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今日ボクが見た風景

渡来人による第32代崇峻天皇暗殺 = 奈良

Category: 日本国民の心得  
セオドア・ルーズベルト「この国を破壊に追いやり、いやしくも国家として存続して行く為のあらゆる可能性を阻む唯一絶対の方法は、この国がさまざまな民族同士でつまらなぬ争いをしあう混乱の場になることを黙認することであろう」

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 古代朝鮮は、「礼」の百済(~660年)と「武」の高句麗(~668年)と「謀」の新羅(~935年)の三国が、半島を武力統一する為に殺し合いを続けていた時代である。

 隣国の植民地帝国唐(618年~907年)は、漢帝国 の版図を回復させる為に、朝鮮半島を侵略し、虐殺と略奪を繰り返していた。

 新羅は、民族による半島の自主独立よりも半島統一を優先して、民族を裏切った。唐帝国 に臣下の礼を尽くし、属国になる事を承知で唐の大軍を引き入れた。さらには、日本侵略の前哨基地として領土を利用する事にも同意した。

 新羅は、古代朝鮮姓を捨てて中国姓に創氏改名 した。主体性を消失して、中国文明圏の一員となった瞬間である。

 歴代の国王は、中国皇帝の承認を得なければ即位できず、属国を嫌って独立を言い出せば中国の逆鱗を恐れた臣下によって殺された。

 1895年まで中国の命令を忠実に聞く従属国となり、その負い目から民族病として精神疾患である文化結合症候群の一種である「火病(ファビョウ)」を生み出した。

 第122代明治天皇(明治神宮)の御代になって、中国とは1871年に、朝鮮とは1876年に、約1000年ぶりに正式に国交を回復した。この間に両国との正式な交流はないし、友好関係も絶無であった。但し、現代の北朝鮮同様に公的に国家としての関係ではなく、「利」を優先とした個人的交流と、「金儲け」目的の私的交易は存在していた。

 誰も、日本と北朝鮮を友好関係にあるとは言わないのと同じである。

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 出雲・吉備・筑紫・武蔵・東北などの各地方王朝は、奈良・大和中央王朝からの独立を守る為に、天皇・大王の朝廷軍・官軍と激しく戦った。

 朝廷軍・官軍は、日本を統一する為に各勢力を攻め滅ぼし、独立を守る為に国内外で苦戦を強いられていた。

 各王朝の残党は地方の有力豪族となり、建前として天皇に忠誠を誓いながら、本心では倭(日本)からの分離独立を模索していた。

 彼らを後ろで支援していたのが、反日的新羅であった。

 391年 資源の乏しい日本(倭)は、貴重な鉄を手に入れる為に、同盟国百済の要請に従って軍隊を派遣して新羅・高句麗連合軍と激しく戦った。

 新羅の後ろには、巨大な軍事力を持った中国の歴代王朝が控えていた。

 478年 第21代雄略天皇 ・武。倭国は、五胡十六国 から南北朝と虐殺を伴う戦乱続きの中国との交流を断ち、冊封使 を送るのをとり止めた。

 592年 第32代崇峻天皇は、天皇への忠誠心のない、日本人の風下に立つのを嫌う上昇志向だけが異常に旺盛な欲求不満の渡来系下級役人に惨殺された。そして、これまた忠誠心なき政務を司る渡来系官吏らによって、庶民の様に一切の飾り付けもなく葬られた。

 第28代欽明天皇 の娘額田部皇女は、兄第30代敏達天皇 の后となったが、弟崇峻天皇の後を継いで即位して、第33代推古天皇となった。最初の女帝の誕生である。

 対朝鮮政策として、半島の任那 に侵攻した新羅軍を征討する為に1万余の軍隊を派遣した。

 対中国政策として、天皇の国家元首号を使用して、中国皇帝との対等を主張し、中国の属国ではないと宣言した。アジアにおける、自主独立国を宣言した。だが、国号は依然として獣を表す「倭」のままであった。

 天皇の暗殺を命じた大臣・蘇我馬子は、王族に金銀財宝や美女を送って籠絡し、有力な諸豪族には利益をちらつかせて味方に付け、民族主義的廃仏派である古代氏族系の大連・物部氏を攻め滅ぼした。

 日本は、開放的に中国を崇拝する国際派と、閉鎖的に日本古来の美風を守ろうとする国内派で分裂していた。そして、外国を崇拝する進歩派が勝利して、日本に中国や朝鮮の「律令」という法治主義を無条件に導入しようとした。

 蘇我稲目の娘を母とする第33代推古天皇(最初の女帝)を即位させて、これまた蘇我の血を引く聖徳太子(第31代用明天皇 の皇子)を摂政に据え、血縁を軸として蘇我氏に権力を集中させた。才能ある優秀な渡来人を手足の様に使って、大和朝廷の「まつりごと」を完全支配した。半島や大陸との交易を独占して巨万の富を築き、王族や諸豪族に金をばらまき女をあてがって懐柔し、大王家(天皇家)を凌ぐほどの権力を掌中に収めて専横を極めた。

 公用語は、百済語とされ、日本語は野卑な言語として嫌われた。

 奈良のある地域では、住人の9割が半島出身者であったといわれている。

 当時の日本は、半島出身者とその子弟の博識に依存しなければ、国家はおろか社会そのものを正常に運営できなかった。

 日本が、速やかに、そして正確に大陸知識を習得できたのは、国際的漢学の素養のあった半島出身の知的エリート集団が存在したからである。

 蘇我氏には、渡来系氏族という説があった。

 忠誠心なき渡来人は、「強者の論理」である大陸の世界常識を信奉していた。

 大陸的教養なき日本の古代氏族は、無能力者として時代に取り残され、名門とおだてられながら政治の中枢から閉め出されて、没落して行った。

 中国化した渡来人にとって、「個」の能力主義・実力主義と言った中国的国際主義の常識が通用せず、指導者としての実力のない無能力者が大王家・皇室に生まれたというだけで、日本の支配者として天皇に即位する事が理解できなかった。

 「日本列島が必ずしも日本人だけの所有物でない」以上、日本に住む日本人はもちろん中国人でも朝鮮人でも西域出身者でも、身分・家柄・地位・階級に関係なく、実力がある能力者が、自由に天皇に即位すべきだと確信していた。

 武力の才能ある者は軍事で、

 商才のある者は経済で、

 人望のある者は弁舌で、

 自己の特技で競争相手を排除して勝者となって天皇になるべきだと。

 日本が、中国や朝鮮のように高度に発展を遂げる為には、日本の「弱者の論理」(弱い者いじめは『恥』)を廃して、中国の「強者の論理」(弱い者が滅びるのは天命)で国際化すべきだと確信していた。

 中国文明の高度な教養を持った正統派儒教のエリート読書人・書生階級出身の移住者は、その日暮らしの貧しい無教養な農耕漁労民の日本人とは違って大志を抱いて奈良・大和・浪速周辺に移り住んだ。

 優れた才能を持った渡来人達は、天皇が支配する時代遅れの未開国家日本を、聖人君主が統治する理想国家に再構築する為に官吏の職を求めた。そして、渡来系有力者の縁故で任官し、任地に赴いて日本人に対して国家建設の為に重税を課した。だが、正統派儒教の聖人君主国家が理解できず、中国的理想国家建設に協力しない、無知蒙昧な日本人に絶望した。彼らは、貧しい日本人から税を取り立て、国庫に納める事なく横領して私腹を肥やした。私財を貯める為に、朝廷から未納の叱責を受ければ、貧困化した日本人から暴力的に財産をむしりとった。そして、彼等は、地べたを這いつくばって生活する日本人を馬鹿にし、差別し、従わず刃向かえば容赦なく制裁を加えた。その結果、日本人が生きようが死のうが一切気にしなかった。

 正統派儒教は、読書人や教養人などのインテリ階層に偏向的エリート教育を行い、農業や漁業などの肉体労働は才能のないツマラナイ者の仕事と軽蔑し差別し馬鹿にしていた。

 中国における大陸的エリート層とは、公平を理想とする日本的価値基準の欠いた、人種や職業や性別などあらゆる面での差別主義者であった。

 彼ら中国的エリートは、合理的に物事を処理する為に人の曖昧さを完全に無視し、弱い人間の痛みも悲しさもせつなさも抹殺した。

 それが、東アジア世界で成功する頭の良い賢い人間である。

 聖徳太子は、中国の優れた長所を取り入れ、人を人と思わない短所を切り捨てた。603年に冠位十二階の制と、604年に憲法十七条を制定した。そして、大虐殺を正当化する中国中心の華夷秩序 からの独立を宣言した。

 隋・中国や新羅・朝鮮の様な儒教価値観で硬直した官僚制度を導入する事は、日本にとって百害あって一利なしとして避けた。

 聖徳太子が国際派と見せながら民族的素養を守ろうとした為に、日本の中国式による国際化を推進していた渡来系官吏の怒りを買った。

 『憲法十七条』

 「十二に曰く、国司・国造は百姓(おおみたから)におさめと(重税を課す)ることなかれ。国に二人の君なし、民に二人の主なし。

 十七に曰く、それ事は独り断むべからず、必ず衆とふべし」

 人と人の「絆」を大事にし、人と人の「和」を大切にする、信頼と信用を重視する集団主義を、日本民族に根付かせたのは聖徳太子である。それは、他人を差別し、他人を虐げ、他人を排除する、「謀」と「奪」による個人主義の中国・朝鮮からの独立宣言である。

 622年 聖徳太子は、突然、不可解な死を遂げた。

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 渡来人は、日本を東アジア化する為に、中国の常識である儒教的放伐文化を根付かせようとした。尊皇心なき渡来人の狙いは、血統を絶やし、皇統を断絶させ、国體を破壊する事であった。その為に、非皇族系日本人や朝鮮人や中国人を天皇に即位させ、日本の正統な統治者にしようとした。

 渡来人にとって、天皇・皇室は、自分達の利益を得る為の単なる道具に過ぎなかった。

 儒教的放伐文化とは、「徳」至上主義の価値観による、屍体の大山を築き、血の大池を造る、地獄の様な虐殺文化である。

 神話的天皇制度を否定する日本人は、神道への信仰を持つ日本民族日本人ではなく反宗教無神論の東アジア系日本人であり、「徳」至上主義による儒教的放伐文化の信奉者である。

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 半島は、列島への影響力を強める為に、さまざまな破壊工作を続けていた。

 日本に渡来した朝鮮人僧侶の中には、間諜を任務とした偽僧侶が多くが潜んでいた。

 何時の時代でも、洋の東西を問わず何処の国においても、人の道や神仏の理を説く僧侶が、実は他国において間諜や暗殺などの謀略を働く事は珍しくない。

 特に、キリスト教会の宣教師は、世界中で布教活動をすると共に情報活動を行っていた。

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 641年 百済。義慈王が、クーデターを起こして権力を掌握した。

 642年 高句麗。宰相の泉蓋蘇文が、悪政を行う国王と大臣以下の貴族を惨殺して、国権を掌握した。

 百済と高句麗は、連合して新羅に攻め込んだ。新羅は、唐に救援を要請した。

 朝鮮半島は、自ら、中国大陸からの軍事介入を許して動乱に包まれた。

 643年 蘇我入鹿は、聖徳太子の子供である聡明な山背大兄王とその一族を滅ぼして、天皇をしのぐ権力を手に入れた。

 644年 唐の太宗(李世民)は、植民地政策として日本と朝鮮を中国領とするべく、手始めに高句麗を征討するべく大軍を派遣した。

 日本は、半島情勢の悪化に危機感を感じ、大陸から国家を防衛する為に政治改革が行われようとしていた。

 中国は、何時の時代でも、絶えず侵略戦争を繰り返していた。

 645年(第35代皇極天皇) 蘇我入鹿は、日本の将来を大きく切り開く為には、「国家の開放」「天皇位の開放」が欠かせないとして開放派を結集した。

 つまり、日本の存続の為に血縁重視の閉鎖的日本人の独占から、中国の様に有能な非日本人にも天皇になる事ができる様に開放しようとしたのである。中国の王道を日本に根付かせる為に、易姓革命 を起きやすくするべく、儒教の放伐と禅譲を導入しようとした。

 大胆にも、天命による「徳」を所有する者として、君臣の別を越えて天皇の位を狙ったのである。

 中大兄皇子と中臣鎌足らは、日本人天皇による国體を守る為に入鹿を暗殺した。

 大化の改新である。

 日本の将来を真剣に憂いていた入鹿は、なぜ、自分が、皇極天皇(女帝、帰化系氏族尾張氏の血を引く)の前で謀殺されるのかが理解できず、その罪を問い続けながら憤死した。

 朝廷内での、渡来系開放派勢力は蘇我本家の滅亡と共に後退し、替わって天皇親政派勢力が帰化系氏族の協力を得て実権を握った。

 天皇親政派は、奈良・大和から天皇への忠誠心なき渡来人勢力を追放した。

 同和問題となっている部落民は、既得権を剥奪された朝鮮半島系渡来人の子孫として、その遺伝子に天皇に対する拭いきれない憎悪が埋め込まれている。

 『改新の詔』の第一条で、民衆は全て大御宝として天皇の公民と定め、特権を有した王族や豪族の私的隷属民から解放した。土地も、同様に、公地として個人所有を禁止した。公平に国土を治めるという公地公民制の導入によって、百姓と天皇の直接的絆が強化された。国體の完成である。日本民族は、天皇の大御心・御稜威を戴き、天皇の無私の権威に畏敬の念を抱き、天皇中心の国體を子孫に託した。

 故に、何時の時代でも、日本民族は天皇を中心とした国體を守る為に戦った。

 647年 親唐派の第36代孝徳天皇 は、難波に都を遷都し、唐の優れた文物風習を積極的に取り入れて日本の習慣を大陸的に改革しようとした。遷都は、東アジアの動乱に積極的に関与する為ではなかった。

 民族派の中大兄皇子らは、大陸の価値観を無条件に取り入れると唐の属国になると警戒して、都を飛鳥京 に戻した。

 孝徳天皇は、難波京 に取り残され、命令に従う者もなく、日本の中国化という大改造計画は失敗した。

 649年 高宗は、唐の第三代目皇帝に即位し、領土を拡大する為に軍事力を拡大し、侵略戦争を起こした。従う者は温情持って属領民・奴隷として助けたが、従わない者は女子供に関係なく皆殺しにした。中国が掲げる「徳化」には、「徳」も「道徳」もない。占領地でおこなった「同化・中国化」とは、「民族浄化」の事であった。

 東アジア世界は、中国の軍備増強による膨張政策で、悲惨な戦乱に包まれた。中国人の制限のない個人欲で、多くの国が攻め滅ぼされ、多くの人間が猟奇的に大虐殺された。

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 659年 第37代斉明天皇(女性天皇・皇極天皇の重祚 )は、唐との対等の関係を望んで遣唐使を送った。

 唐は、アジアの支配者として、朝鮮半島と日本列島の併呑の意思を固めて、遣唐使を軟禁した。

 唐・中国は、何時の時代でも、日本との対等関係を認めず、日本を属国として支配する強い意志を持っていた。

 660年 百済は、海上から唐の大軍に奇襲され、同時に敵国新羅軍の攻撃で滅亡した。

 百済王は惨殺され、3,000人以上の官女が白馬江で身投げして自殺した。

 唐・新羅連合軍は、味方に付かない百済人を女子供に関係なく虐殺して、財宝を略奪した。味方になる事を誓った百済人は、奴隷として強制連行して、使役するか人身売買業者に売り払った。

 この事実は、大陸では当たり前の光景であった。

 ゆえに、「力こそ正義」とする大陸では、住民を守る為に城塞都市が常識であった。

 そして、命令一つで都市住民を意のままに動し、外敵を打ち負して都市を守る、強力なリーダーシップを持った指導者を必要とした。

 都市住民は、人間性に癖があろうとも指導者の命令に従って、都市防衛の為に一糸乱れずに行動した。自分勝手に命令に従わない者や協力して戦おうとしない者は、都市を危険に晒す恐れがあるとして、殺害するか、追放した。

 戦争を嫌う人の良い指導者を選んだ城塞都市は、外敵に侵略されて滅亡し、住民は無慈悲に虐殺され、生き残った者は奴隷として売られた。

 侵略者を殺す事を嫌う人の好い者は、侵略者によって殺されて全てを失った。武器を捨てて生き残った気弱な者は、奴隷として売られて、扱き使われた末に薄汚れた小屋の片隅で惨めに死亡した。

 百済は、虐殺と略奪で阿鼻叫喚の地獄と化した。

 将軍鬼室福信(鬼室神社)は、残党を集めて各地で抵抗し、友好国日本に救援を要請した。

 斉明女帝は、唐と新羅の容赦なき残虐行為に恐怖し、唐の侵略から日本を守る事を決意した。女帝自ら、大陸との戦争に備えるべく、文武百官を従えて九州に出陣した。何時の時代でも、日本の戦争は、小国で無勢であっただけに、自衛戦争であった。

 661年 斉明女帝は、攻撃が最大の防禦として派兵を命じた。百済王国の再興を支援する為に、日本の人質となっていた百済王子豊璋に5,000人の軍隊を授けて帰還させた。

 663年 中大兄皇子は、日本の安全を確保する為に、本格的な軍事介入する事を決定して、半島に2万7,000人を増派した。

 日本・百済連合軍は、緒戦では新羅・唐連合軍を各地で撃破し、新羅の城を攻略した。豊璋王子は、将兵に人気のある鬼室福信を謀殺した為に、百済軍は内部分裂して崩壊した。半島は、古代から、嫉妬深い性格を持ち、自己中的に絶えず内紛を繰り返していた。

 だが、日本水軍が白村江の戦い で新羅・唐連合軍に大敗して、百済再興の夢は潰えた。

 日本の海外戦における最初の大敗北であった。

 日本は、半島における有力な親日勢力を失った。

 反日勢力は、唐の軍事支援を得て半島を統一した。新羅は、唐の要請に従って日本征討軍を受け入れ、日本侵攻に参加する為に臨戦態勢に入った。

 天智天皇は、新羅とは交戦状態にあるとして、正式に国交を断絶した。

 日本は、自己の利益・金儲けの為に中国の走狗と化して陰謀をめぐらす新羅を信用しなかった。だが、国内には、国外の反日勢力に協力する反天皇派勢力が存在していた。

 古代日本と友好関係にあったのは、大国唐の属国となった新羅(中国氏名)に滅ぼされた、地方王朝であるの百済(古代朝鮮氏名)と高句麗(ツングース系)であった。

 664年 唐は、日本侵攻を前にして、日本に軍事威圧・外圧をかけて降伏させるべく使者と兵2,800人を満載した大軍船団を派遣した。

 日本は、主兵力を失っていたが、武力を背景とした外圧で屈服させ様とする傲慢さに反発して、使者の入京を拒絶して追い返した。

 日本は、唐が日本侵略の為に大部隊を大陸や半島の海岸線に集結させているとの情報のもとに、最後の一人になっても徹底抗戦するべく各地に山城を築き、都を大津に移した。

 日本は、傲岸不遜で相手を見下して奴隷の如くあしらう中国を信用せず、話し合いによる和平の道を選ばなかった。

 当時の日本人は、戦えば負け、多くの犠牲者を出す事は分かっていた。

 無益な戦争と分かっていたが、生きる為とはいえ、戦わずして亡国となり、敵を殺さずに奴隷となる事を、古代の日本人は拒絶した。

 日本人は、国家と天皇を守る為の戦争を放棄した事はなかった。

 列島は、大陸がいつ半島を経由して侵略して来るかに怯え、警戒を強化した。

 中国・朝鮮は、対日戦略を軍隊による侵攻作戦から内部から崩壊させる謀略工作に変更した。

 反天皇の古代豪族と反日の渡来人勢力は、日本の主権を犠牲にし、日本領土の一部を放棄しても、天皇勢力を滅ぼす為ならば外国勢力と手を組もうとしていた。

 何時の時代でも、日本と天皇は国内外に敵を抱えていた為に、国を閉ざし、交流を制限した。

 665年 日本は、唐と和睦したが、けっして唐・中国を信用せず、唐・中国の侵略に備えるべく軍事力強化に力を入れた。そして、国内整備に取り組んだ。古代日本人の国防意識は、現実を正しく見詰めていただけに強烈であった。

 歴代の天皇は、日本と皇室を守る為なら、大陸との戦争も辞さなかった。

 12月 藤原鎌足の長子定恵は、唐から帰国するが、反唐派百済人によって毒殺された。

 日本国内は、反唐派と親唐派に分かれて主導権争いを繰り広げていた。

 朝廷内では、建前として徹底抗戦を唱えていたが、本音では唐との和平を望んでいた。

 667年 中大兄皇子は、唐・新羅連合軍の侵略を恐れて、逃げる様にして都を飛鳥から近江の大津に遷した。翌年に、第38代天智天皇に即位した。

 668年 新羅は、唐羅同盟に従い、唐の軍事支援を受け、高句麗を滅ぼして半島を統一した。新羅と唐は、高句麗領土を分割した。

 国王と王国を裏切った親唐派は、戦争回避の平和派として助けられて、両国から優遇された。国王に忠誠を誓い、王国を守ろうとした反唐派は、反逆者として家族諸共に虐殺された。

 新羅軍は、勝者の権利を唐軍以上に熾烈に遂行した。高句麗人への容赦ない虐殺を行い、高句麗王家の財宝を根刮ぎ略奪した。

 中華秩序である天朝朝貢冊封秩序のもとで、朝鮮は中国の属国となり、正統派儒教価値観で民族の文化や宗教を捨てた。

 朝鮮は、日本とは正反対に、中国の年号と暦と貨幣を使用した。さらに、創氏改名を行い、祖先からの古代朝鮮式氏名を野蛮として捨て、高度な文明人の証しとして中国式氏名に変更した。

 朝鮮は、日本とは正反対に、唐風を尊重して国風を避け、中国価値観を一字一句変更することなく受け入れた。独自の国風化を忌避した事が、朝鮮に不幸をもたらした。

 671年11月~672年5月 唐使は、白村江の戦いで捕虜となった日本人約1,400人を引き渡す為に、軍船47隻と2,000人以上の軍勢を引き連れて筑紫に上陸した。

 筑紫を中心とした九州は、山陰の出雲同様に、大和の天皇勢力に対する対抗意識が強く、独立する為に絶えず反乱の隙をうかがっていた。

 日本に帰国した彼らは、日本より優れた高度な文明を持った唐を目の当たりにした為に、唐に敵対しても損をするばかりであるとして、親唐(中国)派として両国の関係改善の為に活動した。

 672年6月 壬申の乱大友皇子 は、近江や伊賀などの大津宮近在の渡来人勢力を主力とした朝廷軍を率いて、大海人皇子 の率いる賊軍を討伐しようとしたが、近畿一円の帰化人勢力の支援を受けられなかった。大軍を擁して大海人皇子を攻撃したが、将軍等の内部分裂で統制を失った。

 大海人皇子は、渡来人勢力の強い近江朝廷に不満を持つ、伊勢・尾張・美濃などの東国帰化人勢力と、大伴氏などの渡来系官吏に冷遇されていた古代氏族を味方につけて、朝廷軍を破った。

 大友皇子は、形勢不利と見た渡来人らの相次ぐ裏切りにあって敗北し、恨みを抱きながら縊死した。

 この後も、天皇位の継承をめぐる朝廷内の血なまぐさい事件は耐えなかった。

 明治天皇は、1870年に、大友皇子は天皇に即位したと認めて第39代弘文天皇 と諡号した。

 673年 第40代天武天皇に即位した大海人皇子は、天皇の権威を強化し、中央集権体制を推進して、皇族を重用する皇親政治 を始めた。大友皇子が敗死した大津宮を捨て、山背大兄王や蘇我氏の怨念が残る飛鳥や斑鳩を嫌って、新たな都藤原京の造営を命じた。

 683年 唐の高宗が逝去して、中国の侵略戦争は終息した。

 690年 高宗の皇后であった則天武后(~705年)が、帝位を簒奪して皇帝に即位し、国号を周と称した。保守的な反対派貴族や官吏を大粛清し、多くの有能な者を政治に中枢に登用した。

 天智天皇の娘で叔父の天武天皇の后であった鸕野皇女は、第41代持統天皇に即位した。「天皇」の称号を正式に使用し、国号を「日本」と制定した。

 称号「天皇」と国号「日本」は、中国に対する独立宣言であり、冊封を受ける中国の属国である新羅より上位にある事を主張するものであった。

 701年 第42代文武天皇 。持統太上天皇 と藤原不比等は、『大宝律令 』の編纂を命じた。皇統を絶やさない為に、男系・女系の別なく、直系を正統として皇位を継承する事を認めた。『継嗣令』「およそ皇兄弟と皇子、皆、親王と為す、女帝の子もまた同じ」

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 705年 日本の総人口、559万人。

 710年 第43代元明天皇・女帝。高く厚い城壁と深く広い堀を持たない、無防備な平城京に遷都した。日本の都は、中国や朝鮮のような城塞都市・都城ではなかった。

 712年 唐の玄宗(~756年)は、則天武后以来の政治の混乱を鎮める為に、クーデターを起こして第六代目皇帝に即位した。

 中国史上、最も安定した時代であり、最高の中国文化を生み出した。唐の文化を越える様な爛熟した文化は、現代にいたるまで誕生しなかったし、今後も生まれる絶対にない。

 720年 第44代元正天皇・女帝。南隼人の反乱。

 729年 第45代聖武天皇。長屋王の変

 740年 藤原広嗣の乱。広嗣は、九州の新羅系渡来人と反天皇派地方豪族らの軍事支援を受けて、九州・太宰府で叛乱を起こし、奈良中央に向けて進撃を開始した。

 広嗣軍に参加した、渡来人らは倭・日本からの分離独立を切望し、地方豪族は大和中央からの自立を掲げていた。

 各地の下級役人や身分低い小豪族となって土着した天皇派帰化人は、朝廷軍(皇軍)と協力して広嗣軍を破った。

 敗れた広嗣は、新羅へ亡命しようとするが、渡航に失敗し、捕らえられて処刑された。

 聖武天皇は、戦乱や身内の怨霊などから逃げる様に遷都を繰り返した。そして、国家の平和と民の安寧を願って神道ではなく仏教に救いを求めた。

 741年 度重なる飢餓や疫病などの天災からの救いと希望を求めて、国分寺建立の詔を発した。

 743年 聖武天皇は、自分の非力を認めて、大いなる救いを求めて大仏造立の詔を出した。

 神の裔である天皇は、国の行く末と民の救済を同列に扱った。

 帰化人の行基は、弟子から生き仏として慕われていたが、国よりも民の救済に力を入れた。

 752年 第46代孝謙天皇・女帝。東大寺代物が完成して、盛大な開眼供養が執り行われた。この時から、日本は仏教国家となった。

 757年 橘奈良麻呂の変。

 758年 孝謙天皇は、天武天皇の孫に皇位を譲位した。第47代淳仁天皇 である。

 764年 孝謙太上天皇は、弓削氏出身の道鏡の助言に従って、淳仁天皇を強制退位させて皇位に復帰した。第48代称徳天皇である。地位と名誉を剥奪された廃帝 淳仁天皇は、淡路に幽閉されて、1年後に謎の死を遂げた。

 称徳天皇。藤原仲麻呂恵美押勝 )の乱。仲麻呂の勢力基盤は、反天皇的渡来人が多く住む北陸を中心とした日本海沿岸であった。

 下級氏族出身の吉備真備 は、坂上氏ら武装帰化人集団や地位の低いが天皇への忠誠心旺盛な庶民達の協力を得て、北陸へ敗走する仲麻呂を琵琶湖畔で殺害した。

 仲麻呂家族全員が、不忠者として女子供に関係なく惨殺された。

 渡来人らは、差別意識の強い日本人の野蛮さと憎悪した。彼らは、日本の片隅で、民族性を守った渡来人だけの独立国家を希望しただけであった。つまり、天皇・朝廷の影響を受けない、日本色を完全排除した生きる空間を切望したのである。

 大陸では、国家の発展に協力した異民族は当然の権利として領土を得て領主となった。国に貢献した異民族が生活する空間として領地を得る事は、ヨーロッパ社会やイスラム世界でも当然の権利とされていた。

 渡来人は大陸的常識として固有の領地を求めたが、天皇・朝廷は島国的常識としてその要求を圧殺した。

 渡来人らは開放的であり、天皇・朝廷は閉鎖的であった。

 渡来人らは、反天皇として、賤民・まつろわぬ民(従わない民)として差別された。

 769年 道鏡事件。道鏡は、法王となり天皇と並ぶ存在となったが、さらにその上の皇位に就く事を望んだ。女性の称徳天皇は、道鏡への愛を貫く為に、君臣の秩序を越えて、道鏡を天皇に即位させようとした。道鏡は、臣下の弓削氏出身であり、天照大神の血筋ではなかった。

 ニセ宇佐八幡宮の神託「道鏡を皇位につけたら、天下は太平となる」

 仏教勢力は、玄昉や道鏡等を通じて政治に干渉して国政を混乱させ、多くの仏教伽藍を全国に建立して国家財政を疲弊させていた。庶民は、計画性のない仏教振興政策の為の重税によって困窮を強いられ、悲惨な生活に追い込まれていた。過度な理想主義的宗教政策は、百害で得るところは少なかった。

   ※   ※   ※

*万世一系(直系長子相続)の男系天皇(国體)体制の確立

 皇祖神・天照大神(女性神)の『天壌無窮の神勅』「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しくいまし皇孫ゆきて治せ。行ませ。宝祚の隆えまさんこと、当に天壌と興に窮まり無かるべし」

 「神の裔」という皇統は、天皇神話から始まる。

 天皇が日本を治めるという「国體」も、日本神話によって生まれた。

 日本民族の歴史は、民族宗教である日本神話と共に歩んできた。

 日本民族の物語は天皇神話と一体で有り、物語と神話は切り離す事が出来ない。

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 大和朝廷は、日本の独立と主権を中国や朝鮮の軍事的圧力から守る為に、神代から続く天皇を中心した歴史を創作して『古事記』(第40代天武天皇~第43代元明天皇・女帝、712年に撰上)や『日本書紀』(第44代元正天皇・女帝、720年に撰上)を編纂した。

 「天孫族である皇祖は、高天原から九州の高千穂に降臨し、東征し、大和で朝廷を開き、倭の国を支配した」

 侵略を企む外敵である中国と朝鮮の干渉を排除して統一を維持し、日本を内部分裂の危機から救い、国家崩壊の恐れのある大陸的内戦を回避する為に、暗黙の了解として、「神の血と命」を受け継ぐ血筋としての万世一系の男系天皇制度(直系長子相続)を成立させた。

 神の子孫である現人神・男系天皇とは、敵国の外圧を排除し、日本の中国化を防ぐ最後の精神的防波堤であった。

 『古事記』にしろ、『日本書紀』にしろ、そして日本神話にしろ、日本国家と日本民族を守ろうとして祖先によって意図的に造られたおとぎ話・神話である。

 日本を中国化しようとする国内外の反天皇派勢力は、道徳的支柱である男系天皇(直系長子相続)制度を廃止する為に、『古事記』や『日本書紀』を正史ではなく偽史 であり稗史 であるとして否定した。

 歴代の天皇とその側近が最も恐れたのは、天皇・皇室への無関心ではなく、国益や民族の「心」「志」「まごころ」「良心」を踏みにじり、「個」の利益を優先する裏切り者・卑怯者・売国奴・非国民が出る事であった。

 なぜなら、彼らは日本人でありながら無国籍者を気取り、「個」の自分一人が助かり利益・金儲けをする為に、天皇と国家と民族を平然と外敵に売り渡すからである。

 天皇・皇室への尊崇が薄らいだ時、外敵に対する日本民族の正当な攻防史は汚され、日本国家は確実にその坂を転げ落ち、そして日本民族は死滅する。

 だが、反天皇のマルクス主義者日本人は、天皇が消滅する事を切望し、日本を崩壊させる為に活動を続けている。

 『古事記』や『日本書紀』の精神である「皇道」とは、「徳を有した臣下が天命を受けて、徳を無くした皇帝を排除して新たな王朝を開く」という、正統派儒教の「王道」を封じるものである。

 正統派儒教とは、「暴力と死」の恐怖支配である一君独裁体制を正義とする思想であり、あやふやな人の心や不可思議な神を信用しない合理的学問である。

 東アジアの様な破滅的流血を避ける為に、国家を天孫神話で一つにまとめ上げ、神の子孫である天皇が国政を総覧する仕組みを編み出した。

 万世一系(直系長子相続)の男系天皇神話こそが、日本の魂である。

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 天皇は、政治・外交・軍事の諸決定を時々の権力者・実力者に委託し、民衆に対して「詔」を発して、核心なき曖昧な良心や道徳などの精神面で希望をのべるのみであった。けっして、理路整然とした目的意識を持った、思想や理念や原則を語る事はなかった。

 歴代の天皇は、退位するまで皇居内に軟禁され、自由を奪われていた。

 当然、ローマ教皇や中国皇帝や朝鮮国王の様なカリスマ性を持った絶対命令権者ではない。

 昔の日本人は、権力や権威を振りかざす相手を胡散臭く思い、すぐには信用せず、威圧的な権威や暴力的な権力には安易に付和雷同的に従う事もしなかった。

 だが、「人の良い日本人」は、一度信用すると、安心して盲信した。時に、それが裏目に出て裏切られることもあったが、「お人好しの日本人」は裏切った相手を決して恨まなかった。「気の良い日本人」は、むしろ自分に非があったろうと反省した。

 日本の理想的指導者像とは、島国的に民衆を公平にまとめる調整型の個性少ない権力者や有力者の事であり、大陸的に全ての者を強引に導き叛けば皆殺しにする個性の強い独裁者や独裁官 ではなかった。

 万世一系の男系天皇(直系長子相続)制度とは、国家の崩壊をもたらす絶望的な戦争を避け、民族死滅の恐れのある悲惨な虐殺を防止する為の、日本独自の島国的安全装置であった。

 それは、歴史が証明している。

 

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