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米兵捕虜の遺影登録7人に 「米国人も原爆の犠牲者」

Category: 原爆  

米兵捕虜の遺影登録7人に 「米国人も原爆の犠牲者」
原爆犠牲者に米国人がいたことを忘れないで-。被爆死した米兵捕虜の遺影を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ登録する米国人遺族が相次ぎ、登録された遺影は3日までに計7人に上った。
登録を呼び掛けているのは、被爆米兵の歴史を長年研究する被爆者の森重昭さん(67)=広島市西区。「原爆で亡くなった米兵全員の遺影を登録し、事実を後世に伝えたい」と活動を続ける森さんの姿に、米側でも共感が広がっている。
森さんが被爆米兵に関心を持ったのは26年前。ある米兵の父親が息子の被爆死を初めて知り、驚愕(きょうがく)したとの新聞記事を読んだのがきっかけだった。
8歳の時、通学途中に被爆した森さんは、遺族に事実が伝えられていないことに心を痛めた。「原爆が無差別に人を殺したことを思うと、あらためて怒りと悲しみが胸にこみ上げた」と振り返る。(共同通信 2004/08/03)

広島・長崎原爆:原料ウラン購入、米がベルギーと戦中密約
【ブリュッセル福原直樹】広島、長崎に1945年、投下された原爆の原材料となったウラン鉱石の供給を確保するため、米国がベルギーとの間で独占購入権を結んだ秘密協定の全容が4日、ベルギーの歴史家の調査で分かった。
米国は第2次世界大戦中、ベルギーが当時の同国領コンゴ(現コンゴ民主共和国)で採掘したウラン鉱石約3万トンを1億ドル近くで購入し、戦後の冷戦下にも協定に基づいてウラン購入を続けていた。広島、長崎の原爆製造にコンゴ産ウランが使用された事実は知られているが、ウラン鉱石の売買をめぐる秘密協定の詳細が判明したのは初めて。
協定文書は、ブリュッセル自由大学のバンデルリンデン教授(ベルギー史)がロンドンの英国公文書館で発見した。
同教授によると、ベルギーの国策会社が大戦前から旧植民地の現コンゴ民主共和国の南部でウラン鉱石を採掘。39年、同社は販路を北米に求め、米やカナダにウラン鉱石を輸送して貯蔵、陶器着色剤や医療用ラジウムの原料として販売を始めた。
これに着目した米国の「マンハッタン計画」担当者が42年9月、ニューヨークの同社事務所を訪問して売買契約を結び、44年までにウラン約3万トンを同社から購入した。しかし、さらにウラン供給を確実にするために同盟国の英国とも協議。44年8月、ベルギー亡命政府(ロンドン)と秘密協定を結んだ。当時、ベルギーはナチスドイツに占領されていた。
協定文書は、ウラン供給協定の目的を「文明擁護のため」と明記。▽米国、英国は軍事用にウランの独占購入権を持つ▽ウラン採掘に米英が資金を提供する▽将来的にベルギーに核の平和利用の技術を提供する──などを規定している。またウランを「Q11」、ラジウムを「K65」などと暗号化し、輸出入文書に使うよう決めた。45年から協定が期限切れとなった60年までのウラン輸入は約1.5万トン、約1億5000万ドルに上った。
一方、ベルギー政府は秘密口座を設置し、同会社から売り上げの一部を税金として徴収するなどして1400万ドル以上を貯蓄。口座の管理は政府幹部2人だけで行った。
同教授によると、広島、長崎原爆の原材料となったウランの少なくとも約75%はコンゴ・ルートで入手したものが使用された。また米国は大戦後の核兵器製造にもコンゴのウランを大量に使用したとされる。

◇原爆誕生の重要資料──田口晃・北海道大学教授(欧州小国史)の話

マンハッタン計画でのウラン供給の詳細が明らかになり、原爆誕生の重要なプロセスの1つが解明されたことになる。ベルギー政府がウラン鉱石販売で得られた税金などを秘密口座に蓄えていたことも知られていないと思う。当時ベルギーはナチスドイツが占領していた一方、ドイツは原爆製造を進めているとも考えられていた。このためドイツなど枢軸国側と戦争状態にあったロンドン亡命政府が米・英に極秘裏に協力したのは当然だった。

◇マンハッタン計画

1942年6月に発足した米の原爆開発計画。米陸軍がニューヨーク市マンハッタンに事務所を開設、ウラン鉱石を集めた。45年1月にオークリッジ(テネシー州)にウラン濃縮工場、ハンフォード(ワシントン州)にウランから製造するプルトニウムの生産施設を設立。45年7月にニューメキシコ州でプルトニウム型原爆の実験が成功。広島用の原爆は濃縮ウラン、長崎用はプルトニウムが使われた。英国は研究者を米国に送り、同計画に協力。一方、ドイツは資源不足などで42年に原爆製造を断念した。

◇当初は原爆用と知らず

【ブリュッセル福原直樹】広島や長崎原爆の製造に結びついた米国・英国とベルギーのウラン売買協定を調べたブリュッセル自由大学のバンデルリンデン教授(ベルギー史)に聞いた。

──米英とベルギーのウラン売買の発端は何だったのか。

ベルギーの国策鉱山会社(旧コンゴ)は当初ノーベル賞受賞者・キュリー夫人ら、フランスの原子物理学者にウランを提供していたが、大戦勃(ぼっ)発で北米に販路を求め、カナダとニューヨークにウランを貯蔵した。米がこれを知り、1942年に1500トンを購入したのが発端だ。

──44年、米とベルギーは極秘のウラン鉱石の売買契約を結びます。

当時、ベルギー国策会社の担当者がウラン価格の値上げを求めたため、米英がベルギー政府に「正当な価格を」と求めたのが契約の発端だ。完全な秘密協定で、戦後も長く存在しないことになっていた。59年まで契約は更新されたが、その後はカナダ産などのウランが安くなり、米英はベルギーのものを必要としなくなった。

──ベルギー側はウランが原爆に使われることを知っていましたか。

国策会社の担当者は、売買先が米軍で軍事目的と気づいていた。だが原爆用と知ったのは、広島の後だ。ベルギー亡命政府も当初、米国の原爆開発計画を知らなかった。

──協定でベルギー側の受けた恩恵は。

ベルギー政府は戦後、60年ごろまでウランの売上税などを秘密口座に蓄えた。秘密協定で米英側はベルギーに核技術の提供を約束し、戦後いち早くベルギーの技術者が米国で核の平和利用の研究を行った。

──ウラン売買の結果、広島の悲劇が起きたことをベルギー側はどう判断したのですか。

ベルギーは同盟国・米への協力を義務と考え、敵国日本を哀れむ気持ちはなかった。欧州が広島の悲劇を論じ始めたのは後のことだ。ベルギーは戦後も米英にウランを供給し続けた。これは当時の指導者が、米国の核の傘が旧ソ連の脅威から「自由」を守ると信じていたからだ。(毎日新聞 2004/08/04)

原爆:原料供給のベルギー国策企業、米軍幹部へ賛辞
【ブリュッセル福原直樹】米国にウラン鉱石を売り続けたベルギーの国策鉱山会社のエドガー・ソンジェ氏は、「マンハッタン計画」の最高責任者・グローブス少将に、広島、長崎への原爆投下直後、書簡を出していた。バンデルリンデン教授が、米国の国立公文書館で発見した。書簡の日付は長崎への投下翌日の1945年8月10日で、仏語で書かれていた。
同氏は書簡の中で、少将から事前に「近くラジオで米政府の重大発表があるから聞くように」と連絡を受け、広島への原爆投下を知ることが出来たことに感謝を表明。「(原爆は)戦争遂行だけでなく、世界と人類の将来に大きな影響を与える発明」と記しており、核兵器に対する当時と現在の認識の大きな違いを示している。
さらに、ウラン入手のため少将が同社事務所(ニューヨーク)を最初に訪れた日のことに触れ、「あなたは謎に包まれた人物だったが、我々の(取引)関係は建設的で誠実なものだった」と書いている。
同氏はまた、前日の9日にワシントンで少将と昼食を共にしたことなどにも触れており、書簡はウランの取引で双方が当時、頻繁に接触したことも示している。(毎日新聞 2004/08/04)

NYでも「原爆の日」
広島「原爆の日」の6日、ニューヨークのタイムズ・スクエアで米反戦団体が抗議行動を行い、約20人が「ヒロシマからイラク戦争まで、何人、無実の人が死ななければいけないのか」と書いた横断幕を掲げて戦争反対を訴えた。
シカゴに本部を置く団体で、毎年この日に反戦を訴える行動をしている。代表のセロン・ムーニーさん(29)は今年訪れたイラクで、壁に焼き付いた人間の形をした影を見つけ、広島の惨状を思ったという。
道行く人々のほとんどは無関心で、ビラを受け取る人はまばらだった。(朝日新聞 2004/08/07)

被爆米兵の遺族に弔意 マッカーサーの手紙発見
GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサー(1880-1964年)が原爆投下9カ月後の1946年5月、捕虜として収容中に広島で被爆死した米兵ジェームズ・ライアン少尉=当時(20)=の母親に手紙を送り、弔意を伝えていたことが15日、広島市の歴史研究家森重昭さん(67)の調査で分かった。
手紙は原爆に一言も触れてはいないが、その3カ月前には母親の元には米陸軍から「広島で戦死した」と被爆死をほのめかす文書も届いていた。
森さんは「米政府が早い段階で自国の兵士が原爆の犠牲になったことを把握し、マッカーサー自身も遺族に後ろめたい気持ちを抱いていたことがうかがえる」と分析。手紙のコピーは近く広島市中区の原爆資料館に寄贈される。(共同通信 2004/10/15)

核廃絶訴える映画を製作 被爆60年で米監督
被爆60年に向け、核廃絶を訴えるドキュメンタリー映画を製作するため、米ニューヨークの映画監督ロバート・リクターさん(75)が広島市を訪れ、7日、放射線影響研究所(同市南区)などで撮影をした。
映画は、プルトニウム型爆弾が使われた長崎の被爆者や平和活動に取り組む若者を中心に取り上げ、核の悲劇を2度と繰り返さないよう訴える内容。6日には秋葉忠利広島市長にもインタビューした。
リクターさんは7日、広島市役所で会見し「2度と被爆者をつくらないために、若者が自分にできることを実行に移すきっかけとなる映画にしたい」と抱負を語った。東京やニューヨークでもロケをし、2005年6月ごろ完成する予定。(共同通信 2004/12/07)

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