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今日ボクが見た風景

刺客の凶刃に斃れた浅沼稲次郎とポツダム宣言

Category: 政治  

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毎日新聞社カメラマン・長尾靖(ながお‐やすし)の撮った『浅沼稲次郎(あさぬま‐いねじろう)を刺殺する山口二矢』(あるいは「浅沼委員長暗殺」とも)というのがある。
 この写真は、浅沼稲次郎社会党委員長を襲う山口二矢(やまぐち‐おとや)が、刃渡り34cmの脇指で、浅沼委員長を刺殺する瞬間を捉えた衝撃的なものである。

 浅沼委員長は、昭和35年(1960)10月12日、三党首大演説会の日比谷公会堂での演説中、演壇に駆け上がった十七歳の右翼少年の凶刃(きょうじん)に斃(たお)れた。この模様を捉(とら)えた衝撃的瞬間の写真は、即座に通信社を介して、全世界に報道された。

 凶刃に斃れた浅沼は、脇指で左胸部を二箇所刺された。そして直ぐさま、近くの日比谷病院にパトカーで担ぎ込まれたが、既に死亡しており、同日の午後3時40分、死亡と認定された。
 刺されて、死ぬまでの時間は、僅かに15分前後であったと推定される。
 この衝撃的瞬間を捉えた長尾カメラマンの写真は、当時の大特ダネとなり、1961年度の、報道部門関係者に送られる「ピュリッツアー賞」に輝いた。

 ピュリッツアー賞の創立者は、かつて新聞事業で巨額な財を築きあげた、ハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人ジョセフ・ピュリッツアー(1847~1911) が創立したものである。
 この賞は、1917年以後毎年、アメリカ合衆国のマスメディアを通じて、その年、最も優れた仕事をしたジャーナリストや作家らに贈られる賞である。

 新聞事業で巨大な財を築き上げたジョセフ・ピュリッツアーは、十九世紀末のニューヨークを舞台に、新聞王ハーストWilliam Randolph Hearst/アメリカの新聞王と呼ばれた。1903~07年下院議員となり、また二十余の新聞および多数の雑誌や放送局や通信社などを経営した。1863~1951と派手に売上を競いあった人物である。

 一方、ジョセフ・ピュリッツアーの紙面造りは、最初、愚劣と評され、然(しか)も、あまりにも煽情的な紙面づくりは、イエロー・ジャーナリズムとまで称され、悪評が高かった。
 しかし晩年、ジョセフ・ピュリッツアーはコロンビア大学新聞学科の開設に寄附金を提供し、報道の質の向上を考え、その努力に精進して、彼の死後、遺言をもとに、同大学内に表彰の為の選定委員会が設けられた。

 その表彰分野は、報道が8部門、文学が5部門、音楽が1部門の計14部門からなり、日本人の受賞者としては、60年安保当時の、浅沼委員長暗殺の瞬間を撮った、毎日新聞社カメラマン・長尾靖の『浅沼稲次郎を刺殺する山口二矢』が最初だった。
 また、それほど報道部門の中でも、非常に衝撃の大きかった写真であると言えよう。

 浅沼刺殺事件が起った時、筆者は小学校四年生であった。
 学校帰りに、いつものように通いの模型屋に立ち寄った時、その模型屋のオヤジが、ラジオ放送を聴いていて、そこに筆者も居合わせたのである。
 模型屋のオヤジは興奮気味に、筆者に何かを喚(わめ)いていた。最初は何を云っているか分からなかったが、同じ事を子供にも分かりやすいように語ってくれて、「社会党の某代議士」が刺されたことをあげ、そのオヤジ曰(いわ)く、興奮気味に「早く帰って、お父さんか、お母さんに知らせなさい」だった。
 その時は、直ぐにはピンとこなかったが、翌日、新聞の第一面に、事件の写真が大写しで掲載されたのを見て、子供ながらに、表現できない震(ふる)えるような衝撃と戦慄(せんりつ)を感じたものである。
 爾来(じらい)、筆者の頭の中には、この衝撃映像が、生涯こびりついて離れないのである。

 

●浅沼稲次郎刺殺事件の全貌

 昭和35年10月12日、東京・日比谷公会堂で、「三党首大演説会」が行われた。ここに参加した党首は、演説順に、第一番手の演説者・民主社会党の西尾末広(にしお‐すえひろ)。第二番手の演説者・日本社会党の淺沼稲次郎。第三番手の演説者・自由民主党の池田勇人(いけだ‐はやと)だった。

 この三党首大演説会は、三党首の立会演説会でNHKテレビ(ラジオでも放送)で、一部始終を放映する予定になっていた。
 そして事件が次のようにして起った。

 まず、一番手の演説者の西尾末広民社党委員長の演説が終り、二番手に社会党の浅沼稲次郎が壇上に上がった。
 会場の一部には、右翼団体の一団が占拠していて、一番手の演説者である西尾にヤジを飛ばしていたが、二番手の浅沼が壇上に上がると、ヤジは一層激しくなり、場内は騒然(そうぜん)となった。また、右翼団体の中には、壇上に飛び上がって、ビラを撒(ま)く者まで顕(あら)われる始末だった。

 浅沼が現れた時、あまりにもヤジと罵声が激しくなり、NHK司会者は、浅沼に演説の中断を促し、前列の記者席ですら、話が聞こえないからと、会場内の静粛(せいしゅく)を呼び掛けた。それでも激しい罵声(ばせい)は収まらず、事件は、浅沼が再び演説を開始した時に起った。

 浅沼が演説を開始した直後、山口二矢は、舞台に向かって右側から駆け上り、更に、演壇に駆け上がって、短刀を構えて、一回、二回と体当たりし、遂に二回目の体当たりで刺殺する。
 この時の衝撃の、ピュリッツアー賞に輝いた長尾カメラマンの写真は、二回目の体当たりの瞬間を捉えたもので、浅沼はその直後、凶刃に斃(たお)れた。

 しかし、これは一瞬の出来事であり、その攻撃力の速さは、周囲の凡夫(ぼんぷ)を唖然(あぜん)とさせる行動であった。周囲の者は、いったい舞台で、いま何が起ったのか把握できないでいた。そして二回目の体当たりを遂げた直後に、少年は周囲の警備者から取り押さえられた。
 斃れた浅沼は、近くの日比谷病院に、パトカーで運ばれたが、既に車中で死亡していた。

 浅沼の略歴を簡単に紹介すると、昭和30年(1955)から35年にかけて、社会党書記長を務め、35年3月から委員長に就任した経歴を持っている。
 また、前年3月の中国訪問の際には、中国訪問使節団団長として訪中し、毛沢東と会見し、その後、革命の情熱を露(あらわ)にした。浅沼が訪中した時、中国人民は熱狂的な歓迎を行った。そして、中国革命の偉大な指導者と称される毛沢東や周恩来と会見し、浅沼はこの時、彼等二人と固い握手をしている





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毛沢東を握手をする浅沼稲次郎(『昭和史』11・研秀出版より)




浅沼は当時、毛沢東と握手を交わした事により、心の底から、革命の情熱が沸々(ふつふつ)と湧いて来たと言う。彼の描いた革命の夢は、忽(たちま)ち膨れ上がり、「そうだ、中国にはおれの求めていた革命がある。おれはいつの間にか、その革命の夢をみずからの心の扉の奥に閉じ込めてしまっていた」と反芻(はんすう)し、また浅沼は、分厚くて武骨な毛沢東の手を握り締めながら、自分の血潮が興奮しているのを感じたとも言う。


 この時、浅沼のプランに「日本革命」の焔(ほのお)が燃え上がったのかも知れない。

 また訪中時、浅沼は人民公会堂に於いて、使節団の一致した考えとして、自らの太い万年筆で書き上げた、原稿の一文を携えて壇上に上がった。そしてついに、「アメリカ帝国主義は日中の共同の敵である」と、野太いガラガラ声を発して発表した。それは熱血漢の闘志を顕すものだった。


 人民公会堂に入っていた約3000人の中国人民聴衆(恐らく選ばれた、毛沢東に近い特権階級であろうが)は、浅沼の一文の、この箇所に万雷(ばんらい)の拍手を送り、浅沼はこれに酔い痴(し)れた。その時浅沼は、アメリカこそ、悪の帝国主義の権化(ごんげ)で、日本は中国と共に、アメリカ帝国主義と戦わねばならないと確信したと言う。


 中国人民3000の聴衆を前にして、「これこそ、おれの求めていた革命の道だ。おれは中国と手を結び、アメリカ帝国主義と闘わねばならぬ」と、心に強く決意を新たにし、その余韻を残したまま日本に帰国する。また、羽田空港に降りた時は、紅い星の中共帽を被っていた。それほど中国に入れ上げての帰国だった。


 「アメリカ帝国主義は日中の共同の敵である」。こう確信した時、浅沼の運命は定まった。人民公会堂以来の演説が、その後の人生を決定していたと言える。」


 昭和34年(1959)9月、日本社会党は離党者が続出した。
 西尾派が離党し、社会党は二分裂して、翌35年19601月には、西尾末広を委員長とする民主社会党が結成した。 また、西尾は戦後、日本社会党の結成に参画し、芦田内閣(芦田均)の副総理となるが、昭電事件【註】第二次大戦後、昭和電工株式会社が復興金融金庫の融資を受けるため、多額の金品を政治家に渡し、政界・財界人の多数が、贈収賄容疑で逮捕・告訴された事件である。世に言う「昭電疑獄」であるで逮捕されて辞任した経歴を持っていた。


 そのまま社会党に居残った浅沼は、同年の3月、臨時党大会で、委員長の座を巡り、日労系の河上丈太郎(かわかみ‐じょうたろう)とその座を争い、鈴木茂三郎(すずき‐もさぶろう)の後押しで委員長に推され、日本社会党の委員長に就任した。その後、安保闘争の先頭に立って采配(さいはい)を揮(ふる)い、「人間機関車」と彼の行動ぶりは異名された。


 当時は60年安保闘争の真っ只中にあった。安保闘争に於いて、全学連主流派と警官隊が衝突して、このデモに参加していた東大生の樺美智子(かんば‐みちこ)が圧死した。この事件が、浅沼を一層強烈な革命へと駆り立てた。


 また、この樺美智子の圧死事故について、東大の茅(かや)総長は、「学生も悪いが、政治も悪い」と、当時、安保改定に動いた池田首相と、松田文相を激しく批難した。浅沼はこれに同調し、更に革命への決意を露(あらわ)にする。


 そして、この頃より右翼の動きが活発になる。
 それは「アメリカ帝国主義は日中の共同の敵である」とした、浅沼発言からであった。この頃から、浅沼は右翼に付け狙われることになる。これが起因して、昭和35年10月12日、三党首大演説会の日比谷公会堂で、右翼少年の山口二矢の凶刃に斃(たお)れるのである。


 浅沼の革命の夢は、一人の刺客の凶刃によって打ち砕かれ、爾来(じらい)、日本社会党は浅沼と云うシンボルを失い、迷走と混迷から抜けだせないまま、1994年、自民・社会が連立して村山富市(むらやま‐とみいち)委員長を首班とする内閣を組織し、更には、1996年、社会民主党と改称して今日に至る。もうこの時、野党第一党の座から、この組織は滑り落ちていた。

 

●浅沼稲次郎が属した社会党右派

 当時の時代背景について、検証してみよう。
 時代は高度成長の真っ只中で、自民党総裁が岸信介から池田勇人に代わり(昭和35年7月14日付)、池田新首相の「所得倍増計画」により、高度経済成長政策を推進した頃だった。


 この時代、皇太子御成婚(昭和34年4月10日)以来、テレビの購買率が上がり、この頃から映画に成り変わり、テレビと言う新たな映像文化が花開く事になる。
 そして国会中継なども、盛んにテレビで放映されるようになった。


 当時、政界は自由民主党が単独で政権の座につき、社会党は野党第一党の地位を占めていた。社会党の内部構成は自民党と酷似(こくじ)しており、右派と左派の派閥に分かれていた。派閥問題に於いては、自民党の政権を巡る派閥抗争と好一対であり、左派と右派は、社会党の表裏一体の関係にあった。


 自民党は戦後からの最長記録で、その後、28年間も単独政権を維持し、人事、集金力、政策は徹底していた。こうした中で、国民の不満が派生すると、自民党内では各々の派閥が、二次元に応じて、これを受け止め、派閥自体が国民の不満を柔らげるクッション代りになっていた。


 こうした自民党の類似した形で、社会党は野党第一党の座を占め、社会党内にも、自民党と同じ原理が働いていた。この原理が働くエネルギーの出所は、「政権を握る自民党」Vs「野党第一党の社会党」の図式が、自民党の派閥に対抗した社会党の派閥であり、これこそ、社会党が長らく野党第一党に君臨した原動力だった。それがれまた、極めて安定的な社会党の状況を作り出した。


 国民の要求や利益は、利益誘導の為に作用と反作用の形から、一方で作用が働けば、反対側で反作用が起るという「綱引き」構造に酷似する。


 要求や利益に不満を持つ、国民側の不満層は、権力側に立つ自民党の各派閥が、要求や利益において、自民党内の派閥で受け皿にならない場合、その不満層は社会党右派に流れた。例えば、全国タクシー組合や都道府県のタクシー組合などが、これであった。


 社会党右派は、こうした不満層を巧みに取り込み、不満層を吸収する派閥構造を持つことになる。この実体が、労働組合を取り込んだ形の「社会党右派」だった。


 社会党が、反権力体制の第一党であり続ける構造内には、様々な顔が必要であり、それが党内派閥であった。この時の社会党の派閥効能は、権力側と反権力側という「相互一党支配」であった。


 この支配体制を確立する為には、労働組合の構造からも分かるように、党内から共産主義者を一掃した存在でなければならなかった。社会党の主義主張は、共産党と一線を画(かく)していた。


 一般に労働組合と言えば、赤旗の波を思い泛(う)かべ、共産主義者や社会主義者の集団を連想する。ところが労働組合と、こうした思想は、全く関係がない。


 この集団そのものは無思想であり、共産党排斥に躍起になる体質がある。表面の顔としては、社会主義を標榜(ひょうぼう)しているが、戦後における労働組合運動は、近代的な労働組合リーダーのその殆どが、「反共」を第一のスローガンに掲げ、運動員は殆どが無思想であり、また権力指向の権化のようなものであった。


 一般的に見て労働組合は、本来、民主的な団体の組織であると言うイメージが強いが、その上層部は紛(まぎ)れもなく階級差が存在し、進歩的な民主団体の内部にこそ、階級差と、身分的な差別が蔓延(はび)こっていた。


 これは、今日の会社管理構造とは異質な特権をもって、「命令する側」と「命令される側」に分かれている。常に支配階級と被支配階級の構造がある。そして、この構造こそ、労働者に名を借りた権力の権化(ごんげ)だった。


 この構造は、かって70年代、全共闘が猛威を振るい、日本中が革命の嵐で吹き荒れた時、現場でデモる末端分子の学生や労働者と、それをひと握りのエリートで構成した支配層の頭脳が、末端の学生や労働者に命令を下す、あの構造と酷似する。


 こうした構造は、組織である以上、必ず、階級差と身分的な差別が存在するものである。労働組合と雖(いえど)も、例外ではなかった。そして、労働組合では、共産主義者の一掃が、何よりも重大であった。その後の組織の運営に、大きな影響を与えたからである。


 その意味で、社会党左派は、右派主脳にとって、まさに党運営上の元凶であった。右派は、左派に対し、「そんなに左が好きなら、脱党して共産党員になれ!」という言葉まで飛び出したと言う。


 では何故、右派は左派を嫌うのか。


 例えば、労組などの書記に採用される時、両親、兄弟・姉妹、および親戚、従兄弟・従姉妹などに共産党員が居ないか、学生時代に過激派学生分派に所属したり、極左的な思想の持ち主が居ないかと言う事を調査された挙げ句、誓約を誓わされて「念書」を一筆とられる。署名捺印した念書と、異なった事実が明るみに出た場合、「如何なる処分を受けても構わない」という条項があり、この禁に触れるようになっている。これが法的に拘束力が有るか無いかは別にしても、である。


 では、労働組合としての体質とは、いったい如何なるものか。


 日本の労働組合は、アメリカの労組によく似た部分がある。
 しかし、アメリカの労組幹部は、年俸で働く。例えば、年俸数十万ドルなどで労組と契約し、運動を指導する組織者(オルグ)が決定される。年俸数十万ドルという金額は、日本では大企業の重役並みの年俸に匹敵する。


 また、アメリカの労組は、企業を横断する産業別組合で、当初から、個々の産業利害を超えている為、労組幹部や役員は、職業的な労働組合運動家が中心になって組織者(オルグ)となり、運動を展開し、指導する。この点が、日本とは異なっている。


 そして、年俸で働く以上、労働条件や賃上げに関して、資本家側から、いったい幾ら引き出したかという実績だけが評価され、労働者側への獲得金額により、委員長としての報酬が支払われる。


 この点は、日本の場合と異なっているが、「連合」【註】日本には二つある。総評・同盟などの労働四団体の枠を越えた「全日本民間労働組合連合会」と、官公労組が加わり発足したナショナル・センターの「日本労働組合総連合会」)にしても、一方にナショナル・センターがあり、これが全国的な司令塔になって、中央組織を牛耳っている。


 また、下部組織としての個々の単位組合と、単位組合間の連合体である、単一産業労組があり、ナショナル・センターは企業内組合の連合体として存在している。つまり、会社別の労働組合ではなく、ナショナル・センター自体が、幹部や役員の個人的な野望に利用される「権力の場」にもなっているのである。


 日本の場合は、労組幹部や役員になる必須条件は、選出母体となる企業を持って居る事である。鉄鋼労連や、かつての旧国鉄の国労や動労などが、これである。


 日本の労組は、階級的にはアメリカと異なり、縦割り構造である。組合リーダーは、まず会社の労働組合から、同一業企業の連合体の役員に選出される。そして選ばれた役員は、ナショナル・センターと言う中央組織の役員に選出される形になっており、日本中に組織されている末端の組合組織から上がって来るのであるが、この構造はヒエラルキー的権力構造と同じものである。


 したがって、官公労組のナショナル・センターから、執行委員や常任執行委員を経て、労組を踏み台にして、政界に打って出る野望を持つ者も出て来る。


 また、こうした野望を持つ者は、一種のカリスマ者でなければならない。


 日本の国内には、何十万という単位の労組が存在し、その労働者の多くは、現実問題として連合幹部や役員の権力に縛られる。また執行部は、カリスマ的な人材が必要になり、このような人物に支配される事実がある。


 宗教で言えば、教祖としてのカリスマ性である。創価学会で言えば、池田大作名誉会長が、これであろう。


 そこで役員選出の際、投票が行われる。民主主義下では、一見、民主的に運営されているから、極めて当たり前であるが、日本の場合、この投票は共産圏諸国と同様、秘密投票が認められていない場合が多い。自由主義国家では、基本的な条件としてその選挙制度は、「秘密投票の自由」である。つまり、秘密投票の原則は、「誰を選ぶか」あるいは「誰を選んだか」、こうしたことは一切不問に付(ふ)され、その後明らかにされることはない。


 ところが、日本の労組リーダー選出する場合は、秘密投票を認めていない団体や組織が多い。秘密投票を保証すれば、ひと握りの役員の、特権的な独裁体制が敷けないからである。


 これは社会党も共産党も、秘密投票は絶対に認めないことに酷似する。つまり労働組合であっても、あるいは革新政党であっても同じ事である。もし秘密投票を認めれば、思い通りの独裁支配が出来ないからだ。


 選挙のタテマエは、自由立候補者が選挙される側に立ち、事実上は信任投票である。
 つまり投票は、被選出役員またはその長に対する、「信任」「不信任」を問う投票となる。
 昭和35年当時の社会党も共産党も、また労働組合リーダーまでが、信任するか否かを決するについて、こうした投票が実施された。


 特に、組合に於いては、秘密投票を認めなかった労組が多い。投票箱に投函する席上で、組合役員が立ち会う。誰が、誰を投票したか、記載の際に確認される。こうした監視の許(もと)で、組合員は記入させられる。一方、白紙投票すれば、忽(たちま)ち露見する仕組みになっていた。そして、徹底的に吊るし上げられる。


 この選挙形式は、旧ソビエトの党大会での役員選出の投票のようなもので、一党独裁に不満のある投票者は、シベリア送りになるか、粛清(せいしゅく)の対象になる、あのお決まりのコースである。対立分子を生命ごと、徹底的に排除する。つまり、この世から消してしまうのである。


 本来、民主主義下での選択権は「棄権する」か、「白紙投票する」かの、何(いず)れかも認められなければならない。ところが、こうした投票を行うと、徹底的に吊し上げを喰(く)う労組もあった。また、今日でも、口では民主主義と標榜(ひょうぼう)しながら、実際はこうした事をしている左翼政党もある。


 では、何故ここまでするのか。


 カリスマ的なリーダーが登場する、その支配体制は、独裁的かつ長期支配が重要課題となる。これこそが日本人的な談合的体質であり、また、日本では、労働組合の共産党色の排除の力も働く。


 労使と言わず、日本人全体が、社会的に強調し、一丸となって、国家の繁栄に協力するという考えに立った時、まず、共産党は必要ではない。元社会党委員長の西尾末広が、社会党右派から脱党して、1960年、民主社会党を結成したように、共産党色を強めていたのでは、国家の繁栄はあり得ないからだ。これこそ、資本家どもに一致する考えである。


 口では、革命を唱える社会党も、この考えに近かった。総じて、日和見主義的であったと言えるだろう。


 こうして社会党は、右派を組合組織者に当て、タテマエは民主的な労組指導であり、ホンネは進歩的な団体を装いながらも、階級差と身分的な差別が表面化しつつあった。


 当然ここには、特権や決定権をもって、命令する側と、ただ、上の命令に随(したが)い、奉仕を要求される側とに分かれ、末端分子は蔑視されるという関係は、どうにも救いようがなかった。末端は、ひと握りのエリートに徹底的に奉仕させられた。


 そして、当時の社会党右派が、まさにこれであった。

 

極東占領軍G・H・Qが共産主義者や社会主義者を奨励した理由

 1945年12月、日本の占領は極東委員会が設けられ、日本は「モスクワ協定」の基本政策に帰順することになる。
 「モスクワ協定」とは、敗戦後、東京に設置された対日理事会で、その政策を制定・勧告し、実施に当たらせた極東委員会が、日本の労働組合について定めた「十六原則」(1946.12制定)からなる。その主なものだけを拾ってみよう。


 第一条、モスクワ協定の目的をもって組合造ることを奨励する。平和的かつ民主的な日本を建設する為に、労働組合を団体として参加せしめ、労働組合としての利益の追求を遂行する。


 第二条、以上の目的を果たす為に、これを妨害する法律ならびに規定を直ちに廃止する。


 第六条、政治活動に加わり、また、政党を支持することを組合は許される。


 第八条、日本国政府は、出来るだけ組合の役員が海外の労働組合の情報を手に入れるよう、極力援助すべきこと。


 第十一条、警察ならびに政府のその他の機関が、労働組合のストライキ行動をスパイし、正しい組合活動を阻害することは絶対に許されない。


 第十三条、組合活動を妨げ、また、妨げる措置をとった日本政府は、その他の機関を廃止し、更にはその権限を捨てること。


  第十五条、労働組合ならびに、その他の組織についての活動、または危険思想(無政府主義者や共産主義者、あるいは社会主義者)をもって捕らえられた人物は速やかに総て釈放するべし。


 こうしたアメリカ政府の意向ならびに占領軍の意図を反映させて、日本に民主主義というイデオロギーを樹立させ、その対抗勢力として、アメリカは左翼ならびに労働組合運動を奨励し、その権利と活動を保障したのである。
 つまり、日本国内に、米ソ東西冷戦のミニチュア構造を確立させ、日本人の左右両陣営が争い、意図的に対立させて、漁夫の利を得る構造を作り上げたのである。


 戦後の日本史は、屈辱の歴史であった。しかし多くの日本人の屈辱の自覚症状はなかった。特に日本社会党と労働組合は、無自覚のまま、水面下で起こりうる実際問題には、眼も向けようとしなかった。


 終戦の1945年8月から、サンフランシスコ講和条約提携の1951年9月4日までの七年間、日本人はアメリカのフリーメーソン国家が何をしたか、全く気付かなかった。また、この間、日本政府もその実態を隠し、マスコミもこれに調子を合わせ、反対意見だけを発表し、日本国民に真相を知らせることは殆どなかった。


 そして、『朝日新聞』が左よりに傾きはじめ一貫して日本の国家と、天皇を蔑ろにしたのはこの頃からであった


 さて、ポツダム宣言はご承知のように、1945年7月26日、ポツダムにおいて、アメリカ合衆国、中華民国、イギリスならびに、後にソ連が参加した、日本に対して発した共同宣言である。この共同宣言は、戦争終結、日本の降伏条件と戦後の対日処理方針とを定めたものである。


 その主旨は、軍国主義的指導勢力の除去、戦争犯罪人の厳罰、連合国による占領、日本領土の局限、日本の徹底的民主化などを規定した。これに対し、日本は、はじめこれを無視したが、広島長崎の原子爆弾の投下、更にはソ連の参戦により、同年8月14日に受諾し、太平洋戦争がこれにより終結し、日本は事実上大敗北した。


 そして、その後の日本は「ポツダム宣言」に規定された、日本の戦後政策を見れば、どういう意図を持ったものか、明白となる。


第一条、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート、ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ


第二条、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ聯合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ


第三条、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スベシ


第四条、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ


第五条、吾等ノ条件ハ左ノ如シ吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ


 ここには、「われわれの条件は次の通りであり、これに係(かかわ)る条件は存在しない」とある。

 一種の傲慢である。


第六条、吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得     ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ


第七条、右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ

第八条、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


第九条、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ


第十条、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ


第十一条、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ


第十二条、前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ


第十三条、吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス


(1945年7月26日)



 ポツダム宣言の内容を吟味すると、第七条は、「日本の領域の中の諸地点は、ポツダム宣言に示す基本的目的を成し遂げる保障の為に占領される」とある。
 また、「日本の戦争をする能力が完全に打ち砕かれたか確証があるまでは、この基本的な目的を達成する為 に、われわれは日本を占領する」とある。


 ポツダム宣言第八条には、「カイロ宣言に盛られた条項は行われ、日本の主権は四島および、われわれの決定する幾つかの小島に限られる」とあり、国土割譲があることを示唆している。


 ポツダム宣言第十条には、「日本人民の間の民主的傾向を取り戻し、それを強める為に妨害する障害は総て取り除かなければならない。われわれは日本人を、民族としての奴隷にし、また、国民としての日本人を滅ぼす意志はないが、戦争を指導した総ての戦争犯罪人には厳しい処罰を加える。


 日本政府は、日本人民の間の民主的傾向を取り戻し、それを妨げるものは総て取り除き、言論・宗教・思想の自由、および基本的人権の尊重を確立しなければならない」とある。


 ポツダム宣言第十一条には、「これらの諸項目が果たされた場合、占領軍は直ちに撤退する。また戦争の為に、再軍備に使えるような産業は許さない」とある。


 ポツダム宣言第十二条には、「前に述べた目的が果たされ、日本人民が自由に表した意志によって平和的な傾向を保ち、責任の持てる政府が出来れば、占領軍は速やかに日本より撤兵する」とある。


 日本はポツダム宣言の意思により、戦後直ちに幣原喜重郎内閣が組閣し、その後のサンフランシスコ講和条約までの吉田茂内閣が誕生した。しかし、「ポツダム宣言第十二条」にあるように、占領軍の日本からの撤兵は、未(いま)だに成されていない


 アメリカ駐留軍に差し出された日本国内の施設や区域は、約600あまりにのぼり、そのうちの約300程は、いまもなお無期限の米軍基地となっている。これは戦後半世紀以上を超えながら、未だに約束が守られず、日本人にとっては、最たる屈辱(くつじょく)ではあるまいか。




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