FC2ブログ

今日ボクが見た風景

全滅覚悟の戦争を選んだ猪サムライ = 鎌倉

Category: 日本国民の心得  

*小国日本を属国扱いする世界帝国中国

 日本は、中国の正統王朝は、大恩ある唐帝国のみとの定めていた。

 万世一系の男系天皇体制を国是とする朝廷は、唐王朝と血のつながりのない、縁もゆかりもない、家臣らが樹立した下克上王朝を認めるわけにはゆかなかった。

 血筋・血縁を重要視する日本は、暴力で前政権を倒し、殺戮と略奪の戦乱の中で成立した各王朝との国交を拒否していた。

 日本は、戦乱の地獄を招来する恐れのある能力主義・実力主義を拒絶していのである。

   ・   ・   ・  

 1075年 宋の皇帝は、日本を属国扱いする屈辱的な国書と家臣に下賜する様な贈り物を、第72代白河天皇に送った。

 朝廷は、中国皇帝と同格であるという天皇の体面と自主独立国としての国益を守る為に、正論を持って返書を送った。

 だが。宋は、臣下の礼を表明しない、天皇からの国書を受理する事は面子に関わるとして拒否した。

 中国は、小国で文化度の低い日本の無礼な態度に激怒して、一切の交流を禁止した。

 宋は、アジアの盟主と自認する手前、周辺諸国への威信を示す必要があった。1117年と1118年にも、日本を属国視する国書を天皇に送りつけた。

 第74代鳥羽天皇と朝廷は、中国の面子よりも自国の体面を優先し、日本を属国視する事は国辱であるとして、返書を出さない事を決定した。

 平清盛は、後白河法皇(第77代天皇)を動かして返書を宋に送り、建前的に臣下の礼をとって日宋貿易を独占した。

 日本の体面にこだわった天皇と藤原氏は、荘園から得られるわずかな年貢のみを当てにして生活した為に没落していった。

 荘園を管理していた武士は、無能無策の公家の横暴に嫌気をさし、命じられるままに年貢を納めるのを拒否して、自活の道を選んだ。

 平清盛は、莫大な財力を武器として競争相手の源氏一門を倒し、朝廷を支配する公家に不満を持つ武士の支持を獲得した。

*大陸的国際感覚を持っていた平氏

 1150年 日本の総人口、692万人。

 1181年 第81代安徳天皇(母は、平清盛の娘建礼門院)。畿内や西国で大飢饉が発生して、おびただしい犠牲者を出した。栄耀栄華を極めていた平氏政権は、「平氏にあらずんば人にあらず」と傲慢にうそぶき、被災者の救済を怠った。その結果、人心の支持を失い衰退していった。

 何時の時代でも、如何なる地域においても、異常気象による飢饉と疫病の発生が新たな時代への社会変革の扉を開いた。

 貧困者の救済に成功すれば、多くの人心を獲得し、続けて、支配者の地位を確保した。

 だが、失敗した支配者は、民衆から見放されて追放された。

 さらに、自分の地位や名誉や富を守る事しかしない者は、無能として惨めに滅亡した。

 日本の「まつりごと」を行う権力者の重要な使命は、自分の事は犠牲にしても、庶民の生活を安定させ、飢えさせない事であった。

 「人はパンのみにて生きる者にあらず」という政治家や学者がいたら、それは悪質な詐欺師か、凶悪な殺人者である。そうした分別なき陰湿な犯罪者を指導者とする者は、移住可能な「弱肉強食」の大陸では賢明な人間とされたが、移住不可能な「補完共生」の島国では生きる資格はなかった。

 歴史的事実として、島国では、食糧不足を解消する為の戦争は存在しない。

 特に、サムライは米櫃の為に戦う事を、卑しい事、「恥」として嫌った。

 日本は、「恥」の文化である。

 サムライは、自分がひもじくとも、空腹を顔に出さず痩せ我慢し、身分低い庶民に自分の食糧を分け与え、自分を犠牲にしても百姓を救済した。

 食糧のある土地に攻め込んで略奪する者は、一時は勝利者となって権力を手にした。だが、他人の弱味に付け込んだ権力者は、最終的に百姓から見捨てられ、極悪人として滅んだ。

 それが、「強者の理論」による大陸の掟とは対極にある、「弱者の理論」による島国の掟だあった。

 大陸の世界常識では、上流階級は特権を持って下層階級を搾取し、富を独占した。わずかな金を慈善活動に寄附して、世の称賛を得ながら、絶対安全な場所でゴージャスな生活を満喫していた。

 そこには、歴然とした階級闘争が存在する。

 日本においては、そうした全てを独占する特権階級は存在しなかった。いたとしても、極わずかな期間、存在したのみである。

 よって、マルクス主義者が声高に告発する様な排他的な階級は存在しなかった。

 1185年3月 7才の安徳天皇(赤間神宮)は、壇ノ浦の戦いで武装公家平家が敗北して滅亡するや、平氏一門と共に海中に身を投じて逝去した。

 動乱の原因は、後白河法皇が、退位して上皇となって院政を行い、天皇中心の朝廷権力を回復しようとした為であった。

 武力を持って存在を誇示する平氏と源氏を、仇敵として戦わせた。

 勝利した源氏勢力の中で、源氏の内紛や重臣間の権力闘争を煽った。

 敗れた平氏一門は、源氏の追求を逃れる為に、落ち武者となって山村僻地に逃げ込んだ。

 褒美の誘惑に目が眩んだ村人は、落ち武者を役人に突き出すか、殺して大金を手に入れた。

 惻隠の情を持つ村人は、人として、褒美・金よりも情を優先した。助けを求めてきた落ち武者を庇い、追っ手をかわす為にさらに山奥に逃がした。

 日本の山林奥地の貧しい集落は、こうした高度な教養を持った落人の子孫が大半であった。

 日本の底力とは、血筋正しき貴人・貴種などの上流階級の住人であった者が、地方の下層階級に溶け込み、身分低い貧民に混じって重労働を行って生計を立てた事による。

*サムライの鏡とされた鎌倉武士

 1192年 第82代後鳥羽天皇。源頼朝は、軍事力を背景にして政治権力を天皇・朝廷から奪って鎌倉幕府を開き、武士の世を確立した。

 1219年 三代将軍源実朝が、甥の公暁によって殺されるや、清和源氏の直系は途絶えた。執権として権力を掌握した北条氏は、京都から皇族の子供を迎えて、名目だけの実権なき将軍に就任させた。態の良い、人質であった。

 1221年 承久の乱。後鳥羽天皇は、退位して上皇となって院政を始め、政治を武士から取り返す為に挙兵した。

 朝敵とされた鎌倉幕府は、北条政子の涙声で団結し、大軍を西上させた。

 後鳥羽上皇は、幕府軍の猛攻に驚き、そして恐怖して戦意を消失し、味方の武将を裏切って恭順を示した。

 官軍方の武将らは、最後まで徹底抗戦しない上皇を見捨てて四散した。

 戦う意思のない者を、腰抜け、負け犬と、軽蔑し、馬鹿にした。

 第85代仲恭天皇は退位させられ、後鳥羽上皇は隠岐に流され、土御門上皇(第83代天皇)は土佐に流され、順徳上皇(第84代天皇)は佐渡に流された。

 北条氏は、中国や朝鮮にならって自ら皇帝=天皇になる意思はなかった為に、後鳥羽上皇の兄守貞親王の皇子を即位させた。第86代後堀河天皇である。

 自分の分を知る「まとも」な日本人は、万世一系の男系天皇制度(直系長子相続)をとことん理解し、貴い血筋を絶やさず、正しく皇統を残す事に腐心した。

 だが、この後。天皇は、その時々の権力者に良い様に利用される、自分の意志を持たない操り人形、自立出来ない単なる飾りとなった。

 天皇は、絶対的な存在でもなく、政治権力もなければ、宗教権威もなかった。

 男系天皇家の血筋を守り、その皇統を受け継ぐだけの、無力な人間にすぎなかった。

 そこには、現人神という神聖不可侵の宗教権威と、政治及び軍事における最終決定者にして最高命令権者といった政治権力はなかった。

 歴史を知る者はこの真実を知っていたが、架空の時代劇が好きな者はこの事実を理解しない。

 日本人、特に現代の社会及び政治に影響力のある知的エリートは、歪曲され、捏造された、耳障りの良い時代劇を正しい歴史だと盲信して疑わない。

 そして、日本を破壊しようとしている反天皇のマルクス主義者は、天皇そのもの自体を地上から抹消しようとしている。

 左翼や左派の市民活動の結果、現代日本では、非科学的な神の血を受け継ぐ万世一系の男系天皇家(直系長子相続)を信ずる日本人はあまりいない。

   ・   ・   ・  

 秩父宮「過去において天皇を神様あつかいしたのは、国民の意思ではなかったが、少なくも一部の人の意図に多数の国民が引きずられ、天皇もまた心ならずもそれに巻き込まれた結果だといえるのではあるまいか。国民がこの轍を踏まない事を望み、天皇を人間として身近な親しみ易いものとして置きたいなら、国民の声で、国民の力で、もっと形式張らずに天皇が自由に行動できる様にする事だ」(月刊誌『改造』1952年12月号)

*日本とモンゴルとの熾烈な外交戦

・中国の総人口と戦乱による人口の激減

 1014年 ‥ 北宋   …   5,700万人

 1103年 ‥ 北宋   … 1億2,700万人

 1193年 ‥ 南宋と金 … 1億2,000万人

 1290年 ‥ 元   … 8,600万人

 中国文明とは、自己中心的に強い者、賢い者のみが生き残る実力主義・能力主義の世界であり、征服者の奴隷となる事を拒否する者を大虐殺する不寛容な社会でもある。

 易姓革命による王朝の交代たびに、新たな絶対権力者唯一の皇帝は、敵と見なした相手を大虐殺した。よって、大陸の何処を掘っても夥しい人骨が出土する。

 モンゴルは、人種差別的モンゴル人第一主義を採用して、逆らう者は容赦なく虐殺し、恭順する者はその能力に従って重職に就けた。

『元典章』「もし、モンゴル人が中国人を殴っても、殴り返してはいけない」

 能力至上主義から、異民族を無条件で登用したわけではない。

 大陸の掟とは、抵抗する者は皆殺しにして根絶やしにするという事である。

 もし。支配地の地元民がモンゴル人一人を理由の如何にかかわらず殺害すれば、報復としてその町を攻撃し、全ての住人を皆殺しにして、町を生き物が住まない廃墟とした。女子供でも、見逃さず、一人残らず虐殺した。

 その苛酷な「死と暴力」の恐怖統治で、世界大帝国を建設した。

 モンゴル民族の帝国建設は、旧約聖書に記載されたユダヤ民族の建国神話に似ている。

 1145年 高麗は、歴代中国王朝の正史を参考にして、地域の伝承・民話・神話を集め、紀元前からの半島史を編纂した。それが、正史とされる『三国史記』である。1285年には、さらに『三国遺事』が編纂され、その過程で民族独自の『壇君神話』と『半万年建国神話』が生まれた。

 大陸における史籍とは、民族中心主義で「改竄」され、「歪曲」され、「捏造」されるのが常識である。

 如何なる歴史においても、編纂者の主観が入る為に正しい歴史など存在しない。

 正しい歴史を主張する者は、歴史を理解できない無能者か、悪辣な犯罪者である。

 民族中心の物語を否定するのは、奴隷化された下等民族のみであり、いつか死滅する哀れな愚昧民族である。

 中国史は、特にその傾向が強い。

 1259年 高麗は、モンゴル軍の侵略を受け、抵抗もむなしく30万人以上を虐殺されて降伏した。

 これ以降、臣下の礼をとって、命じられるままに数千人の美女を宮廷慰安婦や従軍慰安婦として差し出した。

 敬虔な仏教徒である高麗王家や重臣らは、同時に高度な正統派儒教の素養を持っていた為に、野蛮人であるモンゴル人を人間ではなく獣と差別していた。同時に、身分低い庶民をも人とは見なさず、下層民をモンゴルの奴隷に差し出しても痛痒を感じる事がなかった。

 朝鮮半島は、古代から中国以上に、身分差別が厳しい歪んだ社会であった。

 1260年 フビライは、モンゴルの皇帝に即位する。

 1266年 フビライは、日本征討計画に着手した。臣下の礼をとって朝貢に訪れない日本に対して、恭順するか、交戦するかの選択を迫る使者を送る事とした。

 高麗は、フビライの命に従って、日本を侵略する為の軍船建造を始めた。この大建造事業により、半島の森林は大量に乱伐されて荒廃し、急速に緑をなくしていった。

 1268年 高麗は、フビライの命に従って、強者モンゴルの臣下となる為に朝貢を求める国書を持った使者を日本に送った。モンゴルと高句麗は、戦争を回避する為に平和の使者を送る様に促したのである。

 幕府は、国書を受け取ったが、事が国運関する重大事の為に、京に送って朝廷の判断を仰いだ。

 国書の中に、従わねば武力を用いる可能性を匂わす箇所が問題となった。

 第90代亀山天皇と朝廷は、日本は、中国皇帝と同格の万世一系の男系天皇が統治する独立国であり、如何なる国に対して臣下の礼をとる事はないとして、拒否する事を決定した。ましてや、日本を馬鹿にして、恫喝や威嚇や脅迫する様な相手とは、まともに付き合う気はさらさらなかった。

 日本の総意として、モンゴルとの交渉を拒否し、返書を出さず使者を追い返した。

 幕府は、国家防衛の為に、西国の御家人に対して北九州の防衛を命じた。

 日蓮は、幕府に対してモンゴルの襲来を警戒し、国土防衛の軍備強化を訴えた。

 1269年 モンゴルは、再度、戦争を回避する為に、臣下の礼をとる様に要求する使者を日本に送った。

 翌年。朝廷は、態度をハッキリさせる為に、要求を拒否する返書を作成する。鎌倉は、返書を出す事は、軍事的威圧を意識している事を相手に知らせるだけであり、不当な外交交渉を認める事になるとして、返書を与える事に反対した。

 1271年と1273年にも、日本にモンゴルの平和を求める使者が国書を携えて来日した。

 朝廷は、如何なる外圧も受け入れないとして、使者の上京を拒否して返答にかえた。

 世界帝国モンゴルは、戦争を避ける為に、六度の平和使節団を派遣した。だが、全てが失敗して送り返された。臣下の礼を拒否する弱小国日本に手を焼き、支配地域の諸国民の手前、征討しなければ「面子」が立たない所まで、窮地に追い込まれていた。

 大国中国に「面子」があるように、小国日本にも「体面」があった。

 日本は、小なりといえども独立国の意地から、超大国の恫喝や脅迫や威嚇を勇気を持って跳ね返した。

 両国の意地の張り合いが戦争を呼び、夥しい犠牲を出した。

   ・   ・   ・  

 現代日本。

 国際派日本人は、屈辱を絶えても、モンゴルとの国交を開いて日本を国際化して、国際社会との貿易を行って豊かにするべきであったと主張している。

 反戦平和主義者は、如何なる戦争にも反対する立場から、日本人の死者を出さない為にもモンゴルの要求に従って臣下の礼をとるべきであったと教育している。

 非暴力無抵抗主義者は、モンゴル・高麗連合軍が日本上陸したら、戦わず武器を捨て、彼等を新たな支配者として受け入れるべきであったと子供達に教えている。

 反天皇主義者は、理由の如何に関わらず全ての戦争を否定し、モンゴル・高麗連合軍に協力し、日本を東アジアの一員にすべきであったとしている。天皇中心の民族主義を排除する為に、「神風」など民族国家日本を守った物語を陰険な謀略と否定している。

 左翼・左派の過激なマルクス主義者は、人民の幸福の為に、万世一系の男系天皇制度(直系長子相続)を廃止すべく、天皇とその家族を暗殺するテロリストを養成した。

 過激派テロリストは、自分の主義主張を最優先し、自分の信念を実現させる為なら、自分以外の全てを犠牲にする覚悟があった。

*モンゴルの属国となる高麗

 1270年 高麗は、首都を江華島からもとの開城に遷都した。モンゴルへの帰属を明らかにする為に、モンゴルの皇族から公主(王女)を王妃(国母)に迎えた。全てにモンゴル式を取り入れ、姓をモンゴル姓に創氏改名し、モンゴル語を公用語に定めた。貴族や高官は、モンゴル人と姻戚関係になる事を望んだ。モンゴル人が、高麗を完全支配し、政府高官の任命や罷免を決定していた。王位もまた、モンゴル人の恣意のままに決定され、逆らう事は死を意味していた。

 人種差別・性差別・身分差別を神聖視する儒教を信奉する朝鮮人は、モンゴル人女性が国母として王国と王家を支配している事に、虫酸が走るほどの嫌悪に襲われた。

 侵略された朝鮮は、生き残る為に大国に対して「事大」に徹し、異民族支配者に対して家臣の様にかしずいた。

 この時代、女系相続が認められていれば、高麗王朝は紛れもなくモンゴル人の王国といえた。

 正規軍でない義兵集団である三別抄は、賃金の得当てもなく解散させられる事を不服として、独自の国王を立てて反乱を起こした。

 反乱軍である三別抄は、国王が派遣した討伐軍と戦いながら、各地を荒らし、略奪を重ねて、済州島に逃げ込んだ。

 追い詰められた三別抄は日本に救援を要請したが、鎌倉幕府は王命に逆らう賊軍を支援して内乱に介入する気はなかった。

 体面を重んじ筋を通すサムライは、主君を裏切った三別抄を救う事は、まずありえなかった。

 死んでも信義を重んずるサムライは、主命に逆らって裏切る事を最も嫌っていた。

 1271年 モンゴルは、国号を元(~1368年)に改名した。中国の正統王朝として、各地の反モンゴル勢力を殲滅し、高麗王の要請に従って半島に軍隊を派遣した。

*高麗の隠謀で、日本征討・元寇が始まった。

 草原の民である騎馬民族のモンゴルにとって、海の彼方の小国日本が「ジパング」として大量の金銀財宝を持っていても、西方の莫大な富に較べれば微々たる量であり関心はなかった。

 ゆえに、不慣れな軍船に乗って征服するよりは、交易をするだけでそれ以上の望みがなかった。

 日本が、南宋や反モンゴル勢力に味方して攻めて来たとしても、不敗神話を持つモンゴル軍にとって恐れるほどの事はなかった。事実、大陸において、モンゴル軍の進軍を遮る敵はいなかったのである。

 それに、日本の民間商船は中国沿岸の諸港に入港して取引を行い、高僧や知識人の多くを日本に避難させていたが、敵対行動はとっていなかった。

 つまり、島国日本はモンゴルの敵ではなかったのである。

 高麗は、軍事大国元王朝の不信の目を、隣国日本にそらす為の謀略を開始した。

 朝鮮は、日本と中国を敵対させ、戦わせ、殺し合いをさせる事で、存在意義を中国に認めさせる事で生き残ろうとしたのである。

 1272年 高麗王元宗は、元王朝への臣下の礼を取らない蛮族日本への懲罰として、皇帝フビライに武力による日本征討を重ねて要請した。

 高麗が生き残るには、元の関心を朝鮮から日本に向ける事であり、そして元軍と同時出兵して先陣を切って日本を攻める事であった。

 間違っても、日本の肩を持ち、戦争を起こさない様に両国の間を取り持つ事ではなかった。

 つまり、日本侵略・東征は、高麗の主導で始まったといえる。

 「蛮夷(元・中国)を以て蛮夷(倭・日本)を攻める」

 1273年 高麗は、同胞の三別抄を、元の軍事力を利用して皆殺しにした。同時に、国内の属国反対派も一掃して親モンゴル派で統一した。

 三別抄の奮闘で日本遠征が遅れたという事は、まったく根拠がない捏造である。

*第一次元寇 = 文禄の役

 鎌倉幕府は、強大な軍事力で臣下の礼を取る様に外圧を加えてくる中国・元に対して、臆することなく「武士の体面」を守る為に戦う事を決意した。

 武力を持って威圧してくる相手と、戦いを避ける為に話し合いを続けは無意味と判断した。

 戦えば甚大な被害を出す事は明らかであったが、如何なる犠牲を払っても、高麗のように属国となり、朝鮮人のように奴隷になる気は毛頭無かった。

 武士団は、サムライとしての名誉の為に「戦争」を決断し、祖先への面目の為に潔い「玉砕」を覚悟した。サムライは、勝てないと分かっていても、戦わずして奴隷になる事を拒絶したのである。

 第90代亀山天皇は、日本の行く末を案じつつ、固唾を飲んで鎌倉幕府と元・高麗の外交対話を見守るしかなかった。

 1274年 第91代後宇多天皇(~1287年)。

 10月 文永の役。高麗軍8,000人。元軍4万人以上。

 元軍は、食糧などの戦略物資を半島で強制調達した為に、食うや喰わずの高麗の民衆は反乱を起こした。

 高麗は、元に不信感を与える事を恐れて、自国民の反乱を弾圧した。

 第一次元寇では、高麗軍は最前線で勇猛果敢に戦い日本の武士団を蹴散らした。

 高麗軍兵士は、元軍兵士に先んじて各地で虐殺と略奪を行った。

 対馬の島民は、情け容赦なき血に飢えた獰猛な高麗軍兵士から逃れる為に、狭い島内のあちこちに隠れた。

 高麗軍兵士は、日本人が隠れている場所を赤児の泣き声を手懸かりに探し回り、見つけ出すやその場にいた全員を虐殺した。

 高麗軍兵士の血に飢えた獰猛さには、さすがの血を恐れないモンゴル人兵士も目を反らすほどであった。

 元・高麗連合国軍は、生け捕りにした夥しい日本人を生きたまま釘で軍船に打ち付けて、北九州沿岸に押し寄せた。その残虐行為を見せつける事で、日本の交戦意欲を砕こうとした。

 日本人は、気弱な民族ゆえに、その地獄の様な光景を見て恐怖し震え上がった。日本には、こうした残虐行為は、歴史上いまだかって存在しなかった。

 『八幡愚童訓』「片時の命も惜しければ、さしも愛する嬰児を指殺してぞ隠しける」。

   ・   ・   ・  

 後年。ベトナム戦争に参加した韓国軍は、アメリカ軍以上の働きをして、100万人近いベトナム人を殺害したといわれている。その殺戮や拷問などの残虐性ゆえに、ベトナム人は韓国軍を恐れ、韓国人兵士を見かけるや子供さえ一目散に逃げ去ったといわれている。

   ・   ・   ・

 高麗軍は、凱旋帰国する際には、数千人の日本人を奴隷として強制連行し、その内の約200人の子供を戦利品として高麗王に献上した。必要としない日本人捕虜を、中国人人身売買業者に奴隷として売った。

 大陸的常識としては、残虐行為を目の当たりにした大陸人は恐怖を感じて、例外なくモンゴル軍の軍門に下った。モンゴルの要求を拒否して抵抗した民族主義国家は、イナゴの様な大軍に攻められて滅ぼされ、その民族は虐殺されるか奴隷とされて売られて地上から消滅した。

 フビライは、幾多の大陸的殲滅戦での経験から、日本も分別を持って虐殺と略奪の恐怖から臣下の礼をとるものと確信していた。

 負けず嫌いのサムライは、大陸的常識を振りかざして人を人と認めないやり口に怒りを感じ、全滅を覚悟で戦争に望んだ。

 当時の日本人は、生きる為に降伏して奴隷になるよりは、「人の尊厳」を守る為に正々堂々と戦い、祖国の大地を枕に「潔く討ち死」にする事を選んだ。ましてや、降り掛かった火の粉は自分の手で、火傷しても払いのける度胸があった。

 彼等は、現代日本人とは正反対に好戦的であり、不当な外圧には牙を剥いて噛み付いた。

 後宇多天皇も、「戦争はやむなし」として、押し寄せる中国・朝鮮の大軍から神国日本が守られる様に日本の神々に祈った。それが、最終決定権者である万世一系の男系天皇の最重要な宗教的国事行為である。

 彼らは、夥しい血を流しても侵略を正当化する中国文明から、血を流す事を嫌う日本文明・日本の伝統を守ろうとしたのである。

 当時の、日本の総人口は約700万人とされている。

 高麗は、これ以上の絶望的な戦争を避ける為に、再び、日本に降伏して元の臣下になるよう勧める平和の使節を送った。

 日本は、皆殺しにあっても元・中国の奴隷になるつもりはないとして、戦争の決意を示す為に平和の使節団を処刑した。

 サムライは、如何なる外圧も、恫喝も、脅迫も、威嚇も、毅然として拒絶して、自己の信念を命を犠牲にしても守ろうとした。ゆえに、如何なる妥協もする気はなく、如何なる話し合いにも応ずるつもりもなかった。

 結果を予想していた高麗王は、平和を拒否する日本側の不服従を理由にし、フビライに日本に対する再度の侵略を要請した。

 朝鮮の将軍らは、前の侵攻で多くの戦利品をえ、それ以上の戦利品と奴隷を得る為に日本本土侵略にとりかかった。そして、軍船数を増やす為の建造も急いだ。

 中国・元も、江南で大軍船の建造に着手し、侵略軍の編制に取り掛かった。

 フビライは、日本を中国領にする為に、南宋の降伏兵士や犯罪者や浮浪者や病人など厄介者の中国人数十万人を掻き集めた。中国人移住者は、日本人との平和・友好の和合の為ではなく、日本を中国化して日本人を抹消させるのが目的であった。

 大量の中国人移民を送るのは、領土を拡大する中国の常套手段である。

 高麗王は、日本が中国領として消滅する事は、その間にある高麗の将来を危うくすると判断した。

 北九州周辺の気象や海流などに詳しく、海戦の専門家である高麗水軍は、河川戦の専門家である江南水軍に全軍の指揮権を任せた。

 元・モンゴルの将軍は、騎馬による地上戦は得意であったが、水上戦は不得意であった。

 事実、1292年のジャワ侵略でも大敗している。

 ベトナムの陳朝は、3度にわたって元朝の侵略を受けたが、中国を敵視する民衆の協力を得て撃退した。中国人は、各地でベトナム人を虐殺していた。

 1277年 元は、南宋攻略の為に、日本を油断させる必要から交易の再開を許した。

 親中国派日本人は、中国側の友好の証しと信じて、元との戦争を回避するように朝廷や幕府に大金をばらまいて働きかけた。何時の時代でも、国家や民族の存続よりも自分の利益を優先する国際派日本人はいた。

 だが。元は、対等を求める天皇と日本を存続させておく意思はなく、臣下の礼をとらない限り日本と天皇を滅ぼす強い意志を持っていた。

 サムライは、国體護持を目的として、中国と朝鮮との戦争を覚悟した。

*第二次元寇 = 弘安の役  

 1281年 弘安の役。第二次元寇は、日本の武士団の活躍と台風の暴風(神風)で失敗した。

 高麗王は、日本の報復を恐れ、日本の侵略軍を撃退する為に部隊の駐留を要請した。王族や高級官吏は、恭順の証しとして、姓名をモンゴル風に創氏改名した。朝鮮人にとって、先祖からの姓名にそれほどの愛着は持ってはいなかった。

 1284年 元は、「面子」を守る為に、何が何でも日本を属国として天朝朝貢秩序に従わせるべく、平和の使者を日本に送った。

 1286年 幕府は、元と高麗に対する備えを厳重にする様に命じた。

 フビライは、第三次元寇を計画したが、一族内の反乱が続発した為に実行を断念した。

 鎌倉幕府は、日本侵略の前線基地である朝鮮半島の侵略と占領を計画したが、御家人らは恩賞が得られないとして猛反対した。大陸や半島の富に興味のない閉鎖的武士らは、朝鮮侵攻は愚の骨頂として実行させなかった。決して、朝鮮との友好関係を重視したからではなく、朝鮮などに価値を見出さず興味がなかったからである。

 被害を被った対馬や北九州の漁民らは、復讐をしない武士をあてにしなかった。報復の為に、独自で倭寇の船団を組み、半島の沿岸を荒らし回り、憎き朝鮮人を大量に虐殺した。

 朝鮮人は、日本人を血に飢えた獣と憎悪した。その認識は、現代にも受け継がれている。

 数隻の中国船が、琉球(沖縄)や北九州を襲撃して虐殺と略奪を行った。

 北九州の武士団は、鎌倉幕府が滅亡するまで、大陸や半島からの侵略に備えて警戒を緩める事はなかった。

 サムライは、現代の日本人以上に、大陸と半島を信用せず、話し合いではなく武力を持って国土と民衆を守ろうとした。

 日本民族は、高度な教養と技術を持つ元・高麗軍に抵抗した事によって、文化程度の低い野蛮な好戦的民族とされた。それが、東アジアの日本人観となった。

 近隣には日本の友好国は存在せず、全てが敵国であった。日本人には、古代から、心を許せる隣人はいなかった。

 高麗は、元には内緒で、日本との交易を開こうとした。

 鎌倉幕府は、信義なき朝鮮人を心底から信用せず、敵国高麗との国交を拒絶した。

 日本と朝鮮との友好は、幻想のまやかしに過ぎなかった。

 国益を無視して自己利益のみを強欲に追い求める日本人のみが、朝鮮との友好関係を声高に叫び、個人的に高麗人参や青磁及び白磁を得る為の交易を望んだ。こうして、民間交易は続けられていた。

 琉球への襲撃、1292年と1297年。第92代伏見天皇

 薩摩への襲撃、1301年。正安の襲来である。第93代後伏見天皇

 歴代の男系天皇は、日本国家と日本民族の安全と発展を祖先神・天皇霊に祈り続けた。神代から続いている万世一系の男系天皇の最重要な国事とは、そういう事である。そしてこの国事は、血がつながっている男系天皇しかできない、神聖な国事である。

 現代の反天皇派日本人であるマルクス主義者日本人は、「血」を根拠とした行為は非科学的であり、無意味であるとして完全否定している。

 吉田兼好「唐(元・中国)からのものは、薬の他はなくても、不自由はしないだろう。書籍は国内にすでに充分に広まっているから、書写すればすむ。困難な海路を渡って無用なものをわざわざ運び込むのは、愚かな事である。『遠くにあるものを宝とせず』とか、『得難き宝を貴ばず』などという言葉もあるということだ」(『徒然草』第120段)

 常識ある島国のサムライは、日本を侵略しようとしている大陸と半島との友好を好まなかった。戦わない為に人的交流を盛んにするという考えを、愚劣な欺瞞であるとして最も嫌悪した。

 島国日本は、中国と朝鮮と手切れをして、自己の意識でアジア文明世界から孤立した。

 金儲けを企む欲得な個人的日本人は、国禁を破り、同胞の血が幾ら流され、多くの同胞の命が奪われようとも、同胞の犠牲者を愚か者とせせら笑いながら半島や大陸との行き来を続けた。

 そうした日本人は、何時の時代にも存在して大金を手にして、裕福な暮らしを満喫していた。

 だが、そうした「不誠実」な忠誠心なき日本人を、「誠」を第一とするサムライは最も憎んだ。

   ・   ・   ・

 後醍醐天皇御製「世をさまり 民やすかれと 祈るこそ 我が身につきぬ 思ひなりけれ」

 1333年 第96代後醍醐天皇は、武家政権である鎌倉幕府を倒し、公家中心の親政を始めた。

 1336年 足利尊氏は、天皇親政に不満を持つ筋目正しい武士に担がれて叛乱を起こし、征夷大将軍となって室町幕府を開いた。後醍醐天皇は、武士から差別されていた身分卑しき非人や下人などの悪党を集め、宮中の称号を与える事で味方につけて幕府軍と戦った。

 被差別民は、天皇の祖先である天照大神を信仰し、天皇に接近して、祭祀王の権威で社会的な身分・地位を復活させようとした。

 軍事力を頼りとする幕府は、天皇の伝統的権威を軽んじ、皇室を冷遇した。武士による、権力を笠に着た皇族への乱暴狼藉は絶える事がなかった。 

 武士に差別され税を絞られる百姓や職人は、天皇を心の拠り所として、武士階級に抵抗した。天皇を神聖不可侵の玉体として、その尊厳と体面を穢さないように細心の気配りを行った。

 権力を持たない天皇は、武士などの特権階級ではなく、身分低い被差別者の神聖なる象徴(シンボル)であった。

 絶対価値観による個人的独裁を認めるキリスト教会や欧米列強は、天皇と百姓の関係が理解できなかった。それは、マルクス主義による階級闘争史観も同様であった。

   ・   ・   ・   

 北畠親房は、1339年に皇位継承の道理を説く為に『神皇正統記』を著し、1343年に南朝(大覚寺統)の第97代後村上天皇に献じた。男系・女系に関係せず、直系のみを正統として重んじるとした。後の、皇国史観は、直系にして三種の神器を所有していた南朝方を正統な皇位継承者とした。

 三種の神器は、皇祖神・天照大神(女性神)から皇位の証しとして授かった宝物であった。宝物を所有できるのは、天照大神の血筋である直系の皇室のみであった。故に、天皇は「神の裔」として崇拝さ、日本の正統な統治者として敬愛されていた。

 北朝(持明院統)第2代光明天皇

 現代日本は、民族の物語である神話的皇国史観を否定している。 

  ・   ・   ・   

*高麗の日本征討

 高麗は、民族の特性として自分の都合の悪い約束を守らず、相手に都合の悪い約束をゴリ押しした。

 表面的には、日本との友好を求めた。だが、裏では日本の寝首を掻く機会を狙っていた。

 1389年 北朝の第100代後小松天皇。高麗水軍と海賊の船団100隻以上は、非道な倭寇の討伐を名目に、対馬を強襲して島民を虐殺し略奪し、そして日本人を拉致して逃走した。

 当時の高麗は、国中で横領や不正が横行して秩序が崩壊していた。殺人や略奪や人身売買などの凶悪犯罪が急増して治安は悪化し、暴動や内戦が続発して社会は乱れていた。

 それを鎮圧すべき官軍兵士への支給や配給を上官らが横領して遅れていた為に、下級兵士の不平不満が募り反乱の兆しが現れていた。

 高麗王朝は、衰退し、滅亡しようとしていた。

 「お人好し」の日本とは違って、「人間不信」の朝鮮においてはまともな時代は少ない。

 中華文明圏の朝鮮は、中国同様に王朝交替期には大規模な内戦が起き、大量の虐殺が行われて、多くの人々が中国領へ逃亡した。

 中国東北部(満州)の朝鮮族は、半島を見限って逃げ出した人々の子孫である。

*元王朝(1271年~1368年)の滅亡 

 元は王族らの反乱や高官の権力闘争で衰退し、皇帝の権威は地に落ちていた。

 相次ぐ天災で生活に窮した農村の反乱と白蓮教による紅巾の乱で、モンゴル特有の恐怖による軍事支配は力を失っていた。

 1368年 朱元璋が、元軍を破り、モンゴルを中国から追い出して、明帝国を建国した。建国から安定期に入るまで、夥しい人が虐殺されて、大量の血が流れた。

 中国には、日本と違って「血筋」を神聖視する万世一系の王族は存在しない。存在するのは、個の完全な自由を持ち、生殺与奪の権利を行使できる絶対権力者の中華皇帝である。

 1393年 高麗は、元への忠誠から、モンゴル人が建国した北元に協力して明領に軍隊を派遣した。

 高麗の武将李成桂(北辺女真族出身)は、王位は血筋ではなく、実力者がその能力で受け継ぐべきものであるとして高麗王を殺害して王位を簒奪した。

 李氏朝鮮の誕生である。

 朝鮮でも、中国同様に、前王朝関係者の虐殺が行われた。

 東アジアには、徳は存在しない。当然、支配者も徳には縁がなかった。

 徳は、単なる学問上の言葉のアヤであった。

 聖人君主は、徳を持って国と民衆を支配するといわれたが、歴史上、あった試しはない。

 また、道徳も非現実にすぎなかった。

 道徳も、学問上の、書籍の中のみに存在する美辞麗句にすぎなかった。

 道徳を信ずるのは、現実を見ない愚か者か、気が触れた狂人のみであった。

 徳を信じ、道徳で生きようとすれば、数日以内にすべてを失い、そして殺害された。

 それが、東アジア世界の紛れもない現実であった。

 1390年頃の高麗の人口は約400万人であったが、1410年頃の李氏朝鮮の総人口は約200万人に半減していた。

 李成桂は、地域差別を助長する為に、北半分の住民への弾圧と迫害を命じた。

 朝鮮には、幾重にも儒教的差別が存在していた。朝鮮人は、儒教的差別に縛られ、人間としての尊厳も権利も全てが奪われていた。

 中国と朝鮮は、日本以上に特権階級が支配する社会であり、貧富の格差が世界一激しい世界であり、儒教的上下関係を守る為に貧困を救済せずわざと放置した。

 モンゴル帝国(1206~71年)の諸王国の滅亡。

 モンゴル皇帝の皇位継承をめぐる帝室内の対立が激化し、一族は各地で小王国を樹立して帝国は分裂した。

 キプチャク=ハン国 1243年~1502年…王族と貴族らによる内政の腐敗で衰退し、モスクワ大公国の独立で崩壊した。

 チャガタイ=ハン国 1227年~14世紀後半…王族の内紛で東西に分裂し、ティムールに征服された。

 オゴタイ=ハン国  1225年~1310年…叛乱が起き、チャガタイ=ハン国に併合された。

 イル=ハン国    1258年~1353年…王権をめぐる一族の抗争で分裂し、ティムールに征服された。

 国家は内部から崩壊し、民族は裏切り者によって死滅した。

関連記事

Comments

« »

08 2020
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
NASA Visible Earth
Web page translation
Flag Counter
free counters
xxx
全記事表示リンク