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今日ボクが見た風景

摂政宮裕仁皇太子・華族暗殺未遂=大正 ①

Category: 日本国民の心得  

*帝国主義時代の皇室財産

 天皇の財産は、不当な手段で国民を抑圧し搾取して得たものではなく、軍隊に命じて他国を侵略し住民を虐殺して略奪したもでもない。

 皇室が所有する財産は、中国・朝鮮・欧米諸国の王侯貴族や上流階級の様に、支配者階級と被支配者階級という階級的上下関係のもとで、95%以上の身分低き貧しい領民や労働者などの人民から収奪したものではない。

 島国の天皇・皇族と大陸の王侯貴族・上流階級とは、別物である。

 天皇家が、日本経済を闇から牛耳り、皇室財産を築いて菊のベールで隠してたわけではない。

 「陰険な経済支配」と、反天皇意識を国民の間で拡大させようとしているのは、天皇を打倒し皇室を廃止させようとしている左翼・左派のマルクス主義者とキリスト教徒である。

*不逞朝鮮人の暗躍

 1922年7月 信濃川朝鮮人虐殺事件。

 1923年 内務省は、日本国内に37万人以上の朝鮮人が生活していると、公式報告を行っていた。その大半が大阪や神戸などの京阪地区であり、東京や神奈川などの京浜地区は少なかった。

 東京には約9,000人の朝鮮人が住んでいて、留学生は3,000人で、労働者は6,000人とされている。

 不法上陸者で住所不定の不逞朝鮮人が、首都圏の同和地区・部落に入り込んでいるという報告はあったが、実数は不明であった。さらに、その中に幾人の朝鮮人テロリストが含まれているのかもわかってはいなかった。

 首都圏の朝鮮人は、情報交換に為に東京朝鮮YMCA会館に出入していた。

 警察当局が、全国で朝鮮人による凶悪犯罪が増加していると発表した。

 日本人は、朝鮮人を恐怖の目で見て敬遠した。

 朝鮮人は、敬遠を差別と見なし、その原因は自分達ではなく日本人にあるとして、日本人への敵意を隠さず剥き出しにした。

 朝鮮総督府は、朝鮮人労働者が大挙して日本に押しかけない様に制限し、朝鮮人テロリストや犯罪者などの不逞朝鮮人を日本に入り込ませない為に、各港での警戒を強めた。

 朝鮮人の日本本土への移動が、朝鮮総督府の厳しい規制にもかかわらず増加していた。

 大金を取って不法上陸を手引きする日本人の為に、不逞朝鮮人の取り締まりは思うような成果をあげてはいなかった。

 日本にも、「天皇や日本」「国家や民族」がどうなろうとも、自分が大金を手に入れればそれで良いという大陸的「強者論理」の「個人至上主義者」がいた。

 現代日本には、そうした島国的「弱者論理」を否定した醜悪な市民が急増している。

 1月 テロ組織である義烈団は、独立派としての存在を誇示する為に、宣言書を関係各所にばらまいた。義烈団は、ソ連・共産主義勢力の軍事支援を受け、裕仁皇太子を暗殺し、日本を滅亡させるべく、21年に韓族共産党としてモスクワの極東民族大会に参加した。

 「朝鮮革命宣言 盗賊日本がわが国号を無くし、わが政権を奪い、我々の生存に必要な諸条件をことごとく剥奪した。……朝鮮民族が一方にあり、日本の盗賊が他方となって、相手が亡ばねば自分が亡ぶ一本橋の上に立たされ、闘わざるを得ない事を知れば、わが2,000万民衆は一致して暴力破壊の道へと突き進んで行くであろう。……」

 3月16日 黄鈺警部事件。総督府警察の黄鈺警部は、義烈団の同調者として、朝鮮人テロリスト12名の朝鮮潜伏に協力し、テロ目的の武器弾薬の持ち込みに便宜をはかった。

 内偵によって、黄鈺警部と朝鮮人テロリストは逮捕され、大量の武器弾薬が押収された。

 日本政府と朝鮮総督府は、警察内部にテロリストの協力者がいた事に愕然とし、朝鮮はおろか日本国内にも多数の朝鮮人テロリストが潜伏している恐れがあるとして警戒した。

 4月 日本労働総同盟中央委員会は、日本と朝鮮のプロレタリアには共通の敵(天皇)がいる事を認めれて、朝鮮人労働者と共同戦線を張る事を決議した。

 4月12日(~5月1日) 摂政宮裕仁皇太子は、戦艦金剛で台湾行啓に出発した。侍従武官長兼東宮武官長の奈良武次中将は、次期天皇の摂政宮の身辺警護の為に儀礼用のサーベルから日本刀に変え、拳銃の携帯を命じた。

 朝鮮人テロリストの義烈団や反天皇派日本人や抗日派中国人らは、台湾視察旅行中の摂政宮を暗殺する為に付け狙ったが、悪名高い憲兵隊や日本側警備当局の過剰な警戒の為に好機を逸した。彼等は、等しく、日本側の過剰防衛を「臆病」と軽蔑して嘲笑った。

 5月 横浜で武器密輸出が摘発され、アメリカ製の連発ピストル1万挺と弾丸10万発が押収された。警察当局と憲兵隊は、新たなテロ計画があるとして警戒を強めた。

 5月1日 東京で、第4回メーデーが開催された。警察当局は、メーデー会場で、皇太子の成婚の日に爆弾テロを計画していたとして朝鮮人13名を検挙した。捜査当局は、苛烈な拷問で一味の名前を聞き出し、300名以上の朝鮮人テロリストと支援する反天皇派日本人を皇太子暗殺計画容疑で逮捕した。

 皇室への尊崇篤い臣民・日本人は、皇太子暗殺を計画していた朝鮮人活動家の大量検挙から、朝鮮人は何をするか分からない恐ろしい人間であるとして恐怖した。

 現代日本のマルクス主義者は、如何なる理由があっても被疑者を半殺しにする拷問を非人道的行為と否定し、当時の苛烈な捜査方法を犯罪行為であると子供達に教育している。

 6月 コミンテルンは、朝鮮で暴力的共産主義革命を起こす為に、反天皇反日の朝鮮人共産青年会を組織した。モスクワで革命教育を受けた朝鮮人テロリストを、破壊工作員として日本と朝鮮に潜入させた。

 日本の学校に進学した朝鮮人学生の一部は、民族の独立を目指して共産主義的思想運動に参加し、秘かにテロ活動を支援していた。日本人の左翼・左派系教職員やマルクス主義系学生らも、反天皇反神道意識から、朝鮮の独立が達成される様に協力し、警察の捜査から朝鮮人テロリストを庇った。

 6月1日 漢口と長沙で、学生を中心として排日暴動が起きた。中国人暴徒は、国際法を無視して、各地の日本領事館などの公館を襲撃し略奪と破壊を繰り返した。

 中国政府は、愛国主義的学生の自主性を尊重し、日本の主権を踏み躙る行為を静観した。

 中国側は、日本との対等な関係での友好を認めず、アジアの覇権国意識から小国日本を侮蔑していた。民族主義的愛国運動を奨励し、日本人の自衛権行使を犯罪行為として否定した。

 国際世論も、中国側の言い分のみを取り上げ、日本側の説明を無視した。

 8月29日 朝鮮人は、国を失ったこの日を国恥の日として日本と朝鮮で行事を行った。

 警察当局は、むしろ9月2日の国際青年の日に大規模な威嚇デモが計画されているとして警戒を強化した。東京の朝鮮人留学生1,500人中200名以上を、要注意人物として尾行を付けて監視した。内偵により、多くの拳銃や爆弾が東京や横浜に持ち込まれたとの情報も得ていた。

 憲兵隊や警察当局は、さらなる詳しい情報を得る為に、逮捕した不逞朝鮮人やマルクス主義者日本人を拷問にかけた。地獄の様な拷問によって、幾人かが死亡した。

 内務省警保局は、国内の朝鮮独立派の活動が過激している事に危機感を感じ、大阪や京都など主要9府県に特高課を新設して警戒にあたった。

 日本の新聞は、朝鮮独立派のテロ事件を事細かに報じていた。

 日本人は、多発する朝鮮人の凶悪な犯罪事件を連日の新聞で読み、朝鮮人犯罪者への恐怖感を募らせていた。

 事実。朝鮮人テロリストと共産主義者日本人は、同年11月27日に予定されている摂政宮裕仁皇太子と久邇宮良子女王との成婚式に合わせてテロを準備していた。別のテログループは、他の宮家への暗殺テロを計画していた。

*関東大震災 

 9月1日午前11時58分 マグニチュード7.9の大激震が関東地方を襲い、関東南部で大火災が発生して地獄と化した。

 数日間、大きな余震が断続的に起き、この世の終わりになると被災民は恐怖におののいた。家族や友人を失い家財道具を一瞬にして焼失した被災民は、平静を装いながらも心中ではパニック状態にあった為に、他人を平気で見下す特権意識の強い朝鮮人への恐怖心から、不逞朝鮮人の動向を警戒した。正確な情報が途絶えた為に被災地は大混乱に陥り、不逞朝鮮人が「井戸に毒を投げ入れた」或いは「暴動を起こして略奪や暴行をしている」という流言飛語が、至る所に黒こげの死体がまだ残る焼け野原となった首都圏を駆け巡った。

 東京(総人口約450万人)の被害は、死者・行方不明者10万人以上、被災者90万人以上。 

 東京・横浜などの関東南部での被害は、死者・行方不明者14万人以上、被災者340万人以上。

 午後4時半頃。政府は、初期の混乱から立ち直り、治安維持と被災者救済の為に戒厳令を施行する事を決定し、軍部に対して出兵要請を行った。震災の大混乱を鎮め、共産主義勢力による天皇打倒の暴力革命を防止する為に、緊急時として戒厳令を発令した。

 待ったなしの緊急事態であった為に、通常の国会審議を経ず、政府は国会を無視して独断で決済した。平時では違法であったが、緊急勅令をもって国難にあたった。

 第123代大正天皇も、摂政宮裕仁皇太子も、政府と軍部に全幅の信頼を寄せて憲法の拡大解釈と強権的処理を許した。

 軍部は、政府の出動要請を受け、「治安と救済」の名目で関東近辺の連隊に対して部隊を震災地に投入する様に命じた。

 当時の日本人にとって、誰も経験した事のない大惨事であった。

 もし対応を誤れば、ロシア帝国やドイツ帝国の様に日本が消滅する危険があった。

 政治家や軍人であれば、くだらない言い訳をせず、自己責任で最善と思う手段を自己判断し、暗中模索ながらも情勢を分析して自力で行動した。

 関東大震災の対応は迅速であったが、淡路・神戸大地震での政府と地方自治体の対応は鈍く無駄に6,000人以上の犠牲者を出した。現代日本人は、口で言うほど、昔の日本人ほどの危機感もなければ、情報分析能力も、決断力も、実行力もない。つまり、責任能力がなく、終始狼狽して右往左往し、事態の変化に対応できず場当たり的な対策しか取れない。

 現代日本は、戒厳令施行が朝鮮人大虐殺を誘発したとして、天皇と国家の犯罪を告発している。

 朝鮮人テロリストと共産主義者日本人は、日本転覆の好機と捉え行動を起こした。

 朝鮮人テロリストは、越中島の糧秣廠を爆破して、逃げ場をなくした被災民3,000人を焼き殺した。被災民や在郷軍人は、爆弾を投げ込んだ不逞朝鮮人を捕らえ、殴る蹴るのリンチを行って犯行を自白させた。

 「暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし、機の到来を待ち構えていた折柄大震災あり、これで御大典もどうなる事かこの地震こそは好機、逸すべからずとなし此所に決行したのである」(河北新報 大正12年9月6日)

   ・   ・   ・  

 9月2日 政府は、震災被災者はもちろん全日本人の自由な行動を制限するべく、正式に戒厳令を施行した。

 山川出版社「震災の大混乱のなかでさまざまな流言蜚語が乱れ飛び、戒厳令がしかれて、社会不安はいやがうえにも高まった」(『詳説 日本史研究』P.413)

 警察当局は、暴力的共産主義革命を防止する為に全国で思想弾圧を実施した。上京しようとした共産主義者や無政府主義者などの左翼・左派活動家らを、各地で列車に乗り込む前に逮捕した。同様に、社会主義者やキリスト教徒らの反天皇活動をも厳しく監視した。震災の混乱が収拾され治安が回復してから、拘置していたマルクス主義活動家らを釈放した。

 陸軍は、社会不安を鎮静化させ帝都防衛の為に、関東近辺の師団に対して部隊を震災地各所に配置するように命じた。

 海軍も、軍艦を東京港に入れて被災者の救護にあたった。

 東京や横浜などに碇泊していたアメリカやイギリスなどの船舶や軍艦も、日本政府からの正式要請はなかったが、自主的に被災者の保護に協力した。

 アンドレー・ヴィオリ「あるイギリス巡洋艦は、海岸に救助艇を何隻か送った。これは注目すべきことだが、勇敢さをもって基本的な美徳と考えている男子達が、子供達を払いのけ婦人を押しのけてボートに真っ先に乗り込もうとした。これにむかついた水兵達が彼等をオールで押し戻し、彼等が侮辱している婦女子の仲間の方を引き上げ救い出した時、彼等は本心から憤慨し驚いていた。自分達の婦女子とは比べ物にならぬくらい貴重な生命を祖国の為にとっておく事は、愛国的義務ではないか、と言うわけである」(『内側から見た日本』)

 この頃から、朝鮮人が被災地で日本人被災民を襲撃しているという目撃談が、被災民の間に流れ始めた。事実、震災前から不逞朝鮮人による凶悪犯罪が頻発しており、震災後はさらに犯人不明での略奪や放火や暴行といった被災者・弱者を狙った犯罪事件が多発していた。

 混乱した一部の警察官は、不逞朝鮮人の殺害を容認する様な発言を行った。

 新聞各社も、連日、朝鮮人が暴行、強姦、放火、略奪を繰り返しているとの目撃談を事細かに報じ、被災者に対して不逞朝鮮人の襲撃に備える様に警告を発していた。

 内務省警保局は、不逞朝鮮人による放火や略奪の情報を全国に伝達し、反日暴動に警戒する様に注意を呼びかけた。

 命辛々生き残った日本人被災者達は、政府に命じられたわけでもなく、自発的に日本的な隣保扶助精神で自警団を組織した。1日夜から4日までの間に、被災地で3,689ヵ所に自警団が誕生した。

 極限状態に置かれた自警団と青年団は、流言飛語に過敏反応を起こし、恐怖心から挙動不審の朝鮮人を虐殺した。

 山川出版社「事件の核心ともいうべき流言の出所についても、自然に発生したとする説、日本の治安当局が意図的に流したとする説、右翼の一派が流したとする説などがある」(『詳説 日本史研究』P.413)

 大災害が発生するや、暴動と略奪で治安が悪化する事は、世界常識である。日本も例外ではなかった。事実、震災地では犯罪者が横行して治安が急速に悪化し、秩序が崩壊し始めた。そして、震災地・東京で数多くのデマが流れた。

 マルクス主義者日本人が、「国家を転覆させる為に山本権兵衛首相ら政府首脳を殺害した」とか、「共産主義革命を起こして天皇や皇族を虐殺した」とか、忠良な臣民であれば卒倒する様な噂もあった。

 朝鮮人が「井戸に毒を投げ入れた」とか、「朝鮮人が暴動を起こし、略奪し,放火している」などの流言が広がった。

 気弱な日本人にとって、朝鮮人の民族的精神疾患である「火病(ファビョン)」による自分勝手の異常行動は理解できないどころか、近寄りがたい恐怖心を抱いた。さらに、民族独立の為ならば、裕仁皇太子暗殺などのテロ行為を当然の権利として繰り返す不逞朝鮮人は、何をするか分からない得体の知れない不気味な存在であった。

 日本人被災民は、何をするかわからない朝鮮人への底知れない恐怖心から、愛すべき「家族」を守る為に武器をとり、襲い来る架空の暴徒と戦った。集団となって助け合いながら、「自分と家族の命」を守ろうとしただけである。

 関東大震災における異常心理下で、日本人被災者と自警団は2,000人~2万人の朝鮮人を虐殺した。混乱中で、日本人や中国人も朝鮮人と間違えられて殺された。

 片野次雄「あるいは竹槍などで刺し殺された。朝鮮人が朝鮮人だという理由だけで、いたるところで公然と殺された。朝鮮人であれば、女子どもも例外ではなかった」(『1910ー2010 日韓併合』P.225) 

 こうした、日本人の自発的自衛行動は差別意識による凶悪犯罪とされた。

 朝鮮総督府は、震災地での虐殺情報が広まれば反日暴動の原因になるとして、報道を規制し、日本から帰郷した朝鮮人に箝口令を強要した。日本側は、抗議運動を恐れて朝鮮人の凶悪犯罪事件を意図的に公表し、朝鮮人虐殺事件は隠蔽した。

 被災した日本人は、数日は被害の大きさに呆然と立ち尽くしたが、民族性として物事を忘れやすい単純性格から、悲惨な惨状を「仕方がない事」と「諦め」て気にしなくなった。

 皇国教育を受けていた日本人は、天災馴れした民族の特性から、明日への希望を持って立ち上がり、救いと癒しを2600年以上守って来た「現人神・天皇の神聖」に求めた。

 それ以外の、「民族の精神」や「民族の絆」を否定する嘘っぽく安っぽいマルクス主義のような舶来思想や、「民族の心」や「民族の魂」を否定する排他的独善的な大陸的宗教にも頼る気はなかった。

 集団主義の日本人は、地に足の着かない、個人主義の「浮ついた、薄っぺら」な生き方は性に合わなかった。そして、人は一人では生きられない事を誰よりも知っていた。

 日本は、世界有数の天災多発地帯であった。

 日本民族は、如何に神に捧げ物をして祈ったところで、大災害を引き起こす自然現象が減らない事を身をもって知っていた。

 苛酷な日本の風土では、「神の御利益」はあっても「神の奇跡」はなく、「命の生まれ変わり(魂の再生)」はあっても「永遠の命(魂の断絶)」は無かった。当然、救世主による救済信仰も生まれなかった。

 「ものの憐れ」を知る気弱な日本人は、世の「無常」に打ちひしがれて泣くばかりであった。相手の迷惑を気にせず吠えるが如くがなり立て叫きちらす朝鮮人や中国人とは正反対に、相手に気を遣いながら人に見られない様に静かに涙を流していた。

   ・   ・   ・   

 9月3日 戒厳令がしかれ、日本兵が被災地に入る事で、不逞朝鮮人への恐怖に怯えていた被災民はようやく安堵した。

 亀戸事件。亀戸警察署は、皇太子暗殺と国家転覆を図ったとして700名以上のマルクス主義者を逮捕し、拘留した。留置されていた平沢計七や川合義虎ら共産主義者8名は、プロレタリア革命の好機と捉え、革命歌を謳って暴動を起こそうとした。戒厳軍は、法秩序を守る為に衛戌警務規定に従い、「天皇へのテロを未然に防ぐ」事を理由として彼等を殺害した。

 現代日本は、この思想弾圧を国家犯罪として非難している。

 淀橋警察署は、独立運動家である両班出身の朴烈(本名・朴準植)と金子文子を、朝鮮人保護を名目として予備検束した。さらに、朴烈の同志である14名を治安維持法違反で逮捕した。

 朴烈らは、大杉栄や岩佐作太郎らと共謀してテロ組織「不逞社」と「黒友会」を結成し、裕仁皇太子暗殺テロ目的で爆弾を上海や朝鮮の安東方面に準備した。

 警察当局と憲兵隊は、同年8月以前から皇太子御成婚式爆破テロ計画を察知していた。

 26年3月25日に、朴烈らは摂政宮裕仁皇太子の暗殺を計画していたとして、刑法73条の大逆罪として死刑判決を受けた。

 若槻礼次郎首相は、23年4月5日にテロ用の爆弾が入手できず実行にいたらなかったとして、無期刑に減刑した。

 天皇主義者や国粋主義者らは、天皇・皇太子・皇室へのテロを計画する朝鮮人テロリストを減刑した若槻礼次郎首相に対して、テロリストに温情を施して改心させようとする事は、国體を亡ぼす原因になるとして激しい抗議運動を起こした。朝鮮人と如何に話し合っても、けっしてわかり合えないというのが、右翼・右派の基本認識であった。

 大正デモクラシーを標榜する野党は、国家の安泰よりも政権の争奪を優先して政争を激化させた。

 朴烈「俺は、日本の皇帝、皇太子を爆弾投擲の最も主要なる対象物にしていたのだ。それで、爆弾が手に入ったらいつでも機会を見て使用するつもりだった。できるだけ日本の皇太子の結婚期までに全てが間に合う様に計画を進めていたのだ」

 朝鮮人は、下等な日本人との話し合いを望んではいなかったし、劣等民族の日本人とわかり合おうとも思ってもいなかった。当然、愚劣な日本人との友好関係も希望してはいなかった。

   ・   ・   ・  

 9月5日 被災地の混乱は治まらず、輸送網の復旧作業も思う様に進まなかった。恐怖心から立ち直れずにいる被災者は、食料などの生活物資等の配給が滞り空腹で神経質となり、朝鮮人への差別と敵意をつのらせていた。

 政府は、報道操作を行い、「不逞朝鮮人による放火と略奪」の事実はなかったものとして隠蔽し、数多くの「善良な朝鮮人による美談」を捏造して報道する様に指導した。

 人間を大事にする気の弱い日本は、人を人と認めない中国などの気の強い東アジアとは違い、貧しい被災者を全力をあげて救済した。

 後藤新平内相は、被災地での日本人自警団と朝鮮人被災民の衝突を回避する為に、自警団の武装を半強制的に解除させ、国権を持って朝鮮人被災民を保護した。後藤新平は、忠良なる臣民として、「国體」を護持し、朝鮮人テロリストや共産主義者から皇太子や皇族を守ろうとした。臣民にとって、守るべきは天皇を中心とした「国體」であった。

 戒厳司令部は、朝鮮人被災民を保護する為に1万5,000人分の小屋を建て、暴動を恐れて充分な食糧・水そして医薬品などの必要物資を運び込んだ。

 収容所に、被災した在日朝鮮人6,797人を収容した。それ以外に、日本人浮浪者が朝鮮人被災者を装って紛れ込んでいた可能性があるとされている。淡路・神戸大地震でも、そうした被災者ではない浮浪者がいたといわれている。

 収容手段は、徒歩であった。トラックの大半が、救援物資の輸送と死体処理の搬送で不足していた。

 朝鮮人は、日本人に対して民族的優越感を持っていた為に、銃剣を持った日本兵士が監視する収容所まで歩かされた事に激昂した。彼等は、人権を無視した陰険な差別行為と言い募り、銃による強制連行であると反発した。彼等は、決して、日本人の好意には感謝しないし、恩義を抱いて感謝する事も絶対にない。温和しく唯唯諾諾と従わない朝鮮人は、全ての責任は日本人にあると言い募り、騒々しく日本人を責め立てた。

 日本人の気弱な温情は、病的な自己中の朝鮮人には通用せず、全てが裏目に出て日本人への憎悪を植え付けたのみであった。

 世界中の報道機関が、特派員を日本に送り、被災地の惨状を伝えていた。

 後日。東京府会震災救済実行委員会協議会で、馬場刑事部長や正力官房主事ら警察庁幹部は、震災で朝鮮人社会主義者らによる暴行や放火はなかったと報告した。

 フランス王国、ロシア帝国、ドイツ帝国の三ヵ国は、戦争や災害による緊急事態の対処法を間違えて滅亡した。フランス国王とロシア皇帝は人民裁判で処刑され、ドイツ皇帝は退位して国外に亡命した。

 9月7日 北海タイムズ「鮮人達は東宮殿下御成婚式当日に一斉に暴動を起こす事を牒合(ちょうごう)して爆弾等をひそかに用意して居たが此震災で一斉に活動したのだと云う。……彼等には又誰か後押はあるらしい風であったが死ぬ程責めても到頭実を吐かなかった」

 9月8日 北海タイムズ「彼等は二百十日を期して蜂起するの計画を立て8月28日に銀行や郵便局の預金をことごとく引き出し準備した。今秋の御盛典を期して行い事に決して居た」

*摂政宮裕仁皇太子は、テロの危険を冒して被災地を視察した。 

 9月9日 朝鮮の独立派は、日本国内の同志に対し、反日暴動を起こして内戦に追い込む様に指示を与えた。さらに、ソウル青年会、朝鮮教育会、天道会、キリスト教会など多方面の反日組織も、震災地帯で多くの朝鮮人が惨殺されたという報道に激怒して、責任は日本側にあるとして天皇と日本人への報復を支持した。

 上海に移動していた反日テロ組織「義烈団」は、民族の独立が可能かどうか、情報収集の為に混乱している東京に多数の工作員を送り込んだ。マルクス主義者日本人は、反天皇革命を行う為に彼等に協力した。

 9月10日 関西方面の宣教師や朝鮮人留学生は、東京や横浜などでの朝鮮人虐殺の実態を調査して、各国の大使館・公使館・国際報道機関に被害者数を通報した。

 ロンドンで発見された反日的雑誌は、被災地で日本人自警団・青年団・警察によって2万3,000人以上の朝鮮人が虐殺されたと報道した。

 公式記録は、被災地での虐殺は6,415人であったと認めたが、地震と火災による朝鮮人犠牲者は一人も認めていない。

 上海フランス租界の上海臨時政府(大韓民国臨時政府・上海仮政府)は、日本政府に対して、非人道的虐殺を中止する様に激しい口調での抗議文を送った。

 9月13日までに、104万人以上の日本人被災者は、不逞朝鮮人の凶悪犯罪やマルクス主義者による暴力的共産主義革命に恐怖して、列車や汽船で帝都東京から脱出した。

 9月15日 『朝鮮日報』社説、「日本人諸君よ、流言に因り君達が如何なる行動をしたかを反省すべきだ」

 裕仁皇太子は、摂政宮としての責任から、午前6時から9時頃まで震災地を視察した。

 新聞各社は、翌日、皇太子の行啓を報道した。

 東京日々新聞「本所被服廠跡の光景を市長と総監から申し上げた時は、暗涙を催されたように拝した」

 この後も、裕仁皇太子は被災地を視察し、被災者達が助け合い慰め合い庇い合いながら、前向きに復興に協力し合って努力している事に安堵した。

 裕仁皇太子の視察を目の当たりにした臣民・日本人は、感激し、涙を流し、皇室への敬愛を一層募らせた。

 反天皇のマルクス主義者日本人は、裕仁皇太子の偽善的行為と嫌悪し、日本人の心を蝕み、貧しい人民から搾取するだけの天皇制度を破壊する事を誓った。

 9月16日 上海臨時政府と義烈団は、震災地・東京と横浜で爆弾テロを行う為に朝鮮人テロリスト数十名を潜入させた。

 上海租界のキリスト教会は、反日的欧米資本と協力して、独立派朝鮮人の上海臨時政府や抗日派中国人を秘かに支援していた。

 9月19日 義烈団は、日本の非人道行為に対する国際世論の非難を利用して、摂政宮や山本総理など政府要人を暗殺し、日本各地で騒乱を起こす為にテロ決死隊16名を選抜した。

 日本人の共産主義者や無政府主義者らも、「放火こそ我が同士の快挙である」とし、震災による混乱を人民革命の好機として、朝鮮人テロリストと共同戦線を組んだ。

 警察や憲兵隊は、歴史的事実として、暴動が革命を誘発する恐れがあるとして被災地周辺で暴力的な取り締まりを強化した。

 中西伊之助「試みに朝鮮及び日本に於て発行せられている日刊紙新聞の朝鮮に関する記事をごらんなさい。そこにはどんなことが報道せられていますか。私は寡分にして未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見たことは殆どないと云っていいのであります。そして爆弾、短銃、襲撃、殺傷─あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人─の不法行動を報道しています。それも新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって」(『婦人公論』23年11、12月合併号)

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