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米人歴史家ヘレンミアーズの「アメリカ人の鑑・日本」①

Category: 日本国民の心得  

戦後3年1948年に書いた米人歴史家ヘレンミアーズの「アメリカ人の鑑・日本」より抜粋

 第4章は、翻訳抄訳版では省かれているが、「アメリカ人の鑑・日本」とした著者の、紛れも無く高い見識が第4章には在る。完全版を推奨する。

第4章伝統的侵略性

1神道からの解放

 日本人は近代以前に「戦争美」を創出し、「武士階級」を崇拝し、常に「軍事独裁者」に統治され、天皇を生きた「軍(いくさ)神」として崇めてきた。そして日本人の宗教である神道は日本人を優れた民族と信じさせ、神である天皇を世界に君臨させるため日本人に「世界征服」を命じている。私たちはそう教えられてきた

 私たちの戦後対日政策には、神道と「天皇制」は本質的に戦争を作り出すものであるという考え方が組み込まれている

 神道と天皇崇拝は日本人の民族感情にとって重要な文化と宗教の伝統を表すものだった。これは、他の民族が固有の文化、宗教の伝統をもっているのと同じ国民感情である。伝統の力が強ければ強いほど、国家存亡の危機には、戦時体制の、国民一丸の要となる。

 日本の学童が天皇の肖像に最敬礼をしたのは、アメリカの学童が「国家に忠誠を誓う」のと同じ国民的儀礼だが、私たちはそれを見ようとしない。

 日本人が天皇を尊敬するのは、天皇が超自然的、超人間的存在であるからではない。象徴としてのしきたりの、長い歴史と伝統文化を崇拝しているからである。日本の天皇は、アメリカの星条旗、あるいはアンクル・サムU.Sの戯言化。アメリカ政府または同国民のあだ名)のようなシンボルなのだ

 私たちの国旗は軍事的象徴ではない。それと同じように、戦争が無ければ、日本人にとって天皇軍事的象徴ではなかった

 「天皇制」と「国家神道」は、私たちが民主的と呼ぶ世界のどの国でも、国の特性に応じてさまざまに現れる現象である。神話は日本人にとって民族主義の象徴に過ぎないのだが、私たちはその事実に目を閉じてきた。私たちアメリカ人には統合の心情的象徴となる皇室は無いが、私たちの民族主義同盟であるイギリスは王室をもっている。

 もちろん、イギリス人は、国王、帝国、イギリスの血と文化に対する忠誠心を「国家神道」といいはしない。しかし、神話を別にすれば、日本人にとって「国家神道」が神社、英雄、日本国と帝国を表すシンボルに対する国民的、心情的崇拝であるのと、現実には同じなのである。

 アメリカでさえ、戦争中は多くの教会が祭壇の後ろに星条旗を掲げ、礼拝の中で国家を歌っていたのである。

 戦争中は、私たちも国家神道を絶えず(理性ではなく)感情(本能)的に表現していたのである。日本人を教育して根源的国家意識を捨てさせたいと思うなら、まず私たちの根源的国家意識を捨てるべきである。

5日本とアメリカ―その生い立ち(真実史観注・唯心と唯物)

 彼らは均質の民族的伝統を発展させた。隣国の中国は、少なくともその15世紀前から高度に発達した文化を持っていたが、日本の移住民はその文化を受け継いだのではない。彼らは中国人の後を継がなかった。この点は、私たちアメリカ人がヨーロッパ文化との関係でやってきたこととは違うのである。

 17世紀まで、彼らは中国文化借りながら自分たちの文明を発展させてゆくが、それも無制限な借用ではなかった。ある程度接触したところで必ず隔離期間が置かれ、その間に中国文化を民族状況に適合させていった。最後の隔離期間は、私たちも知っているように、2世紀以上も続き、そして、今度は日本人自身によってではなく、ペリー提督に代表される他からの力で終わったのである。

 日本人は、2世紀もの間、自分たちだけで生きてこられたし、それに満足していた。・・・彼らの文明はそれほど深く根を下ろし、彼らと一体化していたから、20世紀になって日本に流れ込んだダイナミックな西洋文明の奔流にも、毅然として立ち向かうことができた。

 私たちは、数十億エーカーの可耕地を持っていた。今日、アメリカの平均的な農家は150エーカーの土地を持っている。私たちを取り巻くすべての環境が、私たちをエネルギッシュな活動に駆り立てたのだ。

 これに反し、日本民族の土地は島の集まりで、主要4島合わせてもモンタナ州程度の大きさだった。・・・土地は一分の無駄なく耕されているが、それでもわずか1600エーカーに過ぎず、農家の平均所有地は2エーカーに満たない。

 私たちの文明は、社会と経済がある程度発達した段階から始まった。だから、私たちが発達した資本主義的商業技術を使って、機械文明に向かったのも当然である。そして、私たちの特殊状況が、発展を早めたのも当然である。

 私たちが民族となり、国家となるためには、ヨーロッパから自由を獲得する必要があった。インディアンを隷属させ、発明し、南北の隣接国と戦い、戦争や財力で、あるいは外交で領土を広げていく必要があった。

 広大な土地、富、少ない人口という私たちの条件が機械を必要とした。私たちは機械の創造に長けた民族だから、機械は兎のように増殖していった。

 前近代の日本人にとっては、事情はまったく違った。・・・彼らは環境を征服したり、変えたりするよりは、自分を環境に順応させることを選んだ。

 日本人は大部分が物々交換に固執していた。米が主たる富であり財貨だった。借財と税は、米などの生産物、あるいは労働などで決済された。物の値段は米を基準に決められていた、鋳造貨幣の使用は早くから中国に学んでいたが、それを利用していたのは、ほとんどの場合、大都市の特定集団だけだった。日本が統一国家として通貨を持ったのは近代に入ってからで、それまでは貨幣による徴税も行われていなかった。

 19世紀半ばになっても、現在東京といっている江戸は人口100万の都市で、流入する品物は、当時の記録によれば、下駄、下駄の鼻緒、木綿製品、植物油、紙、石鹸用ぬか袋のような日用品など百種類程度のものだった。もちろん、米は主要商品だった。前近代を通して、下級貴族も含むすべての人が、ぎりぎりの必需品で生活していた。

 日本の社会は米の収穫に大幅に依存していたのである。・・・だから、農業の障害のなるものはすべて経済の撹乱要因にになった。収穫物に損害を与える大地震、台風、津波は広範な不況を意味した。

 こうした災害は定期的に襲ってきた。しかし、日本の文明は、災害をいかに防ぐか、いかに小さくするかを考えることによって発達してきた。自然災害を制御するために、呪術農耕儀礼を営んだ。この自然と先祖に対する信仰の一部が神道なのだ。

 つまり、日本人は文明を発展させるにあたって、土地も富も少ない現実を受け入れ、集団化に慣れ、物が無くても耐え、もてるものを最大限利用することによって現実に適応してきた。土地は狭かったが、農作物の種類を制限し、一度に二種類の作物を栽培し、一つの土地に多くの人間を抱える集団農耕技術によってそれを克服してきた、この耐乏経済は集約農業と相互保全策を生み、それによって土地は肥沃に保たれ、島は美しい庭園になった。

 日本人は密集して生きることを受け入れ、小さな家に住み、物質欲を捨て、しきたりに順応し、家族、村、集団に従属することによって居住空間の狭さを乗り越えた。そして、個人による自己主張の欠落を、親への孝心、先祖崇拝、儀礼の徹底した形式化によって、品位あるものに高めていったのである。

真実史観注・唯物と唯心の統治の差となり、食民治と植民地になった。

6武士階級

 前近代の日本は暴力によって支配されていたのではなく、しきたり、共同体の意見、法律の力によって支配されていた。これは他の社会と同じである。職業軍人を抱合する「サムライ階級」は世襲の特権階級であった。

 徳川時代の日本の性格をいちばんよくうかがわせるものは、社会の階級性である。19世紀に行われた「国勢」調査によると、当時の人口構成は、サムライ7.2%、農民86.7%、手工業1%、商人・金融業者3.3%、その他1.8%となっている。サムライ階級には学者、医師、芸術家、事務職、行政管理者が含まれる。手工業の数が少ないのは、サムライを含めて、実際、すべての人が必要なものは自分で作ることができたからである。農民は稲藁を使って屋根を葺き、草履、敷物、その他何でも必要なものは自分で作った。

 私たちの日本人感は、支配体制を「軍事独裁」と呼んだことで混乱してしまった。支配階級は世襲官僚で、実際に国を動かしていたのは「神のサムライ」、すなわち舞台裏で仕事をする行政官(職業的知識階級ホワイトカラー)だった。

 彼らは警察権力の恐怖政策によってではなく、まことに綿密につくられた法と規制で安定を維持していた。

7間違いの歴史

 私たちは急いでいた。広大な大陸を手なずけ、収めなければならなかった。・・・私たちは形式にとらわれず、やるべき仕事を直進しなければならなかった。

 日本人の場合はまったく逆だ。性急であるより気長である事に重きを置いた。・・・彼らは形式を無視するどころか、極限の儀礼を求め、伝統的に正しいとされる行為の礼を社会制度の基本にしたのである。

 私たちは使えるものが余りにも豊富だったから、何でも惜しみなく使い、試した。日本人はそれができなかった。彼らには直ちに補充するという考え方の上に、文明を発達させてきた。日本人は節約を最大の徳とした。彼らは節約信仰を作り出し、何物も無駄にせず、持っているものはすべて完全に使い切った。

 私たちは大きいものを信じた。日本人は2エーカーの農地から、小さな家、箱庭、根付、盆栽といった独特の表現様式にいたるまで、小さなものを信じた。

 私たちは急いでいた。装飾や美的効果を考える余裕は、時間的にも精神的にも無かった。私たちが求めていたのは、物質的な快適さと便利さだった。日本人は急いではいなかった。彼らは物質的に貧しかったから、持っているものを飾ることを考えた。美は彼らの文明の大事な要素となった。

 私たちは自然を征服することを考えた。日本人は自然を敬い大切にした。

 日本人は土地に恵まれていなかったから、持っている物を崇め保存し、自然崇拝を彼らの宗教、社会、政治の主要な柱とした。伝統神道の多くの神事は、肉体的満足の対象である食べ物と、精神的満足の対象である美をもたらしてくれる自然に感謝する儀式だった。私たちは土地がありすぎたから、広大な地域を砂漠にしてしまうまで、保存の必要性を感じなかった。日本人は持っている物が少なかったから、大切にした。二千年に渡って耕してきた、今でも彼らの小さな島は肥沃であり、森や田畑はさながら手入れの行き届いた菜園である。

 日本が総じて安定した非侵略的な独自の文明を作ってきたことは記録に明らかだ。近代以前の日本は少なくとも千八百年の間、様式化され限定化された内戦の時代と、全体的混乱の一時期を除けば、平和と安定の中で文明を発展させ、人口を増やし、制度を整備し続けてきた。そして、外国を征服しなかったことは事実である。日本人を「間違い」で非難するなら、世界の大国になった近代国家で、こうした歴史を誇れる国が他に在るか、探してみるべきだ。

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