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今日ボクが見た風景

武術の教えは、「捨身」

Category: ブログ  

浅沼さんに学んで欲しかった西郷派の「抜ける術」

 人生は「捨てていく中」に、本来の姿がある。
 現象人間界では、総(すべ)ての事象が捨てると云うところに、次の新たなる勝機を見い出すようになっている。つまり、「死んだ処(ところ)」を捨てるのである

 人間の心には、失えば「惜(お)しい」という意識が働く。
 本来は、過ぎたことは、取られて存在しないのであるが、それを失った事を「惜しい」と思う。この「惜しい」と思う気持ちが、全体像を不明瞭(ふめいりょう)にする元凶になる。

 勝機を掴(つか)む為には、「死んだ処」を捨てていく。過去のものは捨てていく。固執しない。こだわらない。そうすれば楽になる。捨てれば楽になり、全局面が見えて来るからだ。
 しかし、一局面に惜しいと言う気持ちが起れば、いつまでもこれに囚(とら)われてしまう。命を惜しいと思えば、逆に命を失うのである。だから、こだわらずに、狙われている処は、捨てれば良いのである。

 例えば、襟(えり)を取られ、袖(そで)を取られ、手頸(てくび)を取られ、腰を取られて抱擁(だきがかえ)を行われて、これから逃れようとする意識が誰にでも働く。この働きが、全体像を見逃す現凶となるのである。人間が行動を封じられるのは、一部を失って、総(すべ)てが封じられるのではない。

 例えば、右手を捕まれ、右手を外そうとすれば、そこに意識が働き、右手以外の存在を忘れてしまう。そこで、失った右手は問題にせず、まだ「生きている処」を動かし、勝機を得るのである。

 人間の持つ人情は、失ったところを「惜しい」と思う。「損した」と思う。「取り返したい」と思う。そして願わくば、損以上のものを倍にして取り返そうとする。ここに人間が、今から先の、運命決定を根本的に間違う、誤りをやらかすのである。

 この誤りを回避する為には、失った処や、取られた処を捨てることである。失った処や取られた処にいつまでも、心を奪われると、常に「惜しい」という気持ちが働き、「損した」という思いに囚われて、この一局面の不利から中々抜け出すことができない。

 結局、こうした気持ちに心が囚(とら)われてしまうと、「失うまい」とか「取り返そう」という心が働いてしまい、一箇所だけの「死んだ処」を固執することになる。見る視野が狭くなり、全体像が見えなくなる。全体像が見えなくなれば、まだ「生きている処」を動かし、不利な局面から勝機を掴む事が出来なくなる。こうして「行き詰まる」のである。

 行き詰まれば、一小局面に全心が囚われてしまい、心の全体は、小さい場面の中に閉じ込められてしまい、自由時代に動き廻ることが出来なくなる。

 例えば、暴漢に刃物を突き付けられた時、刃物に心が奪われてしまえば、これから動けなくなってしまう。本来ならば、暴漢の全体像を見て、その態勢から動きを読み取り、それに対処しなければならないのであるが、暴漢の持つ刃物に心を奪われれば、刃物に身が竦(すく)み、動けなくなる。
 しかし、刃物から更に視野を拡げ、暴漢の全体像を見れば、刃物以外の敵の動きがよく見えて来る。「よく見る」ということが勝機を掴む第一歩であり、暴漢の刃物に心を奪われるのでなく、全体像を見て、局面に奪われた心を「捨てる」ということである。

 全体像を常に観察すれば、一局面のピンチなど、然(さ)して損害には及ばないのである。しかし、この損害を「惜しい」と思ったその瞬間から、心は「損をする」ということに囚われ、その小心が、ついには大本のわが命まで失う事になる。

 ここで問題にしなければならない事は、暴漢の刃物を見て、「刺されてもいい」「斬られてもいい」という覚悟が決めることだ。そういう気持ちが働けば、恐怖は半減し、その「居直った気持ち」が、窮地(きゅうち)から脱する勝機を見い出すことが出来るのである。しかし、ゆめゆめ無傷で生け捕ろうなどとは思わないことだ。大怪我を覚悟し、後はどうにでもなれと、「開き直る」ことだ。

 そうすれば、相手の動きがよく見えるようになり、肚(はら)も据(す)わるのである。生きるか死ぬか、刺されるか刺されないかは、人間側が決めることではなく、天命が決めることである。生きる因縁がなければ、刺し殺されるであろうし、生きる因縁があれば、刺されて重傷を負いながらも、生き残るのである。これを西郷派では「他力一乗(たりきいちじょう)という。

 また、「素手」対「刃物」で戦う場合、構えれば、確実に体当たりで突進して来る相手に、確実に刺される場合が多くなるので、この場合、下手な構えは行わずに、「無構え」をもって対峙(たいじ)することである。しかしこの場合、必ず、敵の眼から見て、「45度の半身」に向けるという事である。そうすれば、敵から、吾が躰を見る幅は、「1・1・√2」の三平方の定理から、「√2」だけ、幅が狭くなり、また45度の半身になっている為、敵の動きに合わせて、「転身」することができ、刺されて万が一の場合にも、「九死に一生を得る」のである。

 これに眼を奪われれば、「竦(すく)み」が起り、蛇に睨(にら)まれたカエル同然になり、刃物に魅(み)入られれば、これを逆に招き寄せる。これは心が刃物に「捉(とら)われた」からである。つまり、一小局面に、全心が囚(とらわれ、ここに釘付けされたからだ。

 小事に「釘付けされた」のであり、この事が自由自在に動くことを忘れさせてしまうのである。大局から眺(なが)めれば、損したところで、取り返すには及ばないのである。放っておけばよいのである。「死んだ処」は捨てれば良いのである。現世とは「捨てる」ところに、真実があることを忘れてはならない。

 「捨てる」ことによって、先が開けるのである。「捨てる」ことで、窮地(きゅうち)に立たされた局面が打開されるのである。これが「捨てれば楽になる」という真理である。失った処を取り返そうとするよりも、残っている処を失うまいとするのが賢明なのである。

 西郷派では「捨てる」ことを「抜ける術」という。
 つまり、死んだ処を捨てる術である。
 人は、理不尽な暴力に対し、それ自体を「不当だ」と感じる。その不当を感じる意識は、根底に損得勘定が働く。また、憤(いきどお)りと倶(とも)に、「無理無体」と感じる。浅沼も、山口二矢から命を狙われて、心の中では「何と理不尽な」あるいは「無理無体な」と、叫ばれずにはいられなかったはずである。ここに、浅沼の「囚(とら)われた心」があった。

 つまり、一点に捉(とら)われると、それが理不尽な場合、憤激(ふんげき)すると倶(とも)に、「不当差別」と感得するのである。当を得ず、道理に外れたこと意識してしまうのである。ここに、運命に「行き詰る」また、運命から「抜け出す術」を知らない、無知が働くのである。

 こうした運命に絡(から)め取られると、もう、その先は進退谷(しんたいきわ)まった状態に陥る。進退谷まれば、それから抜けだせなくなり、まだ「生きている処」まで失う事になる。その時、足の竦(すく)んだ浅沼は、どう動こうとしていたか。あるいは、防御手である両手を、どう動かそうとしていたか。総て萎縮してしまっていたではなかったか。
 ここに、命を失った浅沼の悲惨を見る事が出来る。

 運命と言うものは、人間の力では左右することが出来ないものである。これは如何に唯物論者の浅沼でも、動かし難い事実である。
 運命において、人間はその勝敗を絶対に左右することができないのである。それは人間が「因縁」によって生きているからだ。したがって、進退谷(しんたいきわ)まれば、それは「動かし難い事実」としての結果が顕われる。ここが現世と言う現象人間界の、「顕界(げんかい)」たる所以である。これは何人(なんびと)も無視することが出来ず、定められた運命の中に身を置くことになる。

 だから、勝ち負けを決めるのは人間ではない。総ては「天」にある。したがって、追い詰められ、最悪のピンチに陥った場合は、人間がやれることは、運命を左右するのではなく、勝にしろ、負けるにしろ、これと遭遇し、ただ遭(あ)って、「抜ける術」を遣(つか)うだけなのである。そうすれば、勝機を得ることができる。

 運命は逃げるべきものでない。どんな最悪の局面に遭遇したとしても、それから逃げ出すものではない。人間側の態度としては、ただ遭って、「抜ける術」を遣うだけなのである。
 この「抜ける術」を遣うというのが、つまり、「迎えて」それを「果たしていく」という行為に繋(つな)がるのである。ここぞ、という時機(とき)に、「及び腰」になってはならない。腰を引いて逃げてはならない。

 そして、「抜ける術」とは、損したら損したままに放っておく、また、取られたら、取られたままに放っておくという事なのである。刃物を見てもそれに眼を奪われず、それを捨てて、全体像を見ることなのである。

 これこそが「因縁」の「順なる処」であり、逃げ回るのではなく、「放っておく」という事なのである。これにより、活路が開け、勝機が得られるのである。
 もし、浅沼が脇差という凶器に、囚われることがなく、「抜ける術」を心得ていたら、喩(たと)え刺されたとしても、命を落とすまでのことはなかったであろう

 

●身を捨てて浮かぶ瀬もあれ

 人間は眼に見えるものに反応する。それ以外にも、耳に聞こえてくるものや、皮膚に訴えてくるものに即座に反応する。こうした反応への信号が、繰り返し送られてくると、感覚器の許容範囲内での変化であれば、感覚器を通って、神経系統に伝達され、対処の防禦体勢が取れるが、それをオーバーすると、こうした刺激は、これまでに経験したことのない「驚愕反応(Startle reaction)」を引き起こす。これは、たた「唖然」とするばかりでなく、防御の為の行動を停止させてしまうのである。
 これは心理学上で言う、複雑にして、極めて大きな身体的動作が萎縮する反応である。

 普通、視覚に捕らえる反応は、瞳孔(どうこう)が何らかの光を捉え、これを感知すると、網膜(もうまく)が光化学的変化を起こす。 これに併せて、聴覚は瞬時的に、更に敏感になる。そして筋肉は、それに併せたかのような反応により、無意識に動き、与えられた刺激の方向に、一切の感覚器が向かう。

 例えば、暗闇では音のした方向に耳を傾けたり、あるいは暗がりでは物を見詰める場合は、これをもっとよく見ようとして、その物への焦点をあわせようとする。要するに眼を見張り、もっと自分が置かれている現状を詳細に分析し、認識しようとする意識が働くのである。これにより全身の筋肉が緊張を来たす。
 しかし緊張すればするほど、自分の動きがぎこちなくなり、こうしたものが脳波へ連動された形となって、手足へ流れる動脈と静脈は収縮し、遂には冷たくなる。掌が汗ばんでくる、あるいは血液が頭に上るという状態が起る。

 こうした状態を東洋医学の観点から言うと、「手足が冷たくて頭が熱い」という状態で、良好状態で言う、「頭が冷たくて手足が暖かい」とうい状態とは正反対になっていることである。つまり、こうした状態になると、呼吸と、心臓の鼓動にの大きな変化が起るのである。

 一旦こうした状態に陥ると、極めて明確な形としての「驚愕反応」を引き起こす。そして極めて激しい混乱に陥る。突然、瞬時に感じたことが、即解決の糸口が見つからず、混乱が先行して、対処する動作を見失ってしまうのである。
 この為、普段ではよく出来ていた、反復動作すら、中断する形に止まってしまう。この中断に際し、人間は、ただ激しく反応するばかりで、行動が停止され、次に動く「一手」を見失ってしまうのである。

 浅沼委員長が、「いま刺されんとするこの刹那(せつな)」は、まさに次の一手を見失った混乱状態であり、足が竦(すく)み、防禦創(ぼうぎょそう)を作るであろう両手は、完全に萎縮している。足の歩幅のスタンスの狭さも、驚愕反応によって完全に動きを封じられており、激しい眼から飛び込んでくる動きに、完全に対処し切れていない。

 人間は、普段から武術的な訓練をされていない者は、刃物などの凶器を見ただけで、まず、最初に激しい驚愕反応が起り、これに身を竦ませ、動きが封じられてしまうのである。そして更に悪い悪循環は、例えば、刃物やそれに準ずる凶器を見て、声が出せないばかりか、瞬時の混乱の中で、一瞬の生存本能への未練が起り、「自分はまだ死にたくない」と思うことだ。こうした思いに取り付かれたとき、人は確実に命を失うようだ。

 そこになれと教える。
 尊い、わが命を捨て、「刺されても、撃たれても構わない」と開き直る気持ちを起こせと教える。こういう気持ちに至れば、恐怖は半減し、驚愕反応の呪縛(じゅばく)からは解き放たれるであろう。そうすれば、敵の動きは、手に取るように分かるようになり、まるで敵の動きが「スローモーション」のように見えてくるのである。
 しかし、こうした恐怖に、最後まで驚愕反応から解放されず、それに囚(とら)われれば、自ずからの「生へのこだわり」は、やがて助かる命まで、助からなくなってしまうのである。

 「身を捨てて浮かぶ瀬もあり」とは、小さな自己に固執することなく、命までも投げ出して戦えば、その「捨てる」ことにより、死から生還できるということを教えているのである。ここに、みすみす命を失う者と、命を捨てて、命拾いをする者とに分かれるのである。

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