスの自宅で毎日新聞とのインタビューに応じた。ジェプソンさんは、64年後の今も被爆者の後遺症が残っていることについて「放射線被害がこれほど大きいものとは思っていなかった」と述べた。また、原爆使用についてオバマ米大統領が「道義的責任」に言及したことについて、「間違っている」と批判、「戦争早期終結のためだった」と使用を改めて正当化した。
エノラ・ゲイ乗組員で生存しているのはジェプソンさんを含む2人だけ。オバマ大統領の発言を乗組員が公に批判したのは初めて。
ジェプソンさんらは45年6月から、テニアン島(太平洋)で特別任務メンバーとして、他の一般米兵とは離れて生活。当時から「私は物理を学んでいたから爆発物が原爆だと知っていたが、機長(故ティベッツ氏)らを除き、ほとんどの乗組員は超強力爆弾(スーパー・パワフル・ボム)という認識だった」と振り返った。
ジェプソンさんによると、投下時、爆弾(5トン)が離れた瞬間、機体が跳ね上がり、約43秒後に窓から閃光(せんこう)が入り、爆風で飛行機が振動した。しばらくして再び振動が起き、機長が機内通信装置で、投下されたのが原爆であることを乗組員に明かしたという。
ジェプソンさんは「窓から(キノコ)雲と火が広がっていくのが見えた。多くの命が奪われ、多くが破壊されていることを意味した。うれしいことではなかった」と語った。
現在も残る放射線被害については、「(原爆を開発した)ロスアラモス研究所自体、これほど被害が大きいことは理解していなかったと思う。米国の物理学者も驚いた。当時のトルーマン大統領でさえ知っていたとは思えない」と語った。
だが、当時は米軍の本土上陸作戦が近づいていたと説明、「上陸すれば、米兵だけでなく、日本兵や一般の日本人の多くが犠牲になることは明白だった。原爆は戦争を早期に終結し犠牲を回避するための唯一の選択だった」と述べた。
その上でオバマ大統領が4月にチェコ・プラハで原爆使用国としての「道義的責任」に触れ、「核のない世界」を目指すと述べたことについて、「原爆を使用した米国を罪だとしており、あまりにも世間知らず(ナイーブ)な発言だ。彼は我々の世代が死亡するのを待っている」と批判。将来、米大統領が被爆地を訪問することになった場合、「とても悪い気分になるだろう」と述べた。【ラスベガス(米ネバダ州)で小倉孝保】

<エノラ・ゲイ> 太平洋・北マリアナ諸島のテニアン島から飛び立ち、ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。乗組員は計12人。名前はティベッツ元機長の母親のファーストネームとミドルネームからとった。全長30.2メートル、翼幅43メートル。現在は米ワシントン郊外のスミソニアン航空宇宙博物館別館で展示されている。

<モリス・ジェプソン氏(Morris Jeppson)> 米ユタ州生まれ。ハーバード大やマサチューセッツ工科大(MIT)で、原爆に設置される電波装置の技術を学び、陸軍飛行部隊将校としてロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ州)入り。エノラ・ゲイ機内では、爆発物が正確に作動するかデータを監視した。第二次世界大戦終了後は民間の研究所などに勤務。(毎日新聞 2009/08/03)

広島原爆:エノラ・ゲイ乗組員ジェプソンさんの発言(要旨)
◇爆弾投下「好きな人間いない」
モリス・ジェプソンさんの発言要旨は次の通り。【小倉孝保】

<原爆投下まで>
▽45年6月に(サイパン島に近い)テニアン島に移り、島の一角に建てた仮設小屋で(原爆投下の)特別任務に関係する人間だけで暮らした。
▽(8月6日の)前日か前々日、(島に渡った技師)6人の中から2人が選抜され、最後に上官がコインを投げて、「ジェプソン、君が飛ぶことになった」と決めた。当時の気持ちは思いだせないが、爆弾を落とすことを好む人間なんていない。

<原爆投下>
▽私は物理を学んでいたから広島へ運ぶ爆発物がウラン型原爆だと知っていた。しかし、私と機長の故ティベッツ氏、物理学者の故パーソンズ氏を除くほかの乗組員は、超強力爆弾(スーパー・パワフル・ボム)だとしか知らなかったと思う。
▽広島上空で爆弾の収納室の扉を開けた瞬間、機体が跳ね上がった。5トンの爆弾を切り離したためだ。
▽投下後43秒で爆発するはずだった。時計を持っておらず43秒数えたが何も起こらなかった。それから2、3秒後、窓から閃光(せんこう)が入ってきた。数え方が速過ぎたようだ。すぐに、(爆風で)飛行機が振動し、多くの乗組員は「対空射撃だ」と言った。その後、やや小さな振動があった。みんなは「何だ、この振動は」と言っていた。私は地上に跳ね返った爆風だと思った。
▽機長は機内の通信装置で、「我々が今見たのは戦争で初めて使用された原子爆弾だ」と述べた。私は任務完了と思った。

<投下後の様子>
▽日本人にこの話はしたくないが、機内の窓から(キノコ)雲と火が広がっていくのがみえた。多くの命が奪われ、多くが破壊されているのを意味した。うれしいことではない。

<オバマ発言>
▽オバマ大統領の「道義的責任」発言は、この兵器を使用した米国に罪をかぶせ、あまりにも世間知らず(ナイーブ)な発言で間違っている。こうした発言はすべきでない。彼は我々の世代が死んでいくのを待っている。
▽この部隊の使命で唯一絶対の共感を得られる点は、戦争終結が目的だということだ。広島、長崎の原爆は戦争を早期に終結し、犠牲を回避するための唯一の選択だったと今でも確信している。
▽大統領が被爆地を訪問すれば、とても悪い気分になるだろう。また、原爆使用を謝罪すれば腹立たしい。

<放射線被害>
▽原爆による被害が大きくなるのは予想していたが、放射線被害がこれほど大きいとは思っていなかった。(原爆を開発した)ロスアラモス研究所自体、これほど放射線の被害が大きいことは理解していなかったと思う。米国の物理学者も驚いたのだ。トルーマン大統領(当時)でさえ知っていたとは思えない。しかし、大統領が仮に放射線被害の大きさを知っていれば、意思決定が違ったかどうかには答えられない。(毎日新聞 2009/08/03)

米国内で6割が原爆投下賛成 キニピアック大の世論調査
【ニューヨーク共同】米キニピアック大(コネティカット州)は4日、第2次大戦末期の米軍による広島、長崎への原爆投下について、米国内で61%が「正しかった」と回答し「間違っていた」は22%だったとの世論調査結果を発表した。
それによると、党派別では「正しかった」は共和党支持者の74%で、民主党支持者の49%を大きく上回った。「間違っていた」は、共和党13%、民主党29%だった。
年齢別に見ると「正しかった」は55歳以上が73%だったが、35~54歳が60%、18~34歳が50%と、年齢が下がるほど原爆投下への支持は低下。男女別では「正しかった」は男性72%、女性51%だった。
同大のピーター・ブラウン氏は「第2次大戦の恐怖を記憶している有権者は(原爆投下の決定を)圧倒的に支持するが、冷戦時代に核の恐怖の中で育った世代など、若くなるにつれて支持が落ちている」と分析している。調査は7月27日~8月3日、全米の有権者2409人を対象に実施した。(共同通信 2009/08/05)

内部被ばくの“証拠”撮影 長崎大研究グループ
長崎原爆で死亡した被爆者の体内に取り込まれた放射性降下物が、被爆から60年以上たっても放射線を放出している様子を、長崎大の七条和子助教らの研究グループが初めて撮影した。放射線を体の外側に浴びる外部被ばくと別に、粉じんなど「死の灰」による内部被ばくを裏付ける“証拠”という。
内部被ばくの実態は研究が進んでおらず、七条助教は「病理学の見地から内部被ばくの事実を証明することができた。今後、健康への影響を解明するきっかけになるかもしれない」と話している。
七条助教らは、爆心地から0.5~1キロの距離で被爆、急性症状で1945年末までに亡くなった20代~70代の被爆者7人の解剖標本を約3年間にわたり研究。
放射性物質が分解されるときに出るアルファ線が、被爆者の肺や腎臓、骨などの細胞核付近から放出され、黒い線を描いている様子の撮影に成功した。アルファ線の跡の長さなどから、長崎原爆に使われたプルトニウム特有のアルファ線とほぼ確認された。
鎌田七男広島大名誉教授(放射線生物学)は「外部被ばくであればプルトニウムは人体を通り抜けるので、細胞の中に取り込んでいることが内部被ばくの何よりの証拠だ。広島、長崎で軽んじられてきた内部被ばくの影響を目に見える形でとらえた意味のある研究だ」としている。(共同通信 2009/08/07)

長崎被爆者の細胞でプルトニウム確認 内部被曝解明に道
長崎原爆で被爆し間もなく亡くなった犠牲者の細胞内から、原爆の材料となったプルトニウムが確認された。長崎大学の原爆後障害医療研究施設(原研)の七條和子助教らのグループが研究していた。現在も放射線を出しており、被爆地に降った「死の灰」(放射性降下物)などが呼吸や飲食によって体内に取り込まれたために引き起こされる「内部被曝(ひばく)」の実態や影響の解明につながる発見として注目される。
研究では、爆心地から0.5~1キロ地点で被爆し、外傷や放射線障害によって1945年のうちに亡くなった男女7人の組織標本を調べた。日米の研究者が解剖後に肺や肝臓、腎臓、骨から取り出し、原研に保管されていた。
乳剤を組織に塗り、細胞から出ている放射線の軌跡を撮影して分析。発生源がプルトニウムだとつきとめた。
細胞内のプルトニウムは被爆から64年がたった現在も放射線を出し続けている。だが原研のグループによると、生存する被爆者が吸い込むなどした放射性物質は大半が代謝などで排出されているという。七條助教は「内部被曝は未知の部分が多い。この発見が解明につながれば」と話している。(波多野陽) (朝日新聞 2009/08/08)

核の惨禍展:国連本部で始まる 広島など3市共催
【ニューヨーク小倉孝保】核の被害を紹介する展示会「核の惨禍展」が10日、ニューヨークの国連本部で始まり、各国外交官や国連を訪れる旅行者が写真などに見入った。
被爆国・日本とセミパラチンスクの核実験施設閉鎖から20年になるカザフスタンの両国連代表部が、来年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け核軍縮・不拡散の機運を盛り上げようと企画した。広島、長崎、セミ(カザフ)の3市が共催。国連日本代表部によるこうした展示会は初めて。
会場では、広島、長崎の原爆投下直後の街の様子ややけどを負った被爆者の写真、セミパラチンスク核実験施設の写真、図などが展示された。83年に広島、長崎両市を訪問したことがあるザンビアのカパンブウェ国連大使は展示写真を前に、「核兵器は防衛のための武器ではなく、明らかに攻撃のための兵器だということを認識する必要がある」と語った。展示会は9月30日までで期間中の9月後半、オバマ米大統領が国連を初訪問する。(毎日新聞 2009/08/11)

ジェームズ・キャメロン監督:原爆テーマ映画を構想 長崎で二重被爆者に面会
ハリウッド映画「タイタニック」などを手掛けた映画監督のジェームズ・キャメロン氏(55)が22日、長崎市の病院に入院中の二重被爆者、山口彊(つとむ)さん(93)=長崎市=を訪ね、自身が構想している原爆をテーマにした映画などについて語った。キャメロン監督は「山口さんには今しか会えないかもしれない」と面会を求めたという。
面会には、昨年山口さんら被爆者を取材し、原爆を題材にした小説「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」を来月米国で出版する作家のチャールズ・ペレグレーノさんも同席した。臨席した家族や関係者によると、キャメロン監督は「あなたのような稀有(けう)な経験をした人を、後世、人類に伝えるために来ました」と話し、固い握手を交わしたという。
原爆について「8歳の時にキューバ危機があり、原爆が使われるかもしれないという恐怖が頭に焼き付いている」とも語ったという。映画の実現は未定だが「作るとしたら妥協はしません」と誓ったという。山口さんは2人に自作の絵をプレゼントした。
山口さんは面会後、毎日新聞の取材に「(原爆をテーマにした)映画を作るのは彼らの宿命だと思う」と期待感を示した。【阿部弘賢】(毎日新聞 2009/12/30)

「2度も被爆、私にはやることがある」 山口彊さん
「(高齢なので)今回が最後の講話になると思うが、他の人にバトンタッチし、輪を広げてほしい」。広島、長崎両市で二重被爆し、4日に死去した山口彊(つとむ)さんは昨年6月、長崎市での講話で若者たちにそう語った。亡くなる直前まで、二度にわたって自身を襲った核兵器の廃絶を訴え、そのために体験を次の世代へ伝えたいと願っていた。
山口さんが被爆体験を語り出したのは晩年になってからだ。被爆者団体にも所属していない。被爆の影響で左耳が不自由になったが、「自分は重い被爆をした人たちと異なり、傷も残っていないので」と考え、積極的に人前には出なかった。
だが、2005年に次男をがんで亡くすと、山口さんは「二度も被爆してなぜ生きているのか。伝えるために生かされているからだ」と、自ら答えを出した。記録映画「二重被爆」に出演し、体験を語った。以来、国内外のメディアから取材が相次ぐようになった。
核廃絶を願い、オバマ米大統領の登場を喜んだ。「オバマ大統領と共に行動したい。非核・平和を一緒に訴えたい」と語り、大統領あてに手紙も書いた。
昨年12月22日、映画「アバター」のプロモーションで来日していた米映画監督ジェームズ・キャメロンさんから訪問を受けた。「二重被爆」を撮影した番組制作会社「タキシーズ」の稲塚秀孝さん(59)は、その場に同席した。
稲塚さんによると、キャメロン監督は「あなたのような稀有(けう)な経験をした人を後世に伝えるために会いに来た」と語りかけた。面会後、山口さんは「使命は終わった」と話したという。山口さんの長女、山崎年子さん(61)は「昨年8月に入院した時からは、いつ死んでもおかしくなかった。12月にスイスのテレビ取材やキャメロン監督に話をするまで、必死で頑張っていた。天命を全うしたんだと思う」と話した。
一方、核兵器廃絶を訴える「高校生1万人署名活動」実行委員会(長崎市)のメンバーたちは08年4月、山口さんの証言DVDを作るため、自宅を訪ねた。山口さんの体調が優れず、何度も取材予定がキャンセルになった後のことだった。
当時高校3年だった尾田彩歌(あやか)さん(19)=活水女子大1年=は、その時の様子を鮮明に覚えている。一度話し出すと被爆当時の記憶は鮮明で、つらかった体験がひしひしと伝わってきたという。「私たちが体験を伝えていかなければと実感しています」と悼んだ。実行委世話人の平野伸人さん(63)は、山口さんの証言DVDの追悼上映会を考えている。
山口さんは戦時中、長崎市の三菱造船所に勤務。1945年5月から、広島へ3カ月間の出張に出た。長崎へ戻る前日の8月6日、出勤途中に原爆に遭った。熱線を浴び、爆風に吹き飛ばされた。膨れた左手をふろしきでつるし、40度以上の熱に震えながら、妻と生後間もない息子の待つ長崎市へ8日に帰り着いた。
翌9日、長崎市水の浦町の職場(爆心地から約3キロ)で広島の惨状を報告中、空がピカッと光った。「キノコ雲が追いかけてきた」と思ったという。(朝日新聞 2010/01/06)

山口彊さん死去:「8月6、9日は命日」 「青き地球」と短歌に思い
もう二度と被爆者を作らないで??。4日に93歳で死去した二重被爆者の山口彊(つとむ)さん=長崎市=は、死の1カ月前まで病室で海外メディアの取材を受けるなど、平和のメッセージを発信し続けた。家族のきずなを何よりも大切にしていた。最期はその家族に見守られて、穏やかに旅立った。
オバマ米大統領の登場に「今が核廃絶のチャンス」と希望を見いだし、期待を寄せた「核なき世界」の実現は間に合わなかった。
8月以降、入退院を繰り返し、12月ごろには見る見るうちにやせ衰え、以前のような張りのある声は出なくなっていた。
命の光が弱くなる中、12月7日には、病室でスイスのテレビ局の取材を受け、か細い声で必死に戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを訴えた。
12月22日には、来日中の米国映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督が病室を訪問。原爆をテーマにした映画の構想を聞いた山口さんは英語で「私の役目は終わった。後はあなたに託したい」と語り、固く手を握ったという。
「自分の幸福は家族」と口癖のように話していた。1月3日には家族の手を握って「みんなで力を合わせて、ひ孫を育てていくように」と語り、翌4日早朝、静かに息を引き取ったという。
8月6日と9日のことを「僕の命日」と言い「核兵器廃絶のために生かされている」との思いを持っていた。09年3月、世界で初の二重被爆者として公式認定され、そのニュースは原爆の悲惨さの象徴として世界中を駆け巡った。「平和のバトンをつなげなければいけない」が口癖だった。
趣味の短歌に思いを込めた。
<非核平和永久(とわ)に護(まも)らす神あらば青き地球は亡(ほろ)びざるべし>
遺族は、この短歌を墓碑に刻もうと思っている。【阿部弘賢、宮下正己】

◇出張の広島、戻った長崎

三菱重工業長崎造船所の設計技師だった山口彊さんは45年5月、妻子を長崎に残し、3カ月の予定で広島に長期出張。8月7日に長崎へ戻る予定だった。
6日朝、広島市内を走る路面電車の駅を降り、職場に向かって歩いている途中、空に白い落下傘が二つ見えた。「地上に白い光が満ち、膨張する大火球を見た。ものすごい爆風で吹き飛ばされた」。被爆した山口さんは左上半身に大やけどを負った。
翌7日朝、原子野と化した広島市内を歩いた。川面にはおびただしい死体があった。この時に見た光景を基に、戦後「大広島炎(も)え轟(とどろ)きし朝明けて川流れ来る人間筏(いかだ)」の短歌を詠んだ。
同日昼過ぎ、避難列車に乗り、8日に長崎にたどり着くと9日には造船所に出社。広島での様子を上司に報告している最中、窓の向こうに再び閃光(せんこう)が見えた。上空に上がるきのこ雲を見て「まるで(きのこ雲に)追いかけられているみたいだ」とつぶやいたという。(毎日新聞 2010/01/06)

二重被爆者:山口さん、死の直前キャメロン監督らにバトン
【ロサンゼルス吉富裕倫】広島と長崎の両方で原爆被害に遭った「二重被爆者」の山口彊(つとむ)さん(93)が亡くなる約2週間前、長崎市の病院を訪ねていた米作家、チャールズ・ペレグリーノさん(56)が6日、毎日新聞の電話取材に応じた。自らの死期が近いことを悟った山口さんは、ペレグリーノさんとともに訪れた映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督(55)と3人で手を取り合い、「原爆が何をもたらしたか、人々に伝えるバトンを渡したい」と思いを伝えたという。
ニューヨーク在住のペレグリーノさんは08年7月、山口さんの体験を題材にノンフィクションを書くため、自宅を訪問。その後、病状が深刻になった山口さんが、二重被爆者に関する映画化構想を抱いているキャメロン氏との面会も希望していることを知り、先月22日、新作映画「アバター」の宣伝のため訪日した同氏とともに病院を訪ねた。
ベッドに座った山口さんは死期が近いことを悟り、「私の仕事はほぼ終わり、引き継ぐ時が来た」と述べ、広島、長崎の惨劇を二度と繰り返さないよう語り伝える仕事を2人に託し、手を握って誓い合ったという。
「もう時間がない。今こそ学ぶべき時だ」と訴えた山口さんに、キャメロン氏は「忘れ去られた事実を本当に再現する映画になるでしょう。山口さんのバトンを引き継ぐのは名誉なこと。最善を尽くします」と製作に意欲を示したという。
科学アドバイザーとして「アバター」や「タイタニック」でキャメロン氏に協力してきたペレグリーノさんによると、二重被爆者をテーマにした作品は「6時間の大作」になる見込み。3D劇場映画になるかミニテレビシリーズになるか、目標時期も含めて詳細は未定という。
山口さんの体験を基にしたペレグリーノさんのノンフィクション「ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」は今月19日、米国で出版される。(毎日新聞 2010/01/07)

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