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立憲君主国家イギリス王国

Category: 日本国民の心得  

*イギリスの地政学

 1814~15年 ウィーン会議。イギリス外相カスルリー子爵は、海の権利を獲得する為に、大陸の権利を譲歩する事で、オーストリアなどの同意を得た。イギリスは、同時に、欧州列強が世界進出が出来ない様に、諸国間が対立しそうな諸問題を提議した。

1816年6月22日 イギリスは、欧州地区の金貯蔵量の大半を手に入れた、金を唯一の価格の基準とする金本位制を宣言した。イングランド銀行は、ロンドン・シティの国際金融資本の協力を得て、国際経済を支配する為に金融市場での金通貨の供給を操作した。

 イギリスは、海運業の優位性を確立し強固なものにする為に、ロンドン・シティに都合の良い貿易ルールを国際基準とした。

1820年 イギリス議会は、強力な金融業と海運業を利用して、アダム・スミスが提唱した「完全自由貿易」の原則を支持するとの宣言を行った。強力な海軍を建設したイギリスは、その圧倒的な軍事力を背景に、自国の製品を売り込むべく海運の脆弱な欧州諸国に「門戸開放」を要求した。力のない国は、自国の利益を犠牲にして、強国が主張する「公平な競争場」という市場原理を受け入れた。

 「勢力の均衡」外交から、イギリス海軍の制海権を危うくする可能性のある海運国が成長してきた時、大英帝国の世界覇権を維持する為に弱い国と同盟を組んで強い国に対抗した。

 イギリスの地政学は、イギリスの生存を脅かす経済的軍事的に自給自足できる自立した大国の出現を容認しなかった。たとえ、軍事的ではなく平和的であろうとも、排他的ではなく協調的であっても、イギリス製品の販路を妨害し世界市場から排除しようとする競争者を許さなかった。

 1840年 ロンドン・シティーは、国際金融センターの地位を不動にする為に、カリフォルニアとオーストラリアで発見された大量の金を獲得した。

 1846年5月 イギリス議会は、国外の安い農産物を消費者に供給する事を目的として穀物法を廃止した。イギリスは、自国経済の発展と世界の富の独占の為に、「自由貿易」を大義として全世界に対して国境を開放する事を要求した。

 都市の消費者は、国内の農業を保護する為に、農産物の価格低下と安い外国産に輸入制限をしていた同法が廃止された事を、歓迎した。貿易商社は、国外の安い農産物を大量に買い込んで、イギリスの海運業者を利用して国内に持ち込んだ。イギリス国内の食糧価格は暴落して、農家経済は打撃を蒙った。同時に、イギリスに農産物を輸出していたアイルランドなどはその煽りを受けて、農業を中心の経済は不況に追い遣られた。貴族や地主は、食糧価格を下げる為に、賃金の安い植民地人を大量に雇用して移住させた。その結果、さらに農産物価格は低下して、中小の自営農家は破産して廃業に追い込まれた。

 貴族や地主らは、農業を放棄した農家から二束三文で農地を購入し、さらに多くの植民地人を農業労働者として移民させた。農村を捨てた農民は、仕事を求めて都市に殺到した。

 資本家も、安い労働力を得る為に植民地人の輸入を加速させた為に、イギリス人労働者は苛酷な労働を強いられた。こうして、イギリス農業は崩壊を免れたが、イギリス農家は保護されることなく破産した。

 さらに、悲惨な状況に追い込まれたのはアイルランドであった。世界有数の穀物地帯として食糧を輸出する事で経済を支えていが、イギリスの貿易商社から食糧を購入する輸入国に転落した。農村部の現状は、目を覆いたくなるほどの惨状となり、大量の餓死者を出した。

 自由貿易で利益を得たのは、貿易商社と投資銀行であった。

 1848年 イギリス議会でのパーマストン卿の演説。「永遠の同盟は存在しないし、永遠の敵も存在しない。永遠なのは我々の利益で有り、その利益を追求する事が我々の責務である。イギリスには、友達はいない。利益あるのみだ」

 1873年 新興工業国のドイツ帝国は、金融や国際貿易で国外投資を優先するイギリス型自由主義的政策を避け、保護主義的経済政策を採用して農業及び工業生産の拡大を図る為に保護育成した。

 イギリス経済が停滞していたのに比べて、ドイツ経済の発展は目覚ましく、両国の差はと縮まりつつあった。イギリスは、物流の要である海運と鉄道で世界経済を支配してきたが、ドイツはそれに挑戦した。

 ドイツの商用船舶保有は、1870年時点でイギリス、アメリカ、フランス、ノルウェーに次いで第五位であったが、1914年には第二位まで保有数を増やした。その結果、イギリスの海運業の独占が揺らぎ、さらにイギリス植民地の市場も脅威に晒された。

 1882年 イギリス海軍のフィッシャー男爵は、船舶の燃料を石炭から石油に転嫁すれば海の優位は維持できるとの講演を行った。

 イギリス軍は、スエズ運河会社内の自国利権の確保を理由にしてエジプトを占領した。イギリスは、インドへの航路を保全する為にエジプトに軍隊を常駐させ、エジプトの政治体制を破壊して占領政府を運営した。

 1884年 ドイツは、イギリスの領土欲を食い止める為に、フランスとの共同歩調を取る事を確認した。フランスのアノトー外相は、サハラ砂漠を東西につなぐサハラ横断鉄道計画を立て、それを基軸にしてアフリカ植民地開発構想を実行しようとしていた。両国の蜜月関係を破壊するように起きたのが、ドレフェス事件であっいた。同事件は、捏造とされた。その結果、欧州列強関係は変化した。

 1892年 ロシアの大蔵大臣ヴィッテ伯爵は、農業国家ロシアの近代化、工業化には鉄道網の整備が不可欠との判断から、フランスの資金支援を受けてシベリア鉄道建設を推進した。イギリス嫌いのフランス外務大臣アトリーは、植民地支配の再構築とアジアへの道の確保から鉄道計画に協力した。アノトー外相は、94年に起きたドレフェス事件に巻き込まれる形で、98年に辞職させられた。

 カーゾン侯爵「どの列強であれ、ペルシャ湾の港をロシアに譲歩する事は、大英帝国に対する意図的な侮辱であり、現状維持を行儀悪くかき乱す行為であり、国際的な戦争挑発行為であるとみなすべきだ」

 イギリスは、植民地インドに近接する海域への他の列強の影響力を排除する為に、ペルシャ湾岸のブシールとバンダルアバスに領事館を置き、艦艇をペルシャ湾に駐留させた。

 1897年 ドイツ国防軍のティルピッツ元帥は、造船技術の発展と軍艦の老朽化により、軍艦建造計画を発表した。帝国議会は、翌98年に海軍強化を承認した。1900年には、建造数を二倍にするという第二次計画が承認された。

 ビスマルク「ドイツ・イギリス関係を良好にするには、ドイツが経済成長を自粛する方法しかない。だが、それは無理というものだ」

 1898年 イギリスは、スエズ運河とエジプトの軍事支配を既成事実化する為に、サハラ砂漠を東進してきたフランス軍遠征軍をナイル川のファショダで阻止した。両国は、睨み合って対峙した。フランス側は、戦争を回避する為に、エジプトにおけるイギリスの優先権を認めて撤兵した。イギリスは、フランスを反ドイツの陣営に取り込む為に、ドイツとの領有権問題となっているアルザス・ロレーヌ地方の領有を支援する事を約束した。

 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、鉄道建設交渉の為にオスマン・トルコ帝国を訪問し、交渉の推進を要請した。ペルシャ湾への野心のない事の保障と建設への資金的参加を要請する為にイギリスを訪れ、ヴィクトリア女王と会談した。翌99年 ドイツ帝国は、中東市場での自国製品の販売拡大と石油の安定供給の為に、ベルリンとバクダードを結ぶ鉄道計画に合意した。鉄道は、バクダードからクウェートまで延長されれば、ヨーロッパとインドを結ぶ最短の交通手段が完成する事になる。ドイツは、自国の金融力だけでは資金不足な為に、イギリスの協力を求めた。だが、イギリスはその申し込みを拒否した。

 イギリスは、インドの富とエジプト・地中海の利権が脅かされ、大陸に新たな経済ブロックの出現になるとして対抗策を講じた。トルコ戦争やブルガリア戦争など、バルカン半島全域で戦争や紛争が多発した。

 R・G・D・ラファン「地図を眺めれば、ベルリンからバクダードまで諸国が鎖につながって並んでいる事が分かる。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ブルガリア、トルコ。小さな領土の切れ目が一ヵ所でもあれば、進路を遮断し、鎖の両端がつながるのを阻止する事ができた。その小さな切れ目がセルビアだった。セルビアは小国であるが、ドイツと重要な港の間に毅然と立ちはだかる、東の門扉だった。……実にセルビアは、我々の東部の財産を守る最前線だった。もしセルビアが砕かれ、ベルリンーバクダード系統に引き込まれれば、我々の広大ながらも脆弱な帝国は、間もなく東進するドイツの猛襲に晒されるだろう」

 1899年 ボーア戦争。セシル・ローズとアルフレッド・ミルナーは、南アフリカの金とダイヤモンドを独占する為に、ロンドンのロスチャイルドからの資金提供を得てオランダ系ボーア人に戦争を仕掛けた。イギリス軍は、3年近く苦戦し、多くの犠牲を払ってながらも勝利した。2万5,000人のボーア人と2万4,000人を強制収容所に送り込んで殺害した。沈まない帝国といわれたイギリスの凋落は、この時から始まった。

イングランド銀行は、南アフリカで生産された金塊を獲得し、世界の貨幣用金の大半を獲得して、世界の金価格を設定した。

 1901年 クウェート沖に碇泊していたイギリス軍艦は、ドイツが勧めているベルリン=バクダード鉄道計画を妨害する為に、トルコ政府に対してクウェートをイギリスの保護領にすると伝えた。トルコは、海軍力が弱かった為に、抗議はしたもののイギリスの占領を排除できなかった。他国に占領された自国領は、話し合いによる外交交渉では取り返す事は出来ない。自国領を守るには、強力な軍事力のみであった。

 1902年1月 イギリスは、アジアにおけるロシア帝国の影響力が増大する事を警戒し、日本と日英同盟協約を締結した。イギリスは、北清事変における日本軍の紳士的な行動に感銘を受け、日本を国際社会に参加させる為に対等関係で協定を結んだわけではない。イギリスの外交は、日本外交の様に単純ではなく、老獪である。イギリスは、国益の為に日本を使い捨てのチェスの駒とした。

 1905年 ロシア帝国では、日本に敗北するや、イギリス依存なき経済計画を推進していたヴィッテ蔵相が辞任した。そして、イギリスとの関係修復を決定し、アフガニスタンとペルシャにおける権利をイギリスに譲る事にした。

 1906年 イギリスの地政学は、ヨーロッパ大陸で政治・経済・軍事においてイギリスの存在を脅かす様な大国を出現させない事であり、海の優位権を脅かす様な海運国家をつくらない事であった。世界制覇を維持する為には、勢力の均衡を保つ事が肝要とされた。イギリスの伝統的外交は、ヨーロッパ世界を分裂させ、諸国の対立を煽る為に、弱い国家を支援して競争相手になる強い国家に対抗させる事であった。故に、戦争は、政治の一手段として必要悪とされた。

 イギリスは、ドイツ海軍の増強に危機感を抱き、既存の戦艦の常識を打ち破る最新式の戦艦としてドレッドノートを進水させた。ドイツは、対抗して、1909年にナッサウ戦艦を推進させた。両国による、新たな戦艦開発・造船競争が始まった。

 ルウェリン・ウッドウォード「ドイツは、他の列強と同様に、思うままに巨大な船団を築く事が出来た。問題は、有用性と現実的な計算だった。ドイツの艦隊は、海軍国として優位を保ちたいイギリスによって、挑戦以外の何ものでもなかった」(1951年 オックスフォード大学での講演) 

 1907年 クェートの族長ムバラク・アル・サバーハは、土地の一部をイギリスに売り渡した。イギリスは、僅かな金貨で永代借地権を手にし、該当地域での石油開発は政府と契約する者以外は認めないとした。地質調査の結果、クウェートを含むメソポタミア地域(今日のイラク)には石油資源が埋蔵されている事が知られていた。イギリスは、石油の埋蔵が予想される地域を手に入れるべく、石油資源に興味がない地元民に金かを与えて購入し、占領地を拡大していった。

 1912年 第一次バルカン戦争。セルビア、ブルガリア、ギリシャの諸国は、独立する為にイギリスの支援を受けて、オスマン・トルコ帝国に宣戦布告した。オスマン・トルコ帝国は、戦争に敗れて領土を失った。

 ドイツ銀行は、バグダードからクェートへの鉄道延長交渉に当たり、線路と並行する両側幅20キロ内の石油及び鉱物資源を優先的に利用できる施設権をバグダード鉄道会社に与えるよう求めた。ドイツは、石油供給をアメリカのスタンダード石油に依存していた。国防及び経済の為に、外国依存から自国資本による安定供給に転換しようとしていた。ドイツ帝国議会は、国有企業設立法案の成立の為に審議を開始してが、14年8月の戦争勃発で自然消滅した。

 12年当時の石油生産は、アメリカが65%以上、ロシアのバクーが19%、メキシコが5%であった。

 イギリスのアングロ・ペルシャ石油会社は、実績がなかったが、ペルシャ湾を支配する事で石油市場に確固たる地位を確保しようとした。その為にも、ドイツの石油陸上輸送計画であるバグダード連結鉄道を潰す必要があった。

 7月 イギリスのアスキス内閣は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルの石油艦隊計画を採用し、王立石油・石油エンジン委員会を設立した。イギリスは、石油戦略を優先課題とした。 


   

  

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