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今日ボクが見た風景

渡来人と反天皇派日本人による分離独立戦争=平安

Category: 日本国民の心得  

*実力至上主義の東アジア世界  

 唐王朝(トルコ系遊牧民族)は、秦漢時代のままにあった地域的な黄河文明を、世界に通用する高度な中国文明に完成させた優れた世界帝国であった。その完成度ゆえに、これ以降の数多くの王朝は唐王朝ほどの光彩を放つことはなく、文明的にも文化的にも超える事はなかった。

 つまり、中国文明として想像されるのは唐の時代である。

 文化度の低い周辺諸国は、唐の政治や経済や文化などを学び、その社会機構をそのまま倣う事で自国の文化度を押し上げようとした。

 日本も、文化らしい文化を持たず、国とはいえないほどの低レベルな未発達な小さな国で、朝鮮同様に中国からその正統性を承認される事で何とか国としての体面を保っていた。

 当時の日本人は、国を整備する為に、法律、政治、経済、軍事、哲学、芸術、科学、技術、医術、農業、道徳などの多方面で多くを中国から学ぶ為に、優秀な人材(大半が、帰化系日本人であり、忠誠心なき渡来人ではない)を中国・唐に派遣した。それが、遣唐使である。

 人として「どう生きるか」という宗教的価値観や精神・心の有り様は、人を人と思わない正統派儒教などの排他的倫理や観念的道徳ではなく、慈悲を持っていたわるという情緒的インド仏教から学んだ。日本人の精神的弱さは、心情として、中国・唐よりインド・天竺に憧れたところにある。

 盤石と思われた唐王朝も、長らく変化の少ない泰平になれ親しむや、堪え性のない渇欲という中国人特有欲求不満の腐敗と横暴が蔓延り始めた。

 自分勝手な行動が目立ち、社会秩序が崩壊し、人心は荒廃した。

 民族的な順法精神の欠如から、犯罪が急増し、治安は悪化した。

 王族や名門貴族間のいがみ合いや、高級官吏の権力闘争や、地方官吏の不正や横領で、政治は混乱し、財政は逼迫した。

 民衆は、汚職に塗れた地方官の収奪にあって貧困化し、重税に絶えきれなくなって流民となって逃亡した。

 徳を持って慕われていた皇帝は、血筋だけで皇帝の座にあったが、乱れた社会を正す力を持たず、民衆から見放された。

 こうして、栄耀栄華を誇り、滅びる事はないと思われた唐王朝にも衰退の兆しが現れ始めた。

 安史の乱(755年~765年)や黄巣の乱(875年~884年)や周辺異民族の侵略などで、戦乱に次ぐ戦乱で最盛期の総人口が半数(約3,600万人)近くに激減した。 

 唐王朝は、救援を期待した臣下の裏切りや、利益に吊られて敵に寝返る者が相次いで、内部から崩壊して滅亡した。

 自分の事しか考えない者ほど、醜悪な存在はいない。彼等は、「公」より「個」を大事にし、国家や民族が死滅しようとも意に介さない。現代日本にも、そうした「個」のみを追求する自己中の日本人が急増している。

 正統派儒教は、徳を失った者・王朝・皇帝は天に見放されて滅亡し、新たに徳を有した者が皇帝になり王朝を開くべしとした。そして、徳を失った主君を臣下が倒し、臣下が替わって新たな王とあり玉座にをしめる事を理論的に証明した。それが、たとえ異民族でも容認した。

 中国では、人種や民族や、身分や家柄に関係なく、実力ある者が剣を振るって皇帝となって帝国を建国した。そして、王朝を1,000年王国にする為に、一族以外の敵対者や、家族以外の邪魔者や、皇位継承者の兄弟を見境なく虐殺した。

 中国の、覇道はもちろん、王道も、数多の血で塗られていた。

 純然たる中国人・漢族は、中原と言われた黄河流域・黄河文明圏の住人のこを指し、それ以外の揚子江流域・揚子江文明圏などの住人は蛮族と差別していた。

 よって、中国人の王朝とは殷、周、漢(高祖・劉邦=農民、小役人、反逆者)、宋(太祖・趙匡胤=地方の節度使、謀反人)、明(太祖・朱元璋=貧民、僧侶、白蓮教の乱の盗賊)などであった。彼等は、実力で皇帝となり、帝国を維持する為に虐殺を続けた。

 秦は、黄河流域外の蛮地を支配していた為に中原諸侯から蛮族と差別されていた。隋と唐はトルコ系遊牧民族鮮卑人で、元は北方遊牧民族のモンゴル族で、清は満州民族女真族であった。

 4000年ある中国史の内で3分の2近くは、非中国人の異民族の支配下にあった。中国人各王朝は、中国人を異民族からの侵略から守る事を大義として、周辺地域に討伐軍を派遣し、各地で大虐殺を繰り返していた。

 病的人種差別主義者の中国人は、異民族は生きている値打ちもない野獣として、集落を襲い、女子供に関係なく見付けしだい皆殺しにした。異民族王朝は、その復讐の為に、中国人で逆らう者は反逆罪・大逆罪で虐殺し、忠誠を誓う裏切り者を誰であれ重宝した。

 中国を征服した王朝は、その正統性を宣言する為に、前王朝を否定し、その痕跡を地上から抹消した。前王朝の皇帝陵は、破壊され、高価な遺品は奪われ、遺体は放置された。

 さらに、勝者は歴史を改竄し歪曲し捏造した。中国の公式歴史書・正史の大半は、意図的に改竄さっれた偽史であると言われている。

   ※   ※   ※  

*開放的な古代日本

 日本には、古代から幾つもの宗教が混在し、おおむね信仰の自由が保証されちていた。

  第45代聖武天皇は、736年に来日したペルシャ人で景教ネストリウス派キリスト教)宣教師の皇甫と李密医の二人を歓待して官位を授けた。日本は、他国人を寄せ付けない閉鎖した社会ではなく、逆に優れたものは何事においても謙虚に受け入れた。

 「開放された国家」を証明するのが、正倉院である。

 日本の村は、決して排他的でもなく、閉鎖的でもなかった。その証拠に、村はもちろん都にさえ、大陸では常識とされた他者を寄せ付けない堅牢な城塞はないし、中央や地方の各役所にも威圧する様な重厚な屏はない。日本の城は、戦闘員とその家族のみが住む純軍事要塞であり、一般庶民が住む城塞都市とは違っていた。

 聖武天皇の后である光明皇后(藤原不比等の娘)は、土俗的祖先神・現人神信仰にはない景教の「他愛」の教えに感動した。勅命で悲田院や施薬院などを造り、日本の神々と外来の仏に貧しい人や虐げられた人や病人を自らの手で救う事を誓った。

 ここに、「感染の危険を冒してまでも、病人の苦痛の訴えに無条件で応じて、相手の身体に出来た腫れ物の膿を自ら吸い出した」という、「他愛」の自己犠牲的貧者救済神話が生まれた。「自愛」を強調する現代日本は、この民族的物語を否定している。

 民族中心宗教・神道は、自分の事よりも弱い相手や差別され虐げられた相手や老いて病に罹った相手に、「やむにやまれず」に手を差し伸べるという「情理」によって、「相手を思い遣る」という宗教的意識改革を行った。それが、評判の悪い「人の為、社会の為」という没個性の日本型集団主義である。

 第16代仁徳天皇の「仁愛」と、第31代用明天皇の皇子・聖徳太子の「博愛」と、光明皇后の「慈愛」は、弱い者や貧しい者や虐げられた者を庇う為の「徳育」の教訓とされた。

 万世一系の男系天皇(直系長子相続)の使命とは、自己犠牲や利他精神といった日本の「道徳」や「良心」を伝える事であった。女系天皇は、国際基準によって伝統的日本精神を否定するものである。

 左翼や左派などのマルクス主義者は、万世一系の男系天皇(国體)を否定する立場から、天皇中心の日本神話と民族中心の物語を抹消しようとしている。

 反天皇派日本人の究極の目的は、天皇を中心とした日本国家の消去であり、天皇を尊崇する日本民族の死滅である。

   ※   ※   ※

*平安京遷都 

 779年 第50代桓武天皇(母親は、百済系帰化人の高野新笠)の御代。日本と新羅との関係は悪化し、この年を最後に両国の公式な外交関係は断絶する。

 794年 桓武天皇は、母や皇后の病死の原因を、謀殺した早良親王が「怨霊」となって祟った為と信じ、帰化人秦氏が所有する土地に新たな都を造営した。

 神の裔である天皇が、怨霊から逃げる為に造営を命じたのが平安京である。天皇とは、奇跡を起こす霊力を持たない、非力な宗教的権威であった。

 迷信深い日本人は、恨みを抱いて非業の死を遂げてた人が、怨霊となって祟り呪う為に疫病や天変地異などの災いが起きると信じていた。災難を避ける為に、怨霊を神として神社に祀り、祭りを行って祟りを鎮めた。怨霊と化した人を神とする信仰心は、本当の信仰心ではないと否定されている。

 日本の民族宗教は、普遍宗教の絶対神に自分一人の「奇跡と恵み」を求める信仰とは違って、祖先を神とする怨霊や亡霊への恐怖信仰である。けっして、救済してくれる救世主の到来を願うメシア信仰でもない。

 日本には、妖怪や魑魅魍魎や物の怪やあやかしは数多く存在するが、悪魔や魔女は存在しない。鬼は、悪を憎み罰しようとする仏の化身であり、絶対神に逆らって悪を行う悪魔ではない。

 政治的には、半島系仏教の強い奈良を捨て、藤原氏と天皇に忠誠を誓う半島系帰化人(良民・公民)達を連れて平安京に遷都したといえる。

 平城京は、世界の常識では考えられない、城壁のない無防備な都であった。

 大陸の首都は、例外のない閉鎖空間の城塞都市であり、一度ならず数度の虐殺と略奪を経験している。

 平安京は、攻め易く守り辛い無防備な都の為に、幾度も戦火に焼かれたが、世界的な虐殺と略奪を経験していない。都は、城壁を持たなかった為に、出入りが自由で、戦いや災害が起きればどこからでも逃げ出せた。その意味において、日本は世界の非常識で生きてきた。

 欧米に憧れる知的エリートの日本人は、日本的なもの全てを無条件に未開で野蛮であるとして否定している。 

 この後は、天台宗や真言宗や曹洞宗などの大陸系仏教が隆盛を誇り、半島系仏教は衰退した。

 天皇への忠誠心なき渡来人は、経済的理由で平安京の辺地に移り住み、天皇と日本への憎悪を抱き、いわれ無き差別に激怒して復讐を誓った。

 忠誠心なき朝鮮系渡来人が、「まっろわぬ民」として軽蔑され、「賤民」として差別を受けた、現代の同和問題に発展する部落民の祖先である。

   ※    ※   ※

*日本の実情

 800年 日本の総人口、600万人。

 第52代嵯峨天皇(786~842年。在位809~823年)の御代における日本の総人口で、半島出身者はその内の3分の1以上であり、彼らは日本の政治、経済、文化、宗教そして軍事をも支配していた。

 ゆえに、天皇への忠誠心なき半島系渡来人は、自己中心的に人口に見合った諸権利の獲得を正当行為とした。日本人の心情を無視して、閉鎖的天皇支配を廃止し、日本を広く能力のある非日本人にも開放すべきだと訴えた。彼らは、他人の事を気にせず、自分が自分らしく生きる為に、自分の希望のみを叶えるべく個人的な行動を正当化した。

 「個」の夢を実現する為であれば、たとえ平然と「公」を大事にする日本人さえも殺した。

 当時の日本人の大半は、学才や商才や職能を持たない教養なき文盲の農耕漁労民で、地方の農山漁村に住み、中央の役人としての位階には無縁であり、任官を望むべくも無い境遇にあった。渡来人とは違って、農耕用の牛馬を飼う事ができないほどの極貧生活を強いられていた。わずかな田畑を一所懸命に耕しても、財を貯めるられないほどの貧民であった。

 日本に住む日本人にとって、「天皇への忠誠心」のみを唯一の財産としていた。臣民の義務として、租・調・庸・雑徭(ぞうよう)さらに命の危険のある兵役などの重い負担を負わされ、食べて生きるのがやっとという窮乏生活を営んでいた。

 それでも、絶えられなくなった農民は逃亡し、浮浪民として他国に流れ、勝手に僧侶になったり、貴族の家奴になったり、あるいは盗賊となった。

 山上億良(帰化人)は、当時の日本人の飢えに苦しむ悲惨な生活を『貧窮問答の歌』(731年)にして残した。

 能力のある有能な役人の大半が、半島出身者であった。

 半島出身者は、中国人と同じ利己的な大陸人的気質を持っていた。

   ※   ※   ※

*新羅の日本侵略

 813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団が、肥前の沿岸を荒らし回り、虐殺と略奪を行い、日本人を拉致して行った。

 少数の船団による、日本沿岸での海賊行為は絶える事がなく、その正確な数は不明である。

 820年 天皇への忠誠を拒否した開放派の新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。

 反天皇派の彼らは、「日本列島は日本人のみの固有のものではなく、そこに住む全ての者のものである」と主張した。そして、優秀民族としての待遇改善、日本人以上の特権、民族の自主独立、新羅及び倭・日本連合王国の建国を当然の権利として求めた。

 だが、反乱軍は、半島の新羅本国からの軍事支援を受けられず、臣下として見下していた高句麗系や百済系の帰化人集団が味方しなかった為に敗北した。

 新羅系渡来人は、教養のない日本人とは別の優秀な民族であり、大陸的高度な教養を有している優れた民族という自意識があった。故に、同じ価値観を持つ民族だけで一つの場所に集まって、天皇の支配が及ばない土地に独自の民族国家を創る事を希望した。そして、同じ民族として半島と協力し合って、日本人に煩わされない理想的な連合体を築こうと夢見た。彼らは、民族的悲願であるその夢・希望を実現させるべく、天皇の支配に終止符を打ち、日本を開放する闘争を全国で繰り広げたのである。

 東国の大地には、半島出身者の「火病(ファビョン)」による「恨(ハン)」や「怨念」や「憎悪」が渦巻いていた。

 新羅の水軍や海賊の混成船団は、度々、九州から東北の沿岸を襲撃し虐殺と略奪と日本人拉致を行っていた。

 だが、朝廷軍・官軍の主力は国内各地で起きている反乱や暴動を鎮圧する為に転戦を余儀なくされていて、軍隊を半島の海賊討伐に廻すゆとりがなかった。

 つまり、国内の安定を重視した為に、沿岸の住民は「棄民」として見捨てられたのである。

 沿岸の住民は、朝廷からの援軍をあてにせず、半島の凶悪な海賊から村を守る為に結束して武装し、自衛目的の海賊を組織した。それが、後年、悪名高い犯罪集団「倭寇」となった。

 当時の日本人は、中央の助けをあてにせず、武器を持って自分の事は自分で守るという闘争心が旺盛であった。政府をあてにする現代の日本人とは、精神力はもちろん、分析力と決断力と行動力においても雲泥の差があった。

   ※   ※   ※

*日本を朝鮮化しようとした渡来人の謀略と反乱

 824年 第53代淳和天皇は、神代から続く万世一系の男系天皇制度(国體)を守り、外圧・外国勢力の介入による国家崩壊の内戦を回避し、大陸の侵略を防ぐ為に新たな新羅系渡来人の移民を禁止した。

 日本は、勅を持って鎖国を宣言した。

 831年には、国内の反天皇派半島系渡来人勢力との接触を遮断するべく、新羅商人との私的交易の取り締まり強化を九州の太宰府に厳命した。

 自意識過剰な新羅商人は、日本が中国商人との交易を制限もせず維持している事に激怒して、自己防衛的に日本国内の反天皇勢力に急接近した。

 日本は、894年の遣唐使廃止まで、「政経分離」の原則(政冷経熱)に従って中国・朝鮮との交易を続けていた。

 半島系渡来人は、天皇・日本に強要された「賤なる身分」から解放される為に、

 西国では。男系天皇支配を打倒して、日本の実権を手に入れようとの野心を持つ大王家・天皇家より古い筑紫・出雲・吉備・近畿・薩摩・大隅など各地の有力氏族を経済支援した。

 843年 前筑前守の反乱。870年 太宰府少弐藤原元利麻呂は、新羅国王と共謀して反乱を起こした。その他。

 瀬戸内海では。海上を荒らし回る凶悪な非日本人海賊集団と反天皇勢力を、新羅王国と協力してヒト・モノ・カネの軍事支援をした。反天皇派の海賊は、西日本から朝廷に納める物品を運搬する官船を襲撃して強奪した。

 京畿地方では。遅れて渡来した為に、優遇されることなく不遇を強要され、下等と軽蔑する日本人から差別されて不平不満を募らせている最下層の渡来人集団(後の部落民)を煽った。

 日本に敵意を持つ貧しい渡来人らは、凶悪な犯罪事件を続発させ、治安を悪化させた。

 898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。

 京では。天皇の権威を失墜させ朝廷内の不和を増大させる為に、藤原氏やその他の有力氏族に接近して権力闘争を煽った。自分こそ賢く優秀だと思い込んでいる自意識過剰な野心家ほど、洗脳し易く、金・利益で操り易かった。

 謀略や陰謀において、物事を単純明快に分析し理解する日本人には、戦略戦術を極め権謀術数に長けた渡来人には歯が立たなかった。

 810年 藤原薬子の変。866年 応天門の変。969年 安和の変。その他。

 東国では。今もって朝鮮への帰属意識が強い渡来系騎馬武装集団や、かって天皇軍に滅ぼさせた地元各王朝の残党に、大和への反乱を起こさた。

 899年 物部氏永の反乱。その他。

 後の、武士の作法とされた「切腹」は東国で誕生した。西国は、切腹ではなく、入水か絞殺などの血を流さない手段をとった。

 切腹は、日本人の美学ではない。

 東北・奥州では。天皇・日本からの分離独立を目指す蝦夷(少数民族アイヌの祖先)と同盟を結び、独立戦争としての反乱を起こした。

 780年 伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)の乱。788~802年 アテルイの乱。875年 元慶の乱。その他。

 当時の天皇の軍隊(官軍・皇軍)は、歩兵・御徒が主兵力で騎馬兵は少なかった。日本の大地は朝鮮の大地とは違って、平坦な土地が少なく、森林や河川が多かった為に馬を疾走させるには不向きな土地であった。

 兵力は、唐や新羅朝鮮より少なく約20万人にすぎず、指揮官の多くは帰化系武将で有った。

 日本の諺「七度の餓死に遇おうとも、一度の戦いに遇うな」の如く、農耕民族日本人は我慢強かったが兵士には向かなかった。

 日本を分裂させ内部から崩壊させようとした渡来人の陰謀は、天皇に忠誠を誓う帰化人らの活躍でことごとく失敗に終わった。

 渡来人らは、半島に戻る事ができずに近畿地方を中心に各地で共同体・部落を作り、天皇への忠誠を拒否し、帰化する事を嫌い、日本人との交流を制限して独自の風習で土着した。

 渡来人の人口が少ないうちは問題はなかったが、子孫が増え、日本人との接触する機会が増えるや問題が多発した。

 高度な文化を持った部落民は、下品で粗野な日本人を野蛮人と嫌い、敵意を持って反発した。

 地元の日本人は、同じ土地に住みながら、共同生活に馴染もうとせず、得体の知れない奇習を頑なに守ろうとする異質な人々を恐怖を持って、けんえんして遠ざけて差別した。

 両者の亀裂は、穏やかに話し合えばわかり合えるというものではなかった。

 話し合えばわかり合えると信じるのは、脳天気で、すべての事に理解できない無能な日本人だけである。

   ※   ※   ※

*遣唐使の廃止

 正統派儒教を基にした半島の価値観は、列島民を中国文明から遠い教養なき下等民族と差別し見下していた。絶対不変の上下関係を常識とする彼らは、劣等者が優秀者を攻める事は犯罪行為であるが、上位者が下位者を懲らしめるのは当然の権利とされた。

 正統派儒教は、対等な関係は秩序を破壊する悪として否定するがゆえに、人民の平等と公平と自由は認めなかった。それは、国家間でも当てはまる事であった。

 894年5月 第59代宇多天皇。新羅水軍の兵力2,500人以上が軍船100隻以上に乗って、奴隷(特に女性)と戦利品目的で対馬を襲撃した。

 対馬守文屋善友は、少数の手勢と島民の協力をえて侵略軍を撃退し、新羅人を大量に虐殺した。

 朝廷には、反天皇派渡来人の策謀による暴動や反乱が各地で多発して、援軍を派遣するゆとりがなかった。

 島民は、復讐心から「倭寇」となって半島を襲撃して荒らした。

 朝鮮人は、「倭寇」を血に飢えた悪鬼として、野蛮な日本人への憎悪を掻き立てた。

 第59代宇多天皇は、中国・唐にはまだ多くを学ぶ必要があると感じていたが、菅原道真の献策を入れて、崩壊し始めた中国の唐王朝と正式に国交を断絶した。

 中国を深く研究していた菅原道真(天満宮)は、「神州日本を、中国の様な血に塗られた人間不信で犯罪多発地帯にしてはいけない」という考えから、「今よりも豊かな経済的発展を遂げる」と言う目先の利益を犠牲にしても日本の中国化を拒否した。

 日本は、中国の唐様を捨て国風化の道を選び、中国文明から独立して日本文明を形成していった。

 日本は、万世一系の男系天皇制度(直系長子相続)を守ったというより、神代から続く血筋によって外敵から守られ、無益な殺戮が回避された。ゆえに、日本民族の「心」を持つ日本人は国體(万世一系の男系天皇)を反天皇から守ろうとした。

 901年 菅原道真は、太宰権帥に左遷された。この後、誰も唐以降の各王朝との国交正常化を求めなかった。

   ※   ※   ※  

*反逆者平将門(神田明神の祭神)

 900年 日本の総人口、644万人。

 907年 唐王朝は、滅亡した。五代十国による動乱時代は、979年に宋王朝が武力統一するまで続いた。戦乱の中で、殺戮と略奪が繰り返されていた。

 高麗(918年~1392年)は、935年に新羅を滅ぼし、中国を統一した宋王朝に対して臣下の礼をとるために、朝貢使を派遣した。

 高麗は、国内を宗主国宋に倣って中国風に整備した。

 朝鮮でも、新羅の残党狩りが行われ、徹底した殺戮が起きていた。

 ただし、主家を裏切って、味方に付いた者は助けた。

 第61代朱雀天皇の御代。承平の乱(~941年) 海賊・藤原純友の乱天慶の乱(~940年) 平将門の乱。

 第50代桓武天皇の血を引く貴種・平将門が東国で叛乱を起こし、武力で関東の大半を支配下に置いた。

 神託を受け、京の天皇に対抗して新皇を僭称した。

 東国武士は、宮中と都の警備や皇室と公家の警護をする用心棒的な隷属する存在ではなく、独自の領地と領民を持っ自立した存在である事を主張した。そして、天皇と同格の新皇の下で東国は日本から独立すると宣言した。

 真の支配者は、得体の知れない血筋やわけの分からない道徳ではなく、個人の能力や実力でなるものと定めた。

 将門は、勅命で攻めて来た官軍に対して、天皇や朝廷に不満を抱く東国武士団を鳩合して撃退した。だが、味方であった武士団の裏切りによって、官軍の前に破れて戦死した。

 東国の庶民は、将門を天皇・京に逆らった反権力の英雄として神田明神に祀り、関東の鎮守様として守った。

 反権力の英雄伝説や説話が各地に生まれ、庶民は官軍と戦った将門の武勇伝を愛して語り継いだ。

 将門の首塚では、毎年9月22日に盛大な供養の儀式が執り行われた。

 全国に残る神社神道とは、こうした庶民の反骨的鎮守様信仰であり、天皇による国家的皇室神道とは異質な神道であった。

 平将門「勝った者が主君である。もし、関東八ヵ国を占領している間に官軍が攻めて来たら、足柄と碓氷の二関を固めて関東を防禦する」

   ※   ※   ※  

*刀伊に化けた高麗水軍

 1019年 第68代後一条天皇。高麗は、中国東北部より侵略してくる騎馬民族・満州族のツングース系女真族・刀伊(野蛮な民族への蔑称・とい)と激しい攻防戦を繰り広げていた。

 3月28日 刀伊に化けた高麗水軍と海賊4,000人以上は、50隻以上の大型高速船に乗って、対馬と壱岐を襲撃して殺戮と暴行を行い、生き残った島民(特に女性と子供)を拉致した。壱岐の島民は約500名であったが、逃げおおせたのは35名だけであった。

 4月7日から、北九州一帯を襲い、各地で虐殺と略奪を繰り返し、日本人数千人を労働力不足の中国に奴隷として売る為に強制連行した。

 東アジアでの主要貿易品は、何時の時代でも奴隷、人であった。

 太宰府の官軍(実態は、交易を監視し治安を維持するだけの警備兵である)と地元の住民は、苦戦を強いられながらも刀伊の大軍を撃退した。

 高麗は、強制連行された内の200名を刀伊の盗賊から救い出してとして、日本に送り届けた。同時に、その恩を着せる様に隣国の誼として国交の再開を強要した。

 後一条天皇は、高麗を信用できる相手ではないとして、外圧をはね除けて、友好関係を持つ事を拒絶した。ただし、個人的な民間交易は制限しながら容認した。

 日本は、海によって守られたのではなく、海に囲まれていたがゆえに絶えず外敵の脅威に晒されていた。

 絶えず襲撃され甚大な被害を出していた漁民らは、「倭寇」となって逆襲に出た。列島の漁民・倭寇と半島の水軍・海賊は、1000年近く報復の応酬を続けた。列島と半島の間の海峡は、報復が報復を呼び、復讐が復讐を呼んで血の海となっていた。

   ※   ※   ※  

*その他の、天皇への反逆

 1108年 第74代鳥羽天皇。伊勢平氏の平正盛は、出雲で叛乱を起こした第56代清和天皇の血を引く源義親を討ち滅ぼした。

 平正盛の子忠盛は、瀬戸内海の海賊を平定し、宋・高麗との交易を独占して財を成した。

 平清盛は、平忠盛の子ではあるが、第72代白河天皇の落胤という説もある。

 当時の日本は、天皇への反逆罪以外の死刑を廃止すると共に、外敵に備えた強力な常備兵を持っていなかった。

 天皇は、身辺を護衛するわずかな武士を持っていたが、中国皇帝や朝鮮国王の様な自由に指揮できる強力な軍隊を持っていなかった。

 日本の軍事力とは、都では希望した官位を得られない下級公家が、地方の領地に土着して武士化した軍事公家とその一族・郎党のみであった。

 公民と呼ばれた農民や漁民は、天皇支配に逆らう盗賊や海賊などから守ってもらうかわりに年貢を納めたが、非戦闘員として兵役にとられる事はなかった。

 当時の日本においては、兵農は完全に分離されていた。

 領地と領民は、天皇から一時的に授かったものであり、完全な私有財産ではなかったからである。

   ・   ・   ・  

*『改新の詔』

 第一条で、日本人はすべて天皇の臣民とされ、公民と呼ばれた。

 王族や豪族などは、公民を所有する事は許されず、みだりに殺傷する事も禁止された。

 

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