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今日ボクが見た風景

撫順日本戦犯収容所の真実④

Category: 戦争  
特別軍事法廷でサインする日本人の姿

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特別軍事法廷で裁判を受ける日本人達の姿



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嵐のような犯行自白

1954年、最高検察院工作団は500人余りの工作隊を組織して、戦犯収容所に入った。彼らは下級日本兵から、自白運動を展開させた。上級日本人軍官に対しては、個別審判の方法を通して、一人一人取り調べで、自分の「犯行」を認識させる。管理所所長、崔仁杰さんは当時の状況を語った。「自白運動の中、我々が採用する方法は、戦犯全員を集めて犯行自白大会を行って、先に39師団の中隊長宮崎弘を、湖北白羊村で何十人ものシナ人を彼の手で殺した事を、他の戦犯たちに対し自白させた。彼のその自白を聞いた後
会場の日本人は呆然とした。何十人のシナ人を殺したにもかかわらず自白の勇気があった彼と比べて、自分達が犯した罪ははるかに軽いはずだ。自分達も自白すべきと認識した。毎回自白大会を行うとき、一人の日本兵の自白を聞くと、他の日本人達も強く共感して、話を聞いていた日本人捕虜達は「俺達は本当に悪魔だ」と発言し合った。

自白運動は一年続きました。その期間内、日本戦犯達はもの凄く緊張して、食事も食べられず、まるで生死の淵に徘徊しているようでした。山ほどの確実な証拠、さらに工作隊人員の嵐のような思想攻撃の下で戦犯たちは思想が変わった。日本軍は中国に来る目的は「建設」ではなく、「侵略」であることを認識した。最後は、武士道精神を代表する人物、藤田茂中将も自ら罪を告白した。彼が自白してから、他の日本人軍官も次々に自白した。特別法廷の裁判を経て、45名を除く、千名近くの戦犯たちが解放された。最後まで刑に服した1名は、1964年に帰国を遂げた。


シナ共産党は、その時の日本兵捕虜に対して、2種類の方法を使いていた。1つ目は、明るい希望を与えて、早く犯行を自白した日本兵は早めに日本に帰れると暗示する。2つ目は、自ら自白せず頑固な日本兵に対して、厳しい手段を使い、毎日に個別審問を行って、何人もの中国人が一人の日本人に自白を強要する。あらゆる方法を使って、犯人の自白を強要するのは、中国の刑務所では日常茶飯事である。管理所の中国人職員や検察院工作団の人にとって、日本兵に自白させるのは共産党上級から受けた任務である。彼らは毎月、日本人捕虜の思想状況や学習状況や身体状況のほか、自白書を提出した人数とまだ自白してない人数も上級機関に報告しなければならない。上級機関が欲しがる自白書の内容、それは日本兵が自ら書いた殺人の数量や、残酷な内容が多い自白書だった。中国人責任者は、管理した日本捕虜が共産党上級の要求を満足できる自白書を提出したら、彼ら自身の成績として、上級からは奨励を貰える。

上記日本兵が中国
人を殺した地名に注目したい。湖北白羊村、この地名は中国人でさえ実際の場所はどこにあるか分からない。湖北省、つまり満州国から2000キロ余り離れた中国中部の省である。日本国とほぼ同じ面積、人口もかなり多く、湖北省の中に山ほど小さな村があったはずだと思う。あれほど中国を日本兵に殺されたはずの場所なのに、正式の文書で県の名前すら記録していなかった。私の考えでは、当時中国人軍事法廷は、日本人が自白した犯行現場にいったことがなかった。そして更に、犯行現場や犯行自体、明確な証拠のないデタラメだったと解釈できる。私が持っている「日本戦犯改造」の資料の中、日本人捕虜が自白した殺人方法は、中国人犯罪者がよく使う犯行手段とすべて同じ、さらに被害者の身分や年齢や住所等の資料もなく、凶器、犯行現場、など正式な法律文書の中に必ず記録する要素もなかった。記録が残ったのは自白書、中国人証人の証言のみ。中国人の軍事法廷は、これらの日本人捕虜を審判したのに、自白した犯行の時間、地点、人物、動機は一切はっきりしていなかった。少しでも法律知識を持っている人に言わせば、これは非常におかしな話ではないだろうか。


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