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日本人はもう、経済によって“幸せ”にはなれない

Category: 日本国民の心得  

日本人はもう、経済によって“幸せ”にはなれない。
群馬県の小さな村に“互いを評価し合う幸福”を学べ
――哲学者・内山節インタビュー


成熟国家とはいえ、日本はいまだ世界でも指折りの豊かな国だ。にもかかわらず、社会には若者を中心に「将来に希望が持てない」「長生きしても仕方がない」という厭世観が募り、自殺率も高止まりしている。十分恵まれているはずの日本人は、なぜ「幸せ」を実感できないのか? その背景には、長引く不況という一時的な理由ではなく、もっと根本的な理由がありそうだ。哲学者の内山節氏は、今の時代を「経済が全ての人をすくい上げることができなくなった時代」と捉え、個人的な欲望を満たすことで幸せを求めようとする考え方から抜け出すべきと説く。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン 小尾拓也、撮影/宇佐見利明)

今の日本人が「長生きしたくない」と
思うのは、不況のせいだけなのか?


最近、若者を中心に、「将来に希望を持てない」「長生きしても仕方ない」という厭世観が募っている。長引く不況の影響もあるためか、自殺率は高止まりしている。こういった世相の背景には、どんな原因があるだろうか?


私は今の時代を、「経済が全ての人をすくい上げることができなくなった時代」と考えている。日本人の幸福度と経済成長は、実は比例していない。その背景にあるのは、一時的な不況のせいではなく、長期的に見た世界経済の変化だ。

 20世紀は、先進国が世界経済を主導してきた。その象徴が自動車産業で、日本、米国、英国、ドイツなど、一握りの先進国が大量生産を行ない、市場を独占してきたという一面があった。

 しかし、中国、韓国などの新興国や旧社会主義国が力をつけ、市場に参入してきたことにより、先進国が経済を主導する状況が崩れてしまった。日本をはじめとする先進国は、昔のような独占的利益を得にくくなっている。

「世界が平等になっていくプロセス」と考えれば、この変化は決して悪いことではない。だが先進国は、もともと独占的な利益が上がることを前提に社会システムを構築しているため、これまでと同じ利益が望めなくなれば、厳しい状況になる。企業は人件費を削らなくてはならず、社員の賃金を保証できなくなる。今は足もとで、そういう状況が起きている。


日本人が幸せを感じられなくなった理由は、このような経済の変化によって、将来に希望が持てなくなっているためだと思う。

 もちろん、個別に見れば、新たなビジネスモデルをつくり上げて急成長を遂げる企業も出てくるだろう。しかし、昔のように日本企業全体が利益を得ることは、もはや難しい。

 従来の企業経営者は、「韓国や中国に負けないテレビをどうやってつくるか」という発想でものを考えるが、世界経済の変化が進むなかで、そういう発想で日本経済全体を考えるのは意味がないし、失敗すると思う。



頑張ってもどうにもならない――一。
「豊かさ」の認識は世代間で大きく異なる


しかし、日本は成熟国家になったとはいえ、いまだに世界で指折りの「豊かな国」の1つに数えられている。にもかかわらず、「幸せ」を実感できない。日本人が豊かさに慣れてしまい、自分が十分幸せであることに気づけないという側面もあるのではないか?

 一口に「豊か」といっても、豊かさの認識は、世代間で大きなギャップがある。

 戦後の高度経済成長期を生きた人々は、国の成長が続く過程で、「頑張って働ければそれだけ暮らし向きがよくなる」という希望を持つことができた。終戦後にゼロからスタートし、貧しい生活を少しでもよくしたいと思って頑張り、それを実現したらさらにもう一段上の生活を求める――一。かつては、そういう生き方ができた。

 しかし、今の日本は経済成長が終わり、バブルが崩壊して20年も経っている。その間に生まれた25歳以下の世代が、続々と社会に出始めている。

 彼らは、高度成長期もバブル期も知らず、就職難を味わったり、身内がリストラされた記憶しか持ち合わせていない。安定雇用が前提だった昔と違い、今や非正社員の若者が1人もいない家庭を探すことのほうが難しい。


「頑張ってもどうにもならない」という経験を蓄積してしまった彼らは、「成長神話」を全く信じていない。つまりこの世代の人は、豊かさを実感できないのではなく、そもそも豊かさを知らないのだ。

 今の日本に「欲しがらない人」が増え、消費が低迷しているのもそのためだ。人間の欲望は限りないものだから、もし収入が増え続けるなら、誰しも「2台目の車を買おう」「家を改築して広くしよう」「ファーストフードじゃなくてフレンチを食べたい」と考える。しかし、頑張っても収入が増えない今となっては、手が届きそうにないものは初めから欲望の対象にならない。



「幸せ」の尺度は、個人的な欲望から
他者に評価される幸せへと移りつつある

豊かさに幸せを感じることは、もはやできないということか。では、日本人はこれから何に対して「幸せ」を感じて生きていけばよいのか?

 日本経済が成長していた時代には、個人的な欲望を満たすことが幸福の尺度だった。あたかも、そこに自分の幸せがあるような幻想を抱くことができた。それを続けるためには、絶えず右肩上がりの経済成長が続いていく必要があった。

 しかし、バブル期という特殊な時代はあったものの、高度成長はとっくに終わりを告げている。今は贅沢をするにしても、「生活費を切り詰めて貯金したおカネで海外旅行にいく」くらいがせいぜいだろう。

 もはや欲しいもの全てを手に入れることは叶わず、「1つを犠牲にして他の何かを手に入れる」という「代替の幸せ」が当たり前になっている。それどころか、安定的な雇用や最低限の収入といった、本来なら手が届かなくてはいけないものにさえ、手が届かなくなりつつある。

 そうなると、「別の幸せ」を探さなくてはいけなくなる。では、今の時代に求めることができる別の幸せとは何だろうか? それは、「他者から評価を得ること」によって感じる幸せに他ならない。


他者に評価されて幸福感を得るとは、具体的にどういうことか?

 私は今、群馬県の上野村と東京を往復しながら暮らしている。上野村では1年の半分近くを過ごし、農業をしたり山野を歩いたりする生活を送っている。はじめは神流川でヤマメやイワナ釣りをしようと訪れたが、何度も現地に通って村に長期滞在するうちに村の人たちと仲良くなり、彼らの生き方に興味を持ったのだ。

 私が考える幸福感は、この村から大きな影響を受けている。この村の人々は、皆がお互いを助け合い、評価し合いながら生活している。ある意味、とても幸せなことだ。高齢者が多いこの村では、日常生活において必ず誰かの助けが必要となる。

 村には、マキを割るのが上手い人、近隣の家に当たらないようにうまく木を切り倒す人、崩れた石垣を直すのが上手い人、漬け物を漬けるのが上手い人、キノコを採るのが上手い人など、各人が長い経験に裏打ちされた他者に負けない「技」を、何か1つ持っている。そして、その能力が周囲に尊重され、周囲に貢献することで幸せを感じている。つまり、「他者を評価する仕組み」が自然に根付いているのだ。

 上野村に住む人々はそれほど裕福ではないが、こう考ればむしろ都会に住む人々よりも幸せかもしれない。


仮想空間で“つながり”を求める人々
上野村に学ぶ「仲間を尊重する仕組み」

上野村に住む人々のように、多くの日本人は今までと違う幸せのあり方に気づき始めているだろうか?

 欲望を追求することで幸せを求めた結果、いつしか他者と結びついて評価しあう幸せは壊れてしまった。それを再構築しなければいけないにもかかわらず、社会は今なお弱肉強食の状態にあり、勝ち組や負け組の格差が生まれている。そんななか、日本人は他者から評価されることの幸せに気づき、気持ちを切り換えようとしている。

 コミュニティの重要性がそこかしこで語られるようになったのは、そのためだろう。インターネットのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が良い例で、匿名性が強いツイッターから顔写真や実名入りのフェイスブックへと、より強いつながりを求めるコミュニティにブームが移りつつある。これは、「自分が求めていることは何か」を、人々がネット的に表現していると言えないだろうか。


経済が人を救えなくなった時代が訪れているとするならば、これまで日本経済を支えて来た企業も変わらなければならないだろうか?

 世の中に、「仕事がつまらない」と嘆く会社員はたくさんいる。しかし、不満の原因の多くは仕事の内容がつまらないせいではなく、自分の仕事が周囲から評価されないことへの不満だ。

 逆に、社員同士がお互いの仕事を評価し合う風土があれば、どんな仕事でもやる気を感じるようになるだろう。労働で得る物質的な対価よりも、周囲に評価される対価のほうが、実はよほど大きい。職場の考え方も、そのように変わっていくべきだ。


企業が“非文化”だと、中で働く社員の
考え方も“非文化”になってしまう

企業で働く社員は、一日に使える時間の大半を企業に管理されている。そのため、職場が「非文化」だと、個人の暮らしも「非文化」になってしまう。

 そもそも経営者が起業するときには、私財を投げ打ってでも「社会のために何かやろう」という志を、少なからず持っているものだ。金融機関を立ち上げるなら、「カネ回りをよくして地域経済を活性化させたい」と考えるだろう。その意味では、企業は生い立ちが文化活動だったはずだ。

 しかし、企業が成長して規模が大きくなると、いつの間にか利益を上げることだけが目的になり、社会的ミッションを忘れてしまいがちだ。たとえば家電メーカーなら、競合他社との評価を分けるのは、「価格の安さ」ばかりでなく、「アフターサービスが充実しているか否か」といった付加価値の部分が重要になる。

 しかし利益ばかりを追求し始めると、自分たちが売ったPCの使い方をユーザーが電話で相談してきた際に、「相談回数が何回を超えたら課金します」という態度をとるようになる。ユーザーは強い疎外感を感じるだろう。全ての企業がこうなってくると、商品の価格以外に企業の価値を計るモノサシはなくなってしまう。

 そこで考えるべきは、外からも評価してらえない企業が、中で働く人々から評価してもらえるはずがないということだ。


日本企業では、どれだけ利益に貢献したかを重視する成果主義が根付きつつあり、社員の不満が募っていると言われる。これは、権力側が極めて主観的な評価を「客観評価」と称して社員に認めさせているに過ぎない。社員は内心、評価に納得していないので、ひとたび権力が脆くなると、社内から一斉に不満が噴出する可能性がある。

 こういった企業社会の現状を反映してか、私が教える大学院の学生たちの研究テーマを見ると、「ソーシャルビジネス」に関するものがとても増えている。企業はもともと、大なり小なりソーシャルビジネスだった。「企業が今のままの状態ではダメだ」と危機感を持つ人たちは、確実に増えていると思う。



お互いに助け合うという生き方
失われた“コミュニティ”を取り戻せ


日本人が他者から評価される「幸せ」を得られるようになるためには、どうしたらよいだろうか?

 昔の日本人は、コミュニティの一員であることに誇りを感じ、心の拠り所にしていた。社会にとっても企業にとっても、失ってしまったコミュニティを再構築することが重要となる。そのことは、上野村の例を見てもおわかりだろう。

 今後は、同じ地域に住む人々や、問題意識を同じくする人々が集まり、それぞれが多種多様なコミュニティをつくる世の中になっていく。そのなかで、お互いに助け合い、評価し合う仕組みをつくっていくべきだ。逆に言えば、常日頃から人を尊重する心を持つようにしないと、コミュニティをつくることができない。

 このことは、政治の世界にも言える。かつて群馬県を大票田にしていた自由民主党は、農村や山村にくまなく支部や後援会を張り巡らせ、そこに集まる住民を取り込んで世話をした。それがよいか悪いかは別として、有権者に「自民党」という巨大なコミュニティの一員であると感じさせることに成功した。群馬県に住んでいた私は、自民党の絶大な求心力を感じたものだ。

 そのコミュニティが壊れてきたと感じたのは、およそ20年ほど前。支部や後援会が利権団体の性格を強め、人々の心が自民党から離れ始めた頃からだ。その姿を見て、「いずれ自民党の時代は終わるのではないか」と思ったことを覚えている。

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