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今日ボクが見た風景

「アメリカ人の鑑・日本」②

Category: 日本国民の心得  

第三章世界征服という脅威の正体

1捏造された脅威

 パールハーバー以前は、経済封鎖に対する日本の脆さを知っている人なら、日本が大国にとって軍事的脅威になるなどということを、誰も本気で考えたことは無い。日本は近代戦のための重要物資をすべて輸入しなければならないのだから、物資の補給が遮断(兵糧攻め)されれば、戦争機関は自動的に停止してしまう。しかも、日本は食糧も輸入しなければならないのだから、海上輸送路が遮断(兵糧攻め)されれば、通常の国内経済は麻痺する。

第九章誰のための共栄権か

3日華事変からパールハーバーへ

 ・・・日本は何を考えていたのか。中国の情勢は混沌とし、錯綜していた。しかし、日本から見れば、問題はきわめて簡単だった。つまり、(1)満州に、「合法的自衛」手段としての戦略拠点を確保し、(2)日本帝国圏(韓国台湾)と満州、華北からなる経済ブロックをつくって経済の安全保障を確立しようというのが日本の計画だった。そうすれば、これまでのように原材料物資と市場をアメリカイギリスフランス、オランダに依存しなくてすむ。日本は、一方では再び極東に進出してくる可能性のあるソ連に対する「防衛」手段として、もう一方ではイギリスの強力なポンド経済圏(貿易地域)とアメリカのドル経済圏に対抗する手段として、自分たちの計画を考えていたのである。しかし、イギリスアメリカは日本の政策に反対した。

 日本から見れば、イギリスは中国の「中央政府」を経済的、政治的に支配し続けたいから、反対しているのだ。そして、アメリカは日本がアジアで指導的地位につくことを望んでいないのだ。つまり、人種差別的、通商的、戦略的反対であると、日本は解釈した。この政策的対立が日華事変(日中戦争)の交戦国は中国と日本ではなかった。それは依然として、日本と欧米列強、とりわけイギリスアメリカとの対立だった。中国人の将軍(蒋介石)と政治家(日本と汪兆銘)がついていた。中国人民は、相も変わらず、双方の犠牲者であり、飢えるか殺されるかの役回りしか与えられていなかった。

 1935年、華北を蒋介石政権の「悪政」からほとんど「解放」していた。日本は華北三省を統治する将軍たち(軍閥)の協力でこれを達成したのだ。将軍たちはいずれも華北の「自治」確立と、満州国と日本の緊密な経済関係を支持すると宣言していた。汪精衛(兆銘)(後に南京「傀儡」政府を率いる)も日本についていた。彼は1935年当時、蒋介石が率いる「南京政権」の行政院院長だった。この政権は列強が「中華民国の」の「中央政府」として承認したものである。つまり、日本は中国の統治グループの中に緊密な協調関係をつくっていたのである。

 中国「国民政府」の中にさえ、政策の不一致があった。蒋介石はどちらかといえば親英路線、汪兆銘はどちらかといえば親日路線だった。1935年、汪は日本の協力して、蒋介石を国民党の指導的位置から外そうとしていた。

 この時点までイギリス蒋介石と日本の双方をけん制しつつ支援していたが、華北が独立を宣言し、日本と満州国が共同して関税同盟と経済ブロックを結成する可能性が強まってくると、危機感を抱くようになった。イギリスは華北に大きな「権益」を持っていたから、フレデリック・L・ロス卿を送り込み、銀の国有化計画を成功させて、蒋介石を外交的にも強化した。同じ頃、国民党大会初日の記念写真におさまろうとしていた汪精衛は、カメラに隠されていた銃で撃たれた。

 複雑極まりない情勢の中でおきた一連の事件は、日本の計画にとって大きな障害となった。日本のよき理解者は入院し、蒋介石はイギリスの財政援助で威信を高めた。このために日本は華北の「解放」計画を断念せざるを得なくなったのである。イギリスに代わって華北を包み込もうとした経済ブロック計画(日本が武力によらず「合法的」に達成寸前だった)は阻まれ、日本は一歩一歩、日華事変の泥沼にはまり込んでいった。その過程で日本は、不正義ではあったが(解放という正義が第一義ではなく、日本の自衛が第一義で、解放は自衛目的達成のための手段)、「アジア解放」(宗主国欧米に頼らない自己保存目的の大東亜共栄圏の樹立)の旗手として台頭してきた。

 日本は限定目標の中国から、欧米列強の支配から解放され、アジアの国々が共栄圏の中で共に暮らせる、アジア全域へと進撃を開始した。日本の説明によれば、それはアメリカ大陸の諸国が汎アメリカ同盟の中で協力し合っているものと同じものであった。

 ひとたび日華事変が火を噴くと、日本は残虐非道に突き進んだ。そして、東部の海岸地域を奪取し、蒋介石政権を重慶に追いやることに成功した。1940年4月、日本は汪精衛を南京に担ぎ出し、同11月汪政権を中国の正当な合法的「中央政府」として承認した。米英両国政府はただちに蒋介石政権を正統政府として承認すると発表した。アメリカは汪精衛を日本の傀儡とみなし、日本は蒋介石を米英の傀儡とみなした。

中国人の立場から見れば、両政権とも法的擬制(誤魔化し)である。蒋介石も汪精衛も外国の後押しがなければ支配的地位を握ることはできなかった。どちらも中国人の力で政権に就いたのではなかった。両政権の軍隊は外国列強(片や米英、片や日本)によって資金手当てされ、訓練されていた。両政権ともいわゆる中国「共産党」からは敵視されていた。日華事変では中国共産党は重慶(蒋介石)に協力して日本と戦ったが蒋介石軍は日本軍、共産軍双方と戦っていた。

 米国政府は蒋介石に多額の借款を与えるだけでなく、日本の厳しい経済制裁(日本最大の弱点兵糧攻め)をちらつかせることで、日華事変(事実上、1939年の世界大戦に合流する)に参画していた。[著者注7 1940年11月、汪精衛の南京政権の樹立に対抗して、アメリカは重慶(蒋介石)に一億ドルの借款を与えた。これは1935年のアメリカの対中国投資総額の半分に相当する]。1939年6月、私たちは日本との通商条約(1911年締結)を破棄した。これによって、私たちはいつでも貿易を停止(兵糧攻め)できるようになった。

 1941年7月、アメリカイギリス、オランダは共同で各統治領内の日本資産を凍結し、貿易関係を全面的に中断(兵糧攻め)した。

 ここにいたって日本は、満州事変以来脅えつづけてきた最後のとき(兵糧攻め)がついにきたことをさとった。これら諸国の物資がなければ、日本はアメリカイギリス、オランダのいう条件で中国と満州から撤退するしかない。

 近衛公が去り、東條大将が登場、凍結措置は戦争行為(兵糧攻め)であると簡潔に言った。次にくるのは必然的にパールハーバーとシンガポールの攻撃である。日本に言わせれば、これは当然の自衛行為であり、「帝国の存亡」をかけた攻撃だった。[ヘレンミアーズ注11 第2章の2「攻撃と反抗」の日本国天皇の開戦の詔書を読み返していただきたい。ここには日本の視点が明確にされている]。

第2章の2「攻撃と反抗」米英帝国に対する宣戦の詔書、1941年12月8日

 [東洋支配のあくなき野望に狂奔する米英は、重慶政権を支援しつつ、東アジアの動乱をいよいよ悪化させてきた。米英両国は他の国々に追随をそそのかし、われわれに挑戦すべく、わが帝国周辺において軍事力を増強した。彼らはあらゆる手段を用いて、わが平和通商を 妨害し、ついには経済関係断絶の挙に出るにいたった。これはわが帝国の存立を根底から脅かすものである。かくのごとき情勢にいたれば、わが帝国は実にその存立と自衛のために、武力に訴え、そのいく手にたちはだかる障害を打破するほかにとるべき道はないのである]。開戦の詔書全文赤裸な国民の総意開戦の詔書と終戦の詔勅と戦後公職追放令でのし上がった売国奴

(真実史観注・玉砕特攻集団自決の原点 ハルノートに応じたら最後、大阪城の内堀を埋めたのと同じ、立ち上がる術など皆無。応じても、保障なき戦国時代、再度資源封鎖されて完全亡国の奴隷国は明白で、滅亡あるのみ。ABCD経済封鎖は宣戦布告、座すれば確実に国民は餓死、アジア同胞覚醒追随に一縷の望みを懸け、打って出た。故国に残した国民の生存を懸けた戦いに、兵士も国民も上下の区別なく団結、滅私で戦った)。

第二章 懲罰と拘束

2攻撃と反抗

 パールハーバーはアメリカ合衆国の征服を企んでし仕掛けられた「一方的攻撃」であるというが、この論理では日本を公正に裁くことはできない。なぜなら、私たちの公式記録が、パールハーバーはアメリカが日本に仕掛けた経済戦争(兵糧攻め)への反撃だったという事実を明らかにしているからだ。パールハーバーは青天の霹靂ではなく、然るべき原因があって起きたのだ。原因は、1941年7月25日にアメリカイギリス、オランダが打ち出した「凍結令」である。三国は自国領内にある日本の全資産を凍結し、貿易、金融関係を全て断絶した。日本は輸入必需品80パーセントを「凍結」地域に頼っていたから、三国の行動は、日中戦争の泥沼化だけでなく、国内経済の窒息死を(餓死)意味するものだった。

 日本はアメリカに特使を送り、こうした厳しい措置の緩和を要請した。しかし、アメリカは両国間の対立を解決する意志を持っておらず、戦争は不可避と考えているように、日本にはみえた。会談の公式記録を読んでみると、アメリカは自国の「防衛」計画を整備するまでの時間稼ぎをしている、と日本が思ったのは、当然である。アメリカの政策(イギリス蒋介石政権を支援し、日本を経済制裁)は正しかったというのもいいだろう。しかし、私たちの政策ではなかったと、真面目な顔でいうのはおかしい。なぜなら、政府は各種の公式声明であれ「凍結(兵糧攻め)」令はアメリカの政策だったと言明しているからだ。

 日本の立場で言えば、こうである。イギリスとオランダが禁輸したインドネシアとマレーの物資(兵糧)を力で奪いに行く決意を固めた。そこでアメリカが両国の陣営に加わらないよう、奇襲によって出鼻をくじく必要があった。パールハーバーは伸るか反るかの賭けだった。

 東京裁判で日本側は「封じ込め」を逆非難し、「正当防衛」を主張した。これには強力な裏付けあったために、私たちはパールハーバーを中心訴因から外し、「少なくとも、いわゆる満州事変の発生時の1931年から」日本が企てていた「世界征服」の「陰謀」まで訴因を拡大せざるをえなくなった(国際検察局主席検事joseph keenan書簡参照

第七章鵞鳥のソース

7確立された満州の秩序

 私たちの戦争目的は、日本のアメリカ征服を阻止することではなく、日本を征服することだった。戦前戦中を通じて、日本が帝国の一部として、あるいは常任統治領として支配する地域に攻め入り、アメリカ本土からはるか遠くに広がるアジアの島と領土を占領することがアメリカの目的だった。

 雌鵞鳥(グース)のソースは雄鵞鳥(ガンダー)のソースにもなる(欧米列強の行動と、日本の行動は同じで、非難する資格など欧米列強にはない)。「アメリカ人の鑑・日本」

著者より依頼され翻訳した原百代の後書き

 「本質において、終戦後氾濫した『真相はこうだ』式のいわゆる、暴露ものと雲泥の相違があることの理由も、またこにあるのだ。 我々日本人の中に、占領中はおろか、独立後の今日に至ってもなお、決して征服者アメリカ人に対する遠慮とか、皮相的な同調からではなくて、本心から、アジアへの認識を始めとして、文化、教育、政治、百般の観念において、アメリカの、しかも正鵠「せいこく(真実)」を失したアメリカの対日観念を、そのまま鵜呑みにしている人々、換言すれば、アメリカ人の目の、しかも歪んだレンズを通した、そのままの姿で、己が祖国日本を観ている人々が、数少なくない事実、しかも自他共に、敗戦後の新日本の指導者を持って任ずる、いわゆる、文化人、知識人と称する人士の間にも、こういう人々の相当数が、現に各々の分野において、指導者として活躍している一事を思う時、この書は正に、正に、日本国民への頂門の一針(頭上に針を突き刺す)である」「アメリカの反省」1952.12. 引用終わり Ⅲに続く

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