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今日ボクが見た風景

摂政宮裕仁皇太子・華族暗殺未遂=大正 ②

Category: 日本国民の心得  

*摂政宮裕仁皇太子暗殺テロ

 ソ連は、日本の知識エリート層をマルクス主義に洗脳する為に、各帝国大学の教授陣を左派系で占める為に工作員を送り込んでいた。

 マルクス主義者は、「内部から崩壊させる」の革命戦略から、日本人を愚民化する為に敵である官僚や軍人や右翼・右派の民族主義組織に潜り込んだ。

 日本共産党員は、警察当局の不当な思想弾圧によって打撃を受けたように見せ掛け、言葉巧みに天皇への忠誠を誓い転向したように偽装工作を行った。

 転向組は、高学歴の上に裕福な家庭出身者が多いだけに、合法的に政府の上層部に政策顧問として受け入れられた。それ以外の者は、警察の監視はあったが、地方の役場や民間の諸団体に採用された。炭坑や工場などの重労働の労働者の仲間に入った者は、極一部に過ぎなかった。もともと、マルクス主義者は高学歴の裕福な知識人が大半で、貧しい労働者は少数であった。それは、世界共通の事実であった。

   ・   ・   ・  

 コミンテルンは、日本人内通者に日本政府を転覆させ、天皇制度を解体し、皇室一味を皆殺しにして流血的共産主義革命の実行を示唆した。

 ロシア共産党 は、日本政府に対して、被災者救援物資を満載した輸送船を派遣すると申し込んだ。その実は、多数の革命工作員や破壊活動家を潜入させる事が目的であった。

 日本は、天皇暗殺テロの破壊工作員が潜入する事を恐れて、ソ連船の東京・横浜両港への入港を拒否した。共産圏以外の諸外国からの救援船の入港は、歓迎した。

 治安当局は、コミンテルンが国内の共産主義者や反天皇主義者に働きかけて暴力的共産主義革命を起こそうとしているとして、警戒を強めた。

 同時に、ソ連からの支援があった事を報道して、生活苦にある被災民が共産主義への親近感を深め、皇室への猜疑心が蔓延する事を恐れて、ソ連船来航の事実を隠蔽した。

 9月25日 新聞は、甘粕憲兵大尉が同月16日に無政府主義者大杉栄を殺害した事を報道した。

 9月27日 政府は、社会を安定させ経済を回復させる為に帝都復興院を設置し、復興の為に全力をあげた。そして、アメリカや中国などの自由主義陣営からの支援を受けたが、ソ連からの支援は共産主義勢力の拡大に繋がるとして断った。

 反天皇派日本人は、ソ連からの支援を受けられなくなったが、社会の混乱こそ共産主義革命の好機として独自の活動を活発化させた。

 9月29日 日本赤十字の代表を務める節子皇后は、国家元首である重態の天皇になりかわり、被災者を収容している施設や怪我人の治療している病院を見舞い、復興に邁進する市民を励まして回った。皇后は、光明皇后 の「慈愛の心」で被災者の救済にあたった。そして、12月19日に沼津の御用邸に向かうまで、女官達のすすめを断って夏服を通した。「被災者はまだ着の身、着のまま出いるでしょう。わたしも今しばらくこのままでいます」

 皇室は、どん底の境遇にある被災者に寄り添い、彼等の話に耳を傾ける事で、絶望の中に希望の火を灯した。不幸の中にあっても、被災者に生きる力を与えた。被災者にとって、天皇・皇室は希望の光であった為に、感謝こそすれ、悪口を言い募り呪いの言葉をかける者はいなかった。

 天皇神話を否定するマルクス主義者は、皇后の「止むに止まれぬ気持ち」「惻隠の情」による救済活動を偽善であると軽蔑し、夏服をとおした事を「痩せ我慢」と嘲笑い、天皇と皇室のお恵みに感謝する必要はないと攻撃した。彼等は、神道的な「情緒」を最も嫌った。

 臣民である日本人は、皇后から励ましのお言葉を賜って恐縮し、身の不運を言い募り悪態をつくなどの不敬な言動は慎んだ。日本国籍を持つ国民は、神前で真剣に祈りを捧げる天皇と一体となって災厄を乗り切る事を誓い、2600年間続いた敬愛する皇室に害なす者を排除しようとした。それが、世に言う自国中心主義の天皇制ファシズムである。

 11月10日 摂政宮裕仁皇太子は、5日後に戒厳令が解除されるにあたり、帝都の復興により国民の安心感と震災の傷から立ち直ろうと活気づいたこの時期に、浮ついた安堵感を戒め、個人の利益を捨て公に尽くし、国家の興隆と民族の繁栄と社会の福祉を図るようにとの、詔書渙発 した。

 全国に府県長官会議である地方官会議で、摂政宮は天皇の名代として出席し、気を引き締めて難局に当たる様に詔書を下した。出席者は、「臣民」としての責務を全うし、皇室の安泰と、国家の安定と、国民の安寧に、全力を尽くす事を誓った。

 11月25日 朝鮮人留学生を中心とした在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班は、虐殺に関する実態調査を極秘に行って報告書をまとめた。報告書は、6,661人の同胞を殺害したのが一般の日本人が組織した自警団や青年団であるとし、虐殺を止めなかった日本政府と日本人を告発した。

 朝鮮人テロ組織は、「日本人が罪もない朝鮮人を殺した以上、朝鮮人が犯罪者日本人を殺害するのは、当然の権利である」と結論づけた。

 佐野眞一 「国際世論も日本非難の論調を強める構えをみせはじめた」(『巨怪伝』)

 12月 アメリカ連邦議会の下院は、日本人移民の帰化権否定や既得市民権剥奪といった絶対的排日移民法案を反対意見もなく可決して、上院に回した。

 12月27日 虎ノ門事件。無政府主義者難波大助は、帝国憲法に従い第48回通常国会の開会式に向かう摂政宮裕仁皇太子を虎ノ門交差点で狙撃するが、暗殺に失敗した。

 テロ趣意書、「権力階級の圧制と暴虐の道具─資本家階級の搾取と非人道の守り本尊である天皇一家の存在が、日本社会革命遂行の最大妨害物である」

 無政府主義者とは、流血を持って現体制を打倒し、大流血を持って社会秩序を破壊しようとする、暴力信奉者である。無政府主義者の目的は、大量の血を流して社会を恐怖で混乱させる事で、自分の欲求不満を解消する事であった。

 大正天皇の容体悪化が報道されるや、共産主義者や朝鮮人テロリストの活動が活発化したが、警備当局は暴動を恐れて共産主義者や朝鮮人テロリストのテロ行為を国民から隠した。

 権力者は、情報を操作して、国民の「知る権利」を圧殺した。

 山本権兵衛首相は、関東大震災からの帝都の復興と民心の安定に全力をあげていたが、虎ノ門事件の責任を取って翌24年1月7日に辞職した。

*天皇を殺害する為に、日本に迫り来る共産主義の魔の手 

 東アジアの知識人とは、都市の読書人であり、正統派儒教価値観から農民を無教養で救いがたい小人物と馬鹿にし軽蔑して差別した。

 初期の中国共産党は、都市の知識人エリートを党員として結党された為に、活動方針から農民解放運動には消極的であった。

 1924年1月 中国の孫文 は、国民革命の為に「連ソ・容共・扶助工農」の3大政策を発表して、ソ連の軍事支援を受けるべく契約を結んだ。第一次国共合作 である。孫文はソ連軍約10万人の派兵を要請し、ソ連は政府や軍の要職に中国共産党員を加える事を要求した。

 辛亥革命 を支援してきた日本軍は、国防の最重要課題から、中国の共産主義化に神経を尖らせていた。親中国派軍人は、ソ連・共産主義勢力と同盟を組んだ孫文を見限り、反共産主義の親日派指導者による中国再統一を希望した。

 漢口租界事件。日本人商会で働く中国人使用人が、日本総領事館警察の留置場で首吊り自殺した。中国共産党員は、日本人巡査が拷問的取調べで殺したと誇張して、反日運動を煽った。中国人暴徒は、日本領事館を襲撃し、日本人警察署長を負傷させ、館内を破壊して略奪行為を行った。中国当局は、公式の場で治安回復を約束したが、実際は如何なる行動も取らず傍観するのみであった。日本は、「独立国の体面」として、陸戦隊を上陸させて館内の暴徒を排除した。対日強硬派は、「主権国家としての面子」が潰されたとして激怒し、責任は事件の発端を作った日本側にあると抗議した。日本外務省は、内政不干渉を原則として事件を不問に付し、現地軍にはそれ以上の軍事行動を取らない様に命じた。

 日本人居留民は、如何なる迫害を受けようとも泣き寝入りして耐える事を、自国の政府と外務省に強要された。

 1月4日 朝鮮人テロリストは、関東大震災における朝鮮人虐殺に抗議する為に、東京朝鮮YMCA会館に近い皇居二重橋に爆弾を投げて炸裂させた。

 上海臨時政府も、31年に独自のテロ組織「韓人愛国団」を結成し、天皇と要人暗殺のテロ活動を本格化させた。朝鮮人テロリストは、上海系の「韓人愛国団」と満州系の「義烈団」のいずれかに所属して活動していた。

 4月14日 アメリカ議会は、ドイツ優生学思想にもとずく人種差別から、日本人を「市民権を取得する資格のない外国人」と認定し、日本人移民の帰化権否定や既得市民権剥奪といった「絶対的排日移民法」を成立させた。

 日系アメリカ人は、国民の義務として、軍隊に志願し、大戦で戦って市民としての諸権利を獲得した。だが、その権利が全て剥奪され、帰化不能者のレッテルが貼られた。

 如何なる人権擁護団体も差別反対市民団体も、排日法案には反対しなかった。

 裁判所も、明らかに「自由と平等」を謳う憲法に違反する差別法案であったが、民意に従って合憲であるとの判決を下した。

 7月 外モンゴル は、共産主義を受け入れて人民共和国となり、ソ連の傀儡である衛星国となった。

 コミンテルンは、プロレタリア革命の大義から、民主主義者、民族主義者、自由主義者 、宗教関係者、親日派などの反共産主義勢力を根絶やしにする様に厳命した。共産主義者モンゴル人は、モスクワの命令に従って同胞を容赦なく大虐殺した。

 日本軍部は、天皇を殺し、日本を破壊しようとしている共産主義勢力が、日本に迫りつつあると警戒した。

 1925年 中国は、血みどろの内戦によって社会秩序が崩壊して、地獄の様な惨状になっていた。脱走兵や敗残兵が、匪賊となって各地で各地を荒らし回っていた。匪賊・馬賊・海賊などの総数は、2,000万人以上といわれた。

 数百万人の戦争難民や災害被災者は、浮浪者となって北京・南京・上海などに流れ込んだ。各都市は、例外なく中国政府と警察機構ではなく、アヘンと人身売買で莫大の利益を得ていた中国人秘密結社が支配していた。犯罪者の魔窟と化した都市は、華やかな頽廃した文化の裏で殺人などの凶悪犯罪が絶えなかった。

 治安が保たれていた都市部の租界も、大量の難民が押し寄せた為に急速に治安が悪化した。共産主義勢力は、崩壊し始めた租界で愛国主義による排外民族運動を煽り、各所で暴動を組織して破壊活動を行っていた。

 1月 日ソ基本条約調印。日本政府は、共産主義者や無政府主義者から国體(万世一系の男系天皇・直系長子相続)を守る為に、柔軟外交からソ連を承認して国交を樹立した。そして、ポーツマスク条約以外の条約を改正あるいは廃棄した。

 アメリカのソ連承認は、30年代に入ってからである。

 2月 上海共同租界。日系工場は、労働運動の指導者である数人の中国人労働者を共産主義者であるとして解雇した。中国共産党は、日系工場でストライキを煽動し、暴動を起こして現場監督の日本人に負傷を負わせ、工場の設備を破壊した。反日暴動は、他の日系工場にも波及した。共産系学生は、暴徒の間で「日本人を殺せ!」と叫んで煽るだけ煽り、租界警察と日本海軍陸戦隊が鎮圧を始めるや姿を消した。

 共産党指導者陳独秀は、コミンテルンから43万ドルの活動資金を受け取り、指示に従って反日暴動を煽動した。

 3月 政府は、天皇及び皇太子暗殺と暴力的共産主義革命を目差すマルクス主義を弾圧する為に、天下の悪法である「治安維持法」を成立させた。

 国民に広く選挙権を与える為に、納税額による制限を撤廃する普通選挙法を成立させた。

 朝鮮人への宥和策から、日本在住の朝鮮人に投票権を与え、投票用紙にハングルを併記した。そして、朝鮮人の立候補も認めた。公式記録として、当時の日本在住の朝鮮人は約13万人以上であった。

 左派系の労働組合や学生団体は、選挙法改正には消極的であった。

 4月17日 反日派朝鮮人は、コミンテルンの支援を得て第一次朝鮮共産党を結成した。ソ連の朝鮮独立軍士官学校は、卒業生を破壊工作員として朝鮮や日本に潜入させ日本人協力者と情報収集に当たらせた。

 5月8日 総督府は、朝鮮内部の共産主義勢力の一掃の為に治安維持法を公布した。

 5月17日 釜山港で、朝鮮人労働者5万人以上が、日本への渡航制限撤廃を求める市民集会を開いて気勢を上げた。共産系朝鮮労働総同盟と無産階級の朝鮮青年総同盟は、朝鮮総督府と日本内務省に対して制限撤廃の抗議運動を繰り返した。

 日本政府は、国内における外国人犯罪の防止と日本人労働者の雇用確保の為に、朝鮮人労働者の日本への渡航を制限していた。

 日本経営者は、日本人の労働組合による賃上げや労働時間の短縮など労働争議に手を焼き、日本人労働者に代わる安価な朝鮮人労働者を求めた。日本人の人材派遣業者は、日本企業から多額の手数料を取り、当局の監視を誤魔化し、日本に向かう貨物船や漁船の船倉や貨物室に朝鮮人労働者を隠して不法に上陸させた。その扱いが、人間性を無視した非人道的な手段であった。

*日本の対話重視の対中協調政策

 5月30日 五・三〇事件。中国の労働組合は、上海租界で働く中国人労働者13万人以上が参加する反英ストを決行した。中国共産党は、ストを暴動に煽動して、日本商店を襲って略奪を行い、逃げ遅れた日本人一名を殺害し数名に負傷を負わせた。

 北京では、共産系学生や労働者によって排日ビラが市内いたる所に貼られた。

 広州の外国租界では、中国人暴徒約5万人が租界警察と衝突して、中国人52名とフランス人1名が死亡し、117名の中国人と外国人8名が負傷した。

 上海共同租界参事会は、戒厳令を布告し、事態を有利な条件で収拾する為に日本の軍事介入を要請した。イギリスとアメリカは、居留民の保護と共同租界の防衛の為に軍隊の派遣を決定した。上海の日本人商工会も、日英協調を強く要請し、政府に対してイギリスを見捨て孤立化させるべきではないと意見具申した。

 日本政府は、軍事的解決ではなく、対話による平和解決を対中基本政策としていた。中国人の敵意やボイコットを避け、貿易を守る為に中国の歓心を買う中途半端な軟弱外交を行っていた。白人のイギリスとの協調よりも同じアジア人の中国との友好を優先し、中国側と単独で交渉を続け、排外的労働争議の収拾に関する合意条件に同意した。

 イギリス人実業家は、日本側の裏切りがあっても、歴史的な利権を縮小するような屈辱的妥協に反対した。イギリス外務省と共同租界のイギリス参事は、日本軍の軍事力が当てにならないとして、日本と同じ条件で解決を図る事を決定した。これ以降、租界警察は日本人に冷淡になり、日本人が被害を受けた事件の解決には非協力となった。

 租界警察は、被害者の日本人が如何に訴えても、犯人の中国人が租界外の人間だある以上は中国警察の管轄であると門前払いした。だが、中国側は治外法権の租界内の事件であるとして、日本人の言い分をまともに取り上げなかった。

 日本経済界は、不満であったが、国外で活動する以上は幣原外相の対中内政不介入方針という外交戦略に従わざるを得なかった。一部の経営者は、無抵抗主義の幣原外交に絶望し、経済活動を続ける為に冒険的拡張主義の軍人に接近した。

 英字新聞「日本は、貿易がイギリスより多くなれば海関総税務司を日本人が務める事になるかも知れないので、ストやボイコットの負担がイギリスにのしかかるのを喜んでいる」(9月7日付け)

 11月 反日派中国人は、正金銀行漢口支店勤務の日本人を射殺して、死骸をバラバラに切断して埋めた。中国各地で、「日本人は殺せ!」「日本人は泥棒だ!」と叫ぶ反日運動がおこなわれ、日本人居留民に対する殺人などの兇悪事件が多発した。

 日本が両国の友好の為に泣き寝入りし為に、強きの中国人使用人は弱きの日本人雇用主の言うことを聞かなくなった。日本人雇用主の指示が気に食わなければ凶器を持って暴れ、中国人暴徒を手引きして商店を破壊し品物を略奪して逃走した。

 中国人兵士は、小銃の台尻で日本人児童を小突いて嫌がらせをし、泣き出すのを見て楽しんでいた。

 中国人の子供は、無抵抗の日本人に投石して悪態を浴びせ、日本人の子供が遊んでいる所にも石を投げつけて怪我をさせた。

 こうした日本人への侮蔑行為や挑発行為の後ろには、反日的糾察隊を組織し指導する中国共産党がいた。

 地元の中国人警察は、こうした排日行動から目を逸らして日本人居留民を保護しないどころか、中国人の子供に日本人の子供への嫌がらせを奨励した。

 日本政府は、日本人居留民が如何なる被害に遭おうとも、国家として非暴力無抵抗主義を通した。

 国民は、政権を取る為に政争を続ける無責任な政党政治に絶望し、保守的軍人や革新官僚 らの専制的挙国一致体制に国家の未来を託した。一連の侮日事件が歴史の転換点となり、日本は軍国主義体制へと暴走した。

 日本人居留民は、日本政府から「棄民」扱いされ、国家の保護を受けられなかった。

*朝鮮に於ける新たな反日運動

 11月27日 第一次共産党事件。総督府は、朝鮮共産党員125名を一斉に検挙した。残党は、第二次共産党を結成し、反日派民族主義者や社会主義者と反帝国主義統一戦線を組んだ。

 1926年4月26日 反日感情を内に秘めていた純宗は、儒教的価値観から、西欧の近代治療を拒否し古典的漢方治療に固執して病死した。

 6月10日 六・一〇万歳事件。純宗の葬儀が行われ、全道から30万人以上が参列して遺体を見送った。

 朝鮮共産党の残党は、反日的であった純宗の国葬行列を利用し、京城師範学校生徒に「大韓民国独立万歳」「日帝打倒」のビラを蒔かせて、日本への敵愾心を煽った。反日デモは、キリスト教徒の参加を得て数十万人に膨らみ、民族性ゆえに暴動化した。

 反日暴動は、魂への尊厳・霊への敬虔・死者への畏敬そして死への畏怖の念という日本的な「自死の精神」を持たないだけに、韓国併合に調印した一進会 の李完用などの親日派の墓を暴きその遺骸を路上に放り出し、蹴り唾を吐きかけて辱めた。こうした死者への侮辱行為は、朝鮮だけではなく、中国など儒教圏 では常識となっていた。

 孔子は、老子と違って、「恩には恩で報い、暴には暴で報い、君子たる者は恨に恩で報いるべきではない」と説いている。それが、儒教の正論である。

 総督府は、反日派が三・一万歳運動の再現を狙っているという情報を得るや、約1万人の憲兵と警察官を出動させて実力で暴動を鎮圧した。内偵によって、第二次共産党幹部ら260人を検挙した。

 10月 幣原喜重郎 外相は、対中国内政不干渉と中国権益の擁護を公式に発表した。

 信仰の為に闘う一部の勇気あるキリスト教宣教師は、天皇と皇族の改宗を諦めて、独立派朝鮮人や日本人共産主義者・無政府主義者らによる裕仁皇太子暗殺計画や日本転覆の爆弾テロを、直接的間接的に支援した。

 普遍宗教のキリスト教会は、現人神である天皇の歴史的民族的神格を否定し、世界とアジアの平和を取り戻す為に天皇制ファシズムを破壊するべく活動していた。

 11月 イギリスは、共産主義の上海租界浸透を防ぐ為に2万人の軍隊を派遣する事を決定した。

 蒋介石は、イギリスの国際金融資本からの経済的支援を受けるべく、共産主義者による反英運動を鎮圧するように命じた。

 都市労働者も、反英運動は経済を停滞させ、生活を苦しめるだけであるとして、共産党員の隠れ家を警察に通報して弾圧に協力した。

 中国共産党は、コミンテルンの指示に従って活動拠点を農村部に移し、人民の共感が得られ易い反日運動に一本化して国民党を揺さぶる事にした。ソ連人工作員の助言を受け入れて、各地で貧農や小作人らを集めて農民協会を組織し、国民党の支持基盤である地主や富農を攻撃する様に命じた。

 地元警察や軍隊は、大量の血を流して共産主義勢力を鎮圧し、逮捕した共産党員と小作人や貧農を公開で猟奇的に処刑した。中国の処刑方法は、世界に類のない程の残虐のものが大半であった。そして、中国人は残虐な公開処刑を娯楽として見物した。

 12月 コミンテルンの指示によって日本共産党と日本労農党が再建され、全国で労働争議や農業争議が多発して、社会不安が増した。

 朝鮮では、モスクワの東方大学(スターリン東方労働者共産主義大学)で共産主義の教育を受けた朝鮮人が第三次共産党を組織した。反天皇反神社のキリスト教徒朝鮮人や日本人らの協力を得て、各地で反日争議を起こし、反日破壊工作を行った。

 日本と朝鮮は、共産主義運動が活発化した為に騒然とした空気に包まれた。

 国民党は、漢口において元孫文の秘書ジョージ・シュセンの献策で反キリスト教週間を実施し、市民を煽って宣教師や外国人を襲わせた。キリスト教徒や外国人家庭の使用人達は、信仰や忠誠より金を優先して、暴徒の先頭に立って教会や外国人住宅で一番高価な物を奪って逃走した。宣教師や外国人達は、命からがら上海へ避難した。

 孫文「外国人を追放すれば資産は全て中国人のものとなり、その恩恵は国民全体に行き渡る」

 孫文と蒋介石は、反日テロ組織を抱える上海臨時政府を支援していた。

 12月25日 大正天皇が崩御した。

 12月28日 摂政である裕仁皇太子が即位して、元号を昭和に改めた。

 東拓・殖銀襲撃事件。朝鮮人テロリストは、日本人3名を射殺し、4名を負傷させ、自殺した。

 総督府は、独立運動への影響が大きいとして、翌27年1月13日まで事件を隠蔽した。

   ・   ・   ・  

 左翼や左派などのマルクス主義者日本人は、天皇と皇族を人民裁判で処刑し、伝統文化とである天皇制度を廃止する事で国家が崩壊しても、日本が共産主義地域に改善できれば、日本がソ連領になろうが中国領になろうが意に介さなかった。彼等には、主義の大義を優先して、国家も民族も眼中になかったのである。

 国家元首・昭和天皇には、自分を守る為に自分を殺そうとする敵を殺してまで自分を守るという、正当防衛の権利は認められてはいなかった。

 昭和天皇を憎む日本人、朝鮮人、中国人、ユダヤ人その他の人々は、反戦平和を唱える事で、ヒロヒトとその家族や親類を殺害する権利が得られた。こうして、天皇や皇太子や皇族が狙われた。

 キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、原理主義的仏教徒も、マルクス主義者も、共産主義者も、社会主義者も、例外なく昭和天皇をヒトラーと同罪の凶悪犯と断罪し、社会的に歴史的にその存在そのものを抹殺しようとしている。

 国家元首・昭和天皇には、自己弁護の権利は認められてはいなかった。それ以前に、昭和天皇は国家元首として全責任を取る覚悟を持っていた為に、言い訳じみた自己弁護をする意志を放棄していた。

 

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