FC2ブログ

今日ボクが見た風景

「朝日新聞社版 『中国が動く』

Category: 中国  

だいぶ前、週刊新潮が「朝日新聞社版『中国が動く』(ピューリッツァ賞授賞)から削除された
中国文革 地獄の人食い」という記事を書いていた。書名は確か、そういう本だったと思う。
同書では、文革を生き延びた中国人女性の証言を基に、その実態が中国人同士の凄惨な
友食いであった事実を暴露。ところが、日本での独占出版権を得た親中国の朝日新聞社は、
同書の最も重要な部分であるカニバリズム・シーンを読者に無断で削除していて、それを
週刊新潮が告発。そして、削除されたある都市での生々しいシーンを掲載していた。
同誌の問い合わせに対して、訳者で中国史専門の東大教授が、「中国には古代から
カニバリズムの風習があったんです。中国では一般庶民も豚肉や鶏肉を食べるような感覚で
人肉を食べていたんです。そのような風習は、中国が清朝末から中国革命を経て近代化して
いく過程でいったんは消滅したはずだったんです。ところが文化大革命という異常なムードの
中で一気に復活してしまったんです。このようなカニバリズムは、○○市だけでなく、
文革当時、中国全土いたるところで行われていたんです。しかし、『中国が動く』に描かれた
カニバリズム・シーンはあまりにも恐ろしすぎて、その内容に確信が持てなかったんです。
だから削除したんです。」というようなことを語っていた。
そして、同誌は、「2千万人が殺されたといわれる中国プロレタリア文化大革命。その実態は
中国人同士の凄惨な友食いだったのである。」と結論付けていた。
岩波書店もジョンストンの『紫禁城の黄昏』で、最初の十章など、日本に都合のいい部分は
読者に無断で削除している。
ほんと、日本の左翼メディアはろくでもない。


もう一つの主題は食人事件である。映画「古井戸」で農村の水争いをテーマに、現代中国の
したたかな古さを描いた作家鄭義は、天安門事件後、地下に潜行した。中国各地で三年間
逃亡生活を送ったのち、九二年三月妻北明とともに九三年一月アメリカに亡命した。亡命後に
出版した二冊は中国社会主義の無残を描ききって余すところがない。一冊は『歴史の一部分:
永遠に投函できない一一通の手紙』(台北、万象図書股有限公司、一九九三年三月)、
もう一冊は『紅色紀年碑』(台北、華視文化公司、一九九三年七月)である。前者は逃亡者
たる著者が身代わりとして囚われた妻に宛てる形で書いた一一通の書簡体風エッセイ集で
ある。藤井省三監訳『中国の地の底で』(朝日新聞社、一九九三年一〇月)は、原書の
約六割を訳出したもの。鄭義は文化大革命を「支配者の文革」と「民衆の文革」に分ける。
毛沢東が権力闘争のために人民を利用したことが前者であるが、このとき人民もまた毛沢東
の権威を利用して、それぞれの造反を行なった。藤井は鄭義の「二つの文革」論に依拠して、
ベストセラー『ワイルド・スワン』(張戎の自伝、講談社)は毛沢東による人民の利用のみを
強調した通俗文革論だ。張承志による回想『紅衛兵の時代』(岩波新書)は高級幹部子弟
(すなわち「老紅衛兵」)であった著者が「平民紅衛兵」(造反派)の掲げた民主的要素を借り
て自己正当化を図ったものだ、と巧みに位置づけている。鄭義の一一通の手紙の圧巻は
第八、九信で、そこには文革期に広西チワン族自治区で発生した大規模な食人事件
(カニバリズム)が描かれている。文革期の食人事件は、こっそりとおそるおそる食べ出した
開始期、鳴りもの入りで行なわれた高潮期、そして食人が大衆運動化した終末期の三段階に
分けられるが、このおぞましい事件は共産党の「反人類的暴行の行き着く果て」であった、と
鄭義は結論する。藤井訳では食人事件が削除されているのは、画竜点睛を欠くもので、はな
はだ遺憾である



産経新聞、文化欄

1994年xy

中国現代史の秘密やナゾが解く資料が相次いでいる。林彪事件、毛沢東の侍医の証言、文革期の食人事件を考えてみたい。まず林彪事件だが、中国現代史最大のナゾもようやく最終確認ができたようである。『USニューズ&ワールド・レポート』(九四年一月三一日号)は、旧ソ連国家保安委員会(KGB)のファイルのなかから、林彪の頭蓋骨写真を探り出して、この人物の最期を確認してみせた。毛沢東が火をつけた文化大革命を強力に推進することによって後継者の地位を約束されていた「最も親密な戦友」である林彪が、こともあろうに毛沢東暗殺に失敗して一九七一年九月一三日未明、旧ソ連に亡命を図り、モンゴル共和国ウンデルハンの草原に墜死した、という中国政府の発表が世界中を驚かせてからすでに四半世紀が過ぎた。事件から一七年後の一九八八年に、私は北京の中共中央文献研究室を訪れ、当時はまだ「内部発行」とされていた『党的文献』(八八年一期)を入手し、その骨子を紹介したことがある(『読売新聞』八八年九月一六日付)。それは周恩来の指示を受けて外交部内において極秘裡に処理に当たった符浩(その後日本大使を歴任)、モンゴル駐在大使としてモンゴル当局と交渉した許文益、モンゴル大使館二等書記官孫一先らの事件直後の証言記録であった(邦訳は蒼蒼社刊の『林彪秘書回想録』の付録に所収)。周恩来の秘密保持は徹底しており、許文益大使でさえも誰の遺体かを知らされずに埋葬したほどであった。大使らは墜落現場に赴き、腐敗し始めていた遺体の証拠写真を撮り、「モンゴルの慣習にしたがって火葬せず」に埋葬した。中国大使館の館員たちでさえも、埋葬の時点では誰の遺体かを知らされなかったのだ。モンゴル当局者は中国軍用機の領空侵犯を非難したが、遺体に疑惑を抱いた形跡はない。要するに、遺体処理がどのような形で行なわれたかについての報道は皆無であり、単に林彪の遺体らしきものはなかったとする印象談話のみがモンゴル側から発せられた。騒ぎはここから起こった。事件から一〇年以上過ぎてもまことしやかな「実録」が出版され、林彪は毛沢東の「最後の晩餐」を受けた帰路にロケット砲で砲撃された、墜死者のなかには林彪は含まれていないなどと書かれる始末であった。私自身は符浩ら中国側関係者の証言の具体性、論理的一貫性に接して、もはや中国側発表を疑う余地はなくなった判断した。最大の根拠は、林彪の遺体の所在である。遺体の埋葬場所は中国政府の主権が及ばず、旧ソ連やその属国に等しいモンゴルであるから、彼らはいつでも中国政府のウソ(もしあれば)を暴くことができるはず。「敵」に弱みを握られている以上、真実を隠蔽できまいと私は読んだわけである。ところが九一年暮、あるテレビ局(NHKニュースセンター21)のディレクターが問合わせてきた。曰く、現場の証言によると、林彪や夫人葉群らしい遺体はなかった。そこで中国側発表に改めて疑問符がついた、といった趣旨の説明である。「もし疑わしいのならば、ウンデルハンの遺体を掘り起こしてご覧なさい。そしてソ連の病院から林彪のカルテを持ち出して調べること」「もし遺体が林彪のカルテと符合しなかったら、中国政府は面目まるつぶれですな」とコメントした(『蒼蒼』九二年二月一〇日号)。この番組は基本的な取材を全く怠ったお粗末極まるものとなった。中ソ対決に起因する宣伝合戦のなかで、四半世紀にわたって浮きつ沈みつした亡霊こそが林彪不搭乗説であった。冷厳な国際政治の文脈のなかで、モンゴルや旧ソ連側からすると林彪事件は「仮想敵・中国の過失」なのであり、国際政治の場で宣伝に利用できれば十分であり、真相は故意に曖昧に残された可能性が強い。ただし真相を確実に把握し、秘匿したチームが存在していた。『USニューズ』によると、KGBのチーム(元KGB法医官ビタリ・トミリン将軍と元調査官アレクサンドル・ザグボジン将軍)は七一年一〇月と一一月の二回にわたって現場を調査した。まず墓を掘り起こし、頭蓋骨を取り出してモスクワに持帰り、一年がかりで遺体を確認した。林彪が抗日戦争で負傷し、ソ連で治療を受けたさいの銃弾のあと、金歯などが決め手となった。二回目には黒こげになった右肺の切片を持帰り、結核の治療記録と照合するという念の入れようであった。しかもこの結果を知らされたのは、旧ソ連でわずか四人、すなわちブレジネフ書記長、KGBのアンドロポフ長官、そして前掲の二人の将軍だけである。なんという秘密主義であろう。林彪事件についての中国政府の発表は、基本的に真実であることが遺体で確認された。中国側が真実を隠蔽できなかったもう一つの理由は、対米緊張緩和に鑑みてニクソンの信頼感を獲得する必要があったからではないか。毛沢東、周恩来はニクソン招請に反対する林彪をいわば犠牲として対米緩和を選択したことになる。歴史は非情であり、現代中国の神話のベールを一枚ずつ剥いでいく。イギリスのBBC放送が毛沢東生誕百年を期して作成した「中国叢談」は、一九五四年から毛沢東が死去するまで二二年間にわたって侍医を務めた李志綏の証言をもとに「裸の毛沢東、最晩年の孤高と絶倫」を完膚なきまでにえぐっている(浜本訳、『THIS IS 読売』九四年四月号)。毛沢東の昼と夜を取り違えたような生活や読書癖、食べ物の好き嫌いなどは、元秘書やボディガード李銀橋などの回想を通じて知られていたが、「無法無天」の形容句に恥じないセックスライフには驚かされる。固有名詞として登場するのは、謝静宜(文革期に北京市委員会副書記)、張玉鳳(生活秘書)、孟錦雲(生活秘書)の三人だが、性関係をもった女性は「非常に大勢」であった。「普通の人間ならあれほどの年齢になれば性欲もなくなるのだが、毛の場合は性欲を自分の生命力を測る尺度にしていた。性欲がなくなれば生命力がなくなったも同じ」と考えてセックスに励んだというから、好色爺そのものだ。青年毛沢東は「体育の研究」を書いて肉体を鍛練したが、老人毛沢東は性生活の実践に打ち込んでいた。李志綏は「毛が本当に悲しみ、涙を流す姿」を見たことがなかった。陳毅元帥の葬儀で涙を流したという話を李志綏は否定する。「あの時私は毛のそばにいたからわかるが、泣いてなどいなかった」。李志綏の回想録『毛主席の私生活』は今年中に出る由である。英雄好色か、梟雄毛沢東か、人間毛沢東研究の必須文献になることは疑いない。この毛沢東スキャンダルに便乗した可能性が強いが、「周恩来の私生児」を自称する艾倍の『父親と呼ぶには重すぎる』が出版予定と報じられた(『香港聯合報』九四年三月六日)。肝心の「元愛人」なる存在の氏名が伏せてあるので、事実かどうかを論ずるのは時期尚早であろう。侍医李志綏の証言とこの女性の書いたものと信頼度を区別する必要がある。もう一つの主題は食人事件である。映画「古井戸」で農村の水争いをテーマに、現代中国のしたたかな古さを描いた作家鄭義は、天安門事件後、地下に潜行した。中国各地で三年間逃亡生活を送ったのち、九二年三月妻北明とともに九三年一月アメリカに亡命した。亡命後に出版した二冊は中国社会主義の無残を描ききって余すところがない。一冊は『歴史の一部分:永遠に投函できない一一通の手紙』(台北、万象図書股有限公司、一九九三年三月)、もう一冊は『紅色紀年碑』(台北、華視文化公司、一九九三年七月)である。前者は逃亡者たる著者が身代わりとして囚われた妻に宛てる形で書いた一一通の書簡体風エッセイ集である。藤井省三監訳『中国の地の底で』(朝日新聞社、一九九三年一〇月)は、原書の約六割を訳出したもの。鄭義は文化大革命を「支配者の文革」と「民衆の文革」に分ける。毛沢東が権力闘争のために人民を利用したことが前者であるが、このとき人民もまた毛沢東の権威を利用して、それぞれの造反を行なった。藤井は鄭義の「二つの文革」論に依拠して、ベストセラー『ワイルド・スワン』(張戎の自伝、講談社)は毛沢東による人民の利用のみを強調した通俗文革論だ。張承志による回想『紅衛兵の時代』(岩波新書)は高級幹部子弟(すなわち「老紅衛兵」)であった著者が「平民紅衛兵」(造反派)の掲げた民主的要素を借りて自己正当化を図ったものだ、と巧みに位置づけている。鄭義の一一通の手紙の圧巻は第八、九信で、そこには文革期に広西チワン族自治区で発生した大規模な食人事件(カニバリズム)が描かれている。文革期の食人事件は、こっそりとおそるおそる食べ出した開始期、鳴りもの入りで行なわれた高潮期、そして食人が大衆運動化した終末期の三段階に分けられるが、このおぞましい事件は共産党の「反人類的暴行の行き着く果て」であった、と鄭義は結論する。藤井訳では食人事件が削除されているのは、画竜点睛を欠くもので、はなはだ遺憾である。『紅色的紀年碑』という専著にゆずった、というが、誰に何をゆずったのか。

肝心の専著は『食人宴席:抹殺された中国現代史』(黄文雄訳、光文社カッパブックス、九三年一一月)の題名で邦訳された。原書は六八六頁、全一二章からなる大著だが、カッパ版は「一部、割愛した」と書かれているが、実は三分の一だけを抄訳したもので完訳からほど遠い。鄭義の二冊の本は、基本的には同じ主題を異なるスタイルで表現したものである。『中国の地の底で』から食人事件が省かれたのでは、「地の底」が見えてこない。カッパ版はあまりにも興味本位であり、著者の問題提起が十分に読者に伝わらない憾みが残る。

最後にもう一つ。ジェームズ・ラル著『テレビが中国を変えた』(田畑光永訳、岩波書店、九四年二月)は、市場経済化への歩みのなかで、テレビがどのような役割を果たしているかをコミュニケーション論の専門家が論じたもので、最新マスコミ事情がよく分かる。結びは天安門事件を扱い、広場での死者なしと正しい結論を導いている(原書は一九九一年刊)。広場の無血撤退のために侯徳健らと交渉し、大きな役割を果たした戒厳部隊側の交渉担当者ガ「チー大尉」と誤訳されている。われわれの仕事をちょっと参照してもらえるとすぐ分かるのだが(『チャイナ・クライシス重要文献』第三巻、一五三頁)、これは季新国大佐である。季新国が「チー」ではまずいし、大佐(=上校)と大尉(=上尉)では「校官と尉官」の違いがある。

関連記事

Comments

« »

03 2020
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
NASA Visible Earth
Web page translation
Flag Counter
free counters
xxx
全記事表示リンク