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原爆投下乗組員ら「これで戦争終わった」と証言・米誌

Category: 原爆  

原爆投下乗組員ら「これで戦争終わった」と証言・米誌
【ニューヨーク24日共同】25日発売の米誌タイム最新号は広島、長崎への原爆投下から60年に関する特集記事を組み、原爆投下作戦に参加した爆撃機の乗組員ら4人の「これで戦争が終わったと思った」などとする証言を掲載した。
広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイに搭乗したセオドア・バン・カーク氏(84)は、原爆投下後、立ち上ったきのこ雲を見たときに「(乗組員の)誰かが『戦争は終わった』と言い、私もそう思った」と語った。
同機に搭乗したモリス・ジェプソン氏(83)は投下時は「陰鬱な瞬間だった。下界では大勢の人が殺されていたし、喜びはなかった」と述べた。基地に帰還後、仲間に「今日は何をしたんだ」と聞かれたときは「戦争を終わらせてきたと思う」と答えたという。
長崎に原爆を投下したB29爆撃機ボックスカーのフレデリック・アシュワース氏(93)は「当時の状況下でやらなければならないことだった。戦争終結に大きく貢献したし、参加できて幸運だった」と語った。(日本経済新聞 2005/07/25)

井上戯曲「父と暮せば」、世界へ 6カ国語に翻訳・上演
広島で被爆した父と娘の心の交流を描いた井上ひさしさんの戯曲「父と暮(くら)せば」が世界に広がっている。94年に発表されて以来、フランス語、ロシア語、英語など六つの言語への翻訳が進み、海外での上演も相次ぐ。日本の現代戯曲としては異例のことだ。被爆60年の今年は米国ニューヨークでも上演が予定されている。
2人芝居「父と暮せば」は井上さんが座付き作者を務める「こまつ座」が上演を重ねている。
海外ではまず、97年にパリで地元の劇団がフランス語で上演。こまつ座もモスクワ(01年)と香港(04年)で字幕や同時通訳付きで上演した。
昨年8月にこまつ座が英文対訳本を出版したことで、上演や翻訳申し込みが一気に増えた。せりふが多いため、比較的上演が簡便なリーディング(朗読による舞台化)でも内容が伝わりやすい。それも後押しになった。
こまつ座のまとめによると、カナダでは今年1月からトロント、オタワなどでリーディングが重ねられ、今後も続演の予定。ロンドンの劇団も5月に取り組んだ。9月12日にはニューヨークでもリーディングがある。
イタリアでは本格的な上演が計画され、翻訳が進んでいる。来春にボローニャで開幕し、07年まで全国を巡演する。ドイツ語にも翻訳中だ。
井上さんは「被爆した人たちの気持ちを総合するとこうなると考えて書いた。海外から『原爆を落とされた日本人が、仕返しをするという発想ではなく、この悲劇が人類の上に繰り返されないようにと考えていることに感銘を受けた』という反響が寄せられている。被爆者の思いが理解され、広がっているのだと思う」と話している。(朝日新聞 2005/07/30)

原爆症1号カルテ:英訳の報告書発見 症状経過克明に
広島で被爆し、世界で初めて「原子爆弾症」と診断された女優、仲みどりさん(1945年に死去)のカルテの大半を英訳した報告書が、広島大学原爆放射線医科学研究所(原医研、広島市)に保管されていることが31日分かった。入院から死亡するまでの臨床経過が詳細に記述され、放射線による急性障害の症状がよく分かる内容。仲さんのカルテは、人体影響の客観的データとして、医学的、歴史的意義が高いとされるが、所在不明のため、内容は知られていなかった。報告書は、「原爆症1号カルテ」の全容を知るうえで極めて貴重な資料だ。
報告書は、終戦後に日米の研究者で編成された合同調査団がまとめた文書で、73年に米ワシントンの陸軍病理学研究所から日本に返還された資料の1つ。東京大学付属病院で仲さんの血液検査にかかわり、カルテの行方を捜し続ける医師、白戸四郎さん(82)=神奈川県綾瀬市=が確認した。
「臨床記録」のほか、「解剖記録」、顕微鏡写真など計約60枚の文書で構成。要旨には、仲さんの治療責任者だった東大教授の署名もあった。
このうち臨床記録には血液や尿の検査データのほか、症状も詳細に記述。被爆直後から嘔吐(おうと)や下痢、食欲不振などの症状が表れ、死亡6日前から脱毛が始まっていた。
また死亡直前には歯肉炎や咽頭(いんとう)炎の症状も出て、体温は39~40度あった。いずれも被爆による急性障害の典型的な症状だった。直接の死因は肺炎で、死亡直前には呼吸困難が続いたことも判明した。こうした内容から、報告書には所在不明のカルテの大半が盛り込まれた可能性が高い。合同調査団がカルテをもとに、一部を省いたうえで英訳し、米国側が持ち帰ったらしい。米国は原爆症の資料としてデータを保存し、活用したとみられる。
広島では、原爆投下直後の混乱がしばらく続き、病状経過を詳細に記録して死亡した症例は極めて少ない。しかも、解剖で「原子爆弾症」と確定診断されたケースも珍しかったという。
仲さんの場合、被爆2日後の45年8月8日に列車で、東京に逃げ、同16日に東大病院に入院。十分な診察に基づくカルテ作成が可能だった。しかも同24日に死亡した直後に解剖も実施された。後に「原爆症第1号患者」と言われるようになったが、東大病院に保管されているはずのカルテが消え、学者や医師らが「幻のカルテ」として行方を捜している。【鵜塚健】

◆被ばく線量、一般の8000倍

◇神谷研二・広島大緊急被ばく医療推進センター長の話 白血球の少なさなど入院後の症状が細かく書かれ、原爆の急性障害がよくわかる報告書だ。カルテを転記したものと考えられる。放射線の急性障害は、原発などでの臨界事故などしかなく、どのように各臓器に影響が出るかを示す貴重なデータだ。被ばく線量は、一般人の年間許容量の8000倍にあたる8シーベルトぐらいと推定される。

◇仲みどり 1909(明治42)年、東京・日本橋で生まれ、現在の津田塾大学を中退後、丸山定夫や園井恵子らとともに移動演劇隊「桜隊」に所属。脇役として活躍。45年6月、国策により拠点を東京から広島に移し、8月6日、爆心地から約700メートルの宿舎で被爆した。

◆英文の報告書に記された主な症状◆

※日付は1945年8月

【6日】(被爆) 嘔吐、食欲不振、下痢で便に血が混じる

【10日】(自宅到着) 強い胸の痛み。嘔吐物にも血が混じる。尿の色が濃い

【16日】(入院) 白血球数400(通常は5000以上)

【17日】 背中の傷が悪化

【18日】 脱毛始まる。黒い便。骨髄芽球など白血球に異常(白血病?)。尿に高いウロビリノーゲン値(肝臓障害?)

【19日】 39~40度の高熱。死亡直前まで

【21日】 出血性歯肉炎、咽頭(いんとう)炎。傷口が硬化。体に粟粒(ぞくりゅう)状の点状出血

【22日】 白血球数300

【24日】(死亡) ピンク色の粘性のたん。傷口が紫色に。呼吸困難が進む

(毎日新聞 2005/08/01)


原爆症1号カルテ:記述の医師、未知の症状に衝撃
「間違いなく私が書いたカルテと一緒だ」。東京大学病院で原爆症第1号患者の女優、仲みどりさん(1909~45)を担当した新潟市金巻の医師、清水善夫さん(82)は、英文を一語ずつ読みながら、そう語った。原爆症と知らずに残した文字や数値。それが米国も注目する世界初の貴重な記録となり、今回、英文報告書という形でよみがえった。清水さんは「仲さんのお陰で原爆被害の証拠を残すことができた」と感慨深げに話した。【鵜塚健、砂間裕之】

清水さんは当時、東大の医学生。学徒動員で東大病院外科に勤務し、仲さんの担当医になった。入院初日の1945年8月16日には、被爆時の様子やその後の経過が記述されていた。
仲さんが朝食当番で後片付けをしている時、強烈な光が窓から差し込んだ。そしてボイラーの爆発音のような大きな音を聞いたことが宿舎の見取り図とともに書かれてあった。また広島から東京に列車で戻る際、身にまとっていたのはシーツ1枚だったことも、清水さんの記憶通りだった。
「見取り図は仲さんから話を聞いて描いたのでしょう。私は今もカルテに図を描き込んでいるし、担当の私にしかできない」と説明する。
8月24日の午前中、仲さんの容体は安定していたが、清水さんが昼食に出かけたわずかの間に急変し息を引き取った。
「呼吸困難が続き、息づかいが激しくなる。ベッドの上で一分たりとも座っていられなくなり、まもなく横になった。ピンク色の粘り気のあるたんが出て、傷口は紫色に変わった」
死の直前の様子を詳細に書いている。清水さんには、この部分の記憶が薄れているが「死亡時の様子は、カルテに必ず記録するはず。看護婦から聞いて私が記述したのだろう」と推測した。
カルテには、正常値の10分の1しかない白血球数や、嘔吐(おうと)、下痢、脱毛など、原爆症の典型的な症状が列記されている。「外傷もないのになぜ?」。清水さんには、解剖時に担当教授から教えられるまで、原爆症を考えてもみなかったが、逆にそれで印象に残ったという。
「カルテは全部で十数枚だったと思うが、今回の報告書にもない細かい記述があるかもしれない。カルテはとても大切なものだ。研究者なら実物を見たいはず。米国に眠っているように思う」。清水さんは、幻のカルテの行方を推測した。(毎日新聞 2005/08/01)

米将軍に被爆神父の手記 45年秋、広島の惨状伝える
広島で被爆し、救護に携わったイエズス会のドイツ人神父、故ヨハネス・ジーメス上智大名誉教授(1907-83年)の目撃手記が45年秋、原爆を開発した米マンハッタン計画の責任者、グローブズ将軍の元へ送られていたことが1日までに分かった。
また、手記の抜粋は被爆半年後の46年2月、米タイム誌に「広島原爆に関する最初の詳細な報告」として掲載されていた。
手記は英文タイプ打ちで計8ページ。被爆の惨状をつづり、「たとえ目的が正しくても、今日のような総力戦は正当化できるのか」との問い掛けで締めくくっている。
広島女学院大の宇吹暁教授(日本現代史)は「被爆証言の手記として米政府に伝わった最初のものといえるのではないか」と話している。(中国新聞 2005/08/01)

原爆投下60年:米国の立場、バーンスタイン教授に聞く
広島、長崎への原爆投下60年を前に、米スタンフォード大の歴史学者、バートン・バーンスタイン教授に投下時の米国の立場や日米の受け止め方の違いを聞いた。【ロサンゼルス國枝すみれ】

──米国の核開発計画マンハッタン・プロジェクトが歴史にもたらしたものは何でしょうか。

◆少数国による核の独占だ。また、連邦議員でも数人しか内容を知らなかった同計画は、安全保障分野での秘密主義の傾向を拡大、強化した。民主主義国といっても諜報(ちょうほう)予算は今も秘密で、安全保障での透明性はほとんどない。60年たち、我々はさらに危険な世界にいる。保有国は核を放棄せず、イランなどが核を持とうとしている。もし市民がなぜ、どのように原爆が製造、投下されたかを知ったら、こんなことにはならないはずだ。

──投下せずの選択はなかったでしょうか。

◆日本への原爆投下について、当時の米指導者にためらう余地はあまりなかった。パールハーバーの復しゅうであり、ソ連に核の脅威を見せ付けるという目的があった。また、20億ドルを費やした核開発計画を無駄にするわけにはいかなかった。

──日米で原爆に対する意見の違いが目立ちます。

◆私は、日本は原爆投下がなくとも米国による通常の攻撃とソ連の参戦だけで、45年11月に予定されていた本土侵攻前には降伏していたと考える。しかし、多くの米国人は「原爆投下は正しく、必要だった。多くの命を救った」と思っている。45年当時、米国民の85%が日本への原爆投下に賛成、95年でも59%が支持した(注)。また、日本への投下後、米国民は核使用をタブー視するようになったと言われるが、根拠は薄い。例えば、イラク戦争開始直前、米国民の46%が「イラクが生物化学兵器を使用したら米国は核兵器を使用してよい」と回答している。

──第2次大戦で非戦闘員の殺害が許される風潮が広まりました。

◆非戦闘員の殺害は、英国と日本が始め、ドイツ、米国も倣った。7月にロンドンで起きたテロで死んだ市民は「テロの犠牲者」として数えられるが、第2次大戦中の空襲や原爆、イラク戦争で死んだ市民は数えられない。彼らも国家によるテロの犠牲者なのだが。最近は同盟国が民間人を殺害した場合は「戦争」と呼び、敵の行為は「テロ」と呼ぶ。

注 今年3月の世論調査によれば、原爆投下に賛成する米国民は47%まで低下する一方、反対する国民も若者を中心に46%に上った。また、66%が米国も含めいかなる国も核を持つべきではないと回答している。(毎日新聞 2005/08/04)

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