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今日ボクが見た風景

家康の経教分離政策による国際交易 1604年~今日

Category: 日本国民の心得  
1600年頃(第107代後陽成天皇)の日本の人口は、約1,200万人で内キリスト教に改宗した者は70万人~300万人とされている。改宗日本人は、北九州と京都・奈良・堺の近畿地域に集中していた。

 信仰心篤いキリスト教徒日本人は、宣教師と共に、奈良・春日大社の神の使いとされている神鹿を遊び半分で殺して食べた。

 肉食文化を持たない農耕・漁労民族の日本人は、「神が宿る神獣を殺して喰らう事は罰当たり」であると非難した。

 キリスト教徒は、牧畜・狩猟民族のヨーロッパ人は創造されていらい肉食を好み、全ての動物は人が食べても良い様に絶対神が授けてくれた恵みであるとして、日本人の非常識を嘲笑って退けた。そして、自然を崇拝する神道を、聖典による神聖な教義を持たない、野蛮な神憑り的な呪術を行うシャマン信仰として滅ぼそうとした。

 キリスト教徒は、世界的な普遍的価値観で日本を強化する為に、祖先神や職業神や自然神からなる八百万の神々を撲滅する行為は日本各地で行っていた。

 原始的自然宗教である祖先を神として祀ってきたムラ人日本人は、2000年以上の永きに渡って、先祖代々守って来た家族信仰を否定して乱暴を繰り返すキリスト教徒を敵視した。

島国の農耕漁労民族である日本人は、犬や猫はもちろん牛や馬を、共に働きながら生活する家族としてい大事に扱い、死ねば神として崇めていた。神社を参拝する気弱な日本人は、祖先神から授かった「命」を大事にし、先祖神から受け継いだ「血」を流す事に恐怖していた。臆病な日本人は、命あるモノ全ての死を忌み嫌っていた。よって、大陸の牧畜狩猟民族とは違って、肉食の習慣は乏しかった。人はもちろん動植物から自然全てが神そのものである以上、そうした神を、自己満足的に支配し破壊するという考えもなかった。神道(天皇神話)の信仰心を持つ日本人にとって、神をも恐れない蛮行は非人間的傲慢な考えであり、神を恐れない罰当たりな所行であった。

 一神教の普遍宗教を信仰するキリスト教徒は、日本の土着信仰として2000年のあいだ民族間で守られてきた八百万の神々(祖先神、職業神、自然神、その他)に対する敬意を持たず、現人神として日本人の精神的道徳的良心的中心である祭祀王たる天皇の神聖に対する畏敬をも持っていなかった。

 敬虔なキリシタン大名達は、北九州と京都を中心とした畿内に多くの領地と軍隊を持っていたが、彼らを一つにまとめる宗教的指導者(皇室内の改宗者)がいなかった。

 宣教師達は、日本人の多くが各地の神社を大事に守っている姿を見て来ただけに、世界中で成功した方法である圧倒的軍事力で日本をキリスト教化する事は不可能と判断し、日本民族の支柱である皇室を改宗する事が第一であるとして全力をあげていた。如何なる手段を使っても日本をキリスト教化すべく、天皇もしくは皇族を改宗させようとした。

 各地の教会堂やコレジオ(宣教師の養成機関)やセミナリオ(神学校)は、日本をキリスト教化する為の聖戦(絶対神と八百万の神々との戦い)に備えて大量の武器弾薬と莫大な軍資金を隠匿した。

 日本に「神の国」を到来させる為に内戦の勃発と拡大を画策し、日本人を絶対神の奴隷・下僕とする為に自由を奪い絶望を植え付けようとした。彼等は、唯一絶対神の奇跡と普遍的教義を唱え、戦争の惨禍と天災の悲惨を信仰を持たない事に対する神の天罰と説教した。罪人としての原罪を認めた悔い改め、絶対神の愛に目覚めよと説いた。絶対神への信仰を持った者だけが、天国で永遠の命を授かる事が出来ると教えた。

 意図的に混乱を作り出し、殺戮を演出する事で、日本人に洗礼を強行しようとしたのである。

 これは、まぎれもない一神教の絶対宗教と多神教の相対宗教による宗教戦争であった。

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 1600年 神の裔・天皇支配国家日本を大流血地獄に追い落とす為に、宣教師が期待した関ヶ原の戦いは一日で終了した。

 徳川家康(日光東照宮、出自あやふやな地方小領主)は、西軍に味方したキリシタン大名を含む90家を改易し、キリスト教勢力を一掃した。

 日本におけるキリスト教会の力は、急速に衰退した。世界を「キリストの御名」によって浄化しするという普遍的な使命は、民族宗教的天皇制度国家日本によって頓挫させられた。

 1602年 オランダは、アジア貿易を独占する為にオランダ東インド会社を設立し、植民地支配を行う為にキリスト教改宗者と中国人を利用した。利益の為に、夥しい異教徒の地元民を餓死に追い込んだ。

 1603年2月 第107代後陽成天皇は、徳川家康に征夷大将軍の宣下を行い、要求された官位や官職を各大名に与えた。

 フランシスコ会のルイス・ソテロ宣教師は、来日し、江戸城に登城して徳川家康と秀忠に謁見した。家康は、関東で教会や修道院を建設する事を許可した。フランシスコ会は、イエズス会の影響力がおよんでいない東日本での布教活動に力を入れていた。

 1604年 徳川幕府は、海外交易の独占と西国大名の交易を制限する為に、海外渡航許可の朱印状を有力商人に与えた。

 1905年4月 徳川家康は将軍職を辞し、子の秀忠に譲った。天皇は、秀忠に将軍宣下を行い、これ以降も歴代の将軍に対して征夷大将軍職を与えた。

 1608年6月 教皇パウロ5世は、頑迷な異教国日本をキリスト教化する為に、全ての修道会に対して日本で布教活動する様に小勅書を発布した。イエズス会による日本独占権は、ここに消滅した。 

 1609年 徳川家康は、スペインとその植民地メキシコとの通商を望んだ。

 イギリスとオランダは、家康にスペインが日本を侵略しようとしていると忠告した。

 1610年1月 ルイス・ソテロ宣教師は、家康の希望を叶える為に、スペイン国王の側近レルマ公爵への使者に立つ事を承諾した。病気になったソテロに代わってムニョス宣教師が、家康の朱印状を持ち、使節団である上方商人らと共にメキシコ(ノビスパニア)に渡った。商教一致主義のスペインは、日本への不信から、家康の通商開始要望を拒絶した。

 3名の日本人が洗礼を受けて残留し、1名はメキシコに残り、2名はスペインに渡った。

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 日本は、伝統的な仏教国家であった。

 神道(天皇神話)は、日本人の精神に良心・道徳・美徳をもたらす「まごころ」の源泉であったが、現実社会を支配する政治力や経済力や軍事力はなかった。神社は、祈祷祈願するだけの宗教施設であって、布教活動をして勢力を拡大する仏教寺院やキリスト教会に比べて無力であった。

 インドで誕生した仏教は、日本に伝来して日本的に変質した。祖先の魂を供養し、自分の今の苦しみと明日の安息を仏に祈るだけの、葬式宗教となった。

 日本独自の神道は、祖先神・氏神信仰として、祖先の神々に自分の明日と子孫の未来に平和と発展をもたらす事を祈る祈願宗教であった。日本人は、自分と子孫の「ささやかな」夢と希望を、「ひたすら」祖先の神々に祈っていた。神道には、祈る以外に力はなかった。神社とは、そういう所であった。祈祷料としての心ばかりのお賽銭や新たな社殿造営の為の勧進を求めたが、分不相応の広大な土地の寄進や巨額な財宝の寄附を求めた事はない。

 第108代後水尾天皇と各神社は、絶対真理で他の神々を討ち滅ぼそうとする荒ぶるキリスト教の絶対神が穏やかになり、他の神々を憎む事なく、争わず、「和」を持って平等に親しむ事が出来る和魂(にぎみたま)の神になる様に八百万の神々に祈った。気の弱い神道には、キリスト教を排除し、滅ぼそうという強い意志はなかった。

 だが、強い意志を持つ仏教界は違っていた。

 徳川家康は、1611年に天皇の権威を削ぐ為に気弱な第108代後水尾天皇を擁立し、朝廷の権力を剥奪し公家を統制すべく1613年に公家衆法度を定めた。1615年には、朝廷支配を強化する為に禁中並公家諸法度を制定した。天皇は、臣下であるはずの武家の監視下に置かれ、自由を奪われた。

 11月 伊達政宗は、天下取りの為にキリシタンを利用するべく、領内でのキリスト教の布教を許可した。

 1612年 家康は、経教分離政策を取り、ノビスパン(メキシコ)副王にキリスト教の布教抜きでの交易を求める書簡を送った。

 「我が国は神国なり、開闢よりこのかた、神を敬い仏を尊ぶ。仏神と垂迹して別なし」

 3月18日 岡本大八事件。家康は、キリシタンが増え、日本がキリスト教国になる事に危機感を抱いた。

 8月6日 幕府は、諸大名に対してキリシタン禁制の法度を出した。 

 1613年に鎮護国家を理由にして、江戸幕府に邪宗・キリスト教を禁教にするように圧力をかけ、キリシタンの取り締まり強化を強要した。

 寺社奉行を大名格に引き上げ、仏教を信じない人々を賤しき者として差別し、下人・賤民として劣悪な生活環境に押し込めた。

 非人・賤民が信仰したのは、絶対神の威厳を誇示する豪華絢爛としたキリスト教会ではなく、みすぼらしい粗末な神社や小さな社であった。それが、江戸時代の被差別部落民達が守った信仰であった。隠れキリシタンは、差別や弾圧を逃れながら信仰を守り通した。

 各地の寺院は、日本人を宗門人別帳で「生から死」まで完全支配し、檀家から諸手続き手数料やお布施などの名目で多額の金を要求した。その不満が、明治初期の廃仏毀釈として爆発した。

 徳川家康は、仏教界の強い要請により1613年12月にキリスト教禁止令を出して外国人宣教師を追放し、日本人キリスト教徒を弾圧して国外に追放した。

 キリシタン狩りが始まり、指導的立場の信者への処刑も始まった。

 政治判断で交易と信教を分離し、幕府の統制のもとで朱印船貿易を行った。

 イギリス人ウィリアム・アダムズを、三浦按針と改名させて正式な武士とし、外交や交易の顧問として高禄で召し抱えた。

 オランダ人ヤン・ヨースチンも、商業顧問として召し抱え、日本の利益・国益を優先する様に海外貿易の差配を命じた。

 イギリスとオランダは、スペインの交易を望む家康にスペインの悪評を繰り返し耳打ちした。

 伊達政宗は、家臣支倉常長に密命を与えてスペインとローマに派遣した。慶長遣欧使節である。交易交渉とは表向きで、真の目的は日本統一の為の軍事支援の要請であった。ローマ教皇パウロ五世に、「服従と忠誠」を誓った。スペイン国王には、日本統一の軍事支援をしてくれれば、臣下になる事を申し出た。

 日本のキリスト教徒(70万人~300万人)の代表者3名は、日本をキリスト教国にする為にも政宗を配下に加え、キリスト教徒の指導者として将軍に任命するようにとの、嘆願書を教皇に提出した。

 スペインの国力低下で、密命は失敗した。スペインとの軍事同盟を勧めたのは、宣教師ソテロであった。軍事同盟が成立し、伊達政宗が武力で日本を統一したら、西日本の一部がスペイン領か教皇領となってキリスト教化されていた。宣教師は、日本のキリスト教化を断念せず、伊達政宗の野心を利用しようとした。

 スペイン王は、「領主の信仰は領民の信仰」という信念から、徳川家康にキリスト教の保護を求める書簡を送った。、

 1614年1月 徳川家康の命を受けた訪墨使節団が、メキシコとに到着した。伊達政宗の統幕の密命を受けた訪欧使節団は、スペインとローマに向かった。

 インディアス法「信仰は能力を制限する原則の一つであり、異端の信仰を有する者は法的能力を有せず、栄誉およびその財産を剥奪される」

 日本人150名は、集団洗礼を受けた。

大泉光一「副王もコレヒドール(王室代理官)も、アウディエンシア(聴訴院)の裁判官たちも、私腹を肥やし、庶民の犠牲のもとに裕福な生活を享受していた」(『伊達政宗の密使』P.110)

 1615年5月 大阪城は落城して、豊臣家は滅亡した。明石守重らキリシタンは、日本から脱出し、日本をキリスト教化する為に日本侵攻の機会を狙った。

 徳川幕府は、旗本・御家人の中にいるキリシタンに対して棄教を強制し、棄教しない者は追放するか殺害した。

 いずれにせよ、宣教師による日本のキリスト教価値観による国際化は失敗した。

 だが、キリスト教会には、異教徒の国家を破壊し、異教徒の民族を死滅させる、計り知れない烈火の様な強大な力があった。

 もし。日本が、この時、キリスト教化していれば、日本国は消滅し、日本民族は死滅していた。

 国際派日本人の間では、徳川家康は日本に閉塞をもたらし世界の孤児とした元凶として人気がない。

 11月3日 伊達政宗の密使支倉常長は、教皇パウロ5世に謁見し、教皇に服従と忠誠を誓うという政宗の親書を提出した。そして、フランシスコ会系宣教師の派遣とメキシコと直接通商交易の実現への仲介を依頼した。

 11月25日 日本のキリスト教徒の代表は、ソテロと共に、教皇に謁見し、連判状を奉呈して、日本をキリスト教化して弾圧の危機にある日本人キリシタンを救う為に、政宗を将軍にする様に嘆願した。日本のキリスト教徒は、政宗と同盟を組んで徳川幕府を倒す為に、ローマ・カトリック教会とスペインの後ろ楯を求めた。

 イエズス会は、教皇に日本におけるキリシタン弾圧の現状を報告し、アジアにおけるフランシスコ会の進出を妨害しようとした。

 教皇は、伊達政宗が改宗していない事を理由にして、提案を丁重に拒否した。

 1617年6月 支倉ら訪欧使節団は、スペイン王の国外退去命令に従って、使命を果たせ帰国の途についた。

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 1616年に大御所徳川家康が死去するや、徳川秀忠はキリスト教から日本と天皇を守る為に不完全な鎖国策を始めた。

 7月 家康の子供である松平忠輝(キリスト教徒)は、武家諸法度による不行跡で改易となった。幕府は、伊達政宗がキリスト教徒30万人以上の指導者となって、天下を取る為に謀反を起こすのではないかと警戒した。

 コックス日記「上総介忠輝反乱の噂が流れ、伊達政宗がこれを支持しており戦乱の恐れがある」

 秀忠は、家康の意思を受け継ぎ、宗教性を排除した外国交易を続ける為に、交易に影響力を持つ外国人宣教師や修道士に国外退去を命じた。同時に、信仰の為に、日本人である事を捨てる覚悟のある国際派日本人キリシタンも国外へ追放した。

 日本人である事を嫌う者には、日本で生活する資格はないというわけである。

 だが、絶対神から与えられた「信教と居住の自由」の権利を盾に日本に居座った日本人キリシタンに対しては、天皇を中心とした神道的秩序を守る為に弾圧を加えた。

 刑の執行を行う役人らは、彼らを助ける為に嘘でも「信仰を捨てた」と言えば許したが、頑なに絶対神への信仰を貫く者は「やむをえず」処刑した。

 殉教を覚悟で日本に留まった外国人宣教師らは、生きる為の日本的な曖昧を良しとする「嘘も方便」を許さなかった。日本人キリシタンに、殉教すれば「神の国・天国」に召されて「永遠の命」が得られるとして、死んでも「絶対神への信仰」を守るように説き続けた。信仰心篤い女性や子供は、宣教師の言う事を聞いて処刑された。

 強烈な信仰心を持たない日本人には、死んでも信仰を守ろうとするキリスト教徒が理解できなかった。先祖神から受け継いだ「命と血」「心と魂」を子孫に伝える事を優先する日本人は、祖先や子孫も無視して自分だけの「永遠の命」にこだわるキリスト教徒を狂人として恐れた。

 日本にキリスト教が根付かなかったのは、キリスト教徒が自分の命はもとより他人の命も、絶対神への信仰を理由にして軽視したからである。

 気弱な日本人には、キリスト教徒の原理主義的狂信さが理解できなかっただけである。

 1621年 オランダは、香料を得る為にイギリス領バンダ諸島を占領し、反対派の首謀者達を残虐な方法で処刑した。キリスト教宣教師は、異教徒の先住民を改宗する為に、オランダの連合東インド会社の植民地支配に協力した。オランダの植民地は、1946年まで地獄の様な悲惨な状態におかれた。

 外国人宣教師は、1619年に京都で52名が、1622年に長崎で55名が処刑された。江戸では、1623年10月に55名が、同年11月に37名が処刑された。悪名高き、元和の大受難である。容赦なきキリシタン弾圧により、絶対神から与えられた「人としての『自由』」を否定する野蛮な残虐国家というレッテルが、神国日本に張られた。

 各地の日本人キリスト教徒は、強制的棄教から逃げるべく、隠れキリシタンとして身を隠して信仰を守った。

 伊達政宗は、マニラに着いた支倉から交渉失敗の報告を受け、幕府の疑惑をかわす為に1620年8月からキリシタン弾圧を始めた。

 幕府側も、伊達政宗謀反の証拠がなかった為に、キリシタン弾圧をするかぎり政宗の追求を取り止めた。

 伊達家は、島原のキリシタン弾圧に匹敵する残酷な方法で迫害した。

 キリスト教会は、天皇と日本を絶対神の名において地上から抹殺する事を誓った。

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 オランダは、日本との貿易を独占する為に、カトリック教国スペイン王国とポルトガル王国に次いで、プロテスタント教国イギリス王国に不利な情報を幕府に提出した。そして、通商交易と布教の分離を提案した。

 1623年 幕府は、臣下でありながら国王を処刑したイギリスを「不忠の国」とし、イギリス人の入国を禁止した。

 戦乱の再発を防止し、庶民に平和な生活を保障する為にも、中国や朝鮮の様に平気で主君を殺害して領主になろうとする下克上を許すわけにはゆかなかった。

 日本は、朝鮮と中国との友好関係を認めず、隣国としての儀礼的な書状の遣り取りのみを続けていた。日本と朝鮮は、正規な国交を結んではいなかった。

 イギリスは、貿易利益の高い多いインド交易に重点を置く為に、利益の乏しい平戸商館を閉鎖して日本を離れた。

 1624年3月 三代将軍家光は、スペイン船の来航と通商を全面禁止し、マニラからの宣教師の航来航を防止する為にスペインとの国交を断絶した。

 徳川幕府は、オランダ船以外の外国船の長崎への入港を禁止した。オランダ船が来航するたびに、オランダ商館長に海外の情報を書状にした提出させた。これが、『オランダ風説書』である。1633年から毎年一回、定期的に江戸参府を義務付けた。長崎から江戸までの旅は、大名行列並みの格式を与えたが、旅の経費はオランダ側の自前とした。オランダ商館長の江戸参府は、途中で4・5に一回に変更されたが、1850年までに167回おこなわれた。

 朝鮮通信使は、12回のみで、幕府は莫大な経費の全を街道筋の大名に負担させた。財政難にあった各大名にとって、経費を負担しなければならない朝鮮通信使は迷惑なだけであった。勘定方のサムライは、分別のない傲慢な朝鮮通信使を嫌っていた。

 清国は、朝鮮に対して、日本国内情報「倭情」を子細に提出する事を義務づけた。

 朝鮮は、命じられた事以上に、日本の事を事細かに国書にしたためて報告した。

 日本は、国交を結ぶ国と拒否する国とを冷静に分析していたので、アジア・アフリカ地域とは違って、キリスト教諸国の植民地となって大虐殺される事を免れた。

 だが。その結果、日本は世界の発展からは取り残された。

 1629年 徳川秀忠の娘の子である女一宮興子内親王が即位して、第109代明正天皇・女帝となった。幕府は、朝廷よりも上位にある事を知らしめる為に、公家に即位するまで知らせなかった。

 1631年 カトリック教軍は、プロテスタント派の城塞都市マクデブルクを攻撃して占領した。カトリック教国軍兵士は、城内に流れ込むや2万人以上の市民を虐殺し、略奪し、放火した。そして、生き残った女性を強姦し、惨たらしく殺害した。宗教戦争は、絶対神の名によって地上に地獄を生み出していた。カトリック教会は、如何なる野蛮な行為をしようとも、その勝利を祝福した。

 キリスト教は、同じ絶対神を信仰していながら、虐殺を伴う内部抗争を繰り返していた。王侯貴族や高位聖職者は、貧しい領民から搾り取った資産を身代金として払って、殺害される事はなかった。

 第109代明正天皇・女帝(母は、徳川秀忠の娘)の御代に起きたキリシタンの反乱である島原の乱(1637年・38年 一揆勢約2万人を虐殺)以降の取り締まりは、建前だけとなり、信者を増やす目的の布教をせず、隠れキリシタンとして表に出ずにコソコソと隠れて温和しく祈る分には見て見ぬ振りをした。

 幕府は、伊達藩がキリシタン残党と手を組んで謀反を起こす事を警戒した。徳川家光は、伊達藩の押さえとして、異母弟の保科正之を会津藩主に加増して転封した。

 1939年 徳川家光は、島原の乱で貢献したオランダの入港を許した。

 こうして、条件付き鎖国政策が、徳川幕府の祖法となった。

 7月 民族宗教を破壊しようとするキリスト教から、日本の伝統的民族信仰を守る為にキリシタン禁制を発布した。イエズス会を含む全ての宣教師を日本から放逐し、ポルトガル王国と国交を断絶して、ポルトガル船の来航を禁止した。

 幕府は、排他的な普遍宗教を表に出して押し付けてくる、キリスト教国の自分勝手な傲慢さを嫌った。

 日本は、世界情勢が如何にあろうとも、日本を守る為に条件付き不完全鎖国政策を断行した。当時の植民地拡大の欧州情勢からすれば、それは正しい判断であった。鎖国政策をしなければ、アジア・アフリカ地域と同様に、日本はキリスト教化されて地上から消滅し、日本人は白人の奴隷とされたであろう。

 各大名は、厳格にキリシタンを取り締まって一揆でも起こされては、幕府から失政・悪政を咎められ、領地を取り上げられて、御家断絶を命じられる恐れがあった。悪くすれば、切腹の上意が下る恐れさえあったからである。切腹させられたら、如何に大名といえども罪人として処理され、武士としての体面は剥奪されて、不名誉に埋葬された。さりとて、目の見える所でキリシタンを野放しにしておけば、反キリシタンの寺院側が騒ぎ出して幕府に諸法度違反と報告される恐れがあった。

 日本では、幕府が定めた「法(掟・御法度)」は絶対であり、例外なく何人といえども背く事が許されなかった。庶民や武士はもとより、将軍や天皇でさえ従わざるおえなかった。

 1613年 公家衆法度。

 1615年 禁中並公家諸法度。朝廷の政治力を剥奪した。祭祀王・天皇は神には、2000年の伝統を持つ神事である皇室祭祀のみを優先させた。

 1635年 武家諸法度。

 1648(18~)年 ドイツの主教戦争である30年戦争が終結し、600万人以上が犠牲となった。だが、陰惨な宗教戦争は1789年のフランス革命まで続き、夥しい数の血が流された。

 ヨーロッパ全土で行われていた異端者や魔女狩りは、16世紀半ばから18世紀まで行われていた。キリスト教価値観を疑う啓蒙思想が普及する事によって、キリスト教によるおぞましい狂気は沈静化した。

 だが、王権に逆らい、領主に反旗を翻した農民は、反逆者として処刑された。それが、女子供でも容赦せず虐殺した。

 キリスト教会は、「王権神授説」で、税を払う義務を放棄して反乱を起こした農民の弾圧を「正義」とし、武器を持つ農民を殺す事は「神の御意志」であるとして正当化した。

 王侯貴族は、農民を人とは認めず、虫ケラ以下と見なし、恣意的に殺しても罪には問われなかった。

 絶対神は、由緒ある血を引く名門・名家出身者のみを人と認め、誰にも妨げられる事のない完全な自由と、富を無制限に集めてゴージャスな生活を満喫する特権を与えた。

 1665年 諸宗寺院法度。諸社禰宜神主法度。

 ヨーロッパや中国や朝鮮のように、法を超越した王侯貴族や宗教指導者といった特権を持った上流階級は存在しなかった。日本には、大陸的な上流階級はなかった。

 故に、大名は腫れ物を触るが如く曖昧にして、キリシタンを宗門改めで弾圧をしながら山や森の奥に追いやり、人目から遠ざけて我関せずと有耶無耶にした。

 日本には、大陸的な宗教弾圧も宗教差別もない。ただし、人を貶める様な利益誘導の犯罪的インチキ宗教は拒絶した。

 1691年 エンゲルベルト・ケンペル「しかし日本人は自然の掟を明らかに犯し、造物主の最も尊い意志を公然と軽視し、共同体の掟を無法にも破っている……国を閉ざす為、外国人の入国及び外国との通商を拒絶する。実力を持ってしても外国人を排除する。……これこそ、自然の掟─最も尊い秩序に反するものではないだろうか」(『日本誌』)

 第117代後桜町天皇・女帝(1762~1770)。日本の歴史には、8人10代の女帝が存在するが、これ以降の女帝は即位していない。

 明治に入り。伊藤博文は、皇統の断絶を避ける為に、「皇室制規」の草案で、男系皇族が絶えた場合には女系継承を認めようとした。政府は、女系相続を否定した。

 『皇室典範』「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す」

 1787年6月 天明の飢饉。全国で一揆や打ち壊しがあったが、京都では打ち壊しは起きなかった。近畿一円の庶民数万人が、皇居を囲む御所千度参りを行った。第119代光格天皇は、政治力も経済力もまかったが、祭祀王として「国平らかに、民安かれ」と祈って炊き出しを行った。上皇や宮家や公家等も、捨て扶持で苦しい生活を強いられていたが、皇室の権威を守る為に炊き出しに協力した。幕府は、庶民の天皇・皇室への感情を考慮して、1,500石の救い米を放出した。

 身分の低い町人や百姓など重労働して生産する立場にいる者ほど、天皇の権威に畏敬の念を抱き、皇室への尊崇の念を持つ。自分の手を汚し身体に汗を掻く生産活動をしない者ほど、天皇や皇室への親近感もなく愛着も持たない。つまり、現実を知らない知的エリートには理解できない情緒である。 

 光格天皇は、皇祖天照大神から授かった稲穂に感謝をこめて、新嘗祭や大嘗祭といった神事を古式に則って復活させた。ゆえに、日本民族は食事を感謝の気持ちで食する。

 天皇神話と米は、切り離す事ができない不分離の関係であった。ゆえに、祭祀王・天皇は皇居内の水田で神前に供える米を作っている。

 天皇の最重要な使命は、農耕作業に由来する皇室祭祀と祖先に対する宮中祭祀である。

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 幕府は、大名への支配を強化するべく、大名を合法的に改易する大義名分を探していた。

 忍者は、その為に各大名領に忍び込み、各藩の情報収拾をおこなっていた。

 将軍は、大名を恐怖で支配する為に、情報を重要視し、あらゆる情報を掻き集めていた。

 江戸時代に改易された大名家は約260家であり、直参旗本は数が多くて実数不明である。

 外様大名への見せしめの意味もあって、身内である親藩や幕府に貢献した譜代への監視は厳しかった。

 島社会は、大陸社会と違って、他人よりも身内に厳しい掟を設けて秩序を維持し、権力に近い身分が上位な者ほどその自由は極端に制限されていた。

 権力を持つ者には俸禄が少なく、責任が重く、些細な不祥事でも責任を取らせ、「切腹」を含む厳罰を与えた。

 出世して役職に就くには家柄と一定の家禄を必要としたが、一般的には権力を持たない者には家禄が多く支給された。

 武士にならず町人や百姓の身分を受け入れた者には、武士以上に私有財産を貯める事を許した。

 島原の乱で減封され後に改易された大名 … 板倉勝家(譜代)。寺沢堅高(外様)。

 武家法度違反で改易された親藩・譜代の大名 … 松平忠輝(キリシタン)。本多正純。松平忠直。徳川忠長。松平光長。松平綱昌。その他。

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 幕府は、大名の財政を疲弊させる為に、1年交替での参勤交代と天下普請などの諸役を命じた。

 大名は、貧困化して、財政の遣り繰りに苦慮した。

 一方、街道筋の宿場は大金を落としていく大名行列で潤い、そこに農産物や生活必需品を供給していた周辺農村にも現金が行き渡った。

 これが、日本型の産地消費経済である。

 年貢で搾取された以上の現金が、百姓の手に入った。百姓はそれを貯蓄したが、道楽好きな馬鹿亭主はその金で酒を飲み博打で散財した。

 田舎の女達は、男に金を持たせるとろくでもない事に散財するとして鬼の様に怒り、逃げ惑う男から容赦なく金を取り上げた。

 いくら日本の男が亭主関白とすごんでみても、肝っ玉の座った日本の女性のカカァ天下には叶わなず頭が上がらなかった。

 金に余裕が出来た庶民は、整備された街道や航路を使って、各地の温泉や名所旧跡や神社仏閣をめぐる観光旅行に出かけた。

 特に、お伊勢参りは人気があり、各地の遊女や犬までが伊勢詣でしたといわれている。

 江戸時代を通じて、庶民の間で各種の旅情報紙が飛ぶ様に売られた。

 大名行列がひっきりなしで行き交う為に、街道が領地を通る各大名は体面にこだわって治安は守った。

 日本の街道は、世界一安全で、子供や女性でも一人で安心して旅が出来た。

 江戸時代は、サムライの時代というよりは、百姓や町人らの庶民の時代であった。

 彼等の旅行は、わいわいと騒々しいほどに賑やかであった。

 よく酒を飲み、よく笑い、よく喧嘩し、そして、よく泣いた。

   ※   ※   ※

 女系天皇擁立論は、歴代の宗教的男系天皇(直系長子相続)による外圧や外敵の侵略から神国日本を守り、中国化を避け独自の国風化を維持しようとした業績を歴史上から抹消する意図がある。中国を中心とした正統派儒教価値観による東アジア正史の闇に葬り、国際文明である中国文明の辺境に位置する非文明の蛮族・倭族として地位を与えることである。

 つまりは、八百万の神々による多種多様を認めるという柔軟な日本価値観の否定であり、男系天皇(直系長子相続)を中心とした日本文明の抹殺する事である。

 そして、中国文明圏の一員として、「平和と発展」という未来志向で、中国や朝鮮との友好関係を築こうとする外交方針でもある。それが、現代版のアジア主義である。

 そこには、日本の独自性も国益も主権も存在せず、すべてアジアの盟主である中国の意向次第である。

 事実。近年、日本の政治家や企業家やマスコミ・評論家・知識人らによる中国訪問、中国詣でが急増している。新たな、朝貢貿易の始まりである。

 2009年12月10日 政府与党の民主党国会議員143人と一般参加者を含む640人が訪中し、参加した議員は嬉々として胡錦濤国家主席との記念写真を撮った。各業界の指導的立場に近い日本人は、両国の友好と発展の為に中国を訪問して、満面の笑顔で政府や党の要人と会談している。

 胡錦濤「民主党政権になっても、中日は交流を深める事ができた。民主党は政権交代後の過渡期を乗り切った」

 現代日本には、国家の将来はもちろん、今の国益を考えない軽薄な指導者が増加し始めている。

 日本人は、戦後の平和教育により確実に劣化し、そのお粗末さは時と共にひどくなっている。

 今の日本人には、非常事態に臨んで対処する能力は昔の日本人ほどない。

 現代日本人は、サムライではなく、武士道精神もない。

 朝鮮が日本に併合されたのは、親日派政治家が新興国日本の国力で朝鮮を近代化しようとしたからである。つまり、親日派政治家が祖国を日本に売り渡したのである。

 同様に、チベットも、共産主義中国の国力でチベットを再建しようとした親中国派政治家の裏切りで、中立国家チベットは消滅し、数百万人が虐殺された。

 マルクス主義者は、イズム至上主義であるだけに宗教弾圧は熾烈を極めた。

 国家の存続より自分の保身を優先し、国家の理念より自分の信念を守ろうとする政治家の出現が、亡国の序章である。彼らは、国益・公益を犠牲にしても民益・個人益を獲得すべきだと主張した。彼らの眼中には、国家は存在しないし、国権に価値を持たない。

 2010年1月12日 政府と民主党は、韓国並みに永住外国人に国政への選挙権を与える法案を、国会に提出する事を確認した。公明党や社民党や仏教系某団体は、永住外国人に地方選挙権を付与する法案の成立に賛成した。そこには、個人の自由意志が尊重され、国民が持つべき責任と義務としての「愛国心条項」も「忠誠心条項」も存在しない。


 知的リベラルは、人口の減少による将来の労働不足を心配する経済界の要請により、貧困に苦しむ中国を含むアジア地区から、選挙適齢期の男性1,000万人以上を移民させる計画が進めている。

 人権団体は、永住外国人を公務員に採用する様に市民運動を盛り上げている。永住外国人(中国人や韓国人や北朝鮮人など)を責任ある公職に近づけるにあたり、忠誠心や愛国心と言った国民としての道義的問題はもちろん、国籍問題も不問に付した。


 キリスト教会は、天皇・皇室を改宗させ、日本をキリスト教化する為に、信仰の自由を理由にして靖国神社に反対し、政教分離の原則から天皇の国事行為に反対している。


 彼らはいう、「日本は日本人(日本国籍者)だけの日本ではない」と。


 反日的中国や韓国の資金が、日本各地の水源地の山野や過疎化している地域の農地を購入している。その面積は、購入を支援する国際派日本人によって年々拡大化している。 

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