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文化大革命と大躍進政策 

Category: 中国  

文化大革命と大躍進政策 
4,000万人以上を死亡させた毛沢東の犯罪

毛沢東の犯罪を忘れるな!


文化大革命とは『中国共産党中央委員会通知』が発布された1966年5月から、
1976年10月の「四人組」の失脚までの10年間の中国の政治過程を指す。

中国政府の公表では、文化大革命当時、四分の三の幹部が打倒され、
被害者は1億人に達したという。これは当時の人口の九分の一を占める。
そしてこの数の数倍もの加害者や盲従者がいたはずである。

文化大革命の悪影響は今日の中国社会に色濃く残っている。
紅衛兵が破壊した多くの文化遺産や名所旧跡は、もう復旧できない。

1982年の政府発表によると、中国に2億人以上の文盲、半文盲がいるという。
それは文化大革命の10年間、学校教育を怠ったことと大きな関係がある。
また、数字に表わせない無形の影響として、国民全体の素質の低下は
今後も長く残るだろう。

さらに文化大革命後、農村に下放された知識青年が、一斉に都市部へ戻り
深刻な失業問題に見舞われた。今日に至ってもそのツケが回ってきている。

中国では、文化大革命に触れないという中国政府の教育方針により、
小学生、中学生にもそれを知らない者が多くなったと報道されている。

しかし30代を超えた大半の中国国民は文化大革命を忘れることはできない。

YouTube:文化大革命・・・死者数は2,000万人以上

文化大革命始まる    出典:文化大革命

1965年(昭和40年)11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇
『海瑞罷官』を評す」を発表した。毛沢東はこれを機に、大躍進政策の失政を理由に、
自分を最高権力者の座から実質的に追放した劉少奇、鄧小平、彭真ら実権派、
すなわち、当時の中国政府の最高指導者たちに対する攻撃を始めた。
毛沢東の最高権力奪還闘争の開始である。

実権派攻撃は成功した。毛沢東は再び最高権力を掌握した。1966年5月16日、
中国共産党中央政治局拡大会議で毛沢東による「中共中央通知」が採択された。
中央文革小組=新しい権力中枢機関の設置が決定された。

1966年5月25日、中央文革小組の支持を受けた講師7人が北京大学指導部を
激しく批判する壁新聞を張り出した。

1966年5月29日、精華大学付属中学の学生によって紅衛兵が組織された。
毛沢東はこれらの動きを積極的に支持した。これを契機に
暴力団組織として悪評高い紅衛兵組織が、中国各地で続々と結成された。
毛沢東が天安門上から接見した紅衛兵の人数は1,000万人以上といわれる。

1966年8月8日、中国共産党十一中全会で、「プロレタリア文化大革命についての
決定」が採択された。「資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すこと」と「思想・文化・
風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という二つの目標が決定された。
劉少奇の党内序列が8位に格下げされた。鄧小平は平の党員に格下げされた。
劉少奇、鄧小平は軟禁された。

劉少奇国家主席をなぶり殺し


-毛沢東の【憎悪】は凄まじかった!-毛沢東の復讐方法は残虐を極めた!


軟禁された国家主席・劉少奇は病におかされるが、散髪や入浴も着替えも許されず、
監視員には殴られ続け、医師には注射針をいたるところに突き刺されるなどの執拗な
暴行を受け続けた。高熱をだしても治療も受けられず放置された。体中の皮膚が膿に
冒され悪臭を放つようになった。1969年10月,開封市に移送された。
寝台にしばりつけられて身動きができぬ状態で、地下の暖房のない小部屋に幽閉された。
ついには劉少奇は発狂した。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達し、かっての
面影は全く失われ、まさしく幽鬼と化していた。
この残虐な復讐方法毛沢東が人間性を持たない悪魔であったことを示している。

毛沢東は良識ある人たち

すべてを憎悪し、抹殺を指令した

毛沢東フルシチョフ的人物
(毛沢東を批判する人物)
がいると指摘し、どんなに人数が多くても、
これらのフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)の反社会主義的な反動思想を
摘発し、徹底的に批判し、残虐に痛めつけ、彼らから指導権を奪取しなければ
ならないと指令した。

フルシチョフは1953年~1964年にわたりソ連共産党第一書記を務め、
ソ連の第4代独裁者であった。1956年、党大会で激烈なスターリン批判演説を行い、
スターリンの数々の悪業を徹底的に非難したことで知られている。

毛沢東【自分は無謬の神】であるとし、いささかでも毛沢東の政策を批判する
【不心得者】は、すべてフルシチョフ的反革命分子であるから、
容赦なく摘発し、
残虐に痛めつけ、ぶっ殺せ
と指令した。怖ろしい悪魔の指令である。

この毛沢東の手前勝手な、滅茶苦茶な悪魔の指令によって、北京から始まって、
中国全土で各段階の行政機関・教育機関、あらゆる産業分野、あらゆる職業において、
種々様々なフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)みなされた
良識あるリーダーたちが摘発され、まつたく理不尽、かつ残虐・非道な迫害を受け、
ぶっ殺された。

この残虐・非道な行為は、毛沢東によって、
人間としての理性、倫理観、道徳を
奪われ、鬼畜化した若い紅衛兵
によって実行された。世界の歴史において、
かって無かった毛沢東の悪魔としての偉業である。

You Tube:神州穿梭_文革廣西武宣縣紅衛兵吃人肉事件

『ある紅衛兵の告白』より抜粋

私の学校においては、先ず校長がフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)として
摘発され受難した。

私たちは、校長に、いちばん高い三角帽子をかぶせた。私たちは、校長に
いちばん重い札をかけた。頭を虎刈りにして、顔に墨を塗りつけた。

私たちは、延々と校長批判を続けた。批判演説で私たちの感情は異常に昂ぶっていった。
何人かの革命的生徒は興奮して、ついに、校長を棒で叩きのめし、足で踏みつけた。

さらに彼らは、校長を足で踏みつけただけではあきたらず、校長の首に縄をくくりつけ、
台の下に引きずり下ろし、犬のように吠えさせ、犬のように運動場を這い回らせた。

紅衛兵は自分たちの教師たちを軟禁し、毎日、10時間以上の重労働を課した。
わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いと、すぐさま木刀や革靴で
殴りつけた。夜になると、夜通し、教師たちの尋問とリンチが行われた。
(抜粋終わり)

恩師に対するこのような残虐・非道な行為は、
何時の時代においても、どこの国においても、決して許されることではない。

しかし、毛沢東指令によって、このような、鬼畜化した紅衛兵

残虐・非道な行為
が中国全土で行われたのである。

文化遺産の徹底的破壊

中国4,000年の歴史の中において、「自分より偉い者はいない」と豪語した毛沢東は、
1966年8月8日・中国共産党十一中全会の「プロレタリア文化大革命についての決定」で
実権派を叩き潰す」と並んで、「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」
という余人にはマネできない発想で文化遺産の徹底的破壊を紅衛兵に指令した。
毛沢東によって理性的判断を失い鬼畜化した紅衛兵は、この毛沢東の気違い指令
100%忠実に実行した。

紅衛兵は文化遺産を徹底的に破壊した。

寺廟などの宗教施設が徹底的に破壊された。例えば、後漢時代に建立され、文革当時、
現存する中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び、後漢時代から残る
貴重な文物の数々はことごとく破壊された。

山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。
四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったが破壊された。

明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸が
ガソリンをかけられて焼却された。

中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。
あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。

チベットでは6,000箇所の仏教寺院がことごとく破壊された。
文化大革命が終わったときには8箇所しか残っていなかった。

こうして中国民族や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産は
ことごとく破壊されてしまった。そのため、現在、中国の諸都市には、
人口数百万人の都市に1つか2つ程度の寺院しかないのが一般的であり、
それらも、ほとんどが80年代以降に再建されたものである。
再建したところで歴史的価値は戻らない。

エスカレートした紅衛兵の暴力行為

紅衛兵の暴力行為が際限なく広がるなかで、訴えるすべもなく、
本当に悲惨だったのは、「地主」や「資本家」という搾取階級の肩書きを
つけられた人々だった。

手に重い物を持たされた彼らは、膝を剥き出しにしたまま、石炭ガラや
ガラスの破片の上にひざまずき、少しでも動けば殴る蹴るの憂き目にあった。

文句を言おうものなら、袋だたきにあうのはまだましな方で、ひどいときは、
その場で殴り殺された。事実、殴り殺し事件は、頻繁に起こっていた。

凶暴だったのは、男子ばかりではない。女子紅衛兵も凶暴だった。
サクランボウのような可愛い唇をした、女子大生や女子中学生が、
布を巻いて胸を押さえつけ、髪を短く切り、粗暴な言葉を吐き、じつに凶暴だった。

北京での家宅捜索では、「地主婆あ」
とされた老女を皮ベルトで殴り殺した。
女子紅衛兵のベルトのバックルが、老女のこめかみに命中したのだ。
15歳の女子紅衛兵が、「搾取階級」の女性の口に指を突っ込み、力まかせに
引っ張っている光景を見たことがある。相手がうめき声を上げなかったので、
ヒステリー状態になった女子紅衛兵は、暴力行為を止めず、被害者の血で
手を真っ赤に染めていた。

彼や彼女らは、数百メートルの長さで北京駅前に二列の列を作った。
腰に手をあて、あたりをにらみつけ、皮ベルトやいろいろな凶器を手に持っていた。

家財を差し押さえられ、仕方なく北京を逃れ、原籍の田舎に戻る「搾取階級」の人々は、
駅に入る前にまずこの長い列の間を通り、帰郷に先だつ洗礼(暴力)をあびなければ
ならなかった。

四中と同じ男子校だった六中の紅衛兵は、校内にトーチカを築き、鉄条網をめぐらして、
「労働改造所」と称していた。実質は私設の刑務所で、同級生を含む大勢の犯人を監禁し、
連日のように拷問にかけていた。

じつにさまざまな罪状が用意され、また暴行のすさまじさで、北京中に勇名が鳴り響いた。

彼らは、数人を殴り殺すと、鮮血にまみれた手で、犠牲者たちの血で、
壁に「赤色テロ万歳!」と大書していた。

当時の公安相・謝富治はこう演説したものだ。「大衆が人を殴り殺すのには、反対する。
しかし、大衆が悪人を骨の髄まで恨み、我々が制止しきれなければ、それも仕方がない。」

紅衛兵が、勝手気ままに、見境なく、善良な市民を多数虐殺しても、それが殺人罪に
ならなかった。毛沢東が創り出した文化大革命は、世界歴史上、まれに見る鬼畜化社会
であった。

共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には、中国各地で群集を集めて、
紅衛兵による反革命分子公開処刑(殺害)大会が行われた。とはいっても、
建国以来十数年、中国共産党はひたすら、虐殺に次ぐ虐殺を繰り返していたので、
対象となる反革命分子は、もう、ほとんど存在せず、簡単に見つかるはずもなかった。

そこで、紅衛兵たちは、無実の市民を反革命分子であるとでっちあげた。
毛沢東の政策に少しでも疑問を述べたり、毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、
毛沢東の顔写真を載せた新聞紙を使って野菜を包んだりするだけで、
反革命分子として紅衛兵に殺害された。

紅衛兵による無差別大量虐殺が頻発した。1966年8月、紅衛兵は、地主、富農、
知識人階級など、良識ある人々とその家族たちを殺害すべく、北京市大興県を襲撃し、
325人を虐殺した。1967年8月、湖南省道県では4,139人を虐殺した。


1967年から1968年にかけて、内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する
大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。


虐殺は、紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらなかった。
紅衛兵は分裂し、互いに相手を、反革命分子と罵って激しい殺し合い戦争を行った。

1967年3月から6月にかけて、江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、
内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、凄まじい殺し合い戦争が行われた。

殺し合い戦争は中国全土に広がった。紅衛兵、労働者、農民、さらには、軍隊をも
巻き込んだ、主導権争いのための、激しい殺し合い戦争展開された。
まさに中国全土が中国人同士の殺し合い戦争状態であった。

You Tube: 文化大革命 - 紅衛

こうした中国全土の無警察状態に善良な中国国民は恐怖におののいた。

いつ、反革命分子のレッテルを貼られてぶっ殺されるか。
いつ、誰かに裏切られるかとの恐怖と猜疑心がつのり、ひたすら、
狂信的に毛沢東を崇め奉ることが救いの道であるとのムードが広がった。
毛沢東個人に対する極端な個人崇拝、神格化がますます強化された。

【用済み】紅衛兵は農村や辺境地域に追放された
虐殺と破壊と狂気に満ちた10年間の文化大革命は、
1976年(昭和51年)9月に毛沢東が死亡するまで続いた。

1977年8月に文化大革命の終結が宣言された。

大躍進政策で、2、700万人以上餓死

1960年だけで、餓死や、栄養失調による病死など「非正常な死」と認定された死亡者は、
中共党史出版社の『文革前10年の中国』によると2、700万人に達するといわれる。

注:4,500万人死亡とも言われる。

李剣ら編『重要会議体験実録』(中共中央党校出版社、98年)などによると、信陽専区の
路憲文党委員会書記は人民公社で「生産量を過少申告する農民の摘発運動」を展開した。

ある日には、40人以上が拷問を受けた。うち4人がその場で死んだ。見かねて制止に入った
青年は、がんじがらめに縛られて、こん棒や革ベルトで全身を打ちすえられ、哀願しながら
息絶えた。遺体は川に投げ棄てられた。

59年11月から、60年7月までに、信陽専区全体で「生産量ごまかし摘発運動」の逮捕者は、
公式資料だけで、1,774人、うち36人は獄死した。拘留された者は、10,720人にのぼり、
そのうち、667人が留置場で死亡した。

農民が口にしたり種用にする穀物はもちろん、家畜用の飼料も取り立てられ、60年春には、
人民公社の「優越性」の象徴としてだれでも腹いっぱい食べられると宣伝された「公共食堂」は
機能しなくなっていた。

ひどい村では80日間、一粒の穀物もないというありさまだった。栄養失調から浮腫(むくみ)病が
まん延し、餓死する者さえ出る惨状で、農村を逃げ出す農民があとを絶たなかった。

それでも路憲文党委員会書記は、「穀物がないのではない。9割の者は思想に問題がある
のだ」と言い、民兵に村を封鎖させ、都市部の各機関や工場には、農村から逃げた者を
受け入れないよう指示した。



1968年、紅衛兵活動の停止措置がとられた。

毛沢東の忠実な走狗(そうく)であった紅衛兵は、毛沢東の最高権力奪還後は、
【用済み】ということで、「知識青年・下放運動」が展開され、彼らは、農村や
辺境地域に放逐され、肉体労働を強いられた(懲役刑に処せられた)。

毛沢東の支配下においては、毛沢東語録以外の余計な知識は全く不要だか
ら、
農村や辺境地域で、肉体労働で毛沢東語録を実践せよとのご託宣であった。
年間167万人~267万人の知識青年が下放された
といわれる。

中国には「狡兎(こうと)死して、走狗(そうく)煮らる」ということわざがある。
「獲物であるすばしこい兎が死んでしまうと、猟犬は用がなくなり、煮て食べられる」
という意味である。つまり、事が成ってしまうと、それまで役に立っていたものは
必要なくなり、処分されるということである。

毛沢東の走狗(そうく)であった紅衛兵は、【用済み】となり、島流しにされた。

権力亡者で悪の権化ともいえる毛沢東の邪悪非道性・精神的異常性は、
劉少奇ら実権派を打倒して最高権力を奪還した後、彼の忠実な走狗(そうく)であった
紅衛兵を島流しにして、教育を受ける機会を永遠に奪い、奈落の底に突き落とした
ことで遺憾なく発揮された。

手にした最高権力は絶対に手放さない


毛沢東は文化大革命を死ぬまで継続させた。国民の幸福を願うとか、
健全な国家を建設するとかいう考えは毛沢東の頭の中にはまったくなかった。

毛沢東の頭の中にあったことは、手にした最高権力は絶対に手放さない、
自分を凌ぐ者の登場は絶対に許さない、ということだけであった。
いささかでも、自分の意に逆らうものは、問答無用でぶっ殺した。

権力亡者・毛沢東が死亡して、
やっと文化大革命が終わった!







自然災害に襲われたというだけだ。それと、ソ連の背信行為だ。






出典:『私の紅衛兵時代』

大飢饉

1960年から62年にかけての大飢饉
を回想するには、私は不適格だ。
一つには、当時の私が幼すぎたからだ。そして、私は北京に住んでいた。

大飢謹が突然襲ってきたとき、都市に住む肉体労働者は、月の穀物配給量を
14キロに落とされた。子供はたったの6キロから9キロだった。

いまでも私は覚えている。マーケットの周りで野菜の根や葉のクズを拾い集めては、
細かく切り、サツマイモの粉で包んで野菜団子を作った。
両手でそっと持ち上げないと、ばらばらになってしまう。

学校にいた大勢の子供のなかには、休み時間に大豆を五粒もらえるのを
楽しみにしている子もいた。香ばしくなるまで煎ってから、汗が出るほど
手に握り締めて、それから、しょっぱいのを一粒ずつかみしめる。
それでも、足にはむくみが浮いたままだった。

童話は、まるで爆竹のように、面白くて恐ろしいものだった。
なぜなら童話には、いつもお菓子が出てきたからだ。
たまにウドンが食べられるときには、家族の間でも、まず小さな秤(はかり)で
一人ずつ粉の量を計って、それから一人分ずつ作った。

大きな食料品店で取り押さえられた泥棒は、顔面が丸くふくれた死体になった。

北京市の国家機関は、トラックと射撃手を出して、内蒙古の草原で野生の羊を
追い回した。飢餓がなければ殺されなかっただろう血まみれの肉が、
多くの家庭に分配された。経験からいっても、この手の肉はうまくない。しかし、
その時はおいしかった。とにかくうまかった。

河南省では、生産目標で決められた国への売り渡し穀物を確保するために、
武装した民兵が、小さなほうきで農民の米びつの底まできれいに掃き出していた。

さらに
封鎖線を張って、よそへ乞食に出ることを禁止した。
まず木の皮や草の根が食い尽くされ、やがて泥にまで手が出された。

そして、道端や畑、村の中で人々がばたばたと死んでいった。

三千年にわたり文物繁栄を謳われた中原の省に、
無人の地区さえできてしまったのだ。

後になって、後片付けの際、鍋の中からは幼児の腕が見つかった。

餓死の話が、当局の資料に出ることはない。
触れるときは、
「非正常な死亡」という単語が使われる。

わずか数年の間に、この
非正常なまま死んだ人は、
2,000万から3,000万人にのぼった。

オーストラリアの全人口に匹敵する人々が、消えてしまったのだ。
しかし、私たちは何も知らなかった。
知っていた人も、教えようとはしなかった。

なぜこうなったのか?  それは話題にならなかった。

誰の責任なのだろう?  それも話されたことはない。
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