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今日ボクが見た風景

朝鮮人テロリストによる、国家元首・昭和天皇と皇族暗殺未遂 = 戦前 ②

Category: 日本国民の心得  
朝鮮独立派も、日本を戦争に追い込むべく、日本人マルクス主義者と共にテロ行為を展開していた。

 中国と朝鮮は、日本以上に戦争を必要としていた。

 5月15日 五・一五事件 。急進的青年将校は、財閥と組んで私腹を肥やす政党政治家を排除しなければ、日本の将来はないとして、テロやクーデターを計画した。

 国民は、窮乏している国民の生活を救済せず、不毛な政権抗争を繰り返す政党を見限り、口先だけで有効な政策を打ち出せない無能な政治家を信用しなくなった。政治不信におちいった国民は、腐敗した政党に代わって単純明快な軍部に変革を期待した。

 日本の軍国化は、軍部の責任ではなく、国家の舵取りをするという義務を放棄した無責任で無定見な政治家にあった。反省すべきは、真剣に国家の有り様を考えなかった政党政治家にある。

 8月20日 オタワ合意。英連邦諸国及び植民地行政府は、特恵関税制度を採用してポンド・スターリング・ブロックを形成した。自国の産業と労働者を外国(特に日本)の安価な商品から守る為に、国家が強権的に市場に介入すべきだと考えた結果である。

 国際市場において、開放的自由貿易体制を求める貿易立国日本は少数派で、排他的保護貿易体制を主張する欧米諸国が主流であった。対外依存度の高い日本は、満州事変ではなく、純然たる経済問題で孤立化した。

 9月 中国人の共産系抗日ゲリラは、日本資本が経営する撫順炭鉱を襲撃し、設備を破壊して従業員に多くの負傷者を出した。日本軍は、ゲリラ討伐の為に平頂山の集落を強襲し、抵抗する中国人住民700人以上を殺害した。

 10月 義烈団は、中国軍の支援を受けて、南京に朝鮮革命軍政治幹部学校を設立し、民族独立運動の活動家を多数養成して日本と朝鮮に送り込んだ。

 朝鮮人テロリストは民族主義者として民族の名誉と伝統を守るべく、反天皇派日本人の協力を得て第五列(情報収集活動及び後方攪乱や破壊工作)の為の地下組織を、日本と朝鮮で結成した。

 10月1日 宣教師は、反天皇反神社の立場から、日本軍の中国人への残虐行為を余すことなく全世界に宣伝し、哀れな中国人民への義捐金を募り、多額の寄付金を得て中国で布教活動を続けていた。宣教師は、血に飢えた日本軍の中国人への虐殺に対して、各地の日本領事に抗議文を送った。

*皇室に忍び寄る共産主義勢力 

 1933年1月18日 華族赤化事件。共産主義や無政府主義は、フランス革命時同様に、天皇・皇室身近に浸透していた。

 フランス革命において反国王派貴族は、無政府主義者の人民裁判に協力して、主君であった国王と王妃を強制的に退位させ、民衆の前でギロチンにかけて首を切り落とした。その後、数十万人が公開で処刑された。

 元首の座から引き摺り降ろされた国王や大統領の多くが、人民の名に於いてリンチにかけられて処刑されるのが、世界史の常識である。無事に、生き残った元元首はいない。

 1月23日 ニューヨークで、中国を支援する排日デモが起きた。各国の人権擁護団体も、中国共産党の抗日運動に触発されて日本への抗議デモを行った。各国政府は、対中貿易を促進するべく、中国の歓心を買う為に自国内の反日デモを自粛させる事はしなかった。

 アメリカの失業者は、1,600万人に達していた。

 欧州からの移民は途絶えず、移民が安い賃金で働いた為に高賃金で働いていたアメリカ人労働者は失職した。アメリカ人労働者や学生は、低賃金労働を行う移民の反対運動を起こした。一部が暴徒化して、商店を襲って放火や略奪行為を行い、下層階級の移民を襲撃して暴行した。その傷が原因で死亡する移民が出るや、移民側も自己防衛的に暴動を起こした。

 農産物価格の暴落で、農村も都市同様に疲弊していた。政府に救済を求める為に、全米各地で農民は暴動を起こしていた。

 ワシントンは、国内の治安を守る為に、警察と軍隊に各地で頻発する暴動の武力鎮圧を命じ、手当たり次第に暴徒を逮捕させた。

 人種差別主義の白人は、鬱憤を晴らす為に、ユダヤ人や黒人に対する凶悪犯罪を行い、時には殺人事件を引き起こしていた。

 都会では、汚職警官が私腹を肥やしていた。

 大都市のギャング団は、売春・賭博・密造酒による縄張りをめぐる抗争を激化させて流血事件を繰り返していた。

 都市の下町は、治安が悪化してスラム化し、犯罪者による強姦や殺人が日常的に起きていた。

 資産家は、雀の涙ほどの金額を慈善団体に寄附し、公然の面前でボランティア活動を行う事で、貧困者の敵意をかわすしていた。そして、身の安全を確保する為にマルクス主義者や左派系労働組合などの反体制組織に活動資金を提供していた。

 ソ連・共産主義陣営を財政支援したのは、欧米のユダヤ系国際資本であった。そして、ヒトラーとナチ党に活動資金を与えたのも欧米の金融資本であった。

 2月 総督府は、マルクス主義者の天皇を批判する意図を含んだ反戦運動を禁止すると発表して、朝鮮人から「言論の自由」を奪った。

 2月27日 朝鮮人テロリストは、3月1日に開催される満州国建国一周年記念行事で関東軍司令官武藤信義大将を暗殺しようとしたが、計画が漏れて逮捕された。

 ダレ神父「50人による陰謀は、たいていその共同謀議者の49人から漏れる」

 3月17日 上海虹口公園で、朝鮮人テロリストが中国駐在日本公使有吉明を暗殺しようとして狙撃するが、失敗した。

 3月27日 日本は、日本側の言い分を否定する国際連盟から脱退したが、孤立化を避ける為に理解を示す国々と二国間交渉を行い友好的協定を結んだ。特に、バチカンとの関係を重視した。

 5月 金九と蒋介石は、抗日戦で共闘を組む事に合意した。中国政府は、天皇暗殺を含む対日テロの成功率を上げる為に、洛陽軍官学校内に朝鮮人訓練班を設ける事を決定した。

 5月1日 戦前の日本は、欧米諸国に遅れながらも、弁護士法改正を公布して女性の社会参加への道を徐々に広げつつあった。女性の政治演説は、1022年の治安警察法改正で認められていた。

 内務省は、諸外国から非難を受けないように、婦人への参政権や農地開放及び相続権などの法整備に力を入れた。

 一部のマルクス主義系女性運動家らは、より過激に、男性の付属的地位に拘束されることの不条理を訴え、男尊女卑の儒教的社会風潮を打破すべきであると呼びかけていた。女性は男性にかしずくという考えは、欧米でも一般的社会通念であった。

 キリスト教世界では、宗教的家父長主義が常識であった。

 共産主義社会でも、女性の権利は政治的に利用はされても、実社会では男性上位が当たり前であった。

 6月 大甸子嶺事件。韓国独立軍(2,500人、鮮匪)と中国軍(2,000人、救国軍)は、親日派民間人を攻撃して1,600人中130人を虐殺した。会寧の第十九師団は、国境近くの親日派朝鮮人(約4,000人)を保護し避難させる為に出動した。中韓連合のパルチザン軍は、避難する住民達を襲撃して物資を略奪し、捕獲した住人を奴隷として売った。

 共産系パルチザンは、日本軍の後方で軍事物資の補給を妨害し、軍需物資の輸送路を破壊し、防諜活動で日本軍の通信を傍受して中国やソ連に通報していた。

 日本軍は、間島に近い治安不安定な国境地帯を掃討し、武器を持って抵抗する者を共産系匪賊(赤匪)として処刑した。

 1934年3月1日 上海臨時政府は、義烈団や韓国独立党などの諸勢力を一本化する為に、南京で対日戦線統一同盟大会を開催した。義烈団や韓人愛国団などのテロ組織も、協力してテロ攻撃を実行する事に合意した。

その頃、日本在住の朝鮮人は50万人を越えていた。当然の事ながら、不法上陸者数は不明であった。そして、日本人の半額という低賃金を武器に、下層階級日本人労働者の職場を奪っていた。

 9月1日 総督府は、全ての学校に対して、朝鮮人学生を「天皇の臣民」として鍛え上げる為に軍事教練の実施を命じた。

 1934年・35年 北日本で障害型冷害が発生して大凶作となり、農村経済は大打撃を受けた。零細農家や小規模農家は、一年に一回の農作物の収穫で生計を得ていただけに、収入の手段を失って地獄の様な悲惨な状況に追い込まれた。

 都市の投資家は、借金苦に喘いでいる農民から、二束三文で農地を買い叩いて不在地主 となった。地方の農地が生産緑地 としてではなく投機の対象となった為に、農地が切り売りされて農村は荒廃した。

 政府は、不況下にある都市産業の復興を優先し、多額の政治献金を行う投資家の便宜をはかって、農村救済費を小規模に止めた。

 農民は、娘を女郎屋に売ったり、猫の額ほどの農地を売却したりして、都市金融業者から借り入れた借金の返済に充てた。利息分は何とか払えても、高金利の元金は返済できなかった。無慈悲的な借金取り立てに苦慮した農民は、人生に失望して一家心中するか、生きる為に夜逃げをした。逃亡農民は、都市の同和地区・部落に流れ込んで低賃金労働者として生計を立てるか、反日的大陸に入植して武器を持つことなく不毛の大地の開墾に悪戦苦闘した。

 都市住民は、同和地区・部落に住む最下層の住民を駄目人間として軽蔑し、その身の上に同情するどころか嫌悪感を抱いて差別した。

 軍部は、強兵の供給地である農村の崩壊に危機感を感じ、農村救済に力を入れない政党政府への不満を募らせた。軍部は、小作人や零細農家を自立させ、中規模もしくは大規模な農家に育成するべく、農村の余剰人口(数百万人)を満州に入植させる計画を立てた。それが、悪名高い満州開拓団計画である。ゆえに、日本は農村型ファシズムともいわれる。

1935(昭和10)年 コミンテルン は、都市知識エリート層を支持母体とする日本共産党に対して再度、天皇制度の打倒と天皇に関する全ての抹消を命じた。神社など天皇につながりのある宗教施設と皇室に関係する文化・芸術・芸能も、全て破壊の対象とされた。それが、35年テーゼである。

 マルクス主義者は、天皇崇拝者の多い農村を切り捨て、反天皇意識の強い都市知的エリート層を中心として共産主義革命を起こそうとしていた。彼等は、都市労働者によるロシア革命を模倣しようとしたのである。

 9月 総督府は、朝鮮人学生を日本人以上の日本人に仕立て上げる為の精神修行の一環として、各学校に神社参拝を行うように通達した。

 国家神道による、宗教弾圧の始まりである。

 キリスト教徒は、絶対神への信仰から、国旗「日の丸」と国歌「君が代」を現人神・天皇につながる宗教性の強いモノとして嫌悪した。

*反天皇を掲げる共産主義者への容赦なき弾圧 

 1936年 中国各地で、日本人を殺害する成都事件などの暗殺テロが頻発し、同時に放火と略奪を伴った反日暴動も多発していた。

 略奪は、大陸に住む者の生存本能である。特に、中国人はその本能が旺盛である。

 2月26日 二・二六事件。反乱部隊内の左派系若手将校は、皇居を占領し、昭和天皇を拉致する計画を立てていた。そして、マルクス主義的革命軍事政権樹立の詔勅を得ようとした。昭和天皇が憲法を遵守して要求を拒否すれば、強制退位させるか暗殺して、昭和維新 の理想に共鳴する左翼的皇族を擁立しようとした。同事件は、ソ連の隠謀という説があった。

 昭和天皇は、青年将校らの心情を汲んで穏便に処理しようとする軍部に対して激怒し、断固として叛徒の鎮圧を命じた。それでも事なかれ主義的に曖昧に事態収拾しようとした為、自ら近衛師団を率いて征討に向かうと激しい勢いで決断を下した。

 軍部は、粛軍を実施して統帥を回復し、天皇中心の国體至上論を主張する極右の皇道派 を中央から排除した。同時に、軍隊内の思想弾圧を行い反天皇のマルクス主義者を逮捕して軍法会議にかけた。

 天皇制ファシズム体制を整える為に、軍隊内の皇族軍人を担いだ。皇族軍人は、軍部の強硬論に同調し、「国體護持」目的とした軍部の暴走に協力した。

 昭和天皇「皇族その他にも戦争論多く、平和論は少なくて苦しかった」(『独白録』)

 右翼・右派などの国粋主義者や軍国主義者は、血に飢えた悪鬼の如く「天皇の命令」を騙って日本を破滅的戦争へと導き、自己満足の為に「国益」と称して多くの国民を戦火に放り込んで焼き殺した。

 サミュエル・ジョンソン 「愛国心とは、ならず者達の最後の避難場所である」

 7月 コム=アカデミー事件。講座派学者を一斉に検挙した。

 11月25日 日本は、ナチス・ドイツの中国への武器輸出を停止させる為に防共協定を結んだ。ナチス・ドイツは、中国からのレアメタルを確保する為に、軍需物資を他国名義として香港に陸揚げして抗日中国軍に届けた。香港を植民地とするイギリスは、事実を知りながら黙認した。

 1937年 第一次人民戦線事件。山川均、加藤勧十ら労農派を一斉に検挙した。

 3月17日 総督府は、日本語を唯一の公用語とする事を各官署に通達し、朝鮮語の使用は一般会話の私語のみに制限した。日本語の公用化は、植民地支配の犯罪とされた。

 7月7日 盧溝橋事件。華北の共産系パルチザンは、日本軍(総兵力30万人)に戦争を起こさせる為に日本人居留民(1万7,000人)を襲撃していた。天津近くに駐屯していた中国軍は、天津市内の日本人租界に散発的に攻撃を加えていた。日本軍(5,000人)は、自重を要請する中央の命令を無視し、独自の判断で暴走して中国軍(14万人)を攻撃した。日中戦争の勃発である。中国軍(総兵力200万人以上)は、華北周辺の中国軍(75万人以上)に動員命令を出し、華中の諸部隊(数十万人)にも北上を命じ、日本軍殲滅を命じた。抗日中国人組織は、200万人以上を集めて抗日戦支援運動を開始した。

 7月23日 総督府は、半島全体に戦時体制令を発し、反日勢力への臨戦態勢に入った事を宣言した。

 7月29日 通州事件 。中国兵は、計画的に女子供に関係なく日本人居留民264名を虐殺した。中国側は、事件の原因は日本側にあると非難し、国際社会に訴えた。国際世論が、中国の言い分を認めたた為に、日本は孤立化した。

 8月14日 上海。スターリンの密命を受けた中国軍機は、日本租界を含む共同租界を爆撃して、多数の被害を出した。翌15日 日本海軍機は、中国軍に対して報復爆撃を行った。中国軍(40万人以上)は、自衛行動として、6,000人の日本人居留民を守る日本海軍陸戦隊(3,700人)への攻撃を開始した。ここに、第二次上海事変が勃発した。

 8月21日 中国とソ連は、日本を共通の敵として不可侵条約を締結し、対日攻守同盟の密約を交わした。それは、軍事同盟的意味合いがあった。

 ソ連は、抗日中国軍にヒト・モノ・カネの軍事支援を開始した。その資金は、アメリカの国際資本家から出ていた。

 9月 第二次国共合作 。国民党と中国共産党は、抗日民族統一戦線に合意した。抗日中国軍内の朝鮮人組織は、日本軍内の朝鮮人兵士の脱走を手助けし、日本軍補給部隊内の朝鮮人軍属から軍情報を聞き出していた。こうした経路で、日本軍の武器弾薬や軍需物資の一部が抗日中国軍に流失していた。

 10月1日 総督府は、「皇国臣民の誓詞」を制定し、朝鮮人を皇民化する為に暗記を徹底させた。そして、学校や職場で宮城遥拝と神社参拝を強制した。

 11月3日 ブリュッセル会議。アナトリー・コーシキン「西欧列強は、ソ連を日中戦争に引き込むことが最も都合が良いと考えていた」(『大国の攻防』P.23)

 12月13日 第二次南京事件。

 12月23日 総督府は、各学校、公官署、各職場に天皇の御真影を配付し、礼拝を強要した。

 1938年2月 第二次人民戦線事件。大内兵衛 ら教授グループ一斉検挙。

 2月23日 朝鮮軍司令部は、特別志願兵令を公布し、半島で天皇と国家の為に戦う兵士を募集した。日本人は、一等国民として「赤紙」一枚で徴兵された。朝鮮人は、愛国心や忠誠心に疑問があるとして、二等国民として志願制にとどめた。朝鮮人は、兵士としてではなく、軍属や通訳などの軍要員として現地軍との個人契約で雇用された。その数は、45年までに36万人以上に達した。

 在日朝鮮人総連合会は、600万人以上が軍属・軍夫・労務者として戦場に強制連行され、日本の侵略戦争に強制的に協力させられたと公式発表した。

 兵力数において劣る日本軍は、朝鮮人を仲間と信用して後方を任せるしかなかった。

 日本産業界も、労働不足を朝鮮人で補わなければ、戦争はおろか日常生活もままならない情況に追い込まれていった。

 3月4日 総督府は、朝鮮人のを日本人化するために、日本国内と同じ教育を行うために朝鮮教育令を全面的に改正した。

 中学校で公用語の日本語を必修とし、正しい日本語の発音を徹底的に教え込み、日本人以上に綺麗な日本語が話せる様に語学教育を強制した。一部の学校では、校内での会話は日本語のみと指導し、朝鮮語を全面禁止として、私語でも朝鮮語を話せば容赦なく制裁を加えた。

 矢内原忠雄 「私は、朝鮮普通学校の授業を参観し、朝鮮人教師が朝鮮人の児童に対して、日本語を持って日本の歴史を教授するを見、心中涙を禁じ得なかった」(『植民及植民地』)

 朝鮮語になかった近代用語は、中国語同様に日本語から借用した。創作的和製漢字がなければ、漢字文化圏では現代文は漢字表記できない。

 朝鮮語に日本語に似た発音があるのも、日本発の和製漢字をハングル表記に転換したからである。

 つまり、中国にせよ朝鮮にせよ、創作的和製漢字がなければ、近代化はもちろん文明開化も不可能であった。

 この点において、外国語を流暢に操る現代の日本人よりも、当時の日本人の方が外国語を話せなくとも尽きる事なき語彙を持ち、無限の発想力と旺盛な創作力を有していた。

 5月5日 日本政府は、日中戦争の勃発に伴い国家総動員法を成立させた。

 1939年 日本内地の日本人に対してのみに国民徴用令を施行し、内地の朝鮮人と朝鮮半島には適用しなかった。

 日本企業は、不足している労働力の補充の為に、「内鮮一体」のスローガンのもとで朝鮮人労働者の渡航規制緩和を求めた。

 当局も、国内の労働力不足を補う為に渡航取り締まりを撤廃した。

 日本企業は、低賃金で朝鮮人労働者の募集が可能になり、徴兵された日本人労働者の穴埋めに朝鮮人労働者を大量に雇用した。後に、企業による募集が統制募集とされた。

 結果として、身体機能を理由にして兵役免除とされた日本人労働者は、高賃金であった為に国内での仕事を失い、満州や中国各地に働き場所を求めた。

 40年には、100万人以上の朝鮮人が日本に働きに来ていた。45年の在日朝鮮人は200万人以上となり、一説には不法上陸者を入れれば約400万人とも言われた。

 5月13日 セント・ルイス号事件。アメリカは、ユダヤ人難民を乗船させたセント・ルイス号、オルディナ号、クワンッア号、フランダース号などの客船の入港を拒否した。入港を拒否された客船は、何れの国からも閉め出されて出港地のナチス・ドイツに戻った。乗船していたユダヤ人難民の多くが、ホロコーストの犠牲となった。

 赤の大粛清。スターリンは、1,000万人近くの反対派を反共産主義者として処刑した。

 5月(~9月) ノモンハン事件。中国は、ソ連に対して対日戦への参戦を要請した。

 損害 |  戦死 |  負傷    |  病死 |  行方不明| 捕虜|

・日本軍|7,720人|  8,064人|2,363人|1,021人| 不明|

・ソ連軍|9,703人|1万8,815人|  701人|1,143人|94人|

 ・日本側興安軍   |死傷者2,895人│

 ・ソ連側外モンゴル 軍|死傷者  566人|

 ソ連軍の捕虜となった日本人兵士の多くは、「捕虜の汚名」を恥じて、帰国せずソ連に移住したといわれている。

 欧米列強は、日本を中国市場から排除する為に、日ソ全面戦争に発展する事を望んだ。

 ナチス・ドイツは、ソ連に対して日ソ紛争の早期解決に助力する事を申し込んだ。

 山川出版社「ノモンハン事件では、日本の関東軍がソ連に大敗したことにより、陸軍当局は大きな衝撃を受けた」(『詳説 日本史研究』)

 7月8日 日本と朝鮮で、国民徴用令が公布された。

 7月26日 アメリカは、反日政策として、日本との通商航海条約の破棄を通告した。今後は、日本との貿易において如何なる保護義務を負わないと宣言した。対日輸出規制を強化して、日本の戦争継続妨害はもちろん、日本経済の妨害、そして日本人の生活まで悪化させた。

 8月23日 独ソ不可侵条約 締結。

 9月1日 ナチス・ドイツとソ連は、共同作戦をとってポーランドに侵略し、事前協議に従ってポーランドを分割して併合した。ソ連は、ポーランドの反共産主義者や民族主義者や宗教関係者など反ソ派数百万人を、「共産主義の大義」から人種・民族・身分に関係なく処分した。ナチス・ドイツは、人種差別の優生学に従ってユダヤ人とジプシーを対象にして迫害した。

 第二次世界大戦の勃発である。連合国は、ソ連を同盟国と認め、ナチス・ドイツを敵として攻撃した。

 11月10日 総督府は、同化政策の一環として、創氏改名を定める朝鮮民事令改正を法制化して公布した。日本人社会に入っても、朝鮮人とわからなくする為に、日本式姓名を持つ事を指導した。

 この年、朝鮮と西日本で旱魃が起きて凶作となった。

 政府は、国内の食糧不足を緩和させる為に、朝鮮産米の移出量増加を要請した。総督府は、天皇直轄機関として、朝鮮の食糧を確保する為に政府の要請を拒絶した。

 政府は、食糧の安定供給の為に、ユダヤ人商社が支配する仏印やタイからの南方産米の輸入量を増加させた。

 世界の穀物を支配していたのは、欧米のユダヤ系国際資本であった。

 これ以降、朝鮮の農産物生産量は回復する事がなかく減少を続け、朝鮮の食糧需給は逼迫した。反日派は、現状を認識せず、日本による略奪が行われていると猛反発した。

 朝鮮農民は、悲惨な生活状態に追い込まれ、低賃金労働者として日本や満州に渡った。

 1940年9月22日 日本軍は、北部仏印に進駐し、北部の穀物生産地帯を占領した。

 9月25日 アメリカは、中国に2,500万ドルの借款供与を行い、抗日中国軍への支援を増加させた。

 9月27日 A級戦犯・松岡外相は、ナチス・ドイツの対中国財政支援を完全に停止させる為に、ファシスト・イタリアを加えて三国同盟を締結した。軍部は、外務省に抗日中国からナチスに関係するドイツ企業群の影響力を排除する様に希望した。だが、ナチス・ドイツの対中支援は翌41年7月まで続けられていた。

 ユダヤ人は、反ユダヤ主義のヒトラーと同盟を結んだ日本と昭和天皇を敵と認識し、経済封鎖を強めながら日本を窮地に追い込んで行った。そして、軍国日本を破壊し、昭和天皇をヒトラーと共に犯罪者として葬り去る為の謀略を仕掛けた。

 中国は、ナチス・ドイツからの財政支援を止められた為に、同盟国ソ連に軍事支援を求めた。ソ連は、求めに応じて抗日中国に莫大な軍事費と膨大な軍事物資を送った。その支援は、アメリカとイギリスのユダヤ系国際資本から出ていた。

 アメリカやカナダやオーストラリアは、経済制裁としてパン用小麦粉の対日輸出を減少させた。日本はパン用小麦が生産できなかった為に、外国依存度は100%であった。

 11月7日 昭和天皇は、第38代天智天皇を祭神とする近江神宮 を創建。天智天皇は、斉明女帝の意志を継いで百済再建の為に軍隊を朝鮮に派遣したが、白村江の海戦で大敗をきした。古代日本は、国防意識から、軍事大国・唐の侵略を食い止める為に、同盟国百済の再建に国運をかけていた。島国日本は、古代から、世界的植民地帝国・中国の侵略を警戒していた。 

*キリスト教会の反日活動

 1941年 キリスト教徒日本人による靖国神社参拝拒否事件は、日本はおろか朝鮮や満州のキリスト教徒の間にも広がって、一般の神社への参拝反対運動に発展した。神社参拝拒否運動は、各地の神社に祀られている天皇神・天皇霊の神性を否定する事であり、現人神・氏神・祖先神信仰という民族宗教の骨幹を揺るがす宗教運動であった。

 神聖なる言葉を聴く事に喜びを見出す朝鮮人キリスト教徒は、植民地支配を受ける朝鮮人の心を全能なる絶対神の愛に向け、信仰の自由を守る為に神社参拝を拒絶した。朝鮮での神社参拝拒否運動に、2,000人以上のキリスト教徒が参加し、反日諸団体もこれに同調した。

 総督府は、民族宗教・神道を守る為に普遍宗教・キリスト教への締め付けを強めた。神社参拝否定を表明する200以上の教会を閉鎖し、神社参拝を拒絶するキリスト教徒を全員逮捕して投獄した。50名以上の朝鮮人牧師は、絶対神への信仰から、異教の神を祀る神社への参拝を頑なに拒否して獄死した。

 一部のキリスト教会は、宗教弾圧を回避する為に、やむをえず神社参拝を容認した。

 敬虔な信仰を持つ日本人と朝鮮人のキリスト教徒は、異教徒との妥協は唯一絶対神への冒涜であると激怒し、表面的にしろ参拝を容認したキリスト教会に反発した。原理主義的キリスト教徒は、マルクス主義者と協力し、知り得た限りの国家機密や軍事情報を国外の反日組織に流した。こうして、日本の最高機密情報が連合国側に筒抜けとなった。 

 日本政府は、友好関係にあるバチカンに配慮して、神社参拝を拒否する反天皇的キリスト教徒に対してあからさまな弾圧を避けた。

 天皇も、事態を悪化させて、教皇を不快にする事を望まなかった。

 4月13日 日本は、ソ連と中立条約を締結した。A級戦犯・松岡外相は、ソ連軍を中国から排除して欲しいという軍部の要請に従い、同条約に書き加えた。ソ連は、対独戦に備えて抗日中国軍への軍事支援を中止し、抗日戦に参加させていた部隊を撤兵させた。

 日本軍は、条約にもとずき、友好関係にあるソ連に配慮して中国共産党への攻撃を控えた。中国共産党も、日本軍との衝突を避けながら解放区の拡大に力を入れた。

 毛沢東は、日ソ中立条約の成立を歓迎し、極秘に中国をポーランド方式で解決する事をモスクワに提案した。

 蒋介石は、中国が日本とソ連によって南北に分割されるとして危機感を抱き、戦後の中国市場を餌にアメリカに支援拡大を訴えた。

 モスクワの首脳部は、日本をアメリカとの戦争に追い込む様に、アメリカ、日本、中国の共産主義者に指示を与えた。

 日米戦争は、日本が如何に回避に努力しようとも避けられない戦争となった。

 6月22日 独ソ戦勃発。ソ連軍は、日本軍には対ソ戦参戦の意思はないとのゾルゲ情報を得るや、極東軍主力をヨーロッパ戦線へと急送させて反撃準備を急いだ。

 ゾルゲは、日本政府や軍部中枢から有力な機密情報を得ていた。

 アメリカは、対独戦用の膨大な支援物資を、戦争が勝利する45年までシベリア鉄道を使って送り続けた。

 日本政府は、ナチス・ドイツのシベリア・ルート遮断要請を無視して、アメリカの軍需物資輸送を黙認した。松岡外相(A級戦犯)は、信義なきソ連と同様に条約を平気で破棄するナチス・ドイツより、アメリカとの戦争を回避する為に日米交渉成立を優先した。

 7月~9月 混合型冷害が起き、大凶作となった。農村の被害は、34年・35年に匹敵するものであった。

 大正末期から、国内の食糧生産が人口爆発を補う事ができず、日本は食糧不足を国際市場からの輸入で補充していた。穀物市場を支配していたのは、欧米のユダヤ系穀物商社であった。

 日本の食糧生産能力からの自給可能な人口は、最大で7,000万人とされ、理想は5,000万人と計算されていた。日本は、潜在的な飢餓状態にあった。

 総督府は、朝鮮内の食糧確保を優先して、朝鮮産米の日本への移出増加要請を拒否した。

 日本は、食べて生きる為に国外からの食糧輸入量を拡大させた。

 政府は、食糧の逼迫状態を隠すことなく国民に知らせ、米消費を減らす様に訴えた。食糧暴動が起きない様に、外交努力で南部仏印から大量の南方産米を輸入する事を発表した。

 経済制裁としての「在外日本資産の凍結」と「石油購入の遮断」は、海外依存度の高い日本の「餓死地獄」を意味していた。

 政府と軍部は、軍需産業を中心とした都市産業の新たな労働力として、出来る限り貧困農家の子弟を吸収する事にした。こうして、地方から都市への集団就職が始まり、娘を女郎屋に売るという民族的宿痾ともいうべき人身売買は消滅した。

 だが、都市産業で低賃金を武器として労働の主力となっていた朝鮮人労働者は、農村救済策によって勝ち取った職を失った。同和地区・部落で生活していた朝鮮人労働者は、日本人青少年を働かせるには忍びない地方の苛酷な炭坑や工場などに、半強制的に転職させられた。危険度の高い作業現場では事故が多発し、多くの朝鮮人労働者が犠牲となった。朝鮮人労働者は、家族を養う職を奪い、差別し迫害した日本人への憎悪を募らせ、反日地下抵抗組織に協力した。

 自己本位の朝鮮人にとって、日本人の子供が生き様が死のうが、少女が女郎に売られ半殺しめに合おうとも、永年かけて差別に負けず勝ち取った自分の権利こそが全てであった。

 キリスト教会は、昭和天皇と軍国日本への敵意を持つ朝鮮人労働者の間で布教活動を進めた。こうして、洗礼を受ける者は日本人よりも朝鮮人に圧倒に多かった。

 6月25日 アメリカ、対日制裁を発動して、在米日本資産を凍結し、「石油の輸入」と「食料の購入」を全面禁止とした。イギリスとオランダも、在外日本資産を相次いで凍結した。それは、輸入制限のABCD包囲網ではなく、輸入を遮断する日本封鎖であった。地球上の石油を支配していたのは、ロックフェラー財閥とユダヤ人石油資本であった。

 6月28日 日本軍は、大穀物生産地帯であるメコン・デルタを有する南部仏印に平和進駐した。

 9月6日 御前会議は、対米英戦争 を辞さないという『帝国国策遂行要綱』を決定した。

 ソ連は、日本外務省内のシンパでコードネーム「エコノミスト」と呼ばれた高官から、極秘会議である御前会議の最高機密情報を入手した。アメリカにも、その御前会議の決定事項が数日中に伝えられていた。

 日本軍は、情報の重要性が理解できなかった為に、情報戦に敗北したといわれている。

 何時の時代でも、日本はスパイ天国として、国家機密や軍事情報が敵に漏洩していた。

 前線においても、わざと敵軍の捕虜となって日本軍部隊の作戦情報を流し、敵軍に寝返って日本軍と戦った元日本軍兵士がいた事が報告されている。

 中国共産党の八路軍にも、日本軍脱走兵が少数ながら参加していた。

 日本人共産主義者は、捕虜となった多くの日本軍兵士を反天皇闘争の戦士にすべく洗脳していた。

 9月30日 ルーズベルトは、チャーチルとスターリンとの約束に従い、日本との戦争は不可避との最終決断を下した。ノックス海軍長官とスチムソン陸軍長官に対して、日本への宣戦布告前無差別爆撃計画(陸海軍合同委員会計画JBー355)について秘密覚書を送り、11月に中国機と偽装したB-17爆撃機編隊で日本本土先制爆撃が開始できる様に、必要な人員及び資材を中国に配備する事を許可した。

 アメリカは、中立の立場にありながら、交戦状態にある中国を公然と軍事支援していた。つまり、アメリカはすでに日本と戦闘状態に突入していたのである。

 10月18日 昭和天皇は、絶望的な対米戦争を回避する為に東條英機(A級戦犯)に組閣を命じた。東條首相は、昭和天皇の平和への希望に沿うべく、屈辱に耐えても交渉を妥協しようとした。だが、日本人としての「体面」と日本民族としての「名誉」だけは、死んでも譲る気はなかった。

 日本民族は、皇室と国家を守るという祖先への責任から、平和の為に国家消滅を受け入れたチェコスロバキアの二の舞だけは避けたかったのである。

 11月30日 「中国・朝鮮人民同盟」の韓吉寿は、アイオワ州選出上院議員ガイ・ジレットや国務省 に対して「日本は、クリスマス前にハワイを攻撃する作戦を立てている」と警告した。

 日本海軍の極少数の高級幹部しか知り得ない最高機密事項が、極秘の内に朝鮮人の手によって国外に持ち出されていた。

 真珠湾奇襲攻撃は、昭和天皇も東條英機首相も、政府も外務省も陸軍も知らない極秘計画であった。

 リーダース・ダイジェスト「日本とは、中国以上に無秩序な国で、教養は乏しく民度は低い」

 12月8日 日本は、「戦わずに亡国になるよりは、死力を尽くして亡国になる」道を選び、勝つ見込みのない対米英戦争に突入した。

 サムライは、「留まるも地獄、進も地獄」なら、死なない為に武器を捨てて奴隷となるよりは、武士の面目として戦って死ぬ事を選んだ。

 サムライでない実体を持たないあやふやな日本人のみが、一か八かの武士道精神・特攻精神を否定する。

 日本は、国民総生産でアメリカの13分の1しかなく、戦費は6分の1しかなかった。

 日本は、全ての面でアメリカに比べて小国であり、軍事力も劣っていた。

 日本人は、飲まず食わずのひもじさに耐えながら、有り得ない勝利を信じて、国際社会に対して宣戦布告した。逃げも隠れもせず、身を晒し、正々堂々と、膨大な物量を持ち最新兵器を装備した連合国軍に対して、小銃器や竹槍で万歳突撃を繰り返した。

 「窮鼠、猫を噛む」の譬えの如く、弱い者ほど開き直って一致協力して行動する時、計り知れない攻撃力を発揮する。日本民族とは、そうした常識を無視する民族である。

 日本は、何時の時代でも、大国によって崖プチに追い込まれ、たえず味方のいない背水の陣に孤独に立たされていた。

 日本民族の強さとは、孤立無援の孤独に耐え、自分を信じきって行動する無鉄砲さにあった。

 日本にはすでに100万人以上の朝鮮人が生活し、戦況が進につれて労働不足の日本に渡る朝鮮人が急増した。45年までに、236万人以上(一説に400万人)が日本に渡った。

 水野直樹「暴力をともなう動員が行われたことは、当事者の証言だけでなく、当時の内務省嘱託職員が書いた文書からも裏づけられる。……中国の占領地から暴力的に中国人を連れてきたのとは異なる面があるにせよ、植民地からの労働者動員も強制性の濃いものであることは否定できないのである」(『日本の植民地支配 Q14 植民地労働者の戦時動員は強制ではなかったのか?』)

 片野次雄「労働力補充のための人狩り、奴隷狩りも、聖戦と称された戦争の長期化にともなってはげしさを増した。……町の大通りや田畑のいなかから、突如として、朝鮮人青年のすがたがつぎつぎと消えた。強引な拉致が大半だった」(『1010ー2010 日韓併合』P.283)

 日本の警察当局と憲兵隊は、キリスト教会を情報漏洩を行う危険性があるとして監視を強化した。

 バチカンは、世界中のキリスト教会からあらゆる情報を入手し、日本の行動を全て知っていた。

*太平洋戦争における反日派朝鮮人の蠢動

 12月10日 上海臨時政府は、中国を支援する為に対日宣戦を布告した。抗日独立軍である光復軍は、抗日中国軍と協力して各地で日本軍と勇猛果敢に戦っていた。

 朝鮮人テロリストは、直接攻撃としてのテロ行為を止め、日本軍の情報を収集して連合軍に通報した。

 12月26日 中国政府は、上海臨時政府を公式に認め、正式に財政支援を開始した。

 1942年2月 戦争の激化で日本人労働者が不足した為に、朝鮮でも徴用令が施行され官斡旋が始まった。

 10月1日 総督府は、反日運動容疑で朝鮮語学会員を大量に検挙した。

 1943年1月 カサブランカ会議。アメリカとイギリスは、無条件降伏の原則を発表し、昭和天皇を戦犯として裁く事を示唆した。一部の報道機関は、昭和天皇を終身刑か死刑が相当であると伝えた。

 連合国は、日本に対して二者択一を強要した。一人の昭和天皇の命と数百万人の日本人の命と、何れかを選択せよと。

 日本は、連合国の要求する「無条件降伏の原則」に愕然とし、「国體」を守る為に最後の一人になるまで戦い抜く事を覚悟した。伝統を重んずる日本人にとって、天皇の命は自分の命を犠牲にしても守るべき貴重な命であった。

 3月1日 軍部は、戦力不足を補う為に朝鮮で徴兵制を施行した。

 10月20日 総督府は、朝鮮人学徒兵制を実施した。半島内の朝鮮人学生を兵舎に収容して軍事訓練を開始するが、非協力的な為に実戦に投入できるところまで鍛えられず、朝鮮人学徒兵は半島を出る事がなかった。

 片野次雄「朝鮮人の軍人教育は、必ずしもうまくはゆかなかった。……朝鮮兵に武器を持たせて集団化させれば、いつ民族解放運動に奔るかわからないというおそれがあった」(『1910─2010 日韓併合』P.282)

 11月27日 カイロ会談。アメリカ、イギリス、中国の三首脳は、「日本への無条件降伏要求」と「朝鮮を自由かつ独立させる」ことに合意した。

 1944年2月8日 朝鮮においても、総動員法にもとずく全面徴用が実施された。だが、民間船の多くが軍の輸送船に転用されていた為に、人やモノの移動は思うように進まなかった。

 連合軍の攻撃により、日本と朝鮮・満州間の海上輸送網は安全ではなくなりつつあった。

 7月7日 サイパン島 の陥落。アメリカ軍に追い詰められてたが、日本人は兵士も民間人も共によく戦い、そして玉砕した。

 連合国軍は、総力戦で、兵士や民間人に関係なく皆殺しにしていた。日本政府と軍部は、戦場となる危険のある沖縄から一般市民を避難させる事に決めた。そして、対馬丸や病院船の悲劇が生まれた。

 サムライを愛する日本人は、如何に不利な戦況にあっても、救援がない事がわかっていても、けっして諦めず、最後の勝利を信じて戦い抜いた。約束を破り、仲間を裏切り、相手の背後に回って後ろから短剣を突き刺す卑怯な真似を、「恥」として最も嫌った。

 連合国は、日本人兵士捕虜を取らない事を暗黙の了解事故として進撃していた。そして、各地で日本軍は玉砕し、非戦闘員である日本人居留民も自決した。

 日本海軍の敗北が続き、制海権と制空権が弱まるや、各海域で護衛のない輸送船は攻撃を受けて撃沈された。船舶不足となり輸送力は激減し、日本の敗退は明らかとなった。

 日本国内の食糧不足も深刻となり、南方はもちろん朝鮮からの米の輸送量は減少し、食糧供給は悪化した。

 日本は、飢餓状態に追い込まれたが、国内で一人の餓死者を出す事はなかった。戦場で大人は戦死もしくは餓死したが、国内の女子供はひもじさに苦しんだが餓死しなかった。

 日本男子は、将来ある子供達の命や最愛なる家族を守りたいという純真な精神で、特攻機に乗って戦死した。

 8月23日 総督府は、女子挺身隊勤務令を公布したが、日本へ渡る航路は安全ではなく、強制連行された朝鮮人少女を日本の軍需工場に送る事ができなくなっていた。中国・満州と朝鮮間での移動は、安全であった。

 ここに、後の従軍慰安婦問題が発生した。

 9月 朝鮮人テロリストは、地下秘密結社「建国同盟」を結成した。サンフランシスコからの朝鮮語放送で、戦況を逐一知り、日本軍が敗走している事を日本国内で言い触らしていた。

 日本人は、日本の敗北の噂が流れても、最後には神風が吹き勝利する事を頑なに信じて戦い続けた。

 日本人は、頑固で、頑迷で、一度信じた事は決して変えようとせず、どんなに苦しくとも歯を食いしばり、諦めず、死抜きで信じ切って行動した。

 日本人は、臣民として、天皇を信じ、天皇を守る為に戦っていた。日本人は、靖国神社で、大忠臣・楠木正成(湊川神社)の様に「七生報国 」を誓った。

 11月24日 B29による東京初空襲。連合軍は、全ての都市を無差別絨毯爆撃し、女子供に関係なく日本人を焼き殺した。

 7月~9月 遅延型冷害が発生し大凶作が起きた。

 日本は、生きる為の食糧を国外に求める事ができなくなり、餓死地獄におちいるのも時間の問題となった。

 1945年 連合国の潜水艦や攻撃機による海上封鎖が強化されるや、日本周辺海域も安全ではなくなった。日本と朝鮮との日本海航路も寸断され、日本に向かう朝鮮人労働者は激減し、食糧の移送も不可能となった。

 4月30日 独裁者ヒトラーが自殺し、指導者を失ったナチス・ドイツは崩壊した。

 ソ連軍は、ベルリンを占領した。ソ連兵は、生き残ったドイツ人女性を強姦し、瓦礫の中から貴金属を略奪し、抵抗する者は容赦なく射殺した。共産主義者が占領した地域は、一時期、無法地帯の様に強姦や略奪が行われた。

 5月7日 ドイツは、政府と国家が崩壊した事を認めて、連合国に無条件降伏して占領下に入った。

 6月 花岡事件 。中国人による暴動。

 8月9日 ソ連軍は、日ソ中立条約を無視して満州に侵攻し、日本軍を攻撃して、逃げ遅れた日本人入植者に襲いかかり強姦し殺害した。日本人共産主義者は、被害を受ける日本人入植者を見捨てて、ソ連軍兵士の残虐行為を黙認した。

 8月15日 日本は、「国體護持」を条件としてポツダム宣言を受諾し、降伏した。

 天皇とA級戦犯は、血に飢えた共産主義者の魔の手から神国日本と日本民族を守る為に、神風特攻や万歳突撃や玉砕等の絶望的戦術で戦って敗北した。

 J・トーランド「敗北が分かっていても、日本軍は攻撃の手を緩めなかった。玉砕という名の全滅を覚悟していた」

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