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「倭の国」の外交

Category: 報道  

「三国志」を冷静に見つめた卑弥呼 

「来年は日中国交正常化40周年。国民感情の改善を図っていきたい」。昨年11月、中国を訪れた玄葉光一郎外相は温家宝首相らと会談し、友好関係をアピールした。しかし会談に合わせるかのように、中国艦艇6隻が沖縄沖の公海を航行。硬軟織り交ぜた外交戦略が垣間見えた。

 歴史の節目を迎えた両国関係は、はるか1800年前、日本が倭(わ)と呼ばれていた時代にまでさかのぼる。それは近年の発掘調査で明らかになってきた。

 女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で1年前、卑弥呼の宮殿かと話題を集めた大型建物跡から約3千個の桃の種と、土から桃の花粉を検出。建物周辺に桃の木が植えられ、「桃源郷」をイメージした宮殿だったことが分かった。

 桃は古代、仙人の食べ物とされ、中国の宮殿には桃園があったという。纒向遺跡の大型建物跡も、中国の宮殿を模倣することで威厳を示そうとした可能性が浮上。そこには、卑弥呼のしたたかな国家戦略があったと見ることができる。 


「外交を間違えば国は滅ぶ…女帝は知っていた」 

卑弥呼が活躍した2~3世紀、倭は北部九州と畿内の2大勢力をはじめ、東海や出雲(島根)などが台頭した群雄割拠の時代で、邪馬台国もその一つ。魏志倭人伝では卑弥呼は諸勢力が「共立」した女王とされ、政権基盤は決して盤石ではなかったようだ。

 そこで、卑弥呼が頼ろうとしたのが中国の威光だったと見るのは、近藤喬一・山口大名誉教授(72)=東アジア考古学=だ。当時は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)がしのぎを削り、魏の曹操(そうそう)や蜀の劉備玄徳(りゅうびげんとく)ら英雄が覇を競った。中でも優位にあった魏を、卑弥呼が外交相手に選ぶことは十分あり得た。

 魏に朝貢した「景初3(239)年」は、卑弥呼が東アジア情勢を見極めていたことを示す重要なカギといえる。この前年、中国・遼東半島から朝鮮半島北部の豪族で、倭と中国の交渉窓口だった公孫氏(こうそんし)が魏に反旗を翻して滅ぼされた。

 
 

 「卑弥呼にとって公孫氏の滅亡は決して対岸の火事ではなかった。今度はいつ自分が攻められるか危機感をもったに違いない」と近藤氏。中国に恭順の意を示すため朝貢したのは、公孫氏滅亡の翌年だった。「外交はひとつ間違えば国の存亡にかかわる。卑弥呼はそれを知っていた」

 

■ ■ ■

 

 景初3年は、日本の古墳から出土する銅鏡「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」の銘文に刻まれるなど、邪馬台国ロマンのシンボルだ。魏志倭人伝は、魏が鏡などを下賜して「国中に示せ」としたと記す。政権に不安のあった卑弥呼は、中国皇帝の権威を帯びた鏡を配ることで、国内統治を図ろうとした。三角縁神獣鏡は瀬戸内や日本海側で多く出土しており、大陸への重要な海上ルートを確保した証しともいわれる。

 三角縁神獣鏡は中国で出土していないことから、魏の下賜品ではなく日本製との説もあり、考古学界最大の論争となっている。しかし近藤氏は「倭人伝に詳細に記された鏡が発掘で見つかっている。魏との関係は無視できない」とする。

 東アジア情勢を敏感に察知し、中国の権威を内政に利用した卑弥呼。現在の「弱腰外交」に通じるようにも見えるが、自らの国力と大陸の脅威を冷静に見据えた厳格な政治判断があった。近藤氏は言う。

 「なぜそんなことをしたのか。国を造らなければならなかったからだ」

 

 

 尖閣問題など日本の外交力が問われるなか、連載最終章として外交史を踏まえた国のあり方を考える。 

 


http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120128/wlf12012808000002-n1.htm




日出づる国家の計 「真心」で臨んだ聖徳太子 

聖徳太子の父、用明天皇の宮殿か。奈良県橿原市で昨年12月、6世紀後半の池の堤の上に築かれた大型建物跡が発掘された。池は、古代の天皇が相次いで宮殿を築き、万葉集の舞台にもなった「磐余(いわれ)池」。大型建物跡は、池で催された舟遊びなどを観賞する施設だったという。

 聖徳太子の宮殿は、用明天皇の宮殿の南にあったと日本書紀は記す。幼少期の太子は、池を眺めながら将来を夢みたのだろうか。

 593年、20歳前後の若さで推古天皇を補佐する摂政となった太子が、国造りとともに力を尽くしたのが対中外交だった。

 「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」

 607年、遣隋使(けんずいし)に小野妹子らを派遣し、隋の皇帝、煬帝(ようだい)に国書を渡した。「倭(日本)は日の出の勢いがあり、隋は落日の国」とも読める内容に、煬帝は「蛮夷(ばんい)の書、無礼あり」と激怒。しかし翌年、煬帝は使者を日本に派遣した。

 

「広さ9万平方m」の精神 


理由は緊迫する東アジア情勢だった。隋は朝鮮半島北部の高句麗と緊張状態にあり、倭を味方につけて高句麗を牽制(けんせい)する思惑があったというのが、多くの研究者の見解となっている。

 

■ ■ ■

 

 「それだけではなかったのでは」というのは、聖徳太子が建立した法隆寺(奈良県斑鳩(いかるが)町)の高田良信長老(70)。「文化や国力の面で中国は大先輩。そのうえで、おつきあいをという気持ちで太子は臨んだはず」と推測。「外交は、相手の気持ちをおもんぱかって行うもの。見下した意味はなかった」と話す。仏の教えにひかれた聖徳太子は、外交や政治にも「真心」を用いたという。

 有能な人材を登用する冠位十二階、天皇中心の政治と仏法崇敬を唱えた憲法十七条の制定…。聖徳太子は隋の制度を謙虚に学びながら政治改革を断行した。「外交は人と人。懸命に国造りにお励みになった太子を、隋の皇帝も理解したのだろう」と解説する。 

 邪馬台国以来の呪術(じゅじゅつ)中心の「まつりごと」から、天皇を頂点とした国家へ-。古墳時代、仁徳天皇陵(堺市、全長486メートル)など大規模な古墳を次々に築いた時代から、法と秩序に基づく国家体制へ舵(かじ)を切ったのが聖徳太子の時代だ。それが、外交にとって最も重要なことであったからだ。

 聖徳太子墓(大阪府太子町)にほど近い府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長(73)は「強大な中国王朝を相手にするには、確固たる中央集権国家が必要。聖徳太子の時代から大化改新を経て7世紀末の天武・持統天皇による律令体制確立まで、まさに『国家百年の計』だった」と話す。

 橿原市で発掘された磐余池とみられる範囲は推定で9万平方メートル近く。この広大な池にも国造りの精神があったという。

 「池は水をためるだけではない。中国の宮殿にあるような優れた景観の池を築くことで、国の力と文化の豊かさを示した」と上野誠・奈良大教授(51)=万葉文化論。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(67)=古代史=は「飛鳥時代以前は、日本の国の成り立ちを考える上で重要でありながら、調査が進んでいない。今回の発掘は空白の時代に光をあてるきっかけになった」と話した。 


http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120128/wlf12012817300018-n1.htm 





元、清と同じ「東洋の盟主」目指した豊臣秀吉 

 「朝鮮出兵を秀吉の『妄想』とする根拠を明らかにしてほしい」「朝鮮人・韓国人の主張のみを一方的に展示している」

 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~98年)の拠点となった名護屋(なごや)城跡(佐賀県唐津市)にある県立名護屋城博物館への意見が、県のホームページに寄せられている。

 博物館のコンセプトは「文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を侵略戦争と位置づけ、その反省に立って日本と朝鮮半島との交流の歴史をたどり、今後の交流・友好の推進拠点とする」と総合案内図録で明記する。安永浩学芸員(36)は「戦争というデリケートなものを取り上げる以上、さまざまな意見があるだろうが、偏りなく展示することを心がけている」と話す。

 400年以上前の争いは、時代を超えて日本と朝鮮半島の人々の心に「澱(おり)」のようにとどまり続ける。 


西洋列強のアジア進出に対抗 

「朝鮮出兵は、秀吉がもうろくしておかしくなったとか、愛児・鶴松を失った悲しみを紛らわせるためだったとか言われるが、決してそうではない」と話すのは、大阪城天守閣の北川央(ひろし)研究主幹(50)。

 キリスト教布教で訪れたポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは著書『日本史』で、「織田信長は日本全土を統一後、一大艦隊を編成して中国を征服する考えだった」と記す。朝鮮半島を足がかりに中国を支配する構想は、信長が立て、秀吉は遺志を継承したのだという。

 卑弥呼の時代以来、日本にとって東アジアの盟主は常に中国王朝。その世界観を変えたのが、1543年の鉄砲伝来で始まるポルトガルなどのアジア進出で、西洋の技術や文化に接した日本人は衝撃を受けた。

 西洋というもう一つの世界があることを認識した上で、東洋の盟主になろうとしたのが信長と秀吉の外交戦略ともいえる。北川氏は「秀吉は、かつての元(げん)やのちの清(しん)のように、周辺異民族が中華帝国の主宰者になってもおかしくないと考えた。国内統一はあくまでそのステップ」という。 

 1590年に全国統一した秀吉は翌年、名護屋城築城を指示。大坂城に次ぐ壮大な城郭を築いた。1592年、秀吉軍はわずか数カ月で朝鮮半島のほぼ全域を制圧した。しかしやがて抗戦にあって形勢は逆転。最終的に1598年の秀吉死去を機に撤退した。

 

■ ■ ■

 

 昨年12月18日の日韓首脳会談で、李明博(イ・ミョンバク)大統領が野田佳彦首相に対して強調したのが慰安婦問題だった。「このままではおばあさんの『恨(ハン)』は解かれない」

 朝鮮民族にとっての「恨」は、異民族の侵略や圧政など歴史の中で蓄積された痛恨や悲哀を表現する言葉。現在の外交の難しさを改めて浮かび上がらせた。

 名護屋城博物館の安永氏はいう。「朝鮮出兵は400年以上前のことであっても、近代の植民地時代とどうしても重なる。さまざまな意見があるからこそ対話を続け、侵略拠点として築かれた名護屋城を友好と交流の拠点にしたい」 


http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120128/wlf12012820000020-n1.htm 





 
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