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ゴッホにとっての日本のイメージ

Category: ブログ  

ゴッホにとっての日本のイメージ


その時の印象を到着早々テオに書き送った手紙があります。それによると


まるで日本人の画家達が描いた冬景色のようだった。


書簡463)


更に3月にはベルナール宛てに


日本のように美しく見えることから始めたい。

水が風景の中に美しいエメラルドと豊かな青となって、まるで浮世絵(クレホン)の中でみるようだ。

地面の色を青く見せる淡いオレンジ色の日没。素晴らしい黄色い太陽。


(書簡B2)


実際、アルルの美しい景色はゴッホの制作意欲に強い刺激を与えるのでしたが、

彼が南仏の風物の中に日本的なものを見出し、やがて南仏すなわち日本、という図式を作り上げてゆく。

みたこともない東洋の国を南仏と結びつけてゆくにはゴッホ特有の強引な理論でしかなかった。

その想いは1886年6月にテオへ宛てた手紙に顕著に出ている。


日本の絵を愛し、影響を受け、印象派の画家はすべて共通にこの影響を受けているのに、

日本に、つまり日本と等しい南仏に行かないとしたら?僕はつまるところ、

新しい芸術の未来は、南仏にあると思っている。


(書簡500)


彼は、日本すなわち南仏であることを前提として、日本に影響受けた者はすべて、

新しい芸術のために南仏へ行くべきだと説いている。
ゴッホは誰に聞いたのかは謎であるが、「日本人の芸術家達は作品を交換しあった」という

習慣があったと思い込むようになった。

ゴッホはやがて「作品の交換」を「日本の芸術家の習慣」と高く評価し、その想いは強くなる一方であった。

1888年6月テオに宛てた手紙で


その神経がわれわれよりも繊細で、感情が素朴であるからだ


(書簡500)、


僕は日本人が何をやっても極めて正確に行うのを凄まじく思う。

それは決して退屈な感じを与えず、決して大急ぎでやったようにも見えない。

彼らは息をするのと同じくらい簡単で、狂いのない二、三本の線で同じように楽々と人物を描いてしまう。

まるでチョッキのボタンをはずすかのようだ。


(書簡542)


この狂いのない線こそ、彼が素早さを通じて獲得しようとしたものなのです。
ゴッホの考えはしかし先進的なものではなく、1880年頃には印象派世代の画家、

マネ、モネ、ドガ、ロートレック、ゴーギャン、ベルナール、アンクタンらもそれぞれに

日本を意識した新しい作品をすでに発表していた。

彼らは表現手法を追求して行くが、ゴッホは精神的なことを追求し始める、

そして収得したのは、稲妻のように素早くデッサンする事であり、そしてそこに色彩をのせていくことであった。


決定的に彼らとは違った表現になっていく技法があった。

空間を二次元的に表現しようとすることが当たり前だったヨーロッパで、

ゴッホは鳥俯瞰図の手法を使い始めた。
当時鳥俯瞰図は、軍事的な表現、地図の表現で用いていたが、

絵画に取り込んだのはゴッホが初めてであった。

その代表作が、サンレミで表現したゴッホの部屋とアリスカンなのです。
ゴッホのあの耳切り事件以降ゴーギャンとの決別、彼が築きあげようとした暮らし、

日本人のように自然に親しみ、日本人のように作品を交換しあい、

日本の浮世絵のような作品を作る暮らしが、崩れ去ったことで、

もはや行く場所も戻る場所もなく追いつめられてしまう。


そもそもアルルにゴッホがやってきたのは南仏の光に憧れてであったし、

パリでの生活に疲れきった身心を癒すためであった。

物をくっきりと浮き上がらせる澄んだ空気、光のもとで鮮やかな色彩、

豊かな自然、善良な人々、欠けているのはただ彼の芸術を理解してくれる友人だけだった。

ゴーギャンが来てくれることになってゴッホのアルル時代、とりわけ病状悪化での発作以前には、

彼は希望があり、平穏で、すべて明るい方向を示していた。

事件後アルル市民から危険な狂人として告発された彼は、

自分の狂気を背負いつつサンレミの病院へ行くことになる。

彼はこれ以降より精神的な物を強く求め、うねるようなタッチは不安と抑えられた情熱を表し、

色彩は透明さを失い内容は遙かに象徴的になっていく。

そして彼の書簡からはその後、日本という言葉が出なくなっていくのでした。

http://gogh.jp/mandara/003.html



「日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ」

と断言するゴッホ。日本人と日本絵画の最高の理解者だ。

「日本人は素描をするのが速い、非常に速い、まるで稲妻のようだ、

それは神経がこまかく、感覚が素直なためだ」

北斎広重を筆頭とする浮世絵画家のスケッチ力に感嘆したゴッホの賛歌は、宗教にまで及ぶ。

「日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出合う。

彼は歳月をどう過しているのだろう。

地球と月との距離を研究しているのか、いやそうではない。

ビスマルクの政策を研究しているのか、いやそうでもない。

彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。


ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つ

ぎには季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、

人間の顔を描けるようにさせるのだ。

こうして彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。

いいかね、彼らみずからが花のように、

自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、

真の宗教とも言えるものではないだろうか。

日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。

われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、

もっと自然に帰らなければいけないのだ」

近代科学よりも政治よりも勉強よりも仕事よりも大切なもの。十九世紀に生きたゴッホは、

これを日本人の絵から学んだ。二十一世紀の私たちはゴッホの絵からも学ぶことができる。


http://www.geocities.jp/kakejiotto/bravo/0068.html




印象派画家の中でもとりわけ強

くジャポニスムの影響を受けた画家が、かのフィンセント・ファン・ゴッホです。
日本の浮世絵に傾倒し、貧しい生活の中でも500点近くもの浮世絵を収集するほどの熱心さでした。
そのゴッホの浮世絵コレクションを手助けしたのが、パリの画商で働いていた実弟のテオです。
ゴッホは生前、この弟テオをはじめ、妹や友人たちと頻繁に手紙のやりとりをしていました。


これらの書簡はいまも大切に保管されていて、

当時のゴッホの生活ぶりや思想を詳しく知るための貴重な資料となっています。

ゴッホにとってのジャポニスムが一体どのようなものであったのかを追ってみたいと思います。


ゴッホの書簡は、彼が19歳のハーグ時代から始まって、

亡くなる直前の1890年まで、膨大な数が残されているのですが、

ここでは彼が亡くなる2年前、ジャポニスムに深く傾倒していた1888年のものを中心にご紹介したいと思います。
ちょうど、彼が日本にあこがれて南フランスのアルルに移住した頃になります。

ゴッホの書簡(1)

■フィンセントからベルナール宛ての手紙(1888年3月18日)

親愛なベルナール
君に便りする約束をしたので、まず、この地方が空気の透明さと

明るい色彩の効果のため僕には日本のように美しく見えるということから始めたい。
水が風景のなかで美しいエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、

まるで日本版画(クレポン)のなかで見るのと同じような感じだ。
…中略…
おそらく、太陽と色彩を愛する多くの画家にとって南仏に移住すれば実際の利点はあるはずだ。もし、日本人が彼らの国で進歩しつつあるのでないとすれば、

彼らの芸術がフランスで継続されることは確かだ。

親交のあった画家、エミール・ベルナールに宛てた手紙です。
クレポンという言葉がでてきますが、これはいわゆる「縮緬(ちりめん)絵」のことです。
布地のちりめんのようにクシャクシャとした細かいしわ加工を施した浮世絵のことで、幕末頃によく流行りましたが、製作にはとても手間がかかるのと技術的な伝承がなされなかったため、日本でもごく最近まで再現不可能な失われた技術とされてきました。(詳しくは
「浮世絵入門/縮緬絵」をご覧ください。)
手紙の中でゴッホは、アルルの風景が浮世絵のように美しく、まるで日本にいるかのような幸せを感じていることを伝えています。

■ファン・ゴッホから弟テオ宛の手紙(1888年6月5日)

たとえよそより高くつくとしても、南仏にとどまろうというのは-ねえ、そうだろう、

みんな日本の絵が好きで、その影響を受けている-これは印象派画家ならみんな同じこと、

それなのに日本へ、つまり日本に相当する南仏へ行こうとしないだろうか。

だから、なんといっても未来の芸術はやはり南仏にあると僕は思う。

ただ、二人もしくは三人で助け合って安く暮らせるのに、一人でここに住むのはまずいやり方だ。
君がここでしばらく過ごすといいのだが、そうすれば、

このことがよくわかるだろう。しばらくすると見え方が変わり、

もっと日本的な目で見るようになり、色も違った感じがしてくる。

また、僕はここに長く滞在することによって

まさしく自分の個性が引き出されてくるだろうという確信も持っている。

日本人は素早く、稲妻のように実に素早く素描する。

それはその神経がいっそう細やかで、その感情がいっそう素朴だということだ。

弟テオに宛てた手紙でも、やはり南仏アルルのすばらしさを伝えていますね。
日本に行きたくて行きたくて…でも、とてもそんな経済的余裕はありません。
そこで、日本によく似た風景の南仏アルルに移住することで、日本を擬似体験しようと考えたわけです。
いまの彼にとっては、ここアルルこそが「日本」なのですね。

手紙からは、日本によく似た環境に身を置くことによって、感性までも日本人に近づけようと努力している様子が伺えます。


ゴッホの書簡(2)

■ファン・ゴッホからベルナール宛ての手紙(1888年6月6日~11日)

もっと楽しいモティーフを取り上げることにして、

この同じ青い空とオレンジ色の土地の素朴な風景のなかに、

黒と白の市松模様のワンピースを着た女性を置いてみよう。

想像してみるとかなりおもしろい眺めだろう。ちょうどこのように、

アルルでは白と黒の市松模様をみんなよく着ている。
黒と白もまた色彩であると言うだけで十分だ。多くの場合、

黒と白は色彩と考えることができるし、

二つを並置した対照は例えば緑と赤の対照と同じように刺激的だからだ。
それに日本人だってこれらを使っている。

彼らは若い娘のつやのない、青白い顔色、

そして黒い髪の鋭い対照を白い紙とペンの四本の線描で驚くほどみごとに表現している。
それにまた、無数の白い花を星のようにちりばめた黒い茨の潅木の絵だってある。

■ファン・ゴッホから弟テオ宛ての手紙(1888年7月25日ごろ)

ところで、君は「mousmé(ムスメ)」が何のことか知っているかな

(ロティの『お菊さん』を読んでいればわかるのだが)、僕はそれを一枚描いたところだ。
…中略…
ムスメというのは十二歳から十四歳の日本の

-今度の場合はプロヴァンスだが-少女のことだ。

これで手元にある人物画はズワーヴ兵のと彼女のとで二点になる。

Portrait of a mousmé

このとき描かれたのが「Portrait of a mousmé」です。
彼はピエール・ロティの小説「お菊さん(Madame Chrysanthème)」に登場する「ムスメ」の説明と

その挿絵に興味を持ち、この絵を描いたようです。
手紙の中で触れられているmousméについて、ロティは小説の中で


‘Mousmé is a word for a girl or a very young woman.It is one of the most appealing words in Japanese, for it contains suggestions of moue(the sweet,funny littlt moue they have), and above all frimousse(than impish little face of theirs)’


と説明しています。
ロティは1885年に日本を訪れており、「お菊さん」での、ロティ自身が体験した日本のリアルな描写にゴッホはとても興味を抱いていたようです。おそらくこの本を通して日本を間接的に体験していたのでしょう。
この「ムスメ」以外にも、本の挿絵に登場する僧侶のイラストにヒントを得て、後で登場する

「Self-portrait as a bonze」という自画像を描いています。


ゴッホの書簡(3)

■ファン・ゴッホから妹ヴィル宛ての手紙(1888年9月9日と16日)

テオは君に日本版画をあげたと手紙に書いてきた。

それはたしかに現に色鮮やかな明るい絵画がどういう方向をとったか、

それを理解できるようになる実際的方法だ。
僕の方はここでは日本の作品は必要ない。というのも、

僕はここで日本にいるのだ、といつもそう思っているからだ。
(中略)
僕はまた習作として新しい自画像を描いたが、この絵では僕は日本人のように見える。
(中略)
君も今ではふだん日本の作品を眺めていれば、

自分でも花束を作ったり、花の仕事をしたりするのがなおさら好きになるのがわかるだろう。

ゴッホのジャポニスムが他の印象派画家のそれと最も異なる点は、ただ単に浮世絵の技術を学ぼうとしただけでなく、その背景にある日本人の精神的な世界への興味と憧憬が強いことです。
次のテオ宛の手紙にもそうした傾向が読み取れます。


■ファン・ゴッホから弟テオ宛ての手紙(1888年9月24日)

ビングの複製図版のなかで、僕は『一茎の草』と『ナデシコ』の素描、

そして北斎がすばらしいと思う。

しかし、人が何と言おうと、平板な色調で彩色された、

ごく普通のクレポン(縮緬絵)が僕にとってはリュベンスや

ヴェロネーゼと同じ理由ですばらしい。

(中略)


日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、達観していて、知性の優れた人物に出会う。
彼は何をして時を過ごすのか。地球と月の距離を研究しているのか。


違う。


彼が研究するのはたった一茎の草だ。
しかし、この一茎の草がやがては彼にありとあらゆる植物を、

ついで四季を、風景の大きな景観を、最後に動物、そして人物を素描させることとなる。


彼はそのようにして人生を過ごすが、すべてを描くには人生はあまりに短い。
そう、これこそ--かくも単純で、あたかも己れ自身が花であるかのごとく

自然のなかに生きるこれらの日本人がわれわれに教えてくれることこそ

もうほとんど新しい宗教ではあるまいか。


もっと大いに陽気になり、もっと幸福になり、

因襲の世界でのわれわれの教育や仕事に逆らって

自分たちを自然へと立ち返らせることをせずに、

日本の芸術を研究することはできないように思われる。

この手紙にはまさにゴッホにとってのジャポニスムが凝縮されていると思います。


芸術とは何か。芸術を通して人は何を学ぶべきなのか。
浮世絵を単純に一枚の絵として見るのではなく、その背景に広がる日本人の自然観、

世界観を深く洞察することで、「芸術とは何か(どうあるべきか)」という根本的なテーマについての

ひとつの回答を示してくれるものなのだと。


まさにそれこそが日本芸術を研究することの真の目的であり、芸術が

「人生を豊かに、幸せにしてくれる」ものであることの実証でもある、と考えているわけです。


また彼は、日本人の自然に対する観察力についても触れていますが、

これはゴッホだけでなく印象派画家の多くが同様な感想を述べていて、

こうした日本人の自然観の影響を受けて、それまで草木などに目を向けなかった

印象派画家たちもアトリエから屋外に出て木や花などを描くようになったのです。

いまでこそ屋外で自然や風景をスケッチするのは不思議でもなんでもない行為ですが、

ヨーロッパ人にとってはたいへんなカルチャーショックだったわけです。


他にも面白いのは、印象派画家たちが、北斎などがカエルや昆虫などの小動物の

デッサンを描いていることにとても驚いていることです。
なぜ彼らが驚いたのかというと、彼ら西洋人にとっては絵画の描写対象になる動物といえば、

馬などの大型動物だけであって、小型の動物や昆虫などは「下等なもの」として描く興味対象にはならない、

という考え方なのです。


だから、虫や蝶などが描かれた浮世絵を見ると「なんと!昆虫を描いているぞ!」と、

びっくりするのだそうです。


われわれ日本人の、大小問わず万物には等しく魂が宿っている

(非生物にまで)とする考え方からすると、なんだか自然界に勝手に等級や序列をつけているみたいで

不思議な感じですよね。


これが宗教的なものなのか、あるいは文化的なものに起因するものなのかはよく分かりませんが。

よく日本人の捕鯨文化が海外で槍玉に挙げられますが、

彼ら西洋人は基本的に大型動物に対しては畏敬の念を表し、

小形動物などは一段低く見下す文化が根底にあるように思われます。


どうもこのあたりは日本人の我々からすると違和感を感じるというか、

自然界に対する意識の根本的なズレみたいなものを感じますね。


ゴッホの書簡(4)

■ファン・ゴッホからゴーギャンへの手紙(1888年10月3日)

僕は全体が灰白色の自画像を描いた。

この灰白色はヴェロネーズグリーンと鉛丹オレンジをまぜて得られたもので、

淡いヴェロネーズグリーンの背景の上にあって赤褐色の服とすっかり調和している。
しかし、僕もまた自分の個性を誇張して、むしろ永遠の仏陀の素朴な崇拝者である

坊主の特徴を追い求めた。
(中略)
ベルナールの話によると、彼とモレとラヴァルともう一人が僕と絵の交換をしたいとのこと。
僕は実際芸術家たちの間での交換方式を原則上大いに支持する立場だ。

というのも、これが日本の画家たちの生活のなかで

重要な位置を占めていることを知っているからだ。

このとき描かれたのがこの自画像で、

「ムスメ」の時に触れたピエール・ロティの「お菊さん」の挿絵に触発されたものです。

Self-portrait as a bonze

ゴッホは、日本の浮世絵師たちが互いの作品に刺激を受けたり、共同制作していることを知って、

われわれ印象派も日本のアーティストたちのように共同制作をやるべきだと、

友人のゴーギャンをアルルに誘います。


この手紙からしばらく経った10月23日、ゴーギャンはゴッホの誘いに応え、

南仏を訪れて共同生活を始めます。

しかし長くは続かず、2ヵ月後、お互いの意見の衝突から、

ゴッホは発作的に自分の耳を切り落とすという事件を起こし、

限界を感じたゴーギャンはゴッホの元を去ってしまいます。
事件の後、ゴッホは耳に包帯を巻いた自画像を描いています。


(詳しくはゴッホの浮世絵コレクションのコーナーで)


このゴーギャンとの決裂あたりからゴッホの人生の歯車が狂い始めます。
しだいに妄想や幻聴に苦しめられるようになり、翌1889年2月には精神病院に収容されてしまうのです。
あれだけ夢中だった日本のことも手紙の文面から消え、

かわって自身の病状のことばかり綴られるようになります。


1890年5月には精神病院を退院し、パリに住む弟テオを尋ねるまでに回復するのですが、

残念なことに同年7月、拳銃自殺という悲惨な最期で人生の幕を閉じます。

そして兄ゴッホを陰から支え続けた弟テオも、まるで兄の後を追うかのように、

その半年後に亡くなってしまうのです。


*

ゴッホたち兄弟の死後、意外な活躍を見せたのが、テオの妻のヨーでした。
ゴッホに続いて最愛の夫を失うという悲劇に見舞われながらも、決してくじけることなく、

もしテオが生きていればおそらく彼がやったであろうことを、

ヨーはひとりその遺志を継ぐかのように尽力しました。


彼らの手紙やゴッホの作品を管理しつつ、

書簡集を出版したり展覧会を開いたりして精力的に世間に紹介して回ったのです。
こうした彼女の努力の積み重ねにより、ゴッホの評価は次第に高まっていきました。
おそらく、ヨーのこの努力がなければ、ゴッホは今日これほど世界に知られてはいなかったでしょう。
数多ある「無名の貧乏画家」として、世間からすぐに忘れ去られていたのではないかと思います。


花咲くアーモンドの枝

ゴッホが自殺する半年ほど前、テオとヨーに息子が誕生していました。

ゴッホはわがことのように喜び、彼らの子供のために「花咲くアーモンドの枝」を描きます。


テオ夫妻は、生まれた息子にフィンセントと名づけました。

そう、ゴッホと同じフィンセントの名を、テオとヨーは誇りを持って息子に名づけたのです。

たとえ世間がゴッホを認めなくても、彼ら夫婦だけはゴッホを心から支持し、応援しつづけたのです。
その支援は、ゴッホとテオが世を去った後も、遺志を継いだヨーと息子によって諦めることなく続けられました。

やがてその努力は実を結びます。


1973年、ゴッホの作品や収集した浮世絵を収蔵する目的で、

オランダ・アムステルダムに「ゴッホ美術館」が建設されることになりました。
ゴッホ、テオ、ヨー、三人の夢の集大成ともいえるこの美術館設立にあたって、

中心となって働きかけたのは、当時80歳を過ぎた、

テオとヨーの息子である二代目フィンセントその人だったのです。


http://ukiyoe.wafusozai.com/archives/38



ここではその書簡を頼りに、
………日本人が、稲妻のように素早くデッサンするのは、
多少金がよけいにかかっても南仏に残りたいわけは、以下の通りなのだ。
君に便りする約束をしたので、まずこの土地が、空気の透明なことと明るい色彩効果のために、
………雪と同じくらいの輝きをもった空を背景に白い山脈をみた雪景色は、
1888年2月ゴッホはパリを離れ、新天地を目指すのです。
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