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三船遭難から66年 留萌で慰霊祭「ロシアは謝罪を」

Category: 戦争  

【日露】三船遭難から66年 留萌で慰霊祭「ロシアは謝罪を」[08/22]

【留萌】終戦直後の1945年8月22日、樺太(サハリン)からの引き揚げ船3隻が留萌沖で旧ソ連軍に攻撃され、死者・行方不明者1700人余りを出した三船遭難事件の慰霊祭が21日、留萌市沖見町の了善寺で行われた。

 樺太引揚三船遭難遺族会の主催。遺族や事件の生存者ら約20人が参列した。
同遺族会の永谷保彦会長(82)=札幌市中央区在住=は「ロシア政府はいまだに事実を認めていない。
粘り強く謝罪と補償を求めていく」とあいさつ。参列者は慰霊碑に向かい、手を合わせた。

 攻撃を受けて大破した第二新興丸に乗っていた元軍人の池田外雄さん(86)=砂川市在住=は「事件を思い出すと気の毒な気持ちでいっぱい。事件を風化させてはいけない」と悲痛な表情で話していた。

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/313385.html

三船殉難事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)とは、第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告後)の1945年8月22日北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)がソ連軍潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す[1]三船遭難事件とも呼ばれる[2]


樺太からの引揚げ [編集]

1945年8月15日に、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行った。これに対応しイギリス軍アメリカ軍は即座に戦闘行為を停止したが、8月9日対日参戦したソ連軍は、これを無視し、当時大日本帝国領だった樺太に侵攻した。

ソ連軍の攻撃から避難させるため、大津敏男樺太庁長官は、長官命令で、婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため大泊港の小笠原丸、第二新興丸、泰東丸に分乗させ本土に引き揚げさせようとした[3]

小笠原丸沈没 [編集]

1945年8月20日、引揚船の1隻である逓信省海底ケーブル敷設船小笠原丸が引揚者1,500名ほどを乗せて大泊から稚内に渡った。日本に到着した事や機雷の危険がある事から下船するよう勧めがあったが、列車の混雑などを理由に約700名の乗客を乗せて小樽に向った。その途中の8月22日午前4時20分頃、留萌沖の海上で国籍不明の潜水艦の雷撃により撃沈された。乗員乗客638名が死亡し、生存者は61名だった[4]

第二新興丸大破 [編集]

続いて午前5時13分頃、大泊からの引揚者約3,400名を乗せ小樽へ向っていた特設砲艦第二新興丸(2,700トン)が留萌沖北西33キロの海上で、国籍不明の潜水艦の魚雷が右舷船倉に命中し縦約5m・横約10mの穴があいた。直後に浮上した2隻の潜水艦により銃撃を受け、やむなくこれに応戦した。同艦は1941年に海軍に徴発され特設砲艦として宗谷海峡付近で機雷敷設の任務に就いていた艦であるため12センチ砲4門、25ミリ機関銃の装備があった。戦闘後1隻の潜水艦が潜航した後に大量の重油が浮き上がったのが目撃されており、ある程度の損害を受けたものと思われた。

この攻撃により第二新興丸は船体に大きな損害を受けたが機関に異常はなかったため最寄りの留萌港に入港した。船内で確認された遺体は229体。行方不明者も含めると400名近くが犠牲となった。同艦の反撃によって損傷した1隻の潜水艦はその後、宗谷海峡で沈没したと思われる。事件後、第二新興丸は修理・改装され1966年まで国内で商船として使用され、その後パナマに売却された。

泰東丸沈没 [編集]

同日午前9時52分、同様に大泊からの引揚者を乗せて小樽へ向っていた貨物船泰東丸(880トン)が北海道留萌小平町沖西方25キロの海上において、浮上した国籍不明の潜水艦の砲撃を受ける。同船には武装はなかったため戦時国際法に則り白旗を掲げるも、潜水艦はこれを無視し砲撃は続行され沈没、乗員乗客約780名中、667名が死亡した[2]

1974年から5回にわたり厚生省海上自衛隊に依頼して泰東丸の捜索を行ったが、成果は無く捜索は断念された。事件後遺体が漂着した小平町に「泰東丸の捜索をすすめる会」が出来、1981年に地元の漁船が泰東丸らしい沈船を発見。1982年1983年社団法人全国樺太連盟の調査で、バッテリー、銃弾、茶碗などの泰東丸のものと思われる遺品が引き上げられた。

1983年に、参議院において「泰東丸の捜索と遺骨収集の促進に関する質問主意書」が提出された。これによると「今年の7月から8月にかけて、全国樺太連盟は、泰東丸が沈没したとみられる北海道留萌沖で独自の調査を行った。その結果、泰東丸と思われる船体を発見した。船名の確認までには至らなかったが、機銃弾、時計、バッテリーなど数多くの貴重な遺物を陸上に引きあげ、検討したところ泰東丸であることにほぼ間違いないことを裏づけた」として政府に同船の捜索と遺骨収集を求めた。

これに対し当時の中曽根康弘総理大臣は「泰東丸の捜索に関しては、同船が沈没した海域の沈没船について、1977年7月に厚生省が防衛庁及び地元関係機関の協力を得て綿密な潜水捜索を実施したが、泰東丸であるとの確認ができなかったという経緯がある。現段階では国の事業として再捜索を行うこと、また、民間団体が自主的に行つた捜索事業に国が資金援助することは困難である」としたうえで「沈没船が泰東丸であるとの確認ができれば、今後、残存遺骨の有無の調査等の対策を検討」すると答弁した。

1984年8月5日から北海道や全国樺太連盟の協力を得て厚生省が再調査を行ったが、遺体は発見されず9月28日に調査を打ち切った。

国籍不明の潜水艦 [編集]

上記三船を攻撃した潜水艦について公式には今もって「国籍不明」とされているが、当時樺太にはソ連軍が侵攻していた上、アメリカ海軍イギリス海軍の潜水艦は日本の降伏宣言を受けて国際法に則り軍事活動を停止し、同海域において軍事活動を行っていなかったために、事件直後からソ連の潜水艦であると推測されていた。戦後、当時のソ連海軍の記録から旧ソ連太平洋艦隊第一潜水艦艦隊所属のL-19L-12の2隻の潜水艦が留萌沖付近の海上で作戦行動に就いていた事が判明した。

2007年、樺太の新聞『ソビエツキー・サハリン』の取材でサハリン州公文書館から公開された資料によると、ソ連は樺太に続き北海道北部を占領するため狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていた[5]

この作戦の前哨としてL-19潜水艦(コノネンコ艦長)、L-12潜水艦(シェルガンツェフ艦長)の2隻は上陸予定地である留萌付近海上で偵察と護衛の任務に就いていた。この作戦行動において3隻の船を攻撃、2隻を撃沈したと記録されている。作戦後、L-12潜水艦はウラジオストク軍港に帰還したが、L-19潜水艦は礼文島沖での通信を最後に行方不明となった。旧ソ連軍の公式記録では「L-19潜水艦は1945年8月23日、宗谷海峡にて機雷により沈没、乗員は全員戦死」となっている。樺太南方沖の二丈岩付近で沈没したと思われるが、沈没の原因については第二新興丸と交戦した時の損害とも言われ判然としない。

戦後、帰還したL-12潜水艦の乗員には勲章が与えられ、行方不明となったL-19潜水艦については無視されてきたが、2005年8月にロシア太平洋艦隊による海底調査が行われ、2007年7月に行われた追悼式典において艦長以下の乗員に勲章が授与された。しかし、停戦意思を通達した国の船舶に対しての攻撃や、白旗提示を行った船舶への攻撃を行うなど、国際法や戦時国際法への明らかな違反行為が行われたこともあり、三船攻撃については外務省の事実確認要請にも関わらず、ロシア政府は公式に認めていない。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%88%B9%E6%AE%89%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6





3 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/08/22(月) 18:30:12.32 ID:caOg+bF2
日本も過去のことを根に持つ国だな。
こりゃ中国や韓国を笑えないな。


7 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/08/22(月) 18:39:01.87 ID:/OFyYfGl
謝罪ガー補償ガー。
結局は日本人も韓国人や中国人と同類のアジア人なのさ!
言っていることが全く変わらない。





>>7
平和条約を結んでないことをお忘れなく
これは許してないってことだからね



10 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/08/22(月) 18:41:09.42 ID:xt07I35+
日ソ共同宣言

6 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,千九百四十五年八月九日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国,その団体及び国民の
それぞれ他方の国,その団体及び国民に対するすべての請求権を,相互に,放棄する。





>>3
>>7
日中・日韓の戦後処理は既に終了し、補償についても解決済み。
この件の補償は全く未解決。
なぜなら、
日ソ共同宣言に記されている戦争とは、8/15に終結しているからだ。
戦争が終わった後のソ連の行動で、
に記された戦争行為として認められるのは
8/15以降も降伏しなかった一部日本軍に対する攻撃のみで、
それ以外は単なる虐殺と侵略である。

その違いが分からないということは、
中韓人や在日というのは法治意識が全くないのだなあ



>>3
>>7
ちなみにな、ソ連は日ソ中立条約の満了前に一方的に破棄して
日本に戦争をしかけたのだから、本来ならば戦争と判断していいかどうかは
怪しいところであり、通常の手続きを踏んで開戦となった日中戦争や、
両国政府が同意した上で取り行われた日韓併合よりはるかに悪質なのだ。
それでも日本人は、日ソ共同宣言が成立すると、
記されている条項を守ってそれに該当する件については何の補償も要求していない。
要求したら、日本国が約束したことに国民が違反することになるからな。
中国人の求める謝罪や、韓国人の求める賠償は中国や韓国が国家として約束したことを
国民自らが破っているってことなんだよ。





国際法というマナーを守れない国は 野蛮から脱せない
日本は160年前に気づいたがね
シナチョンロスケは永遠にムリだね
福沢先生の予言は当たり過ぎてる



>>3>>7>>10
バカチョン揃い踏みwww

戦時補償で解決した問題と、戦後に起こった事件の補償を混在するなカス



28 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2011/08/22(月) 19:01:53.26 ID:/OFyYfGl

と言いつつも第三者の視点から見たら中国や韓国と言っていること変わらんわ。
それに平和条約結んでいるアメリカにだって未だに原爆で謝罪や賠償を求めている奴らがいるだろ。
日本を含めたアジア人の文化や習慣的な気持ち悪さは異常。

物事を自己の視点からしか見ていないのが共通。
>>28
×第三者の視点
○マフィア国家の視点




>>28
平和に対する罪等で日本を裁いておいて
自分達が日本国民にやったジェノサイドは正義だって事あるごとに
海外向けに報道するんだから、日本から苦情を言われても当然。

アメリカの主張が通るのなら東京裁判は認められなくなるからw



>2007年、樺太の新聞『ソビエツキー・サハリン』の取材でサハリン州公文書館から公開された資料によると、
>ソ連は樺太に続き北海道北部を占領するため狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていた


スターリンはドサクサにまぎれて北海道まで赤化を目論んでたようだね




と言いますか、ソ連のスターリン政権(当時)は留萌(だったか)から
釧路(だったはず)の線から北側の占領・軍政をソ連に認めるようGHQ
に迫ってましたからね。それが通るか、今度はアメとの戦争を始められる
状態であらば、占領の為に兵を送ったでしょうし、実際に準備もしたかと。
GHQは断りましたけどね。














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