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今日ボクが見た風景

強制連行のアボジの子なり

Category: 在日・パチンコ  

1984年の朝日歌壇には1年間に18万余首の投歌があった(『朝日歌壇’85』)。年間50週として週に3600首。朝日の場合、4人の選者がこれを読む(従って重選がある)。入選歌は年間2055首である。
 「朝日歌壇に寄せられるのは、みな普通の市民の、それぞれが日常に見つけた喜怒哀楽、心の動きを映した歌群です」(『朝日歌壇2001』歌壇担当記者による「あとがき」)
 しかし社会詠というか機会詠の多いことが朝日歌壇の抜きん出た特徴である。「喜怒哀楽」には「社会性」が色濃いのである。たとえば2001年10月と11月の8週間分の朝日歌壇では130首、全掲載歌の4割が同時多発テロ関連の歌である。同時期の毎日歌壇では約30首、保守系と目される読売、産経では意外にもきわめて少ない。そして2002年秋には北朝鮮による拉致事件関連歌が朝日の場合は突出して多く、他紙にはまれにしか見えないのである。


2002年9月17日、拉致テロを金正日国防委員長が認め、生存者と「死亡者」のあやふやなリストを提示した衝撃のあとの歌にはつぎのようなものがある。


強制連行のアボジの子なり棄民なり差別・蔑視・無視・放置の六十余年(朴貞花) 


 

朴貞花は朝日歌壇投稿30年の常連だが、その歌うところは「暗い歴史を背負った暗い在日コリアン」と「朝鮮ナショナリズム」である。
 そこでは「在日」はつねに「不正常な存在」として認識されている。従って、志を抱いて渡日してきた在日コリアンの希望は無視され、現実に半世紀をはるかに越えて日本に定着した在日コリアンがコリア系日本人として日本社会に参加し、積極的に影響を与える道は否定される。あらかじめ「不正常な存在」とされた若い世代はアイデンティティを見失って気の毒である。彼らのほとんどは「祖国」に感情移入できない。そうして近年来日した新1世ははじめから視野にはない。
 用語の問題もある。
彼女の父は1939年以前に渡日しているから「徴用」以前の段階、「募集」か「官斡旋(あっせん)」であろう。 1960年代のなかばの造語であり、元来トートロジー(注:同意語の反復のこと。「馬から落馬する」「犯罪を犯す」など)でもある「強制連行」はあたらない。新来者の被差別と苦労は同情に値するが、在日コリアンはむしろ「祖国」で差別されるのである。北朝鮮の場合、差別は人権侵害のみならず、生命の危機にもおよんでいる。

 


その面前に『祝杯(チュッペ)』とグラス掲げたり笑みて頷く童顔の金正日書記
 照り渡る朝高に在日二万五千名金正日主席推戴祝う (注:「朝高」=朝鮮高級学校)

 こんな歌をつくった朴貞花は、95年春に訪朝している。「日本を発つときには、想像だにできなかった夢のような待遇を受けた1か月であった」と98年刊行のその歌集『身世打鈴』 にある。彼女はつまり金日成主義者なのである。ならば是非もない。
 



【朝鮮人は隣人 長年の夢実り】




会社役員 朴貞花(東京都町田市 63歳)



 娘のチマチョゴリ姿を見た町内の人から、「まだ日本に朝鮮人が居るの」と言われたのは30年前だった。

 町田市には朝鮮学校もあるのに。

 自分を見せる事で朝鮮人が日本で一生懸命生きている事を知って欲しいし、私を信じてくれた人が一人できれば、そこから確実に根が広がっていくだろうと思ったが、のれんに腕押しでつらい思いをしてきた。

 しかし、今年は夢の一つが実った。
 来年の市の比較平和都市宣言20周年を前に市公民館が取り組む、市民による脚本・主演・演出のミュージカル「LIFE IN PEACE」-戦争を知らない私たち-の公演が19日にある。

 その劇で被爆者の事と共に在日の事、朝鮮学校の事も取り上げられ、朝鮮学校の子供も劇中で舞踊を踊り共演する。

 脚本の中の朝鮮人の台詞は、日本人が書いたとは思えない程私たちの心が表現されていた。
 私は胸が熱くなり、読みながら涙があふれた。

 やはり、真実を知る事、学ぶ事で理解が深まり、人は誰でも手を携えていく事が出来る。
 あきらめずに、いつの日か分かってくれる人が現れると信じてきて良かった。

 公演が待ち遠しい。


(2002年1月18日 東京版)


/* 内容自体は普通なのですが、経歴に不自然な点が見られたので紹介しました。

まず、この投稿者のサイト↓をご覧下さい
http://www.korea-np.co.jp/book/sinboj99021975.htm (注:現在は閉鎖されたようです)

>著者は1938年忠清道生まれ。1歳の時、家族に連れられ、日本に強制連行されていた父の元へ。
>解放後の生活は多くの在日同胞同様、苦労の連続だった。

と、この投稿者は来日した年と年齢という最大の手がかりを明かしてくれています。

1938年に朝鮮で生まれて日本には1歳の時に訪れたということは、1939年か1940年に来日したことになります。
つまり、父親の強制連行は、どう大きく見積もっても1940年ということになりますね。


そして、朝鮮半島に国民徴用令が実施されたのは、1944年9月~12月のことです。
(日本国内で国民徴用令が成立したのが1939年のことなので、一部の書籍では日本本土の徴用令が半島でも実施されたと思いこみ、1939年に強制連行開始されたと、誤解を招く誤った記述をしていることもあるようですが)

また、1939年まで朝鮮人の内地への渡来を日本政府は制限しており、この年より日本企業が朝鮮で自由に労働者を募集することが許可されるようになりました。


この年と投稿者の父の渡航年の一致はどうしたことでしょうか?
1942年より官斡旋が始まりますが、この投稿者の父親にはこれも当てはまりません。


実際には、こんな感じではないでしょうか。

1938年 朴貞花(投稿者)生まれる
1939年 国民徴用令成立(半島には適用されず)
1939年 朝鮮人の渡航制限を緩和
1939年 もしくは1940年 朴貞花 日本に渡航 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1942年 官斡旋始まる。
1944年 9月~12月 朝鮮半島にも徴用令施行


これで、「強制連行のアボジの子なり棄民なり差別・蔑視・無視・放置の六〇余年(町田市)朴貞花」
などと言っているのですから、たまりません。



  
 「あることが起こったときに、自分ならどんなふうなかたちで参加できるか。

その参加の意志がいちばん端的にあらわれるのが新聞歌壇だと思います。

新聞というのは本来は与えられるもので、唯一参加できるのが歌壇あるいは投書欄だ。

新聞というのは本質的にそういうものを必要としているんだよ」

座談会「短歌にとって昭和はどんな時代だったか」 における)永田和宏の発言である。

もっともな見方だが、新聞歌壇や投書欄が「参加者」の恣意的かつリアリティのない「物語」の再生産の場として利用され、あるいは新聞論調に投稿者が媚びるようでは朝日歌壇にとどまらず、朝日新聞そのものの危機というべきであろう。(了)

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