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米“原爆”で人体実験

Category: 原爆  

米“原爆”で人体実験 子供含む18人にプルトニウム
【ワシントン22日=AP】米エネルギー研究開発局(ERDA)は21日、「広島、長崎の原爆投下を前に、米国で、その放射能の影響度を調査する目的で18人の男女に対し、極秘にプルトニウム溶液を注射、人体実験をしていた」というショッキングな事実を確認した。
米科学ニュース誌「サイエンス・トレンズ」が伝えるところによると、実験はテネシー州オークリッジのマンハッタソ技術地区病院、ニューヨーク州ローチェスターのストロング・メモリアル病院、それにシカゴとカリフォルニア大学病院の4病院で、1945年から47年にかけて米政府の超極秘計画として行われた。
実験の目的は、原爆製造に従事する作業員に放射能がどのような影響を与えるかの調査で、4歳から50歳台までの老若男女18人が人体実験の対象となり、プルトニウムの注射を受けたという。
人体実験された人は通常、人体に発ガンなど大きな影響を与えるだろうと想定される量を2回から145回にもわたって注射され、このため7人が注射を受けたその年に死亡、3人が1-3年以内に、2人が14-20年以内に、1人が28年後に、さらに2人(期間不明)が死亡した。残り3人のうち1人は現在も生存しているが、注射の目的は知らされなかったという。(産経新聞 1976/02/23)

日本に原爆を4発落とすべきだった 遊説先で米下院議員
【ポートアーサー(米テキサス州)23日=AP】米民主党のジャック・ブルックス下院議員(テキサス州選出)は22日、遊説先のポートアーサーで、対日輸入問題などに対する質問に答えた中で「(第2次大戦中)トルーマン大統領は(日本に)2発の原爆を落とさせたが、彼は4発の投下を命令すべきだった」と発言した。
ブルックス議員は1945年8月、広島と長崎に原爆が投下された当時、米海兵隊の一員として日本本土侵攻を準備中だったという。同議員の発言について、スポークスマンは単なる冗談であり深刻に受け取られては困る、と述べた。(朝日新聞 1986/10/24)

広島原爆 死亡率、被ばく線量に比例 市外の住民の5倍
核被害者大会で発表へ
【ニューヨーク27日田原護立特派員】原爆投下から5年間の被ばく線量と死亡率の相関関係についてニューヨーク市立大客員教授の中川保雄・神戸大教養部助教授(放射線影響史)は、広島市の被爆者のうち約14万人と爆心地から離れた市域外の人々と比較したところ、被ばく線量によって最高5倍もの高い死亡率を示していることがわかった。28日午後(日本時間29日午前)、ニューヨークで開催中の第1回核被害者世界大会で発表するが、広島市の放射線影響研究所=前身はABCC(原爆傷害調査委員会)=は先の国際放射線防護委員会総会(イタリア)で、被爆者のがん死亡率が異常に高いことを報告しており、欧米の科学者たちの注目を集めそうだ。
放影研が分析、公表しているデータは被爆から5年たった1950年時点で生き残っていた12万人の被爆者に関する約30年間の追跡調査を基礎にしている。しかし、中川助教授は「人体に対する放射線の全影響を調べたことにはならない」として、原爆投下直後から5年間について、広島市やABCCなどが調べた約14万人分の資料を入手。爆心地から離れ、被ばく線量がゼロラドの市域外(not in city)のデータを集め、分析した。
その結果、被ばく線量に応じて死亡率が高くなっていることが判明。これまでのABCCなどの見解を覆し、特に最初の1年間(1945-46年)の死亡率は、爆心地に近い被ばく線量199ラド(ABCC調査)の地点で非被爆地区(市域外)のなんと5.08倍、18ラド(同調査)の地点で3.08倍にのぼった。1946-50年の5年問はそれぞれ平均1.45倍、1.22倍と倍率は減ったものの、いずれも市域外を大きく上回っていた。
中川助教授は「放影研のデータが間違っているというのではない。問題はデータの取り方、比較対象の設定。ABCC、放影研のデータを根本的に洗い直さなければ、放射線の危険性は正確には把握できない」と話している。(毎日新聞 1987/09/28)

放射線許容量の算定規準誤り 被爆5年内の死者数を無視
神戸大助教授が警告
【ニューヨーク28日=共同】米研修留学中の中川保雄・神戸大助教授(科学技術史)は28日、広島への原爆投下後の1945年10月から5年以内に放射線の影響で多数の人が死んでいるのに、広島、長崎の放射線による影響を基に作られた現行の日本の被ばく線量許容基準(年間500ミリ・レム)算定ではこれらの死者が考慮されていなかった、と発表、原発関係者の間で出ている国際的な許容量緩和の動きに警告を出した。
現行の日本の被ばく線量許容基準は国際放射線防護委員会(ICRP)が広島に本部を置く放射線影響研究所(RERF)の報告を受けて出した勧告を基に算定したものだが、ガンや白血病は5-10年の潜伏期間があるとして、被爆前に発病した可能性を考慮し、50年9月までの死者をこれらの病気の死者から除外、算定基準のデータとして扱っていなかった。
中川助教授が同日ニューヨークで開催中の第1回核被害者世界大会で明らかにしたところによると、45年10月から1年間の爆心地から1.2キロ以内の被爆者の死者数は非被爆者の約6倍に達しており、その後、46年10月から50年9月の4年間でも非被爆者の1.5倍が亡くなっていた。
助教授はこれらの数字はRERFなどの資料から得たが、RERFなどはこれらの死者を「被爆によるガン、白血病による死者」として扱っていなかった。(読売新聞 1987/09/30)

放射線の人体障害 原爆投下前にかなり予測? 「防護手引き」用意
第2次大戦中のヨーロッパ戦線で、ナチス・ドイツ軍が毒ガスのかわりにウランやラジウムをばらまくなど放射能攻撃を仕掛けてくることを想定し、米軍が極秘に防護作戦の手引きをつくり前線に配っていたことが、米国立公文書館の資料から13日までに明らかになった。広島、長崎への原爆投下の前年に配られた手引きには、白血病や脱毛など放射線の人体への影響などが、すでに詳しく書かれている。
米国側が原爆投下後の放射線障害をどの程度まで予測していたかは、軍事機密として戦後44年たったいまも明らかにされていないが、歴史研究者らは「被爆者の放射線障害を、かなり見通していたことを裏付ける資料」として重視している。
この防護手引きは、広島、長崎に投下された原爆の開発過程を調べている東京工業大学の山崎正勝教授らのグループが、米国立公文書館に保存されていた米国の原爆開発(マンハッタン計画)の責任者、レスリー・グローブスのトップシークレット資料集の中から探し出した。
作戦暗号名は「ペパーミント」。司令部がヨーロッパ戦線の部隊などにあてた書簡、メモと一緒に、「戦時における放射性物質の使用手引き」(A4判24ページ)が入っていた。配布されたのは、1944年4月24日から同年5月6日にかけて。冒頭には「ドイツが数年前から行っているある種の化学開発が進んでいれば、放射線物質を軍事的に使うだけの量を生産していると考えられる」とし、ドイツ軍が放射性物質を使って攻撃してきたときの備えと、併せて報復攻撃も想定している。
放射線の人体への影響については、白血病のほか、貧血、内臓疾患、やけど、脱毛、爪(つめ)の異状などに触れ、「100レントゲンあれば歩兵の攻撃を止められる」としている。また、毒ガスに比べて攻撃の持続力は数時間から数年間続き、「汚染された土地に入るのは危険」と注意。放射性物質の効果が部隊内に伝わると、兵隊が恐怖心を持つから極秘にするよう指示している。
研究メンバーの木本忠昭・東工大助教授は、「マンハッタン計画の中でも放射線の影響を調べるため人体実験が行われていた」と指摘。「見つかった防護手引きは、人体実験など当時の研究データをもとにつくられたのだろう。この資料だけでは米国側が人体への放射線影響を厳密に予測していたとはいえないが、白血病や脱毛など個別の影響については相当の知識を持っていたはず」と話し、原爆投下をめぐる人道上の問題も改めて提起している。
研究グループは、科学技術史の点からマンハッタン計画を3年がかりで再調査し、年内にも報告書をまとめて出版する。
マンハッタン計画の経緯などを調べて「原爆投下のシナリオ」を著した、ワシントン在住のアージュン・マキジャニ博士は「米国側が戦時中、これほど詳細な放射線被害のリポートをまとめていたとは知らなかった。戦後も米国は核実験を重ねて人体への影響のデータを集めているが、いったい何のためか、それならば必要ないのではないか、と考えさせられる資料」と話している。(朝日新聞 1989/08/14)

原爆投下し兵士演習 54年ソ連で
汚染域での作戦能力試す 「赤い星」報道
【モスクワ29日時事】29日付のソ連国防省機関紙「クラスナヤ・ズベズダ(赤い星)」によると、ソ連軍が1954年9月、原爆の爆発効果を実測し、汚染域における軍事作戦能力を試すため、本物の原爆を投下、爆発させる軍事演習を行っていたことが明らかになった。
演習を指揮したのはジユーコフ元帥(当時は第一国防次官)。計画の準備は53年末から開始され、演習場所は南ウラル軍管区が選ばれた。兵員用の「たこつぼ」や耐火用ざんごうが掘られ、その上には遮へい幕が張られた。また、地下深くには二重扉のついたシェルターも建設された。
54年9月半ばまでには準備が完了。あとは放射能が居住地帯に運ばれないよう、風向きの都合のよい日を待つだけだった。
そして同月14日、爆撃機から原爆が投下され、原爆は地上300-500メートルのところで爆発した。投下地点周辺では何ら識別できるものは残らなかった。兵員は「与えられた任務を完全に遂行」し、放射能汚染もほとんどなく、ブルガーニン国防相は演習成功を宣言した。

冷戦下、疑問の声は出ず

当時は冷戦下で、また、西独が北大西洋条約機構(NATO)に参加しようとしていた(加盟は55年5月)時期でもあり、「ソ連軍の戦闘能力を高揚させるためにどのような方法をとろうと、それを疑問視する見方は皆無だった」という。
国営タス通信は演習3日後の17日になって、原爆の爆発効果を調べるための核実験が行われたと伝えたが、原爆が軍事演習に使用されたことには全く触れなかった。
「クラスナヤ・ズベズダ」紙は、グラスノスチ(公開性)の時代の今だからこそ、この秘密を明らかにできると説明している。(毎日新聞 1989/09/29)

ソ連、原爆で「人体実験」 35年前、核戦争想定
【モスクワ29日=共同】東西冷戦時代の1954年9月14日に、ソ連が核戦争を想定して防御能力を調べるため、実際に原爆を爆発させ、人体実験に近い演習をしていたことが明らかになった。
29日付国防省機関紙赤い星によると、演習はジューコフ元帥(当時国防次官)が指揮して南ウラル軍管区で行われた。演習現場には多くのざんごうが掘られ、兵器や兵士は地下の二重ドアの内側に入り、地上には戦車が配置された。
原爆は地上300-500メートルの空中で爆発、戦車は数十メートルも吹き飛ばされてキャタピラが宙に舞ったり、溶けて地中にめり込んだりした。兵士に死傷者はなく、放射能汚染も“軽微”で、ブルガーニン国防相(当時)は「演習成功」と報告した。
深いざんごうの中では、兵士は教えられた通り、身を伏せて目を閉じていたが、爆発時には、わずかに土が降りかかっただけだったという。
人体実験とも言えるこの演習は周到に準備され、風向きまで考慮に入れて実行されたが、兵士には演習内容は秘密にされた。国営タス通信は3日後の17日になってやっと「学術目的の核実験を行った」と発表した。赤い星は「ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(公開性)の前に何があったかを知るべきだ」とし、厳しい冷戦時代だったとはいえ、当の兵士にも国民にも知らせずにこうした演習が行われたことを批判した。(朝日新聞 1989/09/30)

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