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原爆特別視を懸念、被爆者治療せず 50年代の米公文書

Category: 原爆  

原爆特別視を懸念、被爆者治療せず 50年代の米公文書
原爆投下後に広島、長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)をめぐり、米政府が「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避ける意図で、被爆者の治療をさせなかったことが50年代の米公文書で明らかになった。原爆投下への謝罪と受け止められることも懸念し、被爆者と他の戦災者を区別しない方針を固めていた。米国は当時の冷戦下で、非人道的と非難されて原爆が使いにくくなるのを防ごうとしていたとされ、研究者は「被爆者への対応も核戦略の中に位置づけられていた」とみている。
朝日新聞が米国立公文書館に対し、ABCCに関する複数の公文書の閲覧を請求した。いずれも50年代に作成された当時は機密扱いで、機密期間が過ぎた80年代以降に開示対象になった。
ABCCは被爆者を検査してデータを収集したが治療はせず、被爆者の間に批判があった。50年代になって日本の報道機関も取り上げるようになっていた。
今回閲覧したうち、パーソンズ駐日公使が国務省北東アジア部にあてた文書(54年2月)には、治療しない理由について「ABCCには日本での医療資格がない」ことなどを列挙。さらに重要なこととして「(治療すれば)被爆者に特別な意味があり、他の兵器の被害者とは異なるという見方を支持することになる」と説明した。「原爆投下への謝罪と解釈されかねない」とも指摘した。
また、ロバートソン極東担当国務次官補にあてた文書(同年1月)の中で、北東アジア部の担当者は米政府の公式見解として「被爆者支援の責任は負わないし、その他の爆撃による被害者と区別することはできない」と述べている。
こうした考え方の背景について、核問題を研究する米ジョージタウン大歴史学部博士課程の樋口敏広さん(28)は「旧ソ連とにらみ合った冷戦下で、米国は原爆を使用可能な兵器と位置付ける必要があった。ABCCが被爆者を治療しなかった理由は核戦略と結びついていた」とみている。(朝日新聞 2007/08/06)

「広島・長崎」原爆の複製爆発、50年前に米で検討
米エネルギー省の前身、原子力委員会が約50年前に、1945年8月に広島・長崎に投下された原爆の複製爆弾を爆発させて、被爆状況を再現する実験を検討していたことが、読売新聞が同省の公文書館から入手した当時の機密文書や書簡でわかった。
検討は60年代初めまで続けられたが、63年に米国などが部分的核実験禁止条約に調印、地上での核実験ができなくなったこともあり、実施に至らなかった。
広島・長崎への原爆投下時は測定技術が開発途上で、原爆の正確な威力や爆発の詳しい様子、放射線量などを十分把握できなかった。
このため、米国は冷戦下の多数の核実験で得た知識と技術で再現爆発を測定することにより、日本の被爆者のデータと突き合わせて、核戦争や核攻撃を受けた場合の人体への放射線影響をより詳しく予測する狙いがあったようだ。
機密文書などによると、実験はネバダ州など米西部の核実験場で行う構想で、同委員会のチャールズ・ダンハム生物医学部長の指揮で専門家チームが準備を進めた。当時の原子力委員長らにも報告された。58年4月には、生物医学部とロスアラモス国立研究所、保健当局の幹部が会合を開いて、実験の必要性や具体的内容について話し合っている。
しかし、この会合では決定に至らず、政府内では「放射能汚染の状況まで再現できるとは限らない」などの反対論も出た。専門家チームがグレン・シーボーグ原子力委員長にあてた63年9月の書簡では、米国の同条約調印により「慎重論が増して見送られる」との見方を示している。
複製爆弾による再現実験とは別に、米国は50年代後半から、ネバダ州の核実験場に切り妻屋根と畳の木造家屋を並べた「日本村」を作り、中性子線やガンマ線の影響を調べる「イチバン計画」を始めるなど、広島・長崎に投下した原爆の威力などを正確に把握するための実験を行っている。
米国の核関連の文献に詳しい広島市立大広島平和研究所の高橋博子助教は「大変興味深い話だ。米国は、放射線の人体影響を詳しく把握しようとしていたことが、機密文書の記述からわかる」としている。(読売新聞 2007/08/06)

核研究の証、京大に 原爆開発懸念し米軍廃棄
連合国軍総司令部(GHQ)が終戦直後、「原爆開発につながる」との懸念から廃棄した京都帝大(現京都大)の円形加速器「サイクロトロン」の主要部品が約60年間、京大内に保管されていたことが7日までに分かった。
原子核反応の研究に使われるサイクロトロンは当時最先端の実験装置で、アジアでは日本だけが京大の1基を含め計4基を開発。一般にはこれまで、すべて廃棄され残っていないと思われていた。部品は京大総合博物館(京都市左京区)の収蔵庫で見つかり、研究者らは「日本の核研究史を考える上で貴重だ」と話している。
保管されていたのは、サイクロトロンの磁極として使われた直径約1メートル、重さ約250キロの鉄製円盤「ポールチップ」1枚。(共同通信 2007/08/07)

原爆実録映画を全米放送 「核の悲惨」訴え有料TV
【ニューヨーク6日共同】広島、長崎の被爆者や元米軍人らの証言に基づき、原爆の悲惨さを描いた米ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」=原題「ホワイトライト/ブラックレイン(白い光/黒い雨)」=が6日夜、米有料ケーブルテレビHBOを通じ、全米で放映された。
米国では原爆投下が戦争終結を早め、多くの人命を救ったと正当化する意見が根強く、プライムタイムと呼ばれる高視聴率帯にこうした映画が放送されるのは異例。HBOは一部の反発も覚悟しながら「核戦争の壊滅的影響」(担当ディレクターのサラ・バーンスタインさん)を伝えるため放送に踏み切った。
日本でも公開中の同映画は日系3世のスティーブン・オカザキ氏が監督。原爆を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の元搭乗員や科学者ら4人の米国人と、被爆者14人の証言に基づき「62年前の夏」を再現した。
HBOは米娯楽・メディア大手タイム・ワーナー傘下。HBOグループ全体の受信契約数は全米で4000万を超える。(共同通信2007/08/07)

核不使用の教訓と、米紙評価 原爆映画「ヒロシマナガサキ」
【ニューヨーク7日共同】米国ニューヨーク・タイムズ紙は7日までに、全米でテレビ放映された米ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」=原題「ホワイトライト/ブラックレイン(白い光/黒い雨)」=について、ユダヤ人大量虐殺の再発を阻止し、2度と核兵器を使わないことが第2次大戦の教訓であることを明確に思い起こさせてくれる作品と評価した。
同紙の本社があるニューヨークでは、中枢同時テロで崩壊した世界貿易センタービルの跡地は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」と呼ばれている。同紙は62年前に原爆が投下された広島と長崎を「最初のグラウンド・ゼロ」と形容、被爆者らが体験した苦しみに思いを重ね合わせた。
この映画は広島、長崎の被爆者や元米軍人らの証言に基づき、原爆の悲惨さを描いた。6日のテレビ放映については、AP通信も報道。(共同通信 2007/08/08)

「長崎」後、東京投下を検討=3発目の原爆標的-米軍機密電文
【ワシントン8日時事】1945年(昭和20年)8月9日の長崎への原爆投下後、米軍上層部が東京を標的に3発目の原爆投下を検討していたことが、米国立公文書館に保管されている当時の米軍最高機密電文で裏付けられた。
トルーマン政権は原爆投下目標を広島と長崎、小倉、新潟の4都市に絞り込み、東京は標的から外されたとされているが、この機密電文の存在は、米軍上層部が終戦間際まで東京への原爆攻撃を視野に入れていた事実を示している。(時事通信 2007/08/08)

米国の原爆投下を批判 ニカラグア大統領
米国にイランや北朝鮮の核開発を責める権利はない-。25日始まった国連総会一般討論で演説したニカラグアのオルテガ大統領は、日本に原爆を投下しながら他国の核問題を非難する米国の政策を、強い調子で批判した。
演壇で最初は静かに語り始めた大統領だったが、米国批判を始めると徐々にヒートアップ。「広島と長崎で無実の人々に原爆を投下した世界中でただ一つの国」である米国が「平和目的で核開発をしていると言うイランや北朝鮮をどうして非難できるのか」と何度も手を振り上げながら興奮気味に話した。
演説時間は制限時間の15分を大きく超え30分以上に及んだ。(共同)(産経新聞 2007/09/26)

原爆投下命令の地に記念碑 独ポツダムの広場
【ポツダム(ドイツ東部)6日共同】第2次大戦の戦後処理を協議したポツダム会談の期間中、広島と長崎への原爆投下を命じたトルーマン米大統領(当時)の宿舎、通称「リトル・ホワイトハウス」前の広場に、原爆の悲劇を訴える記念碑の設置が計画され、「歴史を記憶する広場」に生まれ変わることになった。
ポツダムの市民運動団体が手掛けるプロジェクトで、16歳の時に広島で被爆した、ベルリン在住の外林秀人元ベルリン工科大教授(78)も協力。原爆投下から65年に当たる2010年までの完成を目指している。
指揮を執る緑の党主体の「ポツダム90年連合」のウウェ・フレーリヒ氏によると、ポツダムは投下から60年の05年、宿舎前の敷地を「ヒロシマ・プラッツ」(広島広場)と命名。記念碑には日独英の3カ国語で「原爆の破壊的威力で何十万人もが死亡し、人類に恐るべき悲劇をもたらした」と刻まれる予定で、広場全体のデザインは日本とドイツから公募する。
同氏は「被爆生存者も減っている。ポツダムが原爆投下に関係したとの歴史的事実を若者にも伝えたい」と話している。
ポツダム会談は1945年7―8月、トルーマン、チャーチル、スターリンの米、英、ソ連の首脳がドイツの戦後処理や対日戦争の終結策などを協議。日本に降伏を迫った「ポツダム宣言」を採択したことで知られる。
本国での核実験成功の知らせを受け、トルーマンは7月24日、リトル・ホワイトハウスで広島、長崎への原爆投下を命令したとされる。
外林さんは「原爆投下決定の場所は意外と知られておらず、悲劇を伝える活動を続けたい」と話している。(共同通信 2007/11/07)

ドイツ:外林さん、60年の沈黙破り「ヒロシマ」語る 「ポツダム原爆碑」建立支援で
◇「被爆者の義務と感じた」
広島に投下された原爆で被爆した、ベルリン在住50年の外林秀人・元ベルリン工科大学教授(78)が、60年以上の沈黙を破って自らの体験を語り始めた。1945年夏、当時のトルーマン米大統領が原爆投下を命令したベルリン近郊のポツダムに、原爆犠牲者を悼む記念碑の建立計画を後押しするためだ。「ヒロシマの語り部」の出現は地元メディアでも紹介され、大きな反響を呼んでいる。【ベルリン小谷守彦】

外林さんは16歳の時、爆心地から1.5キロの学校で授業中に被爆。奇跡的に生き残り惨状を目の当たりにしたが、被爆者や親族への差別を案じ、体験を口にすることはなかった。しかし、昨年、「核戦争防止国際医師会議」が中心となって進める記念碑建立計画を知り考えが変わった。
ポツダムでトルーマン元大統領が滞在した宿舎「トルーマン・ハウス」は現在、政党系財団の本部になっている。原爆投下が指示され、日本に早期降伏を求める「ポツダム宣言」が発表された宿舎前の一角は2年前、「ヒロシマ広場」と改名された。原爆記念碑はこの広場に建てられる。
外林さんは今月1日、ベルリンの講演会で約200人に被爆体験を初めて語り、記念碑への寄付を呼び掛けた。語り部の存在を知った学校などからも講演依頼が相次ぎ、「広島の惨状を知らないドイツ人の関心は高い。寄付も予想以上だ」と手応えを感じている。
「記念碑建立に協力することが被爆者としての義務だと感じた」という外林さんは、「元気なうちにドイツ各地を回りたい」と決意を語った。(毎日新聞 2007/11/11)

「原爆研究」京大に日誌 海軍への支援依頼などが記載
戦時中、旧海軍から原爆研究の委託を受けて旧京都帝大(現京都大)で建造が進められていた加速器「サイクロトロン」の工事記録などを記した日誌が、京都大化学研究所(京都府宇治市)に残されていた。サイクロトロンは戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって破壊されたうえ関係書類も押収されており、京都帝大と旧海軍との関係や建造の経緯を知る資料になりそうだ。
日誌は「京大サイクロトロンの生立」と題した大学ノートで、終戦前年の1944年11月から約1年間にわたり、日ごとの搬入物や工事に携わった人数などが詳しく記されていた。旧海軍との接触記録もあった。物資が不足した45年の2月10日には、在大阪海軍監督官事務所で酸素や溶接材料の配給を監督官に依頼。同14~19日には艦政本部で旧海軍から委託された原爆研究(F研究)の打ち合わせがあった。
当時、京都帝大の故荒勝文策教授と共に加速器造りにあたった故木村毅一・助教授が個人的に残していたらしい。日誌は75年ごろ、木村さんから竹腰秀邦・京大名誉教授(81)=原子核物理=が引き継ぎ、同研究所図書室に保管した。
竹腰さんは「京大は基礎研究のためにサイクロトロンを造ろうとしたが、旧海軍は原爆製造の現実性を確かめるため、京大に原爆研究を委託したと考えられる。軍との関係を示す当時の資料はほとんど残っておらず、貴重だ」と話している。(朝日新聞 2008/03/18)

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