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今日ボクが見た風景

白人は世界で何をしてきたか①

Category: 世界  

欧米の植民地支配

侵略の世界史 ~この500年、白人は世界で何をしてきたか~  

清水馨八郎著 祥伝社文庫

南米編

スペインの中南米インディアス完全制圧のはじまり


1492年、コロンブスが出帆した年に、スペイン軍はすでにイベリア半島からムーア人の追放を完了していた。コロンブスの航海に続いて、スペイン人はまもなく西インド諸島を征服してしまった。1521年、コルテスはメキシコにあったアステカ帝国を滅ぼし、1532年には、ピサロがペルーのインカ帝国の征服を終えていた。途方もなく広い海洋帝国の所有国として、スペインは国王フェルナンド、女王イサベルの治政下で、十六世紀の前半には、ヨーロッパ最強の国となっていた。

最初スペイン人はまず西インド諸島にやってきて、エスパニョーラ島のインディアスに対して皆殺し作戦を行なった。鉄砲を持った歩兵と犬を伴った騎乗の征服者たちは、島の狩猟採集部族を意のままに打ち破った。女、子供も逃がさず、強姦して殺戮した。抵抗者は容赦なく鎮圧された。1496年までに、この島は完全にスペイン人に制圧された。同様な襲撃は、キューバやカリブ海の他の島々に対しても行われた。征服者達は、新世界に国王の名によってやってきたのであるが、さらに重要なのはキリスト教の名においてやってきたことである。教会は、しばしば彼らの手先として、進んで新しい土地の略奪に参加した。

司祭は兵士と一緒になって先住民の村落に現れ、先住民たちに向かって、キリスト教信仰を受け容れるべしとスペイン語で書かれた公式の催告書を読み上げるのである。この催告書は、教会が国王に新世界領有権を与えたと述べていた。そこにはイエスが宇宙の王であり、彼が聖ペテロをローマ大司教に任命し、ローマ法王がアメリカをスペイン国王に授けたと宣言されていた。これにしたがってインディアスは信仰に入り、スペイン国王の王権を認めることを強制された。

インディアスはスペイン語が全然解らず、言っていることも書いてある催告書も何も解らないまま従わされた。かれらはイエスのことも、国王も法王のことも聞いたこともなかった。考える時間も与えられず、屈従するしかなかった。これを拒否すれば兵士に殺されることになった。しかもこのお触れは「その拒否から結果する死と損失は、汝らの落度であることをここに言明する」といったひどいものであった。殺されなかった先住民は家を追われて、鉱山労働者、農奴、荷役動物になることを強制された。

神の名の下に、何をしても許されるという論理

当時スペインの社会では「何人であれ、インディアスを棒で打つこと、むちを加えること、彼を犬と呼ぶこと、その正しい名前以外の名で呼びかけることをしてはならない」と規定していた。しかし、インディアスに対する制圧は、身の毛もよだつ残虐行為を伴った。それは5世紀が経った今日でも、それがいかに恐るべきものであったかをためらわずに語ることはできない。

次にドミニコ教会司祭がもたらした、カリブ海でのスペイン人の野蛮行為についての二つの目撃談を示す。

「数人のキリスト教徒が乳飲み児を抱いた1人のインディアスの女と出合った。彼らは連れていた犬が腹を空かせていたので、母親の手から子供を奪い、生きたまま犬に投げ与え、犬は母親の目の前でそれをがつがつ食い始めた。・・・出産して間もない女たちが捕虜の中にいたとき、もし赤ん坊が泣き出すと、スペイン人たちは子どもの足をつかんで岩に投げつけたり、密林の中に投げ込んだりして、赤ん坊が確実に死ぬようにした」

次の話は、鉱山でのスペイン人とインディアス労働者との関係を描いている。

「現場監督の誰もが、その配下にあるインディアスの女と寝るのを習慣にしていた。気にいれば、女が既婚であろうと未婚であろうと。監督はインディアスの女と小屋に留まる一方、その女の夫は山から黄金を掘る仕事に送り出された。夕方送り出された男が戻ってくると、持ち帰った黄金の量が少ないといって、打ちすえられたり、むちを当てられ、そればかりか手足をくくられてベッドのそばに犬のように投げ倒され、そのすぐ上で監督が彼の妻と横になっていることがよくあった」(トーマス・バージャー著『コロンブスが来てから』朝日選書)

このようにインディアスたちは非人間的な状況の下で生き、そして死んでいった。1540年までにカリブ海のインディアスは事実上、絶滅させられた。(P109~P112)


ヨーロッパ人による南米侵略の推定犠牲者数



さてコロンブス以来、スペイン人の征服者によって中南米の原住民のインディアスが、約一世紀の間にどれほど犠牲になったかを推計してみる。これをカリブ海地域と、メキシコ中央部とアステカ地域と、ペルー中央部のインカ地域に分類してみる。

カリブ海地域の犠牲者 38万人
アステカ地域の犠牲者 2400万人
インカ地域の犠牲者 820万人

以上、約3300万人である。

ではコロンブスが到着した1492年頃、これらの地域の原住民の数は、どれほどだったのだろうか。多くの研究者が大雑把な推計を試みているが、それによると最大推計で1億1千万人、中間推計で7000万人、最小推計でも4000万人である。

インカ帝国が完全に滅亡した1570年ごろ、この地方の人口は合計1000万人に激減してしまっていた。これは最大推計の1億1千万人からみると約十分の一に減ったことになり、ほぼ1億人ものインディアスがヨーロッパ人の征服の犠牲になったことになる。この数は、直接の殺戮だけでなく、ヨーロッパ人がもたらした伝染病の天然痘やチフスによる死者も含まれている。

ともかくヨーロッパ人の侵略によって、一世紀足らずの間に、それまで独自の文明を打ち立てて、平和で幸せに暮らしていた罪のない先住民を、ほぼ全滅させてしまったのである。これまでの人類の歴史で、これほどの悲惨があったであろうか。ヨーロッパ白人は、人類史に一大汚点を残したのである。

先住民が白人によって受けた被害は、人的犠牲だけではない。大量の金、銀などの宝物が、ヨーロッパに持ち去られた。白人の新大陸征服の目的の一つが、黄金の獲得であったからだ。1660年までにヨーロッパに持ち去られた金は、解っているだけで181トンである。現在、世界でもトップクラスの金輸入国である日本の、平成三年の年間輸入量が260トンだから、発掘、精錬技術が未熟な当時としては、いかに大量であったかがわかる。

さらに銀も、この間1万7000トンも収奪されていったのである。インディアスが長い間かかって勤労して営々と貯めた宝物を、白人は何の努力もせず、所有者を殺し、奪っていったのである。ヨーロッパ人とは罪深き大泥棒たちであったのだ(P119~P122)


白人の残虐無法と内部告発者の存在

コロンブスの米大陸到達以来のの、先住民に対する白人の残虐無法ぶりのあまりのひどさを見て、たまりかねて仲間の非を内部告発した白人がいた。それはコロンブスと同時代のスペイン人、ラス・カサスである。さらに現代になって、先ほどからその著書を引用しているカナダのトーマス・バージャーは、アメリカの開拓時代に、白人が先住民のインディアンをいかに不法に抹殺していったかを、法と正義にもとづいて告発している。
(中略)
ラス・カサスは、1514年から1566年に他界するまで、6回にわたり大西洋を横断し、インディアスの自由と生存権を守る運動の中心的な役割を果たした。彼はこの報告書(※ラス・カサス著 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』 岩波文庫)で、カリブ海のたくさんの島々の破壊の実態を正確に記述している。特にコロンブスが名づけたエスパニョーラ島(現ハイチ、ドミニカ共和国)については、くわしく述べている。

この島には300万人のインディアスが住んでいたが、コロンブスが来てから50年後の1542年には、この美しかった島に生き残ったのは、ただの200人だったと報告している。

スペイン人はまず、先住民に必ず、金を要求する。初めはその要求に応じていても、ヤクザの脅しと同じで、要求は次から次へと釣り上げられ、ついには暴力を振るうようになる。先住民たちの堪忍袋の緒が切れて反乱を起こすと、それが白人の思う壷で、彼らは馬にまたがり、剣や槍を持って無差別にインディアスを殺しまくる。もともと武器など手にしたことのない人々だ。この武装した土地泥棒の無法者にかなうはずがなかった。特にインディアスが恐れていたのは、馬だった。騎馬の兵士など見たこともなかった。
(中略)
スペイン人は手に入れたインディアスを、男なら金採掘に、女なら畠仕事に活用した。この奴隷たちには雑草のような食物しか与えなかったので、過酷な労働と飢餓でばたばたと倒れていった。荷物の運搬には、すべて奴隷を牛馬のように使った。重い荷物を背負わされ100キロ、1000キロの道を歩かされた。インディアスの背中や肩は、重い荷物ですりむけ、まるで瀕死の獣のようだったが、スペイン人は鞭や棒や平手や拳固で、容赦なく彼らを痛めつけたのである。彼らはインディアスを野獣として扱ったのである、とカサスは述べている。
(中略)
わが国でこの報告の翻訳が出たのは、1976年(昭和51年)になってからである。日本の西洋史学界が、いかにヨーロッパ人の歴史の暗黒面をあばくことに怯えていたかが分かるのである。

ラス・カサスに次いで白人の先住民族に対する残虐さをあばいて、白人自身に反省を求めた人物がカナダのトーマス・バージャーである。彼は現代のラス・カサス、カナダのラス・カサスと言われるに値する人物である。
(中略)
彼はカナダの先住民族のインディアンの権利問題を追及しているうちに、インディアンについてはカナダだけでなく、アメリカにも中南米にも同じ問題があることに気がついた。そこでラス・カサスの報告を読み、啓発され、広く南北アメリカ大陸でのインディアンの悲惨の歴史を研究した。そして『コロンブスが来てからー先住民の歴史と未来』(朝日選書)という著作をまとめた。彼はコロンブスがアメリカ大陸に来てから、どれほどの先住民の血と涙が流されたかを法学者の目で正しく分析、さらに現在各地で過去の暗影を背負って細々と生き残っている少数民族となったインディアンたちの権利保護の運動を展開している(P124~P129)


奴隷貿易編

残虐非道の奴隷狩り、奴隷貿易の実態

最初にアメリカ大陸に到着したスペイン人は、簡単にアステカ帝国やインカ帝国を亡ぼし、金銀宝物を略奪し、反抗する先住民を見境なく殺していった。その数は前章でも触れたように、多く見積もって1億人(白人がもたらした流行病死も加えて)に上るといわれる。これでは金銀の鉱山が発見されても、採掘の労働者が足りない。砂糖や、コーヒー、タバコなど白人に都合のよい植物農耕のための人手も足りない。

そこで彼らが考えたのは、アフリカから労働力として黒人奴隷を連れてくることであった。かれらは原住民を殺し過ぎた結果、労働力不足に気がつき、鉱山労働力や農場の労働力を、アフリカから収奪することになる。白人たちは多数殺しておいて、その穴埋めにまた悪事を働く。ここに人類史に刻まれる二つの悪行を、彼らは同時に進めることになった。
(中略)
奴隷狩りには、三つの方法がある。
第一は拉致、誘拐である。動物を捕らえるように待ち伏せして、通りがかりの先住民をさらってゆく。第二に白人奴隷商人とアフリカ人首長の契約。首長が他部族に戦争を仕掛け、捕虜を大勢捕らえて商人に渡し、代わりに安物の鉄砲やタバコや酒、ガラス玉と交換する。第三は首長が白人と組んで同胞を売り渡す、支那の買弁的行為である。

集められた悲運の奴隷達は海岸の奴隷貯蔵庫に格納され、奴隷船が来るのを何日でも待たされる。奴隷貯蔵庫の地獄絵のような悲惨の実態は、文化人類学者川田順造氏の『曠野から』の実態調査報告で知ることができる。奴隷船には複数の奴隷商人の商品(奴隷)が積み込まれるため、所有者の見分けがつくように、牛馬のように腕や腹に烙印を押され、二人ずつ鎖でつながれて暗い船倉に放り込まれる。船倉は天井が低く、立つことも横になることもできない。奴隷たちはそこに詰め込まれ、汗まみれ、くそまみれの生き地獄が待っている。だから航海中に半分以上は死亡した。死体は無造作に大西洋に捨てられ、魚の餌食にされたのである。

人道無視、国家ぐるみの大犯罪

十六世紀から十八世紀にわたる奴隷貿易は、欧州、アフリカ、新大陸の三大陸にまたがる三角貿易によってがっちりと組み立てられ、欧州に莫大な利益をもたらしたのである。参加した国は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの五ヶ国である。奴隷商人たちは、ヨーロッパから安物のビー玉、火器(銃器)、木綿の工業製品をもってアフリカ・ギニア湾岸にいたり、黒人奴隷と交換し、奴隷を南米ブラジルや西インド諸島で売り飛ばした。次にその金で土地の砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどの亜熱帯農産物をしこたま積んで、ヨーロッパに帰ってくるのである。三角貿易の完成だ。この貿易は一貿易で三重の利益が得られる。中でも最も巨利を博したのはイギリス、フランスであった。

奴隷貿易で最盛期を迎えるのは、十八世紀である。推計では十六世紀は九十万人、十七世紀は三百万人、十八世紀は七百万人、十九世紀は約四百万人が奴隷として売買されたといわれている。概算1500万人である。一人の黒人を新大陸に連れて行くまでに、五人の黒人が中途で死んだという恐るべき推計があるから、アフリカから働き盛りの黒人が数千万から一億人近く連れ出されたことになる。

黒人奴隷を一番多く移入したのはカリブ諸島で約40パーセントを占め、次に砂糖のプランテーション労働などのためブラジルへ38パーセントが運ばれた。残りはアメリカ南部のプランテーションである。アフリカは大きな大陸でありながら、現在世界一過疎の大陸になったのは、働き盛りの男子を大量に新大陸に奪い去られたからである。その後、十九世紀にいたるヨーロッパ列強の、アフリカ分割植民地支配を受けて、現在のアフリカの貧困、民族紛争も、すべて白人の勝手な収奪、不合理な民族分割の結果である。特に人身売買、奴隷貿易などの人類史上の大犯罪は、イギリス、フランスなどの国家自らが組織的に犯したのである。

なお十六、七世紀に新大陸から大量の金銀がヨーロッパに奪い去られていった。その過酷な鉱山労働に、インディアンと黒人奴隷が酷使された。ヨーロッパにもたらされた金銀は、やがて産業革命からヨーロッパ資本主義の原資となった。またこの金でヨーロッパ商人はアジアから香辛料、茶、ゴムなどを大量に買い入れて儲けた。これもアメリカ、ヨーロッパ、アジア大陸にまたがる三角貿易として、ヨーロッパに巨万の富をもたらしたのである。非白人の汗と血と苦痛の収奪、犠牲で支えられたことを忘れてはならない(P158~P164)


北米編

アメリカの領土拡張と、インディアン抹殺計画

南北アメリカ大陸のうち、イギリスの植民地となったアメリカ、カナダなど、英語圏の先住民をインディアンと呼ぶ。先にも述べたとおり、彼らは紀元前4万年から2万5000年頃、アジアから当時は陸続きだったベーリング海峡を通ってやってきた人達で、人種的には日本人と同じモンゴロイドである。ヨーロッパ人による北米の征服は、中南米より一世紀遅れて始まった。白人は先住民を野蛮人扱いしたが、彼らはアイヌと同じように、先祖の残してくれた自由の大地で、大自然に抱かれて伝統を守り、天真爛漫に楽しく平和に暮らしていた。そこへ突如、白人植民者が侵入し、インディアンの運命は一変するのである。

当時、北米大陸に侵略してきた白人はイギリス、フランス、スペイン人だった。だが、イギリス人(後のアメリカ人)と出会ったインディアンの運命が一番悲惨だった。なぜか。というのもフランス人はもっぱら毛皮にのみ関心があり、スペイン人は貴金属に関心があった。そのため彼らにとって、先住民の抹殺は得策ではなかった。ところがイギリス人の関心は、もっぱら土地だった。土地とは言い換えれば領土である。イギリスで食い詰めた移民たちは、新大陸で広大な土地を入手できるという会社の宣伝を信じて、はるばる大西洋を渡って来たのだ。ここにたちまち先住民との土地争奪戦が始まる。


インディアンには、もともと土地私有の観念はなかった。土地の権利、売却、譲渡、などの意味すら知らない。それをよいことに、イギリス人は無理矢理契約書に署名させ、合法的と称して騙し、脅して、次々にインディアンの土地を収奪していった。合衆国は建国以来、土地所有をめぐってインディアンと白人との間に結ばれた条約・協定は300を超えたが、そのほとんどすべてが、日ならずして反故にされた。アメリカ人に都合のいいときは合法性の証文に使われ、都合が悪くなれば即座に破り捨てられたのである。

メイフラワー号の移民をはじめ、当初の白人植民者の飢えと苦難を救ってくれたのは、友好的インディアンたちであった。トウモロコシやタバコ栽培を教えてくれたのはインディアンではなかったか。白人はその恩を、たちまち仇で返したのである。

1830年、ジャクソン大統領は、野蛮人の一掃のためと称して強制移住法を制定し、すべてのインディアンをミシシッピー川以西に立ち退かせた。ところが探検や調査が進むにつれて、ミシシッピー川以西も、以東に勝るとも劣らぬ資源の宝庫であることが判明した。かくて白人の幌馬車隊は、ミシシッピー川を越えて西へ西へと殺到した。。インディアンは白人の度重なる約束違反に激高した。その上、インディアンの命綱のバッファローを、白人は面白半分に撃ち殺してしまった。かくして西部を舞台に、凄惨なインディアン戦争がいたる所で繰り広げられることになった。

映画の西部劇は、この戦争を白人に都合よく正義の戦いとデッチ上げて描いたものである。「フロンティア」「開拓」の美名のもとに、西へ西へと進められたアメリカ領土の拡大は、力で先住民の土地を奪うことだった。インディアンの武力抵抗は、1876年にカスター中佐指揮下の第七騎兵隊の一個大隊を殲滅したリトル・ビッグ・ホーンの戦いで絶頂を迎える。しかし結局、圧倒的に優勢な合衆国軍の前に敗退を余儀なくされて、1890年のウンデッド・ニーのスー族約300人の虐殺事件をもって幕を閉じた。残った彼らは自由の天地を奪われ、狭い保留地(リザベーション)に閉じ込められた。大東亜戦争中、アメリカが日系移民のみを強制収容所に閉じこめたのと同じ不法な手口であった。

コロンブスが到達した頃、北米の先住民の人口は200万人から500万人で、その80~90パーセントは今の合衆国に住んでいたと推計されている。十七世紀以降、植民地建設が進むにつれて、とくに合衆国での殺戮と、白人がもたらした伝染病などによって、その数は急激に減少し、1890年頃にはわずか35万人にまで減ってしまった。その後、1924年ようやくインディアン市民権法が制定され、インディアンは、はじめて人間として認められた(P189~P192)


アメリカに連れてこられた奴隷達の運命

現代文明社会では、人喰いとか人狩り、人身売買は野蛮人のすることと教えられてきた。ところが文明人といわれる白人が、この500年間に行ったアフリカ黒人の奴隷狩り、奴隷貿易、奴隷売買、人家畜の行為は、国を挙げて計画的、組織的に行われたことで、人類史上からみて最も忌まわしい世紀の犯罪と断言しうる。そのことは前章でも述べたが、では新大陸に連れてこられたアフリカの奴隷たちは、どのような扱いを受けたのだろうか。

奴隷船から陸揚げされた奴隷たちは、奴隷商人に売り渡され、奴隷市場で家畜のように売りに出される。奴隷商人は、奴隷を鎖で数珠繋ぎにして町に乗り込み、目抜き通りで彼の「商品」のよさを宣伝して競売を行なう。価格は召使い用、農園労働者用など用途によって異なる。奴隷たちは衆人環視のもとで競売台に立たされ、馬を調べるように唇やまぶたをめくられ、時には裸にされて品定めをされ、有無を言わさず親子兄弟をバラバラにして売られていった。アフリカ人はどんな思いで耐えていたのだろう。

当時のアメリカ人にとって、奴隷の競売は財産作りの重要な手段であった。後の南北戦争のときの南軍の将軍たちの中には、奴隷商売で巨利を博した将軍が多かった。人身売買は、確かに人間の歴史とともに古くからある。しかし近代に入って、これほど大掛かりに組織的に、200年にわたって人間の売り買いを行ってきた国は、世界広しといえどもアメリカだけである。1860年、アフリカ人奴隷の総数は、19世紀初頭の4倍強、400万人になっていた。この急ピッチの増加は、南部の綿花生産量と軌を一にしており、奴隷の大半は綿花生産の労働者として投入されていた。そこから巨額な利益をあげた南部大農園主の豪華さは、映画『風と共に去りぬ』でお馴染だ。(中略)

奴隷たちは鞭打ちにおびえながら、一日中牛馬のように働かされた。しかし奴隷は家畜ではなく、白人と同じ人間だったから、非道な仕打ちに当然反抗した。反抗の型は三つ、第一がサボタージュ、第二が逃亡、第三が反乱、暴動だった。逃亡先は二つあった。白人の入り込めない湿地や森林に身を隠すか、奴隷制を認めない北部諸州やカナダへ逃げ込むのだ。逃亡は命がけだった。失敗し捕えられれば数百回の鞭打ち、焼印が普通。また逃げ切った奴隷の首には賞金がかけられ、生かすも殺すも捕えた者しだいというリンチも許された。

奴隷の反乱、暴動も多く、失敗して殺された奴隷も無数であった。1831年のナット・ターナーの反乱、1859年のジョン・ブラウンの武装蜂起など、歴史に名を残している事件は氷山の一角にすぎない。ジョン・ブラウンは絞首台上で「罪深いこの国の大罪業(奴隷制度)はただ流血によってのみ洗い清められることができると、私は確信する」と予言した。このことは、翌々年の1861年からの南北戦争で実証された。南北戦争では、実に70万人の血が流された。

オリンピックで黒人が活躍するもう一つの理由

リンカーン大統領による1863年1月1日の「奴隷解放宣言」で400万人の黒人奴隷は解放された。しかしそれは名目上の自由を得ただけで、実質的な人種差別は、現在まで続いているのである。1996年夏、オリンピックが米国アトランタで開催された。アトランタは南部奴隷市場中心の街、『風と共に去りぬ』の舞台、キング牧師の出身地で人口の過半が黒人という「黒人都市」である。

開会式の聖火ランナー(モハメド・アリ)も、聖歌の歌手も黒人、100メートルなど、短距離走の決勝のスタートラインに並んだ選手は、すべて黒人だった。かつて米国はアフリカから家畜として奴隷を買ってきて、南部の農園を開拓させ、それによって栄えた。より力持ち、足の速い者を選んで連れてきて、弱い奴隷は廃棄し、結婚もさせなかった。より強い奴隷を作るために、強い奴隷同士を掛け合わせるといったような、まるで家畜を品種改良するような手段を使った。黒人はもともと身体能力が高い上に、こうした「改良」によって、より強く速い者たちが生まれるのは当然であった。オリンピックにおける黒人の好成績は、こうした悲しい歴史を反映したものだともいえる。(P192~P197)

アメリカが侵略戦争を仕掛けるときの常套手段

西部開拓がほぼ終了すると、アメリカは、アメリカ独立に刺激されて独立したばかりの近隣の中南米諸国に、度重なる介入、侵略を行ないはじめた。まず、1845年、アメリカはメキシコから独立したテキサスを併合した。その後メキシコと戦争を起こし、(米墨戦争、1846年~1848年)、その勝利によってニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア州など、南部、西部の広大な領土を併合し、国旗の星の数を一挙に増やした。

この戦争の開戦の契機が「アラモ砦の戦い」だった。しかし、この戦いは、アメリカが自国のアラモ砦を囮にして相手を挑発し、わざとメキシコ軍に先制攻撃をさせ、自軍に相当の被害を出させたうえで「リメンバー・アラモ砦」を合言葉に戦争を正当化し、国民を鼓舞して反撃に移るというもので、これは、この先アメリカが侵略をするときの常套手段となるのである。

次いで1898年、米国は、ハバナを表敬訪問中の米戦艦「メーン」を自ら爆沈させ、2060人の乗組員を犠牲にし、これを敵がやったことにして「メーン号を忘れるな」を合言葉に国民を戦争に駆り立て、有無を言わさず、スペインに宣戦布告した。この米西戦争は、キューバの独立戦争を支援する名目で始めながら、実質的にキューバを保護領化してしまい、合わせてスペイン領のプエルトリコをも領有するものだった。これによりアメリカは、中南米諸国に対する軍事的、経済的支配を強化するための前進基地を獲得することが出来た。

アメリカの侵略、戦端の動機は、当初から一貫した手口を使ってきている。そのことは「アラモ砦」でも見たとおりだが、歴史に正当性を残したいため、そうした子どもじみた騙しの技巧をこらすのである。“真珠湾を忘れるな”も、ルーズベルトが「騙し討ち」という罠に日本をはめて開戦の動機にしたことは、今や世界の常識となっている。このことについて、大統領の長女の娘婿である、カーチス・B・ドール氏が語る真実のルーズベルトの言葉「私は決して宣戦はしない、私は戦争を造るのだ」が、すべてを物語っている(馬野周二著『操られたルーズベルト』プレジデント社)

この手は湾岸戦争でも使われたフシがある。イラクのフセインを騙し、クウェート進攻に誘い出し、フセインを侵略者に仕立てて世界に宣伝し、待ってましたとばかりアラビアに集中していた55万の米国の大軍を一挙に出動させた。用意周到の準備がなければ、あれほど手際よく大軍を動かし短期戦が出来るはずはない。日本をはじめ世界中から戦争協力の冥加金を集め、新兵器の商品見本市を果たし、大量の武器弾薬を砂漠に打ち込み、「死の商人」の在庫を一挙にカラにし、この戦争ビジネスは見事に成功、収支決算でおつりがきたそうである。この大芝居も世界はいまだに米国の聖戦だと思い込まされている。このようにアメリカ軍の戦争は、すべて敵が仕掛けたかのように宣伝し、止むなく立ち上がった聖戦に仕立てて、輝かしい歴史を残そうとする。アメリカはヤラセの名人なのである。

アメリカの太平洋進出と、ハワイ強奪

1898年の米西戦争は、極東においてアメリカがスペインを押さえて、アジアでの覇権を握る一大契機となった。すなわち米極東艦隊は、フィリピンのマニラ湾でスペイン極東艦隊を撃破した。米西戦争が始まった時、フィリピン人の独立革命家のアギナルドや、リカルテは、独立を助けてくれるものと米軍に大いに協力した。地元革命軍を利用してスペインに勝った米国は、一転、革命家を騙してフィリピンを米軍領土に組み入れてしまった。騙されたと知った革命家は、日本に援助を求めながら、激しいゲリラ戦を展開するのだが、目的を果たせなかった。

アギナルドやリカルテなどの先住民の独立戦争を鎮圧して、初代軍政長官に就任したのは、アーサー・マッカーサー陸軍少将で、その副官が息子のダグラス・マッカーサー中尉であった。さらにアメリカは、勢いにのって、太平洋の島々、ハワイ、グアム、サモア群島を奪取し、太平洋上に極東進出の多くの拠点を確保することができた。中でもハワイは先住民のカメハメハ王朝下にあって、明治以来、日本人の移民が多かったので、アメリカは日本に奪われるのではないかと危惧し、リリウオカラニ女王を騙して王朝を滅ぼし(1893年)、米領土に編入してしまった(1898年)。その折、ハワイの女王は明治天皇に救援を求めにきたが、日本には、まだ米国と戦う力がなく、見殺しにするより仕方なかった。

カリブ海域でもアメリカは、キューバに度重なる軍事介入をするとともに、パナマ、ドミニカ、ニカラグア、ハイチなどに介入した。かくしてカリブ海は米国の裏庭となった。中でも、1903年のパナマ保護領化は重大である。すなわち1914年、パナマにアメリカはパナマ運河を開通させたが、これによって大西洋と太平洋を結びつける重要な流通路を獲得し、南米大陸の航海権、通商権を完全に掌握することができた。さらには、いよいよアメリカは、太平洋から極東に向かって覇権を拡大するチャンスを得たのである。こうしてアメリカの侵略最前線は、はるばる太平洋を越えて、いよいよ日本の目の前までやってきたのである(P197~P202)



②へつづく

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