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今日ボクが見た風景

刺客の凶刃に斃れた浅沼稲次郎と、「朝鮮戦争」と「日米安保」

Category: 政治  

●社会党右派と労働組合

 浅沼刺殺事件は、当時の時代背景と無関係ではない。当時は岸信介内閣から池田勇人内閣に政権が移る頃で、高度経済成長政策の推進と、60年安保闘争の真っ只中にあった。


 日本人はこの頃から、経済繁栄と共に、金銭を物神化する動きへと傾き、金を崇拝する風潮が社会全体を支配し始めた。


 金を儲ける為に何でもする。金儲けであるならば、何でも許されるという、倫理観の欠如が生まれ、この低俗な考え方は、政治にも企業にも、また国民の一個人ににも、広く蔓延(まんえん)することになる。


 これまでの日本の近代史を見てみると、日本人が精神的な支柱にしてきたものは、江戸時代では幕藩体制の権威であり、その中には、武士道を中核とする儒教的な思想が日本人を代表していた。


 そして、時代が明治を迎えると、維新以降、天皇は唯一の絶対神となり、日本国民は皇国史観を基盤とした富国強兵の国家論が打ち立てられ、やがてこの思想と共に、日本は太平洋戦争に突入する。


 先の大戦により大敗北を帰した日本は、戦後、天皇に代わりマッカーサーを崇拝する思想が植えつけられた。つまり、「人間崇拝論」が横行し、その後の吉田茂内閣以降は、経済至上主義が猛威を奮い、日本人に経済神話を植えつけた。そして日本人は、ひたすら「経済」を信仰するようになる。


 その経済信仰は、池田勇人内閣の「所得倍増計画」によって一段と強固な形に作り変えられ、これ以降日本人は、経済大国の道を歩み始める。


 しかし、それは倫理観を墜落させ、「拝金主義」と共に、経済至上主義へと墜落していく日本人の姿であった。日本の戦後は、この傾向が強くなり、多くの日本人は政治離れして、政治は他人の如しであった。経済を優先させて、儲ける為には、何をやろうと構わないという風潮が生まれた。言論の自由を楯に取り、特に共産主義は、戦後の日本の知識層に支持され、巨大な反体制的勢力となっていった。


 その一方で、右翼の活動が活発化していた。

 また、右翼の活動を活発にする要因は、中央公論に連載された、深沢七郎の小説『風流夢譚』や、同社の『思想の科学』など、天皇を愚弄(ぐろう)する掲載であった。


 特に『風流夢譚』の中には、天皇一家が処刑される場面が描写され得ており、これが右翼を憤激(ふんげき)させる材料になった。


 また、天皇制を批判する『思想の科学』は、天皇の批判だけの止まらず、天皇を侮蔑(ぶべつ)する内容を露骨にした雑誌であった。その内容は、今日の韓国の盧武鉉(ノ‐ムヒョン)体制や、同国の大学教授などや進歩的文化人が、日本国天皇に対し、「日王」と蔑視する以上に酷かった。


 当時、敗戦直後から中道を逸(いっ)して、赤化の方向に傾き始めた『朝日新聞』は、浅沼刺殺事件後、中央公論の嶋中社長の談話を載せ、『風流夢譚』を掲載した事は誤りであるとし、中央公論編集長を解任する旨を伝え、記者会見で次のコメントを載せた。


 「失礼(天皇陛下に対し)は失礼とし、年端(としは)も行かない人を、殺人行為におもむかせような風潮と言論を激しく憎む」と、自らの考え方を発表し、同氏の言は、昭和36年2月2日付の朝日新聞に掲載された。

 また、この中央公論の嶋中社長の談話を受けて、言論界では、大きな動揺が起った。


 それは評論家・河盛好蔵(かわもり‐こうぞう)らの言に見られ、「右翼の悪口を言うには、いまや生命の危険を覚悟しなければならない」(『朝日新聞』昭和36年2月2日付)と、今度は傍観者(ぼうかんしゃ)の立場で記事を掲載している。


 更に当時、政治漫談で売り出し中の漫才師コロンビアトップ・ライトは、「知人がおかしなメモを手に入れましてね。日教組の小林委員長、社会党の浅沼委員長、ほら、おまえさんたちは七番目にねらわれているというんです。まさかと笑っていたら、その三日後に浅沼事件だ、青ざめちゃったな」(『朝日新聞』昭和36年2月11日付)とコメントを掲載している。


 事実、警察の取調に対し、元大日本愛国党党員・山口二矢は次のように自供した。


 一つ、右翼の運動は結局、直接行動に訴え、自分の場合は、「一人一殺主義」しかないと考えたという。


その内容によると、


 一つ、浅沼の他に、日本共産党の野坂参三や、日教組委員長の小林武も暗殺目標にした。


 一つ、以上の直接行動は、自らの単独行動である。


 これらから考えると、浅沼を「日和見主義者」と観(み)て、労組に寄生する輩(やから)と観(み)ていた節があるようだ。これは山口二矢自身が革新していたのか、誰かの差し金であったのかは知らないが、今から振り返れば、的を得た見解であろう。


 そして、浅沼は何故刺されたのか?となる。


 まず、浅沼の日和見主義が挙げられるだろう。確かにこの時期、浅沼は時機(とき)の形成を窺(うかが)い、二股をかけた観(かん)があった。買国奴的な所も目に付いた。訪中の際、自らが中国訪問使節団団長として中国に赴(おもむ)き、また毛沢東と会見し、革命の情熱を露(あらわ)にしたことであった


 この時、浅沼自身、自分の都合のよい方に解釈し、「日和見主義」で、一方に於いて、不満層(具体的は農組連や炭労やタクシー組合。それを雄弁に物語るのは、炭鉱合理化で、北海道芦別炭鉱のスト支援の浅沼の揮った熱弁は不満層を大いに沸き立たせた)の受け皿として、特に日本の労働者を取り込む形で動いていた観があった。


 これは、政治運動や労働運動で巧妙に用いられることが多いのだが、今でもこの手法が、労働組合運動などにも見られる。


 組合幹部が権力の頂点に立ち、「労働貴族」と称されるのは、この為だ。

 要するに、組合運動をすると、組合員から集めた組合費から、使途不明金を派生させて、高利貸し以上に、暴利を貪(むさぼ)る事が出来るからである。また、戦前・戦中の政治家や軍人が、国民の血税を湯水の如く使い、その金で、東京赤坂の高級料亭で、タダで芸者を抱くというような、「役分」というものもあろう。つまり、組織というものは、「役分」という甘い汁に群(むら)がる輩(やから)が、必ず居るというものである。


 これは今日の革新政治家や、かつての全共闘や労働組合などを、影で誘導し、指導した、ブルジョワ路線をひた走る、進歩的文化人らに見られる、「二股をかける手法」だ。最初から二足の草鞋(わらじ)を履いているのである。

 例えば、日教組(日本教職員組合のことで、全国の国公私立の幼稚園から大学までの教職員で組織する労働組合で、1947年結成)の組合員が、現場教師の代表として、日教組幹部や役員となり、衆参両議員の何(いず)れかに立候補して、国会議員になっていく、この構図である。この構図こそ、戦前は聖職と言われた教師が、戦後は労働者の名を語り、国会議員に変身する、あの欺瞞(ぎまん)の構図である。


 つまり日教組は、組合の幹部や役員が、組合を私物化し、末端の教師である組合員を利用して、県代表となって県会議員や、国の代表となって国会議員に栄達するまでの踏み台であり、一個人の野望を達成する為の道具に、組合が利用されているに過ぎないのである。ここにどうして、庶民を代表とする民主主義の原理が働いているのであろうか。これでは、底辺の労働者を喰(く)い物にする、まさに資本家の、あの露骨な野望、そのものではないか。


 また、連合(全日本民間労働組合連合会の略)も似たようなもので、ここの幹部員や役員は組合員を利用し、個人的な野望達成の為に、組織を踏み台にして、国会議員に打って出る時機(とき)を、ひたすら待つのである。
 もう一方、連合と称した、日本労働組合総連合会なるものがある。これは1989年に、官公労組が加わり、発足したナショナル・センターである。何(いず)れも幹部は、己一人の野心・野望の為に組織を踏み台にし、組合員を酷使し、徹底的に利用する。


 以上の、こうした組合運動に、社会党右派が関与し、オルグとして、組合活動の組織者として、これを喰い物にする為に活動したとしても、何の不思議もないだろう。


 その為に、一時金闘争を仕組んだり、また、共産党系の組合幹部を排除する為に、組織者は、その排除の為に躍起(やっき)になるのだ。


 ここで再び、アメリカの労働組合組織を思い出して頂きたい。アメリカでは組織者(オルグ)が年俸で働くと既に述べた。日本では、各政党が労働組合運動に肩入れし、労組から某(なにがし)かの政治資金を受け取っていることは、あまり報じないが、少なくとも、当時の社会党は、浅沼が行動的に全国を飛び回り、炭労などのスト支援に出向いている。これは社会党自らの、無料奉仕であったのだろうか。


 小学生でも知っている事だが、民主主義体制を維持する為に、その政治システムの運営に「一円も金が懸らない」と思っている御仁(ごじん)は、一人も居るまい。

 

●二股をかけた進歩的文化人の思惑

 さて、進歩的文化人の論は、「大衆は無知である」と定義する。
 また、「無知ではないけれど、知識はあり、しかし、無知の自覚症状がない」とも言う。それに大衆は、自分の事は棚(たな)に上げ、他人の欠点ばかりを言う。それはあたかも、「新聞の投書」のようにと……、大衆をこき下ろす。

 大衆の無知は、何処に見られるかと言うと、地球温暖化や環境汚染の目から、環境を、地球を汚す人間が絶対に赦(ゆる)せないと言いながら、実は、自分はヘア-・スプレーなどの噴霧器を、しょっちゅう遣(つか)い、また洗濯廃水や台所洗剤廃水をバンバン流す。これこそ、大衆の「無知の最たるものではないか」と言うのである。

 また一方、選挙で金を集め、その金をバラ撒(ま)いて、票を集める自民党や公明党に投票しておきながら、これを「金権選挙だ」と罵(ののし)り、他人の悪を徹底的に批判する。こうした大衆こそ、羞恥心のない人間の集まりで、これを正しく教導しなければならないとするのが、進歩的文化人の大方の意見である。そして彼等は「デモクラシーの厳守」を訴える。


 しかし、この言にも矛盾はある。


 それはデモクラシーそのものが、「大衆」を指しているからだ。大衆とは、「デモス」の事であり、「大多数」を指す。また、多数支配の事である。民主主義のルールから行けば、多数支配によって、票を集めた自民党や公明党に落ち度はない。


 何故ならば、国民に大多数の意見で、かの政党が選ばれたからだ。
 デモクラシー民主主義が、最も問題にしなければならい事は、大多数の大衆が、どう考え、どうこう行動するかという一点のみである。これを抜きにして、デモクラシーの存在はあり得ない。


 ところが、進歩的文化人は、これを「デモクラシーの冒涜(ぼうとく)」と決めつける。そして問題の所在がボケて、大衆は当惑する。その大衆を当惑させる手段に用いられるのが、一見、労働者や革命家の味方のようなポーズをする進歩的文化人やシンパサイダーの態度である。


 今日の進歩的文化人の矛盾したポーズを追うと、昭和35年(1960)10月12日、三党首大演説会の日比谷公会堂での演説中に、社会党の浅沼委員長が何故刺されたのか、明白になって来る。


 進歩的文化人は、デモクラシーの根元に、「エゴイズムの社会化」(あるいは悪しき個人主義の大衆化)という実体が横たわっている事を見逃している。しかし、進歩的文化人は、デモクラシーの根拠に、エゴイズムが働くことは原則的に否定する。


 彼等の言うデモクラシーは、最終票の「一票」に還元される大多数者の原理でなく、知識や真理を把握し、それに基づいて行動する、知的選挙民の総括の元に置かれた時のみ、このデモクラシーは正しく機能するとして、したがって選挙民である大衆を、自分達の知識をもって、自分達が彼等を正しく誘導しなければならないと自負している。彼等の言う「知的人間」の根拠は、ここに由来する。何と、大衆を馬鹿にした、横柄な論理ではあるまいか。


 こうした自負が、大衆を更に混乱させる。


 それは進歩的文化人達が、赤化に走る『朝日新聞』や、『岩波書店』の学術的な権威を借りて、大衆誘導している事である。その大衆誘導の事実に、彼等の掲げるマルクス・レーニン主義がある。そして不思議な事は、社会主義が一種の全体主義的な思想でありながら、デモクラシーの名を語り、「民主主義共人民和国」などという、空想的国家の政治理念を、国名にする国が、戦後、中国大陸と朝鮮半島に登場した事である。


 こうした国家の登場を許したのは、フリーメーソン社員だった蒋介石が、赤軍との内戦に敗れ、台湾に逃亡したからである。


 戦後の日本には、社会主義性善説や社会主義正義説、あるいはマルクシズム絶対視に凝(こ)り固まった大学教授(立命館はその巣窟であった)や文化人が多く居た。彼等はソ連を尊敬して止まなかった。


 また中国に、異常なまでに親しみを覚え、北朝鮮に親愛のアピールを送り、この社会主義国家が、これまでの並みの国家より、一段も二段も上の政治体制だと信じ、特に、ソ連に至っては「ソ同盟」と、敬愛の念を寄せて居た者が少なくなかった。


 例えば『前衛』に、これを見ることができ、また『朝日ジャーナル』などにも、これを見ることができる。事実『前衛』は、1958年初頭まで、戦後から十年間、一貫して「ソ同盟」を敬称している。また『朝日ジャーナル』も、似たような表現で、マルクシズムを絶賛し、現場のマルクシストとは一線を画(かく)しつつも、良心的なポーズを取り、学生を、労働者を、貧農を、末端分子を、暴力革命へと煽(あお)り立てた。


 そして、社会主義国家とソ連礼賛に明け暮れ、特に『朝日ジャーナル』は、70年安保闘争(1970年にも条約の延長をめぐって反対運動が行われた)の時、学生や労働者に社会主義性善説や社会主義正義説を大いにアピールした。


 そして今、あの当時の『朝日ジャーナル』の編集長は、今どうしているか。あるいは、これに追随した当時の進歩的文化人の暮らしぶりはどうか。


 まさに彼等が最も毛嫌いし、卑しいとしていたブルジョアに籍を置き、彼等自身は晩年の、「わが世の春」を謳歌(おうか)しているではないか。名誉と金を手にしたではないか。


 二股かけた、進歩的文化人やシンパサイダー達は、いまNHKの解説員になったり、民放のニューキャスターなどになり、「知的人間」と評されて、取り巻きから傅(かすず)かれて、その羽振りは、まさに拝金主義者の、それではないか。


 では、かくも進歩的文化人が、何故デモクラシーに入れ揚げるのか。


 それは、日本の戦前・戦中にあった「神を敬(うやま)う」ことを止めて、人間を敬う「人間崇拝」の思想が横たわっているからだ。


 例えば、これは芸能界と陸続きになっている、スポーツの世界を見れば一目瞭然(りょうぜん)であろう。つまり、デモクラシーは、野球のうまい奴、ゴルフのうまい奴、サッカーのうまい奴、相撲の強い奴がプロ選手になり、また柔道の強い奴や、その他のスポーツ競技で話題性のある選手や、オリンピック入賞選手を、「芸能人並み」に扱って、大スタートして崇(あが)める事である。


 崇める対象は、あくまで人間である。スタートして祭り上げられた有名人を崇めるのであって、神の崇めるのではない。これ則(すなわ)ち、アメリカの持ち込んだデモクラシー。


 人間の作り出した、スポーツ競技や格闘技競技において、また芸術や芸能において、音楽や娯楽において、その頂点の座に着く人間を作り出し、ひと握りのエリートを英雄として崇(あが)める、こうした原理が働く世の中を、「デモクラシー」という。スターが誕生し、大衆の頭上に輝くことだ。


 その点においては、碁や将棋のプロ棋士も同様であり、その証拠として、NHKの教育テレビやBS2では、毎日ように、組織の底辺の裾野(すその)を広げる為に、名勝負が企てられ、解説が行われている。つまり、背後のは政治的な駆け引きと圧力が掛かっているのである。


 いわゆる、娯楽としてのプロスポーツ競技や、碁や将棋の名勝負は、どうすれば決勝戦を華々しく競い、ファンを喜ばし、満喫させる、ここには芸能に通じるものが横たわっている。


 このように、デモクラシーの背後には、芸能界と地続きになった社会システムが確立しているのである。

 また、顔のいい奴、スタイルのいい奴、あるいは容姿端麗(ようしたんれい)で、その他の庶民とは、ケタ違いに群の抜いて演技のうまい奴を舞台俳優か、映画スターに押し上げ、あるいは歌のうまい奴を、かつての戦前・戦中の国家神道的神主主義に成り変わって、スターに祭り上げて、「国民の英雄」として崇め、彼等人間を拝む事を言うのである


 民主主義の本場であるアメリカでは、映画スターが大統領になったり、州知事になったりする現実は、要するにデモクラシーが、芸能界と地続きになりうるシステムが出来上がった政治体制が、その背後で働いているということだ。それは俳優出身の大スターが、政治能力があるかないか、それは二の次である。


 要するに、被選挙人は政治的経済的な能力の関係なしに「お飾り的な存在」なのである。大衆に名の知れた、有名人であればよいのである。有名人の学力的かつ知力的な能力の不足分は、その下に控えている官僚が行うからだ。ここにデモクラシーと官僚の結びつく要素がある。俳優出身の大スターは無能でも、官僚の作った作文を議会で朗読すれば、それでよいのである。


 事実、芸能界やスポーツ界出身の国会議員や、府知事、県知事の中には、高校レベルの基礎解析は愚か、数学では基礎的な中学レベルの連立方程式や因数分解が出来ない議員も居るからである。この学力をもって、知力をもって、国際政治を論じ、経済学の複雑な高等数学の論理を有する経済を論ずるのである。議会制民主主義というのは、何とも奇妙な政治システムではないか。


 しかし、大衆は有名人の名前だけに眼を奪われている為、学力不足、知力不足の芸能人でも、議員候補の一人として投票してしまうのである。


 そして、デモクラシー下では、背後関係とし、て芸能界が間接的に、政界や財界に絶大な作用を及ぼして居る事である。


 この流行を日本に持ち込んだのが、アメリカのハリウッド映画であった。差し詰め、ロンドン生れのユダヤ系アメリカ人・チャップリンなどは、人間が神格化される、最初の人間であったであろう。何故なら彼は、映画『独裁者』で、ヒトラーを、彼の演技の持てる総(すべ)てを駆使して侮蔑(ぶべつ)し、徹底的にこき下ろしたからだ。


 大衆娯楽の殿堂、ハリウッドでは、ある意図をもった試みがなされ、大衆を誘導する。大衆は無自覚のまま誘導される。その誘導には一つの流脈によって、人工的に画策する企てが隠されている。しかし、日本人はこの事実に気付かない。


 アメリカ映画を見ると、必ず黒人の俳優が大活躍する場面が登場する。この傾向は、ハリウッド映画に非常に多く、時には、黒人が白人の優位に立って、物語を展開するストーリーが組み立てられている。日本人はこれを見て、アメリカは自由で平等な国だと思う。しかし、これは見せかけである。


 今日のアメリカ社会で、黒人【註】黒人であっても、白人らしく振舞う黒人は、黒人として扱われない。彼等は黒人であっても、「白人」なのである。日本人はこの区別がつかず、実際に虐げられている黒人の実像を知らない。そして黒人以下に扱われているのが、日本人などの、黄色い肌をした東洋系に有色人種である)やその他の有色人種が優遇されることは決してない。ないが故に、「映画」という虚構の世界の中で、平等に、同等に、同格に扱うという、まやかしが行われているのである。


  そして、ハリウッド映画では、世界的にユダヤ化を押し進める、ユダヤ系アメリカ人の映画監督のスティーヴン・スピルバーグと続く。彼の映画作品の多くは、「インディー・ジョーンズの冒険」などからも分かるように、ストーリーの中にナチス・ドイツを登場させ、それを徹底的に叩く場面が登場するからだ。


 子供達に人気のある、ディズニー・アニメも、この類(たぐい)だろう。ディズニー・アニメ『オズの魔法使い』は、その最たるものだった。


 また、一見反戦映画に思える、アンネ・フランクAnne Frank/1929~1945)をモデルにした『アンネの日記』である。この映画は、ナチスの迫害を逃れて、家族と共にオランダ・アムステルダムに隠れ住んだ1942年から、二年間の生活記録を題材にした『アンネの日記』である。


 多くの日本人は、『オズの魔法使い』と『アンネの日記』。更には、『ダーウィン進化論』が反ダーウィニストの宗教的偏向性が問題になっているか、全く知らない。


 若い親達は、こうした裏側のカラクリを知らないで、我が子に、この種の児童書を買い与えている。しかし、購入し、読み与えるならば、裏側の解釈を知った上で、その「種明かし」も、同時に聞かせるべきで、現代のアメリカの政治の裏では、キリスト教とユダヤ教の宗教戦争が起っている事も、合わせ以て、教えなければならない。


 デモクラシーとは、神が、神の座から転落し、それに代って、人間が神として崇(あが)められる政治システムなのだ。今日の日本人の意識の中に、「一億総芸能人」の感覚は、デモクラシーの持つ「エゴイズムの社会性」に由来している。そして、これこそ、進歩的文化人が指摘した、「一億総中流的な、エゴイズムの社会化の見落し」ではなかったか。


 人間は本来、利己的な生き物である。幾ら主義主張を力説しても、詰まる所は「金」である。そして「金」以上の、人間を幸福にするものは、未(いま)だに見つからないと心の中では思っている。多くの現代人は、金以外に自分の信ずる信念を貫く、意志力は存在しない。これは思想の左右に関係ないようだ。


 この、誰にでも見抜ける図式で、昭和35年(1960)10月12日の刺される、一秒前の浅沼を見た時、「何故刺されたか」という命題が、明確になるではないか。


 刺される前の浅沼は、「アメリカ帝国主義は日中の共通の敵」と断言していた。これは昭和30年3月の中国訪問の際に、中国訪問使節団団長として訪中し、毛沢東と会見して、革命の情熱を露(あらわ)にした時からだった。


 その一方、浅沼は労働組合のストにも駆け付け、特に北海道芦別では炭鉱スト支援に熱弁を揮(ふる)い、更には、安保改正に反対する社会党議員団の先頭を切って、無産主義を大々的にアピールした。


 しかし、無産運動ならびに日本革命は、その後、一度も成就されることがなかった。


 世界情勢は、日本叩きの方向に動いている。特に東南アジアでは、日本叩きが克明になり、朝鮮半島では、反日感情が激化している。今日でも朝鮮半島では、日本を未(いま)だに、「日帝」と呼び、日本国天皇を「日王」という呼び方する実情は、これを雄弁に物語っている。この反日感情は南北両国にもある。


 特に韓国の場合、この国の文化人達は、大統領自らが先頭になって、大学教授などの文化人も巻き込んで、天皇を侮辱する発言が多く目につく言動を発している。そして、韓国の国民を大衆誘導するのは、まさに日本の進歩的文化人の如し……である。それは、大衆が、まるでヌーの群れのように誘導され、煽動される媒体であるからだ。


 さて、浅沼が社会党で辣腕(らつわん)を奮って居た時の、60年安保闘争から十年前、朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発した。1950年6月25日のことであった。


 そしてこの頃、「日本にも、どうやら革命に時期が近付きつつあるのは間違いなさそうだ」という重大情報が流布されていた。


 この時、もし朝鮮戦争に対して、アメリカの参戦がなかったならば、この時に流されていた重大情報は、単なる架空の事ではなく、仮定から現実として、転化していったのではなかろうか。


 ソ連、中国、朝鮮半島、台湾、フィリピン、インドネシアなど総(すべ)ての国が、共産化していく中で、日本だけが孤塁(こるい)を守る事が出来たか否か、非常に疑問である。


 東南アジアは問わないとしても、朝鮮半島が金日成(キム‐イルソン)の軍隊により、全半島が統一されたならば、その後の極東アジアの事態は、今日とはおおよそ懸(か)け離れたものになっていたであろう。特に、日本の変貌は、今日に見るような、物質的・経済的な発展はあり得なかったであろう。


 当時のアメリカの選択肢は、東アジアに於いて、安易な共産化は認めないことを、選択したことだった。その為の朝鮮戦争の参戦であった。


 このプロセスに於いて、1950年のアメリカの朝鮮戦争参戦、更には、60年の安保条約は、「朝鮮戦争」「日米安保」がワンセットになったものであり、これにより、日本は60有余年以上にも亙(わた)る、平和と安定と繁栄を築く事が出来たのではなかったか。


 しかし当時、「朝鮮戦争」と「日米安保」が、ワンセットという世界観を持つ政治家は、日本には、そうざらには居なかった。


 むしろ、この点の理解の欠如が甚だしく、差し詰め、社会党の浅沼などは、その世界観の欠如した人物の、第一人者に挙げる事が出来るであろう。


 浅沼は、当時の国際情勢と日本の戦後史を正しく正視していなかった。この意味で、浅沼を「人間機関車」とか、「大衆と共に歩いた政治家」と持て囃(はや)し、その後の文化人や有識者が褒(ほ)めちぎっても、この事実を抜きにして、浅沼を軽々しく、「大衆と共に歩いた英雄」とするには、あまりにも片手落ちであろう。

 

●浅沼稲次郎の生い立ち

 浅沼は明治31年、東京三宅島のある小さな村落で生まれた。父の名は半次郎と言い、神着村の村長をしていた。この半次郎と、愛妾・浅岡よしとの間に生まれたのが、稲次郎だった。
 父半次郎は稲次郎の前途を考え、中学に入学する前、稲次郎とその姉を認知した。
 やがて稲次郎は、三宅島から明治44年上京し、府立三中に入学する。

 稲次郎は演説が好きだった。三中に入学した時の秋、彼は学校の雄弁大会に出演した。その時の模様を『私の履歴書』の中に、「みんなに煽(おだ)てられて出たが、すっかり上がってしまって、やたら甲高(かんだか)い声で喋り、わが生涯初の演説は、散々なものであった」と綴(つづ)っているが、本心は満更(まんざら)でもなく、これが弁論への第一歩であった。

 大正五年、同校を卒業して早稲田予科を受験しようとするが、父親に反対され、陸軍士官学校を二回、海軍兵学校を一回、受験するが何(いず)れも失敗した。
 その後、稲次郎の進路としては、早稲田大学への志望が募るばかりだった。
 大正七年、稲次郎は早稲田予科の編入試験に合格した。父親の了解を得ずに早稲田に進んだ為、仕送りが打ち切られ、彼は東京・馬喰町(ばくろちょう)で、友人の経営する文具店で働きながら大学へと通った。

 早稲田では、まず、相撲部とボート部に入部し、更には同校の雄弁会に入った。そして、そこで頭角を顕わしたのは、相撲やボートではなく、雄弁会での弁論であり、彼が政治に興味を抱いたのも、この頃であった。

 早稲田の「雄弁会」は、東大の「新人会」が発足したのに対抗したものだった。そして、早稲田では、高橋清吾(たかはし‐せいご)、北沢新次郎(きたざわ‐しんじろう)、大山郁夫(おおやま‐いくお)らの教授陣を中心に据え、「民人同盟」を結成した。
 特にこの中でも、兵庫県生れで、大正デモクラシーの指導者として名を馳(は)せた大山郁夫は有名だった。
 大山は戦前、熱狂的な社会主義者となり、労働農民党委員長を務めた。戦時下、日本を売り渡す買国奴的社会主義者としてアメリカへ亡命し、終戦後、日本の敗戦に乗じて悠々(ゆうゆう)と帰国した。戦後は革新票を取りまとめ、参議院議員や、平和擁護日本委員会会長を歴任した。

 「民人同盟」に参加した学生は、浅沼稲次郎の他に、三宅正一(みやけ‐かずまさ)、稲村隆一(いまむら‐りゅういち)、田所輝明(たどころ‐てるあき)らであった。しかし、「民人同盟」はやがて分裂の憂き目に遭(あ)い、浅沼は、次に北沢新次郎教授を中心とした「建設者同盟」を結成し、新たな政治運動を展開した。
 浅沼の性格は、理論派と言うより行動派であり、「理論を捏(こ)ね回す者は、革命を毒する者だ」と考えていた。

 そして浅沼の行動的性格は、大正11年、日本共産党に入党した。しかし、共産党の社会科学を論拠にした論理的な体質に嫌気が差し、脱党して、自らの行動的エネルギーを農民運動へと向けはじめる。
 浅沼は日本農民組合に参加し、千葉、新潟、秋田と各地を飛び回る組織者生活をする。
 また、鉱山労働運動は、浅沼が早大在学中から行っていた運動であり、既にオルグ的な地位にあって、足尾鉱山の争議を指導した。

 その先頭に立って、大ストライキを指導した浅沼であったが、この争議には、多くの犠牲者が出た。そして検挙され、懲役五ヵ月の実刑を於けた。この事件で、浅沼を弁護したのが、片山哲(かたやま‐てつ)、麻生久(あそう‐ひさし)、三輪寿壮(みわ‐じゅそう)らであった。

 大正14年(1925)、普通選挙が成立し、ようやく男子のみ、それが実現をみた。
 この頃から浅沼は、労働運動から政治運動へと転換した。
 翌年の3月、浅沼は日本初の単一無産政党である、「農民労働党」を結党・組織した。しかし、結党間もなく、左翼の残留派、中間的な日本労農党、右翼の社会民衆党、極右の日本農民党へと分裂した。

 無産政党は分裂と結合を繰り返し、浅沼はその中で日本労農党に止まり、その後、日本労農党は、日本大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党と変化して行く。その中で、浅沼は日労系の主流を歩いた。
 昭和8年、浅沼は東京都議会議員に当選する。また、昭和11年には、東京第四区から衆議院議員に打って出て、当選し、国政に携わるようになる。

 戦後における浅沼の活動は、無産政党系の諸派が連合して結成した社会民主主義政党での、接着剤的な存在だった。昭和22年(1947)5月、初代委員長・片山哲を首班として、連立内閣により、一時政局を担当した。しかし、僅か八ヵ月にして、同じ与党の予算委員長をしていた鈴木茂三郎(すずき‐もさぶろう)の造反(ぞうはん)にあい、連立政権は敢えなく潰(つい)える。

 その後、左派と右派の対立は激しく、日本社会党は、左右の対立に於いて、異なった二つの政策がある為、「二本社会党」と蔑称で揶揄(やゆ)されるようになった。そして、左派と右派の接着剤として、対立する度に駆り出されたのが浅沼であった。

 日本の敗戦により、戦前から戦時中にかけて獄舎に囚われていた、共産党指導者や無産主義者らは、次々に解放された。特に、日本共産党の創立に参画した徳田球一(とくだ‐きゅういち)らは得意満面の笑顔で裟婆の世界に復帰した。彼等は、日本の敗戦を手放しに喜んだ。

 一方、その他の革新陣営でも、日本の敗戦を利用して貪欲な動きを見せ始め、河上丈太郎(かわかみ‐じょうたろう)、松本治一郎(まつもと‐じいちろう)、西尾末広(にしお‐すえひろ)、平野力三(ひらの‐りきぞう)、水谷長三郎(みずたに‐ちょうざぶろう)、河野密(こうの‐みつ)らが、日本社会党結成の準備を始めていた。

 また、こうした西尾、水谷、平野といった旧社会民衆党系と、鈴木茂三郎(すずき‐もさぶろう)、加藤堪十(かとう‐かんじゅう)、黒田寿男(くろだ‐ひさお)といった旧労農系の連中がおり、彼等は旧社会民衆党系の出身者と、常に論争を繰り返し、意見が合わなかった。

 そうした中で、浅沼は黙々と沈黙を保ち、組織を充実させ、体裁を形作る事務方として党造りに邁進(まいしん)した。
 こうした地味な努力が認められ、昭和23年1月には西尾末広の後を受けて、書記長に就任した。
 その時の浅沼の評価は、「まあまあ居士(こじ)」であった。その後も、党内の左右の抗争激しく、昭和26年(1951)には、遂に分裂を招くが、昭和30年(1955)には再統一をする。

 また、「闘う社会党」を標榜(ひょうぼう)し、日本を東西に駆け巡り、やがて「人間機関車」の異名を取るようになった。行動派の浅沼は、昭和35年6月の安保改定に反対する社会党議員団の街頭デモでも先頭を切って行進した。

 浅沼は日本社会党右派の領袖(りょうしゅう)として活躍し、昭和35年3月24日、党大会に於いて、鈴木派の絶大な支持を得て、西尾末広の後を受け、遂に委員長に就任した。
 しかし、社会党右派は「労働貴族」と呼ばれた、労働組合を組織したり、加入を促したりする、特権的な組織者集団であり、その背後には莫大な金が動いていた。労組を組織票にして、この時、日本社会党は「野党第一党」を企てていたからである。




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