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米極秘文書入手、原爆投下の真実

Category: 原爆  

米極秘文書入手、原爆投下の真実
長崎は間もなく63回目の「原爆の日」を迎えます。アメリカが放射線の危険性を知った上で原爆を投下し、その威力のデータを収集していたことを示す公文書が見つかり、JNNが入手しました。
原爆の強烈な爆風と放射線。その威力と影響をアメリカはどこまで知っていたのか。その疑問に答える文書をJNNがこのほどアメリカ国立公文書館から入手しました。
原爆投下のおよそ3か月前。原爆を開発した科学者のリーダー、オッペンハイマー博士が軍部のために作成しました。
原爆の放射線の危険性を詳しく説明しており、爆心地から1キロ以内では死亡するとしています。その上で、原爆を投下する飛行機の乗組員が注意すべきことを記載しています。
「飛行機は放射線を避けるため、原爆の爆発地点から4キロ以上離れること」「爆発後、数時間以内に上空に入る飛行機は放射能を帯びた雲に近づくな」としています。
原爆を投下する前、アメリカが放射線の人体への影響について、どの程度知識を持っていたか、これまではっきりしていませんでした。しかし、放射線医学の専門家は、発見された文書はアメリカが放射線の危険性についてかなり知識を持った上で原爆を投下したことを示していると指摘します。
「放射線がどのくらいあったのか、計算されていたなんてことが如実に分かる手紙ですね、これは。1895年のレントゲン博士のX線の発見。それ以来、放射線と人体の関係は当時で50年経っているんですから。全て計算していたと」(長崎大学医学部 朝長万佐男 教授)
爆風の威力については、実践のさなか調査が行われていました。長崎市の原爆資料館には、アメリカが原爆の威力を測定した装置が保存されています。この装置は、飛行機が長崎上空から原爆投下にあわせて落としました。
私たちは長崎と広島の上空で、この測定装置を使って原爆の威力を調査した科学者を以前、取材しました。
ラリー・ジョンストン博士は、パラシュートに取りつけた装置で原爆の威力を測定したのです。
「原爆が爆発した時、測定器が爆風のすさまじさを示した」(ラリー・ジョンストン博士)
この文書は長崎への原爆投下の3日後、ジョンストン博士が測定したデータをもとに、別の科学者が原爆の威力を推定したものです。
広島原爆は爆風の圧力などからTNT火薬に換算すると15キロトンに相当するとしています。
一方、長崎原爆は爆風の威力が広島のおよそ2倍でTNT火薬30キロトンに相当すると推定していました。
アメリカで原爆の威力を測定したデータの文書が見つかったのはこれが初めてで、核問題の研究者は「文書はアメリカが原爆のデータを収集しようとしたことを示している」と言います。
「原爆を落とした効果がどれくらいあったのかっていうことを、キチッと調べると。それは次のステップに使えるということを前提とした調査ではないか、ということが分かりますよね」(長崎大学工学部 岡林隆敏 教授)
原爆の人体への影響を知った上で投下し、その威力のデータを収集しようとしたアメリカ。発見された文書からは、戦争と核兵器開発の非情な論理が浮かび上がってきます。(JNN News 2008/08/07)

京都・阪大の加速器写真発見=原爆開発懸念で破壊の直前-米公文書館
【ワシントン24日時事】終戦直後に旧京都帝国大(現京大)と旧大阪帝大(現大阪大)にあった原子核物理学研究に使われるサイクロトロン(円形加速器)を、「原爆開発に転用される恐れがある」として連合国軍総司令部(GHQ)が破壊する直前に撮影された写真が、米国立公文書館に所蔵されていることが24日、分かった。写真は直前の査察で米軍が撮影したもので、米兵のコメントが裏書きされている。
終戦後の加速器破壊の経緯に詳しい福井崇時名古屋大学名誉教授(85)は「GHQが加速器を接収後、破壊する際に撮影した16ミリ映像や、同時に破壊された理化学研究所の加速器の解体、廃棄時の写真があることは分かっているが、京都帝大と大阪帝大の査察と破壊直前の写真は初めてだ。当時の米兵の認識も分かり、貴重な史料だ」と評価している。 
写真は白黒で、京都帝大の1945年11月20日付写真の裏面には、「米陸軍第33歩兵師団の大尉が京都帝大を査察」と記されている。破壊当日の同24日付の写真は解体場面で、「原子核エネルギー研究のために京都帝大教授が使う予定だった」との記述や「原爆製造に不可欠」と読める文言がある。また、サイクロトロンの英語のつづりを間違えるなど、米兵の知識不足もうかがえる。
大阪帝大の解体当日の写真には「マッカーサー連合国軍最高司令官の命令を実行した」とある。当時、破壊は激しい批判を浴び、パターソン米陸軍長官(当時)が破壊は誤りだったと認めた。
竹腰秀邦京都大名誉教授(81)は「加速器は原子核物理学の基礎研究のためで、原爆開発とは直接関係はなかった。進駐軍が京都帝大に来て1週間ほどかけて解体したが、立ち入り禁止で学生は建物を遠巻きにするしかなかった。写真は当時の状況を知る上で非常に貴重」と話している。(時事通信 2008/08/25)

原爆の原料製造炉が米史跡に 米政府指定、長崎原爆の原料
【ワシントン27日共同】米政府は25日、ワシントン州のハンフォード核施設にある「B原子炉」を国の史跡に指定したと発表。B原子炉で製造されたプルトニウムは1945年、人類初の核実験に使われ、長崎に投下された原爆の原料にもなった。米政府は「B原子炉は大きな歴史的意義を持っている」と説明。原爆投下が大戦終結を早め、多くの米兵らの命を救ったとの米側史観だが、被爆者らからは反発も出そうだ。(共同通信 2008/08/27)

核廃絶、日本が主導を=ダライ・ラマ
チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は3日、北九州市で記者会見し、唯一の被爆国である日本は「その体験を基に、原爆使用を食い止めるという大いなる責任を果たすべきではないか」と述べ、核兵器廃絶に向けて日本が主導的役割を果たすよう訴えた。
ダライ・ラマは「原爆は2度と使用されてはならない。日本はイニシアチブを取って食い止めていくべき立場にある」と強調した。(時事通信 2008/11/03)

被爆3世の11歳、国連で「恐ろしさ伝える義務がある」
【ニューヨーク=加戸靖史】広島市立中山小6年で被爆3世の富永幸葵(ゆうき)さん(11)が5日(日本時間5日深夜)、核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会に合わせ国連本部で開かれた国際NGO・平和市長会議主催の会議でスピーチした。1カ月前に祖母が初めて詳しく話してくれた被爆体験を胸に、「広島の子どもは原爆の恐ろしさを世界に伝える義務がある。広島の平和記念資料館を見に来てください」と訴えた。
祖母の岡田恵美子さん(72)は爆心地から2.8キロの自宅で被爆、12歳だった姉が行方不明になった。20年以上、被爆証言を続けてきたが、家族に語ることにはためらいがあった。しかし、当時の姉の年齢に幸葵さんが近づいたこの春、語り継ぐことを決めた。幸葵さんを平和記念資料館(原爆資料館)に連れて行き、原爆に関する展示を前に話すと、幸葵さんはじっと耳を傾けた。
岡田さんがNPT再検討準備委に合わせて渡米することになると、幸葵さんは同行を望んだ。アルファベット入りの名刺を用意。出発前の4月末には、オバマ米大統領とその娘2人に手紙も出し、広島訪問を呼びかけた。
幸葵さんはこの日、会議に集まった各国の市長ら約100人を前に「あの日広島は焼け野原になり、『助けてください』『水をください』と何度も言って、たくさんの人たちが亡くなったそうです」と大きな声で語った。
岡田さんの娘で被爆2世になる母親は、血小板が減る難病をかつて患った。幸葵さんも原因不明の腹痛で入院したことがあり、原爆の放射能との因果関係を考えると不安になる。だからこう強調した。「たった1つの爆弾で人々を苦しませ、死んでいく。そんなこと喜ぶ人なんていません」
子どもたちが笑顔で明るく過ごせる地球の平和を考えるサミットの開催を求め、スピーチを締めくくると、大きな拍手がわいた。米オハイオ州アクロン市のプラスケリック市長は幸葵さんに歩み寄り、「とても感銘した。あなたの話は若い世代に平和を考えさせる第一歩になる」と語りかけた。
大役を終えた幸葵さんは「自分の思いを伝えることができました」。スピーチを後ろで見守った岡田さんは「被爆者はいずれいなくなる。彼女たちがいつか被爆体験を自然に継承してくれればうれしい」と話した。(朝日新聞 2009/05/07)

三宅一生さん、米紙に原爆体験寄稿 オバマ大統領に広島訪問促す
【ニューヨーク14日共同】著名な服飾デザイナーの三宅一生さん(71)=広島市出身=が14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿、これまでの沈黙を破って幼年時代の原爆体験を明らかにした上で、オバマ大統領に広島訪問を促した。
三宅さんはまず、今年4月にオバマ大統領がプラハで「核兵器のない世界」を訴えたのを機に、原爆の生存者として体験を語っていく「個人的かつ倫理的な責務」があると思うに至ったと寄稿の理由を説明した。
広島に原爆が投下された1945年8月6日は7歳で「赤い閃光を放ち、直後に黒い雲が上がり、人々があらゆる方角に逃げ惑った」様子を目撃。目を閉じると、今でもその瞬間がありありと思い出されるとつづった。母親も被爆し、3年たたないうちに亡くなったという。
三宅さんはその後、服飾デザインの道に進んだが、「原爆生存者のデザイナー」とのレッテルを張られるのが嫌で「ヒロシマ」に関する質問は避け続けてきたという。
しかし「世界から核兵器をなくすためには、原爆体験を語っていかなければならないことに気付いた」と指摘。オバマ大統領を8月6日に広島に招く運動があることを紹介し「(大統領が)受け入れることを希望する」と述べた。(共同通信 2009/07/15)

三宅一生さんが被爆体験 NYタイムズに寄稿
広島の惨状、今もまぶたに オバマ大統領に「訪問を」

【ニューヨーク支局】世界的デザイナー三宅一生さん(71)は14日の米紙ニューヨーク・タイムズに寄稿し、7歳の時に広島で被爆した体験を明かした上で、「核兵器なき世界」を訴えたオバマ米大統領に広島訪問を呼びかけた。
三宅さんはこの中で、原爆投下時の「真っ赤な閃光(せんこう)に続いて黒い雲があがり、人々が逃げまどう」風景が今も目に浮かぶと記した。「ほかのだれも体験すべきではないこと」だとして、その悲惨さを強調した。放射線を浴びた母は後に亡くなったという。
これまで、被爆体験については、ほとんど語ってこなかったが、その理由について、「“原爆を生き延びたデザイナー”といったレッテルを張られたくなかった」と説明。原爆について尋ねられることも不快だったと述べ、忘れようと試みたこともあったと明かした。「破壊されてしまうものではなく、創造的で、美しさや喜びをもたらすもの」を考え続けた末、衣服デザインを志向するようになったと記した。
だが、オバマ大統領の言葉が、「私の中に深く埋もれていた何かを呼び覚ました。今まで、話すことをためらっていたことだ」といい、核爆弾を生き延びた1人として発言するよう「個人的、そして倫理的な責任」を感じるようになった。
8月6日に広島で開かれる平和式典への大統領の出席を望み、核廃絶に向けた「現実的で象徴的な一歩になる」と主張。日本が北朝鮮の核の脅威にさらされ、ほかの国でも核技術の移転が進むと報じられる中、「少しでも平和への希望を生むためには、世界中の人たちがオバマ大統領と声を合わせなければならない」と訴えた。
オバマ大統領は今年4月、訪問先のプラハで、核廃絶を希求する演説を行った。三宅デザイン事務所(東京)によると、三宅さんはプラハでの演説に感銘を受け、オバマ大統領に手紙を送ったという。(読売新聞 2009/07/15)


ref. A Flash of Memory
(New York Times 2009/07/13)
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