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京都大学教授・佐伯啓思 見えない「霊性への目覚め」

Category: ブログ  
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京都大学教授・佐伯啓思 見えない「霊性への目覚め」
2011.5.16

今年は法然の没後800年の大遠忌で、京都の国立博物館などでも「法然上人絵巻」を中心にその生涯を振り返る展覧会が開かれた。法然は、9歳の時に父の非業の死を経験し、その後比叡山に入り、黒谷に移るものの、ほぼ30年を叡山にこもって修行を積む。しかし43歳の時に山を降り、京の町で専修念仏を説くようになる。ただ「ナムアミダブツ」と唱えて、阿弥陀仏の本願にすがるという絶対的な他力本願を説くのである。

 30年におよぶ叡山での修行においてあらゆる経典を知り尽くした法然が、どうして念仏による阿弥陀仏の救済のみを説くようになったのか、その真意はよくわからない。当時の社会にあって、真に救済を求める衆生は、経典を読み修行する時間も余裕も能力もなかった。彼らを救済するには、ただ一念を込めて念仏を唱えるという易業しかなかったとよくいわれる。

 確かに一応のところそういえるだろうと思う。平安末期から鎌倉初期へかけての時代は、台頭してきた武士の勢力争いのなかで激しい戦乱の時代であった。保元、平治の乱から源平合戦の時代である。さらに、京の都では、大飢饉(ききん)、大火、疫病さらには大地震が起きる。町中の建物が倒れ、死者の群れが横たわり、地震の余震は20日も続いたといわれている。「末法」の時代だったのである。

 通常の状態であれば、叡山にこもって学僧として修行を積めばよい。しかし、末法の時代は、そんなオーソドックスなやり方は通用しない。この非常時にこそ真に衆生を救う必要がある。それは「聖道門」ではなく「浄土門」によるほかない。こうして、阿弥陀仏への絶対的な帰依を説く他力本願がでてくる。

 私には、他力本願とは大変な思想のように思われ、わが身を振り返れば、とてもではないができそうもない。「私」を徹底して「無」にし、無条件に阿弥陀仏に帰依するというのは尋常ならざる考えであろう。いっさいの学問的知識は不必要どころかむしろ救済の邪魔になるのである。「一文不知の愚鈍の身」でなければならないのである。恐るべき思想だと私には思われる。確かに法然は仏教上の革命家であった。

 にもかかわらず、専修念仏と浄土信仰が一気に広がっていったのは、それだけ時代が絶望的だったからであろう。今日、われわれは危機の時代にあるとか、展望のない時代だとかいうが、平安末期から鎌倉へかけては今日とは比較にならない悲惨な時代であっただろう。生きるためにはいかなる悪事も働かざるをえない状況だったであろう。悪人正機説もこの時代だからこそでてくるのである。

 ところで、鈴木大拙は、まさにこの悲惨な末法の時代を経てはじめて日本人が「霊性」に目覚めた、という。何か絶対的な力に帰依し、その力による救済を願うほかなくなったようなこの時代に、はじめて「霊性」に目覚めたというのである。

 「霊性」とは、人智を超えたはかり知れない力である。絶対的な何かに自己を委ねること、すなわち信仰である。この絶対的な何かの前で、自己を無に帰する。自己を無にしたとき、初めて救済という契機が働き出すのである。

                   ◇

 ここに、「日本的霊性」というものがあった。時代状況が悲惨であり絶望的であればあるほど、「霊性」への覚醒は鋭くも強度なものとなろう。

 今日の日本人が直面している難局が、これに匹敵するとはいわない。また、ひとたび近代化をくぐり抜けた今日の時代状況を、法然の生きた「末法」の時代に重ね合わせることはほとんど無意味なことである。

 しかしその上であえていえば、私には今日の「霊性」ということがいささか気になるのである。今回の大震災と原発事故が示したことは、いかに人間が「理性」を駆使して自然を管理し、エネルギーを作り出し、科学と技術によって経済を成長させても、人智・人力ではどうにもならない領域があるということであった。「想定外」などという気楽な言い方をするが、少なくとも「想定外」があることは想定しておかねばならないのである。

 この「想定外」の領域に直面したとき、「生」と「死」は、通常の状態とはまったく異なった様相を示してくる。両者の境界は曖昧となり、燦然(さんぜん)と分けられるものではなくなり、「生」に転ぶか「死」に転ぶかもほとんど偶然によるほかない。「生」と「死」は別物ではなく重なりあってくるだろう。この状態にあって、生きようとすれば、人の領域を超えた何ものかに自らを委ねるほかなかろう。これが「霊性」というものなのである。

 大震災から2カ月が経過し、徐々に関心は復興に向いている。しかし、あくまでテレビ画面でみる印象でしかないのだが、被災地を覆う絶望的な悲しみや怒りのなかから立ちあがってくるある種の「宗教的なもの」の姿がどうも見えない。「霊性」への覚醒のようなものが見えない。たぶん、欧米で似たようなことが起きれば、人々は教会の廃虚にたたずみ、十字架を切り、祈りをささげ、ミサをあげる、といった光景が映し出されるであろう。しかしそれに類したものがない。

 取り立てて「宗教」を持ち出そうとする意図は私にはないのだが、それにしても、かくも人の領域を超えた何かに直面したときに、「霊性」への思いがまったく見えないのはいささか奇妙なことではなかろうか。どうにもならない不条理に直面したとき、人はどこか「宗教的なもの」に触れるであろう。それは人の能力の限界を思い起こさせ、人の傲慢を戒める。近代主義や技術万能が限界まできた今日、「霊性」を改めて思いかえすことも無意味ではないだろう。(さえき けいし)
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