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今日ボクが見た風景

白人は世界で何をしてきたか②

Category: 世界  
オーストラリア編

オーストラリアにキャプテンクック(1728~79)が到来したのは、1770年であった。当時この大陸には原住民としてアボリジニーが約30万人も平和に暮らしていた。彼らは4万年も前に東南アジアからこの大陸に移住してきたものである。クックは上陸するや原住民を無視して一方的に英領を宣言した。まず、おれのものと、ツバをつける白人のやり方である。

英国は1788年、11隻の船隊に流刑囚1473名を乗せて、シドニーに近いボタニー湾に現れた。男囚778名、女囚192名、その他という構成だ。本国の犯罪人を植民地に流刑したのはイギリスだけでなく、ロシアのシベリア流刑は有名だし、フランスもパリ・コミューンの政治犯を多数、ニューカレドニアへ送っている。

受け入れ側の先住民にとって、男女囚の比率が四対一のアンバランスなことは大変迷惑であった。最初に被害を被ったのはアボリジニーの女性である。男囚の性欲を満たすための現地調達が行われたからだ。オーストラリアは流刑植民地だから、続いてきた一般植民者も本国に容れられない落ちこぼれ、ならず者、無法者が多かった。これら白人にとって現地のアボリジニーは野獣、野犬やねずみと同様、考慮に値しない存在として虐殺が始まった。動物狩りの対象としてアボリジニー狩りを楽しんだのである。

かくして最初の船隊が来てから約100年後の1901年には、先住民は6万7千人に激減してしまった。オーストラリアの南端にあるタスマニア島のアボリジニーは、もっとひどく、全滅させられてしまった。

タスマニア島は四国と九州を合わせたくらいの広さで、緑に恵まれた島である。住民はオーストラリアから移り住んだアボリジニーで、平和に暮らしていた。後からやってきた白人植民者に先住民は邪魔とばかり、見つけしだいに射殺された。当初3万7000人いたアボリジニーは、1847年にはたった44人になった。

絶滅寸前のこの人種の中で、最後の一人となったトルガニーニという女性の数奇な運命は、感動的である。最後の1人となったとき、オーストラリア政府は、最後のタスマニアン・アボリジニーとして人類学上の貴重な資料として保護することになったからだ。佐渡のトキのような運命である。

1876年、トルガニーニは「山の奥に私を埋めて」と言い遺して苦難の生涯を終えた。遺体は遺言どおり山奥に埋められたが、やがて無法者の白人が墓をあばき、遺体をバラバラにして持ち去った。彼女の骨は考古学上の珍品として高価な値がつき、蒐集家の手に渡り博物館にまで陳列された。やがてトルガニーニの骨が取り戻され、正式な荼毘に付され、その灰ががタスマニアの海にまかれたのは、彼女の死後100年たった1976年のことであった。(P179~P181)


アジア編

330年にわたるインドネシアへの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)

オランダは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々に奪い取り、17世紀中頃には、現在のインドネシアを中心とした地域に、確固とした拠点を築いた。これ以降、330年間もの長期にわたって、オランダのインドネシア植民地支配が続くのである。

その統治方法は、

1.原住民を文盲のままに放置し、土侯を使って間接統治
2.キリスト教に改宗した者は、優遇して警察官や軍人に登用
3.オランダとインドネシアの混血児童を中間階級として使用し、民族の分断を図る。
4.社会の流通経済は華僑にやらせ、経済詐取によるインドネシア人の憤慨と憎悪を華僑に集中させる。
5.一切の集会や団体行動を禁止する。
6.全国各地で用いられていた320の部族語をそのままにして、一つの標準語にまとめる企てを禁止する。

以上の方法でインドネシア人から民族意識を奪っていったのである。
またオランダは、コーヒー、砂糖きび、藍、茶、肉桂などの「強制栽培制度」を導入した。しかもオランダは直接手を下さず、諸侯を使って分割統治し、その上前をはねるという、巧妙な政策をとった。人民詐取や悪政の恨みを華僑や諸侯に向けさせたのである。

イギリスのインド支配でもそうだが、植民地支配を会社組織にして一見、国家が政治的軍事的に前面に出ないように見せかけている。植民地を会社経営としたのだから、利益の追求が最大目的で、原住民の福祉など眼中にないのは当然である。植民地とは本国の国益中心で、現地からしぼれるだけしぼるために存在するのである(P146~P147)

イギリスの植民地支配が長持ちした三つの理由

近世500年間の世界の覇権国を概観すると、16世紀がスペイン、17世紀がオランダ、18世紀と19世紀がイギリス、20世紀がアメリカと見ることができる。この中にあって、最もヘゲモニーが長持ちしたのは、一番小さな島国イギリスであった。しかも最盛期にはオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、エジプトから南アフリカ、インド、ビルマ、マレーシア、それに太平洋の島々を加えて七つの海にまたがる広大な領土を支配し、200年もの間、パックス・ブリタニカを誇りえたのがイギリスであった。その原因、ナゾ解きは、専門の史家によって種々論究されているが、私は次の三点を注目している。

第一に英国はユーラシア大陸からドーバー海峡を隔てた島国で、直接大陸での抗争、動乱に巻き込まれず、その動向を一歩置いたところから観察できるという地理的優位性を持っていたことだ。この点日本は、ドーバーが30キロなのに対して、東シナ海900キロ、朝鮮海峡200キロで、大陸の動乱にはイギリス以上に巻きこまれる危険性が少なかった。第二点は、キリスト教を植民地統治の手段に使うやり口が、スペイン、ポルトガルとは基本的に違っていた。スペインなどはカトリック国で、十字架を武器に、支配地住民に無理矢理に信仰を強制したが、イギリス(イギリス国教会)は、キリスト教の教義はあまり問題とせず、教会などの組織にのみ関心を示した。したがってカトリックのような狂信的な異教弾圧はなかった。

ただしイギリスは、宗教が世界支配の重大な決め手であることを確信して、世界の主たる聖地はほとんどその保護国に取りこんでいる。エルサレム、コンスタンチノーブル(イスタンブール9、ガンジス河、メッカ、メジナなど、すべてがそうである。だからイギリスは、最大のプロテスタント国家で、また最大のイスラム国家だったともいえる。英国は宗教にやや寛容で、むしろこれを政治的に利用するのにすぐれていたのである。第三に、スペイン、ポルトガルが植民地から収奪した莫大な富を単に国内で豪勢に消費しただけだったのに対して、イギリスは内部蓄積し、科学技術を高め、産業革命を起こし、海外貿易を盛んにし、さらに産業資本を蓄積して、次の植民地経営に活用した。つまりイギリスは、スペイン、ポルトガルのように泥棒で得た富を一回限りで使い果たして終わることに満足せず、次の植民地収奪という高度の泥棒の手段に、うまく回転していったのである。巧妙と言えば巧妙である。

なぜイギリスは北米から撤退し、インドに進出したか

イギリスは1588年、スペインの無敵艦隊(アルマダ)を破り、スペインを衰退させ、さらに、1652年より三回にわたる英蘭戦争に勝利し、オランダの海上権を奪ってしまった。かくして17世紀後半になると、イギリスの植民地争奪戦争の相手はフランスのみとなった。18世紀の英仏の熾烈な植民地争奪戦は、一つは北米大陸で、他はおもにインドで行われた。ヨーロッパによる南北アメリカの植民地分割は、欧州南部のスペイン、ポルトガルが南方の中南米に展開したのに、欧州北部の英仏が、北部の北米に展開したのは地理的宿命のおもしろさである。このため、北米をアングロアメリカ、中南米をラテンアメリカと言うようになった。

北米での英仏の植民地争奪戦はオハイオ川の支配をめぐって勃発した。最初の四年間は、イギリスに不利な状況だった。しかしイギリスは、ヨーロッパ本土の戦争に深入りせず、多数の軍隊を北米大陸に集中させたために、最終的にフランス領カナダの中心地ケベックを占領し、これを機に形勢は一気にイギリス側に有利になった。勢いに乗ったイギリス軍は、さらに西インド諸島スペイン領も占領した。

イギリスから多数の植民者が新大陸に移住し、イギリスの植民地が拡大し、力をつけるにしたがって、現地での独立運動がさかんになってゆく。フランスは現地の植民者勢力を応援した。そしてフレンチ・インディアン戦争(1754~63年)をへて、ついにアメリカ合衆国が英国から独立してしまった(1776年)。このためイギリスは、北米で失った利権をインドを中心とするアジアで取り戻すべく、この方面に全力を集中させることになった。

しかし、ここでも先発のフランスと熾烈な植民地争奪戦争を繰り返すのである。しかし仏軍は、ベンガルの豪族軍と結んで英軍とのプラッシーの戦いにいどむが、敗れてインドからついに撤退する。かくて、インドにあったムガル帝国は、イギリスの支配下に入ることになった。英仏の海外での植民地戦争は、ヨーロッパ本土において、英仏七年戦争となって対応するものだが、これだけでなく、両国は植民地争奪戦がもとで、1689年から1815年まで126年間も、ヨーロッパで熾烈な闘争を繰り返すことになった。

ヨーロッパ列強の、インドや東南アジア植民地経営は、東インド会社という一見平和な株式会社方式で進められたところに特色があった。東インド会社方式は、イギリスのほか、オランダにもフランスにも、デンマークにもスウェーデンにもあった。いずれも国王の特許状によって設立された。東洋貿易の独占権が与えられ、後に植民地経営の中心となり、武力をもって外国の同業者と激しく競争した。イギリスの東インド会社は、1600年、エリザベス女王の特許状で設立され、18世紀半ば頃、フランス勢力を打倒し、土着君主を抑圧して、インドを完全に掌握してしまった。イギリスはインドの現地人を多数傭兵として使い、結局現地人同士が戦わされることになった。現地人を犠牲にして植民地戦争を戦う方式は、以後すべての戦争に採用されたのである。

植民地から収奪した富を産業革命に転用したイギリス

イギリスは、オランダ、フランスを武力闘争で打ち負かし、世界の海上権を握り、広大な植民地を独占することになった。このためイギリスはヨーロッパのどの国より物資資源、産業資本を蓄積することができた。これが18世紀中頃以後にはじまった「産業革命」の原動力となっていったのである。産業革命は、道具による生産から機械による生産への転換であり、また動力の転換でもあった。生産の機械化は、まず木綿工業ではじまった。18世紀になると、インドの綿布への内外の需要が増大し、これがイギリス国内にも木綿工業を発達させ、1733年、ジョン・ケイが飛びおさを発明して織布の生産率が倍加した。さらに1764年、ハーグリーヴズが紡績機を、1785年にカートライトが力織機を発明した。以上を繊維革命と呼ぶ。

これまでの機械は、動力として水力をを使っていたが、蒸気機関の発明によって産業革命は本格的な進展をみせるようになった。ニューコメンらが蒸気力による排水用ポンプを発展させていたが、ワットがこれを改良して、原動機としての蒸気機関を1781年に完成した。以上が動力革命である。工業の発展は石炭・原料・製品を大量輸送する交通機関の発達をうながした。1814年、スティーヴンソンは蒸気機関車を発明し、1825年に最初の鉄道を実用化させた。これで馬車から鉄道の時代がやってきた。またアメリカ人フルトンは、蒸気船を実用化した。以上を交通革命という。

かくして最初に産業革命をなしたイギリスは、19世紀に入ると「世界の工場」として繁栄を誇った。この革命を、19世紀中頃をすぎるとフランス、ドイツ、アメリカにも達した。
産業革命の進展によってヨーロッパ列強は、原料輸入と商品の市場獲得のため、ますます植民地が必要となってきた。このため、植民地からの収奪は強化され、先住民の伝統的な生産・生活様式は、強制的に転換させられ、悲惨な状態へと追いやられてしまった。


アフリカ編

ヨーロッパ列強のアフリカ完全分割

18世紀後半にイギリスで産業革命が進み、そして19世紀のはじめには、イギリスは「世界の工場」と言われるまでの経済の黄金時代(ビクトリア時代)を迎えた。これに刺激されてフランスもアメリカも、1830年代から、ドイツは1840年代から、ロシアは1860年代から、それぞれ産業革命が起こり始めた。このため19世紀末期から20世紀初期になると、ヨーロッパ列強では産業に必要な物産資源の獲得と市場拡大のため、より以上の植民地の必要性が急激に高まってきた。各国間での産業競争が激しくなるにつれて、欧州外での植民地争奪競争もまた激化した。

ヨーロッパ人にとってアフリカは、北部の地中海沿岸地域が知られていたのみで、広大なサハラ砂漠が横たわる背後の地域は、魅力のある土地ではなかった。ただ黒人を奴隷狩りして、つかまえ、新大陸に売り飛ばす点にのみ、関心が集中していた。しかし19世紀の半ばになり、さしもの奴隷貿易が下火になる一方、リヴィングストンやスタンレーら、白人によるアフリカ内部の探検が盛んになるにつれて、ヨーロッパ列強は目の色を変えてこの大陸に突進してゆくことになった。

1870年代、アフリカにおける白人の支配地は、沿岸部を中心とする10パーセントぐらいだった。ところが、1900年代には、エチオピア、リビア、南アを除く全ての土地が、白人のむしり取る格好の場となった。まるで無人の野を行くが如く、早いもの勝ちのすさまじい分捕り合戦が始まった。一番たくさん分捕ったのがフランスで、イギリスが二番目、以下ドイツ、ベルギーと続き、最後がスペイン、イタリアである。しかし、フランス領には広大なサハラ砂漠が含まれるので、実質一位はイギリスと言ってよい。フランスはアジアとアメリカ大陸でイギリスとの植民地争奪戦争に敗北したので、その分をアフリカで取り戻そうとして広大な土地を手に入れたが、その大部分は砂漠であった。ところが、イギリスは、エジプト、東アフリカといった主要部分を、実に計画的、地政学的に取得してきた。さすがにイギリスは七つの海を支配するだけの、第一級の植民地大泥棒国であることを実証した。

現在のアフリカ諸問題の根源は、すべてヨーロッパにある

そもそもアフリカは、人類誕生の地である。アフリカ東部で発見されたホモ・ハビリスの化石は、150万年から200万年以前のものだそうである。この大陸は、海岸線がきわめて単調で屈曲に乏しく、しかも沿岸台地が海に迫り、直接概要の波浪が打ちつけるため、湾や入り江のある良港に恵まれていない。だから外洋から船が河川を遡って内陸奥深くまで舟航することが不可能で(ナイル川は例外)、このためアフリカの外界との交流は疎外されてきた。

さらに気候条件も恵まれない。北部と南部の回帰線あたりには、サハラ砂漠とカラハリ砂漠の大乾燥地帯が横たわる。アフリカ大陸の中豪を赤道が通り、この御を中心とする熱帯雨林地帯が広がり、これを取りまいて草原のサバンナ地帯や乾燥疎林地帯が続いている。このような不健康な気候のため、疾病や飢饉が襲って死亡率も高く、全アフリカで人口は約6億7000万(1992年)と、世界の諸大陸中、最も希薄である。その原因は、この厳しい自然環境のほかに、白人がもたらした人為的なものである。つまり、16世紀から19世紀に展開された奴隷貿易で、働手である大量の青年男女が奪い去られたからである。

また、アフリカ諸国の国境が、今日においても、定規で線を引いたような直線的な様相を呈しているのは、白人本国の都合で住民、人種を無視して勝手に分割統治したからである。同一民族が二つに分離されたり、対立民族が同じグループに一まとめにされたりした。このような民族の歴史、文化、生活を全く無視した不合理な分割統治が、今日のルワンダをはじめとするアフリカにおける地域紛争や不幸の根源になっている。また、労働力がゴムやコーヒーなどのプランテーションへの強制労働に駆り出されることによって起こる飢饉や、白人がもたらした文明病による疾病、さらにソ連からの共産イデオロギーによる紛争など、現在アフリカがかかえる悲惨な問題の根源は、突きつめるとすべてヨーロッパに起因していることがわかるのである。
(P164~P169)


白人の世界侵略を阻止し、有色人種を解放した大東亜戦争

代世界史の虹から見た大東亜戦争

近世世界史をコロンブスのアメリカ大陸到達(1492年)の15世紀末から、香港返還(1997年)、長野オリンピック(1998)の20世紀末までの500年で大観すると、人類の歩んだ歴史の虹がはっきりと浮かび上がってくる。歴史の時間的スパンを500年くらいの長さで見、さらに地理的空間を地球規模のグローバルな視点で観察すると、人類史の真実が手に取るように見えてくる。この虹の橋の上に、日本の存在や日露戦争、大東亜戦争を位置づけると、その意義の重大さがはっきりと描き出されてくる。

500年にわたる白人の世界侵略史

この5世紀間、虹の橋の上で活躍したのはスペイン、ポルトガルをはじめ、オランダ、英、仏、米、露など、すべてヨーロッパ出身の白人のみで、その間、東南アジアや、アフリカ大陸、アメリカ大陸の原住民らは、奴隷か植民地民族として呻吟していたのである。

この時代は、一口に言って、白人による世界植民地侵略制覇の時代と断言できる。彼らは繰り返し、世界中を荒らし回った。彼らは文明とキリスト教の宣教の名をかかげながら、異民族に一片の憐憫の情をも示すことなく、早いもの勝ち、手当たり次第に奪いつくし、殺しつくしていったのである。この時代、白人以外は「人にあらず」で、人間としてまともに扱われることはなかった。

ところがここに奇跡が起こった。この白人侵略の世界史の虹の中に彗星のごとく忽然と現れたのが日本だった。有色人種は、科学技術という文明で武装した白人にはとうていかなうはずがないとあきらめきっていたのに、長い間国を鎖していた名もない日本が、独り忽然と白人侵略に立ち向かったのである。

力には力で対抗するしかない世界の帝国主義の時代に、日本も強大な軍事力を蓄えて彼らの侵略を阻止するために立ち上がったのは、日露戦争(1905年)から大東亜戦争(1945年)にいたる僅か40年余りであった。それは世界侵略史500年の歴史の虹のわずか十分の一にすぎない一瞬の出来事であった。

この虹の上に刻印された日本の存在と決断と犠牲とが、その後の世界史上、白人侵略の停止、植民地解放、人種差別撤廃の動機となり、世界地図を塗り替えるほどの人類史上最大の革命をもたらしたことは、何人も疑うことのできない事実である。(P42~P45)

今こそ白人の暗黒の歴史を白日のもとに

西欧500年の発展、繁栄の基礎になっていたものはなんであったのだろう。それは世界史上例を見ないほどの悪逆非道の非白人支配と略奪の上に築かれたものであった。西洋文明の発展、西欧人の栄耀栄華の陰に、その何百倍もの非白人の苦痛、苦難の犠牲があったのである。五世紀にわたって白人の文明と繁栄を支えるために、どれほどの不正と搾取、虐待と殺戮があったことか、今こそ、この白人の触れたがらない暗黒の歴史を白日の下に晒す時が来たのである。これなくして21世紀の平和は語れない。この過去の世界史を総括して反省しない限り、21世紀の真の歴史は生まれないと知るべきだ。(P54)


引用ここまで


以下の記事はhttp://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1720-02oubeiajia.html よりの引用

欧米列強のアジア侵略はいかにして行われたか

15世紀の大航海時代で世界に進出した西欧列強は、やがてアジア全域を植民地化した。彼ら白人帝国主義国はいかなる侵略行為を行ったのか。

1 掠奪と搾取

350年にわたりインドネシアの香辛料など独占的に収奪したオランダは、19世紀に入ると、強制的栽培制度を導入し耕地の5分の1(実際は半分)にわたって、コーヒー・砂糖・藍などのヨーロッパ市場向け作物を強制栽培させた。これによる巨額な収益は国家予算の3分の1を占めた。

インドシナ半島東部を支配したフランスは、無主の土地に没収令を出して、申告のない土地を収奪しフランス人らに無償で与えたため、農地を奪われた農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。イギリスは、インドの綿織物輸入で利益を上げていたが、産業革命で自国の綿製品が盛んになると、インドの綿製品には課税しイギリスの綿製品には免税して逆輸入させてしまった。これによりインドの紡績業は大打撃を受け、織物都市のダッカの人口は激減した。また、茶の輸入により入超になったイギリスは、中国へ流出した多額の銀を取り戻すためにインドにけし栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸して暴利を得た。財政悪化を招いた清はアヘンの密輸を取り締まったため、イギリスはこれを口実に戦争を仕掛け、香港を租借した。これが悪名高いアヘン戦争である。

2 貧困と飢餓

列強は、アジアの都市・沿岸地方における貿易で利潤を得るのが目的であったが、18世紀後半の産業革命を迎えると、原料の供給地と製品の市場として広範囲な植民地を直接支配するようになった。土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、白人の資本投下によるプランティションで行われたが、それは無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった。そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。
その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。ジャワでは人口33万の町が12万に減少したり、インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加し、1877年の南インドの飢饉では5百万人が死亡し、1943年での犠牲者はベンガル地方だけで340万にも達した。

3 複合民族化

大規模農業の急速な開発によって、大量の労働者を必要とした列強宗主国は、大量の移民政策をとった。インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が1860年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加。マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者にインド・タミール人が大量に移入された。これらの移入アジア人は、現地社会と融合せず固有の習慣や宗教を保持したため、複合社会ができあがってしまった。また、植民統治では、この移入アジア人を金融と流通機構に登用したため、上部に白人支配層が、次に華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い現地民が最下層の地位におかれるという階層社会を造った。この大量の移民政策の結果、例えば、マレーシアでは、マレー人52%、華僑39%、インド人12%という複合民族国家が形成され、戦後も深刻な民族対立の原因となっている。

4 弾圧と虐殺

列強は植民地支配への反乱については、きびしい弾圧と虐殺でのぞんだ。イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。当時のイギリスの『タイムズ』紙は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたきこわせ。白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ』と報復を訴えた。事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。

フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。1945年、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りが込められている。「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。…」

アメリカとて例外ではない。米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を制圧した。また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しにしてしまった。

5 愚民政策

列強のアジア支配の例として、オランダの350年間にわたるインドネシア支配の特徴を、ASEANセンターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。

①オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使って間接統治した。徹底した愚民政策をしいたのである。

②才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官や軍人として登用。そして、オランダとインドネシアの混血児を作り中間階級として使い、民族の分断を策した。

③社会の流通経済は華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア国民の憤慨と憎悪は華僑に集まるよう仕向けた。

④インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行動を禁止した。3人のインドネシア人が立ち話することすら許されず、禁を犯せば反乱罪で処罰された。

⑤インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして、一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。


列強に侵略にあえぐアジア

清(中国)

1662年以降、中国を支配した満州族の清は、東インド会社が経営するインドとの貿易を開いていたが、イギリスとのアヘン戦争やアロー戦争の敗北を契機に列強に不平等条約を締結させられ、外国の圧力を受けた。特に日清戦争の敗北後は、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどによって鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、半ば植民地の状態となった。

朝鮮

14世紀に李氏が朝鮮半島を統一したが、17世紀に入ると清の攻撃を受けて服属した。欧米列強は鎖国を続ける朝鮮に開国をせまり、我が国も日朝修好条規を結び開国を進めたが、日清戦争によって宗主国の清に朝鮮の独立を認めさせた。その後ロシアが朝鮮を圧迫したが、日露戦争を経て、我が国が朝鮮の指導・監督権を獲得し、1910年、日本の領土(日韓併合)となった。

インド

紀元前4世紀に統一国家の出現を見たインドは、16世紀にはムガル王朝が成立した。しかし、1600年にイギリスがインドに進出して乗インド会社を設立し、度重なる征服戦争を繰り返して全土を征服した。イギリスは、セポイの反乱の武力鎮圧後、1877年にムガル帝国を滅ぼして英領インド帝国を樹立。以後は直接統治を行い、苛酷な植民地経営を行った。

ミャンマー(旧ビルマ)

1044年にパガン王朝が全土を統一したが13世紀の元帝国の侵入後は小国に分裂し、やがてアラウンバヤ王朝が統一を達成した。17世紀以降、イギリスの乗インド会社と貿易を行っていたが、イギリスが三度にわたるミャンマー(ビルマ)戦争でこれを征服し、1886年に全土をインド帝国に併合し、植民地化した。

インドネシア

 14世紀にはジャワ島を中心にマジャバヒト王国が勢力を拡大したが、17世紀にはマタラム王国などイスラム系の群小国家が成立した。17紀よりポルトガル・オランダ・イギリスなどが進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして植民地にし、19世紀末までにスマトラ.ボルネオを支配し、1904年にオランダ領東インドをつくって植民地体制を確立した。

マレーシア

15世紀にマラッカ王国がにポルトガルに支配され、17世紀にはオランダの支配を受けた。18世紀後半に入るとイギリスが進出し、イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡植民地として直接統治し、さらに北ボルネオ・マライ半島への支配を強化して1895年にマライ連邦を結成した。

インドシナ三国

中国支配にあったベトナムは、10世紀に独立政権が誕生したが、19世紀の阮朝がフランスの軍事介入を受け、侵攻された。ベトナムの宗主権を主張する清がフランスと戦った(清仏戦争)が敗れたため、1885年フランスの保護国となった。カンボジアは、9世紀のアンコール朝がカンボジア最盛期の王朝となったが、14世紀以降は周辺国に侵入を受け衰還し、ベトナムがフランスの植民地にされると1863年にフランスの保護国とされた。ラオスも、14世紀半ばにランサン王国が最初の統一国家となったが、1893年にフランスの保護国となった。フランスは、このインドシナ3国を併合して仏領インドシナ連邦(仏印)を形成した。

フィリピン

7千余りの島嶼をもつこの地域は、マレー・インドシナ系の民族が、イスラム教を信仰していたが、16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入。武力でルソン島を平定したスペインは1571年に植民地とし、皇太子フィリップにちなみここをフィリピンと命名した。1898年には米西戦卑でスペインに勝ったアメリカがフィリピンの植民統治を行い、徹底した英語とキリスト教の普及を押し付けた。

タ イ

13世紀のスコータイ王朝が最初に民族統一国家をつくり、14世紀から4百年続いたアユタヤ王朝を経て、1782年に今日のバンコク王朝が創設された。19世紀から20世紀にかけてイギリスとフランスからの進攻を受けてラオス・カンボジア・マレーにある領土を取られたが、インドシナ半島の英仏両国の緩衝国家として独立を保った。


大東亜戦争は植民地解放戦争だった

参考動画

欧米のアジア植民地支配の歴史 白人による過酷な植民地政策によって、植民地の住民は動物のように扱われ、莫大な富の収奪によって、インドや東南アジアの国々は痩せ細る一方であった。
インドネシア独立戦争 日本軍の軍政下で結成された組織や日本軍の指導の下で行なわれた様々な訓練が、その後のインドネシア独立戦争で大きく開花する。
インドネシアの侍 日本の敗戦後、再び植民地経営をしようと再上陸してきたオランダ軍を相手に、インドネシア人達と一緒に独立戦争を戦い抜いた日本兵達の物語。
ミャンマーでは大東亜戦争はどのように教えられているのか ミャンマーで大東亜戦争がどのように教えられているのか、当時、日本軍はどういう軍隊だったのか、ミャンマー現地取材の映像で語られる歴史の真実。
ビルマ(現ミャンマー)独立の父 ビルマの独立に係わったビルマ人の多くが、日本で訓練を受けており、当時の日本軍の南機関がビルマ独立に多大な貢献をしている。
親日国インド 莫大な富の収奪、愚民化政策、分割統治等、200年以上にも及ぶ英国の過酷なインド支配の実態と、インドの独立運動と日本との関わり。
インドネシア独立記念パレード インドネシアの独立記念パレードで、日本刀や竹やりを持ち、誇らしげに日本の軍歌を歌う現地の人々。日本軍は植民地独立の象徴的存在である
今もインドで歌われている日本兵を讃える歌 インドのマパオの村で、今も歌われ続けている日本兵を讃える美しい歌。その歌詞は日本兵への思いやりに満ちている。




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