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この史実を歴史教科書に載せよう!

Category: 歴史  

この史実を歴史教科書に載せよう!!!

敗戦直後の日本女性強姦についてはソ連兵が悪名高いが、実際には
朝鮮人によるものがダントツで多い。

「水子の譜(うた)」上坪 隆
----- ドキュメント引揚孤児と女たち -----
http://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60009096&genreid=10010

二日市保養所の資料は、六月十日の報告書
183 ページ "地域別と加害者"
これは、2ヶ月分だけの記録
加害者の6割が朝鮮人だと示しています。

尚、記録に残っているのは堕胎手術を受けた女性だけで、
前途に絶望して帰国船から日本を一目見ただけで身投げ
をした女性もたくさんいました。





敗戦の混乱に乗じて犯罪の限りを尽くした在日韓国・朝鮮人

総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は
21%(1949年)、騒擾のごときは83%(1948年)、
そして密造酒は全密造酒の30%近く(1953,54年)、
ことに覚醒剤の販売量では全量の60~70%を占めるという
有様であった。(1953,54年)

三国人の不法行為
http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm

石原都知事が三国人という言葉を発したため、差別語を使ったとマスコミに叩かれましたが、日本人でも戦勝国民でもないという三国人という言葉に悪いイメージを持たせたのは、戦後の在日コリアン自身にあったのです。

彼らの所業は三国人という言葉とセットになってマスコミに封印されたようですが、おかしなことに日本の過去の悪事を発掘することに熱心な反日マスコミほど三国人の蛮行を封印しているのです。


まずは、戦後日本人の韓国(朝鮮)や韓国(朝鮮)人に対するイメージのおおまかな変化を把握するために、世論調査の結果を概観してみることにする。

表1は、楠弘閣が1939年と1949年に行った「日本人学生」の「諸民族」に対する好悪調査の結果を、鈴木二郎が整理したものである。同調査は、戦前から戦後にかけての朝鮮人イメージの変化をうかがうことのできる貴重な資料であるが、印象的なのは、39年調査で、比較的好感度の高い集団として位置づけられていた朝鮮人が、49年調査では、最も好感度の低い集団に転落しているということである。

なぜなのだろうか。多分、重要なのは、日本人がかつて朝鮮人との間に共有していた運命共同性の消失と戦後の日本社会における在日朝鮮人の行為という二つの要因であろう。「内鮮一体」や「内鮮融和」のスローガンが示すように、39年当時の日本人にとって、朝鮮は「大日本帝国」の版図の一部であり、32年満州国建国、37年日中戦争へと時局が推移する過程で、その国策的要請は高まっていた。
敗戦後、こうした運命共同性が消失した時、朝鮮人に対する眺めが変化したのは当然のことであるが、好感度がかくも急激に下落したのは、終戦直後の在日朝鮮人の行為が日本人の心に植え付けた印象であろう。


三国人という言葉に、ならず者のイメージを植え付けたのは、

日本人の弱り目につけ込んで、不法行為を行ったの朝鮮人自身にある。


連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

『戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。』



朝鮮人の場合は、今までとは打って変わり、戦勝国民となり、治外法権が認められた。それが彼等にとり、どんなに気持ち良かったかは想像に難くない。単に精神面においてのみならず物質面においても、彼らは日本人が住むに家なく、着るに衣なく、飢餓にあえいでいる最中、その特権を利用してあらゆるボロ儲けをすることが出来た。(「戦勝国民となり、治外法権が認められた」は法的根拠がない)


戦前から強かった日本人の在日朝鮮人への悪感情は、第二次大戦直後の経験によって更に強まった。それは、日本人が敗戦の苦悩と屈辱に打ちしおれていたとき、在日朝鮮人による犯罪、不法行為が続発したことであった。もともと戦前から在日朝鮮人の犯罪率は日本人の平均の10倍前後に達し、朝鮮人の住む貧民窟が犯罪の巣であるかのように見なされていた。(中略)

続発した不法行為

総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は21%(1949年)、騒擾のごときは83%(1948年)、そして密造酒は全密造酒の30%近く(1953,54年)、ことに覚醒剤の販売量では全量の60~70%を占めるという有様であった。(1953,54年)

公安調査庁坪井豊吉氏は、終戦後間もない頃の在日朝鮮人の犯罪状況について『法務研究』に次のように書いてある。
『本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは・・・・・帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊(朝連の自衛組織)などの警察類似行為、主食の集団要求や買出し、彼ら同士の派閥抗争などがみられた・・・・・またそれらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、生産管理、人民裁判などであった・・・・・。彼らの不法行為は、敗戦による日本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらと増長され、戦後の混乱をいっそう助長するところとなった・・・・・敗戦の混乱におびえるに日本の一般社会人心は極度に不安な環境におちいり、一時は全く無警察状態が各方面に現出された。彼らの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留外国人の間にまでも、彼らの性格が事大主義で、遵法精神が薄く、感情的で、極端な凶暴性をもっているとの深い印象を植え付けたことだけは、まぎれもない事実のようである。
この時代は、特にその初期は右翼と称される民団、建青などによっても数々の不法行為が敢行されていた・・・・・』



騒擾(そうじょう=不平分子が集まり騒いで社会の秩序を乱すこと 『騒擾罪』 )
民団(在日朝鮮居留民団→大韓民国居留民団)、建青(朝鮮建設促進青年同盟)

成年人口の20%の被検挙者(終戦直後)

朴在一氏も次のように書いている。(「在日朝鮮人に関する総合調査研究」新紀元社 1957年)
『15~59歳の男女人口を犯罪年齢人口とすると、刑法犯、特別法犯の検挙人員は合計3万7276人(1949年)であるから、在日朝鮮人の成年男女の100人のうち、14.4人が検挙されたことになる。外国人登録法違反による被検挙者数まで入れると、この数字はもっと増えて100人当たり20.2人になる。このほかに道路交通法違反による検挙者1万9332人もいる。それ故に大都市警察の留置所が、何時でも朝鮮人で一杯であるという事も否定し得ない悲しむべき事実であろう』

今日ではこのような事態は著しく改善されたが、それでも、全在留外国人の中における韓国・朝鮮人の犯罪の人口比は平均より幾分高いのを常としている。一般犯罪のほかに、韓国人には、密入国者が多数にのぼるのが特徴である。不法人国による年間数千名にもおよぶ検挙者は、一時、長崎県の大村収容所に収容して本国に退去強制となるわけだが、必死の思いで密入国した彼らの抵抗はすさまじく、大村収容所でのトラブルは絶えなかった。


三國人の暴行 <三国人>

 表題の件に付ては既に一通り書き終えた心算であったが、本日郷土、城東葛飾に赴いたところ、偶々老人達が本件を論じてた 中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力有りし故、帰宅早々記憶により再現し、此処に記して御歴々の御参考に資せむとするものである <つもり、たまたま、い、ここ>

                    --- 録取者 北斗星 ---

 終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた <本当、来た、実力>

 銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷臺湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いてゐた 戦勝國民は治外法権だったのである 渋谷、台湾、こまねいて>

 だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、其処へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。日本人は買へなかったが。 <そこ>

 斯うした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商賣を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(流石に銃撃戦は挑まなかった模様) <そうした、商売、さすがに>

 當時は物不足で、賣る方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い <当時、売る、それ>

 警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった <しきり>

(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした) <連絡、枚挙>

 東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった

 當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて行って屠殺した 牛はモウと言って泣いたので皆付いたが、銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった 永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった <ひいて、気>

 斯うして利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘下流へ賣りに來たのだらう <そうして、そのまま>

 斯くて關東から、牛はゐなくなった <かくて、関東>

 家畜相手ならまだしも、人間に對しても、關東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた 川崎、濱松、大阪、神戸などが酷かった <対して、浜松>

 最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集團暴行・傷害事件がある <その、集団>

 翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鐵道員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立てた <軽井沢、鉄道、この>

 で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した <それ、たちまち>

 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に不出來な孫にせよ 孫共はを知らんのだらう <いかに、これ>

 直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ <総理、かくのごとし、いわんや、おいて、ことに、り災>

 其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如きに何が出來よう 或日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、其切り警察は消滅する 七百の大軍を擁した彼の帝國陸海軍ですら、左様にして両總長 両大臣以下、自然廃官になった まこと、敗戦はかなしからずや <ある日、もって、万>

 堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した <たまりかねた、頻発>

 最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った <連合国、ついに>

 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た <中将、ようやく、きらめき>

 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」 <発した、あらず>

と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである

 だから、外國人差別用語なは無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか <はず>

 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い <対日理事会>

 「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない <のっとって>

 近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 眞面目に報道する氣は無いのかの <真実、まじめ>

 貴公、パソコン通信を遣ってなさるさうぢゃが、インターネットとやらは随分と情報を發信出來て、幾百萬の人が見ると聞く 一つ満天下の正義の為に、今の話を發信して下さらんか <やって>

朝鮮総聯の前身団体である「在日朝鮮人連盟」指導部の声明(1946年)

「われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。したがって
 われわれは日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆ
 る方法で日本人に知らせなければならない」

この後、在日朝鮮人を「連合国人」と勝手に位置づけ、日本の法令に
従う必要のないことを公然と主張し、その通り実行した。

戦後、在日韓国・朝鮮人は何をし、何と言ったか
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D35.htm

戦後、在日韓国・朝鮮人は何をし、何と言ったか

 「現代コリア」5月号に「『三国人』は本当に差別語か」と言う記事があり、戦後、在日韓国・朝鮮人が日本で何をし、何と言ったかが報じられていました。日本人として忘れてはならないことだと思いますので、要旨をご紹介いたします。

・・(前略)・・
 「三国人」なる言葉は第二次世界大戦終了後、連合国が1945年10月31日「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」により、朝鮮はそのいずれにも該当しないことから「第三国」(The Third Nations)と呼んだ。
・・(中略)・・
 なぜ日本人が、「第三国人」と言う言葉に蔑視、畏怖、時には「敵意」を込めて使ったのかである。それは敗戦直後の在日韓国・朝鮮人の日本での言動と重大な関係があるからだ。

 現在の総聯の前身団体である「在日朝鮮人連盟」指導部は1946年初頭と推定されるが「われわれは今まで、搾取と奴隷的な差別待遇を受けた。日本の敗戦で開放された現在、われわれは連合国人であるから、敗戦国日本の法令に従う義務はない」「われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。したがってわれわれは日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない」「戦争中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えなければならない」(坪井汕二『在日朝鮮人運動の概況』)と在日朝鮮人を「連合国人」と勝手に位置づけ、日本の法令に従う必要のないことを公然と主張し、その通り実行した。

 1945年9月10日に結成された在日朝鮮人連盟(以下「朝連」と略す)中央準備会は、すぐ「帰国同胞援助」活動に入り、朝連が韓国などに帰国する在日朝鮮人に「帰国証明」を発行、列車・バスの無賃乗車、時には客車の中に「朝鮮人専用」と書き、日本人を乗車させないこともあった。駅長を脅かし、発車した列車を呼び戻したりもした。
・・(中略)・・
 引きつづき、GHQ(連合国総司令部)は同年9月30日「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝連が「地外法権的地位にないこと」を明らかにした。この覚書を見れば分かるように、朝連は、これまで「治外法権」を持っていたのである。
 当時、各地の朝連は、保安隊、自衛隊、警備隊、自治隊などを作り、独自の警察権力類似行為を行っていたりもしていた。
 また、「朝連」の名によって、集団強盗、略奪、殴打暴行、破壊、占拠監禁、人民裁判などが行われた。
・・(中略)・・

 当時日本を占領していたGHQは、200万人の在日朝鮮人を日本から朝鮮本国に帰国させることを基本方針としていた。ところが韓国に帰国してみたが、政治・経済ともに不安・混乱を極め、生活不安などが重なり、その上コレラなども流行して、帰国者は事実上ストップした。日本にいれば「連合国人」「解放国民」としての「自由」があった。いったん帰国した人達が日本に逆流しだした。
 1947年5月2日GHQの命令で「外国人登録令」が在日韓国・朝鮮人などに施行されたのは、日本への密入国、米などの不正受給防止の二つの目的があったのである。
 ・・(中略)・・

 このような具体的な在日韓国・朝鮮人と日本人の社会関係の中で、日本人が「三国人」なる言葉に特別な意味を込めて使用するようになったのである。公然と社会秩序を乱し何事も暴力で解決しようとする在日韓国・朝鮮人の言動に、日本人が、「三国人」は恐いと考えることが「民族差別」というのだろうか。
・・(以下略)・・

 このように主張し、行動した人達が、今になって「日本国籍を失ったのは自分たちの意志ではなかった」とか、「地方公務員に採用しないのは民族差別だ」「地方参政権を与えろ」と要求している厚かましさには、あきれてものが言えません。




アメリカ人が見た戦後の在日朝鮮人

 戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。
 数においては大いに減ったもの、朝鮮人は依然として口喧しい、感情的・徒労的
 集団である。彼らは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとはせず、かえって戦勝
 国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は一般に日本の法律は彼らに適用され得な
 いものとしてアメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。
 そのため国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の
 頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。
 経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。
 1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、
 行われたものである。引き上げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で
 実地しようとするのを妨害した。/たとえこのような事件(朝鮮人の犯罪)で朝鮮人の
 犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に
 与えた影響は依然として甚大なるものがある。朝鮮人の略奪行為が、大部分、下層民の
 日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。
 さらに朝鮮人は日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病も持ち込んだと
 いう事情もあって、この不安を強める実例を提供した。朝鮮人は悪者だという心理が
 時の流れとともに日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由はなにもないのである。

         ハーバード大学教授 エドワード・ワーグナー(朝鮮史)










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