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散った青年たちの潔さを教訓に 連綿と続く武士道精神 あす終戦の日

Category: 日本国民の心得  
散った青年たちの潔さを教訓に 連綿と続く武士道精神 あす終戦の日 特別座談会

2011.8.14

 今年は日米開戦70周年で大正100年でもある。先の大戦に臨んだ兵士の多くは大正生まれで、戦場を生き抜き、戦後は焼け跡から日本を立て直した「復興」の立役者でもある。私たちの前に再び「復興」という重い課題がのしかかっている今、大正世代の証言や生きざまに目を向けるべきではないだろうか。あすは終戦の日。「太平洋戦争 最後の証言」の著者、門田隆将氏の司会で最前線の戦場に臨んだ元兵士が戦争と後世への思いを語った。

門田 今年は日米開戦70周年です。今日は、先の大戦の当事者にお集まりいただきましたが、まず真珠湾攻撃に臨んだ前田さんにうかがいます。真珠湾の攻撃を初めて告げられたのはいつだったのでしょうか。

前田 舞鶴航空隊から転勤で鹿児島に配属されたのは真珠湾攻撃の3カ月前。ここで私は鹿児島湾で超低空から雷撃する訓練を連日続けました。海面わずか10メートルから魚雷を落とす。高度はそれ以上でも以下でもダメという難しい訓練でした。

門田 真珠湾攻撃と知っての訓練だったのですか

前田 まだ誰も真珠湾とは聞かされていません。

門田 原田さんはいつ告げられたのですか

原田 昭和16年11月の終わりです。択捉島の単(ひと)冠(かっぷ)湾に連合艦隊が集結、そこで初めて各艦長らに明かされました。「米国と外交交渉をしておるが、うまくまとまらない場合、攻撃する」と米国との開戦を知らされ、驚きました。

門田 真珠湾攻撃の時、横山さんはどこにおられましたか。

横山 戦艦「日(ひゅう)向(が)」に乗船して小笠原付近にいました。真珠湾攻撃は事前に全く知らず、ラジオで知りました。先の見通しなど全然考えてなかったから特に感慨などなかったですよ。

前田 どこで、何をするとも告げられぬまま出航し、豊後水道を航行していた時です。加賀艦長の岡田次(じ)作(さく)大佐が全員に「ただ今より、本土に別れを告げる」と言われました。その後、単冠湾到着翌日の11月24日、空母「赤城」の作戦室で、真珠湾と初めて知らされました。


門田 どういう思いだったのですか

前田 ウェストバージニアは太平洋艦隊の旗艦です。生きて帰れるとは思っていませんでしたから私には名誉でした。

門田 実際の攻撃はどうでしたか。

前田 そりゃ人間ですから、自分たちの魚雷が命中した瞬間、思わず声が出た。空母・加賀に帰還した時、無事任務が終わった安堵と生きて帰れた、何ともいえない感慨がこみ上げましたよ。

 ところで私達は午前8時前の攻撃を禁じられていました。外務省が宣戦布告する時間まで待って攻撃したのです。が、肝心の外務省がそれをしていなかった。戦後、真珠湾はだまし討ちだと耳にするたびに悔しい思いを味わいましたねえ。それは今でも変わらないです。


痛恨のミッドウェー


門田 お二人はミッドウェーの戦いにも臨んでますね。

原田 昭和17年6月5日朝、上空哨(しょう)戒(かい)から着艦した時、敵の雷撃機が来襲してきた。すぐに迎撃し、次々撃ち落としました。激しい戦いでしたが、雷撃機をほぼ全滅させたのです。

 ところが、急降下爆撃機のドーントレスが背後に迫っていることに気づかなかった。それで甚大な被害を受けてしまった。こっちは目前の敵に必死でしょう。全体を見て艦から統率して指示を出すシステムがなかった。全ての狂いはここから始まっている。

前田 索(さく)敵(てき)の怠慢以外の何物でもない。巡洋艦から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機が発艦から1時間後、ドーントレスに遭遇して撃ち合いをしていたのです。当然、先には敵空母がいる。なのに、大尉はこれを報告せず、雲の上を飛んで、空母も発見しなかった。致命的なミスでした。ところが、責任は利根から発艦した索敵機のせいにされた。

 発艦が遅れた索敵機は敵空母を発見してそれを報告したが、これが「発見が遅れた」と敗北の責任を背負わされてしまったのです。こちらは、海兵出ではなく、予科練の甲飛二期の機長だったからでしょう。終戦後、この機長の墓参りに行った時、彼の墓石に刻まれた名前が削り取られていました。何とも哀れで、一方、本当のミスをした大尉は不問に付され、戦後も自衛隊で出世を遂げたのです。



瀕死の負傷のなかで


門田 着艦すべき空母が次々やられ、原田さんは海に不時着したのですか

原田 空母がやられても、まだ巡洋艦や駆逐艦が残っているので、私も上空哨戒を続行し、必死で戦いました。こっちで飛んでいるのは私だけで、燃料が切れるまで飛び、駆逐艦脇の海面に着水したのですが、そこを敵機に攻撃され、救助の駆逐艦が逃げてしまった。

門田 救助されたのはいつだったのですか。

原田 なかなか来てくれなかった。フカは自分より大きなものはかじらないというから、首のマフラーを足に縛り付けてみた。もうダメと思って家内や子供のことが思い浮かびました。でも、それを過ぎて、もう死ぬしかない、と思いました。マフラーも外したが、今度はフカがなかなか来ない。そのうち静かで穏やかな気持ちになっていくのです。やるだけやった。もういい、という諦めですね。

門田 諦めですか。

原田 実は私は飛行機に乗るまでとても臆病で死が怖かった。死に直面した時の苦しみを何とか取り除けないかと高僧に意見を求めたこともあった。

 そのとき「あれこれ悩んでもつまらない。死ぬとき誰でも多少の苦しみはある。でも、いよいよその時には案外穏やかになれる。諦めがあれば、人間は静かに穏やかに死ねる。だから兵隊さん、心配はいらない」と言われたのです。その言葉の意味がその時、わかったような気がしたのです。

前田 加賀の艦上にいた私もドーントレスの爆撃で左の膝の上をえぐられる負傷を負いました。足が吹っ飛んだ感じでした。救助を受けるためにいったん海に落とされ、海から駆逐艦に移ろうとした。でも敵の攻撃でできない。私もただ海を漂うだけでした。手ぬぐいで傷をしっかり縛って止血したのが幸いして3時間後に引き上げられ、命は取り留めました。


運命共同体のなかで


門田 横山さんは特攻が始まった時の指揮官の一人ですね。昭和19年10月に特攻命令を聞かされたのは大西瀧(たき)治(じ)郎(ろう)中将からですか。


横山 いや、フィリピンのマバラカット基地で私は201空の玉井浅一副長から言われました。大西さんがやってきたので、玉井さんともう一人の飛行隊長の指宿(正信)さんと私が呼ばれますが、特攻の相談は大西中将から私にはなかった。私は後で聞かされ、4隊ある飛行隊から1人ずつ出すように言われたのです。

 命令なので1人選ばねばならない。が、考えてみると、1人選べば済む話ではなかろう、その先は自分もその1人になるだろうし、ならなくてはいけない。そう考えて選んだのです。

門田 どう選びましたか。

横山 知らない人間を選ぶわけにはいかない。実力を備えて一番よく知っている隊員でなければならない。それで大黒繁男という上飛兵を選んだのです。大黒はずっと私の二番機でついてきた若い優秀なパイロットでした。

 彼にはその日の夜、告げました。私の部屋に彼を呼び、お前がまず行けといった。大黒は、淡々と「わかりました」と答えました。

門田 横山さんは当時、特攻と異なる攻撃方法を考えていたそうですね…。

横山 特攻が始まる前の昭和19年、爆弾を落とすさい、いかに被害を少なくするかを研究していました。それで、斜め45度からの爆撃ではなく、敵艦の真上から自分の機が裏上(うらうえ)になって真っ逆さまに降り、ちょうど垂直になった時に爆弾を落とすという攻撃法を研究し、特攻が始まる直前、実際に敵艦隊を攻撃して成功しました。しかし、「(その作戦に)まわす飛行機はない」と採用はされなかった。惜しかったが、戦況が戦況だし、飛行機がないといわれれば仕方ないですな。

 私は大黒を指名したあと、ミンダナオ島のダバオ基地に飛び、今度はそこで特攻隊を出しました。しかし、1時間飛んで敵が見つからなければ帰って来いと私は言いました。燃料は2時間分しか入れてないですからね。もしかしたら、そう言ったのは私だけだったかもしれません。



日本人としての戦い


門田 太平洋戦争とは大正生まれの青年たちの戦争でした。自分の家族や祖国を守るために、命を捨ててそれを貫きました。そういう毅然とした生き方や精神はどこから生まれたのでしょう。

原田 それは、私は武士道だと思っていますよ。やはり連綿とつづいてきた武士道の精神が日本人には残っていたと思います。

門田 横山さんは今、特攻にどういう感情をお持ちですか。

横山 なかなか難しい質問ですね。特攻を考えるのは戦争そのものを考えることでもある。戦争には必ず勝つか負けるかが生まれるわけですよ。ところが計画した人は負けることに目を向けたがらない。劣勢時にどう収めるか。常に立案者はそれを考えなければならなかった。そういう反省は随所にありますよ。

原田 私は日本国民のプライドの問題だったと思うのです。特攻で自分の身体を国のために犠牲にすることを誇りに思っていたと思う。大西中将は部下を殺すつもりで好きで特攻を始めたのではない。彼も負けるとわかっていたと思う。結局、特攻の犠牲を通じて早く終戦を模索するつもりだったのではないか。

 ただ、プライドは自信過剰に陥る危険をはらんでいる。例えば、山本五(い)十(そ)六(ろく)長官が近(この)衛(え)文(ふみ)麿(まろ)首相に聞かれ、「半年くらいなら暴れてみせる」と言ったと記録に残っている。最後は負けるとわかっていても、やはり連合艦隊の司令長官として「戦えない」とは断じて言えなかったわけです。何とかする、何とかしようという気持ちと責任感、そしてプライドが、それを言わさなかったのだと思います。

門田 それはプライドに基づく倫理的な言動ではあるが、一面、大きな危険を秘めているということではないでしょうか。

横山 ご聖断にも通じます。なぜもっと早く停戦できなかったのか、という見方もあるが、それまで誰も言いきらんかったのですよ。

前田 2年で戦争遂行のための燃料が枯渇することは初めからわかっていた。しかし、それでも戦争を始めてしまった。南方の資源を手に入れれば、と戦争が長引いてしまったのだが、それぞれの立場、それぞれの時期で判断を下す場面はいくらでもあったと思う。だが、それを誰も言わない。これは日本人の悪しき面でもある。同時に、それが日本人らしいところでもあって、難しいですよ。

門田 確かにこれは今にも通じますね。あの時言うべきだった、という光景は今でも日本の至るところに存在する。しかも、先の大戦では、それを潔い大正世代の若者が黙々と戦場で実行し、多くの戦死者を生みました。その無念の思いや生きざまを現代の人間がもっとくみとって、これからの教訓としなければならないのではないでしょうか。


 【門田隆将氏の略歴】ジャーナリスト。高知県生まれ。著書に「なぜ君は絶望と闘えたのか」(新潮文庫)「甲子園への遺言」(講談社文庫)など。「この命、義に捧ぐ」(集英社)で第19回山本七平賞を受賞し今月、「太平洋戦争 最後の証言」(小学館)を上梓(じょうし)


 【横山岳夫氏の略歴】山口県出身。海兵67期。特攻第1号の「敷島隊」のメンバーを指名した飛行隊長の一人。94歳


 【原田要氏の略歴】長野県出身。真珠湾・ミッドウェー・ガダルカナル等々でも零戦パイロットとして激闘を演じ、何度も九死に一生を得て生き残った。95歳


 【前田武氏の略歴】福井県出身。真珠湾攻撃では空母加賀の雷撃機隊の隊員。ミッドウェーの戦いで瀕死の負傷を負った

。90歳


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110814/plc11081411000004-n1.htm




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