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台湾の親日には歴史的なワケがある

Category: 台湾  

WHOで「中国台湾省」の名称、中国「われわれの善意だ」

2011/05/11

世界保健機関(WHO)が加盟国に対して、台湾の名称を「中国台湾省」とするように求めていたことが分かり、台湾で反発が高まった件について、中国政府の報道官は「台湾側は冷静になってほしい」、「WHOの総会にオブザーバーとして出席できるようになったのも、中国大陸側の善意だ」と述べた。

  台湾の野党、民進党が9日、「WHOが2010年9月、加盟国に対して台湾の名称として『中国台湾省』を使うよう、内部文書で伝えた」ことを明らかにした。台湾の外交部(外務省)はただちに「わが方の主権をないがしろにした」と抗議。これまで大陸側との協調路線を示してきた馬英九総統も「中国大陸側がWHOに圧力をかけた」などと反発した。

  中国政府で台湾関連を担当する国務院台湾弁公室の範麗青報道官は11日の記者会見で、「台湾側は冷静になってほしい」と述べ、「国際社会と国際組織がこの問題で、どのような立場であり、どのような見方をしているかは、だれもが知っているはずだ」と主張した。

  範報道官によると、最近になり、大陸と台湾の関係が改善し、WHOの総会も台湾の関係者をオブザーバーの資格で招待するようになったのも、中国大陸側の善意のあらわれだ」と主張した。

  台湾の名称問題でWHOに圧力をかけたかどうかについて、直接の回答はなかった。(編集担当:如月隼人)




最も友好的な国は日本、非友好的は「中国大陸」―台湾アンケ

中国大陸のインターネットメディア「環球網」は14日、台湾で6月に行われた、学生を対象とする「最も友好的な国と地域・最も非友好的な国と地域」に対するアンケートの結果を伝えた。「最も友好的」に選ばれたのは日本、「最も非友好的」に選ばれたのは中国大陸だった。

  アンケートは、台湾の財団法人「金車教育基金会」が主催した。複数回答可で選ぶ方式で、最も友好的な国(地域)として選ばれたのは、上位から日本(44.4%)、米国(41.6%)、台湾(中華民国)と国交のあるアフリカ諸国(39.4%)だった。日本が「最も友好的な国」の首位になったのは3回目。

  最も非友好的な国(地域)とした回答が最多だったのは、中国大陸で82.9%だった。第2・3位の韓国(33.3%)、米国(29.7%)と比べても、中国大陸を選んだ回答者が極めて多かった。

  台湾にとって経済面で重要な国として選ばれたのは米国(84.0%)、中国大陸(78.7%)、日本(75.7%%)の順だった。(編集担当:如月隼人)





裏づけちゃった?―台湾アンケ「大陸は非友好的」で大罵声

台湾の財団法人「金車教育基金会」が6月、大学生を対象に「最も友好的な国と地域・最も非友好的な国と地域」を複数回答で選ぶアンケートを実施した。最も友好的な国に選ばれたのは「日本」で、回答者の44.4%が選択。最も非友好的な国(地域)に選ばれたのは「中国大陸」(82.9%)だった。同ニュースを伝えた中国大陸のインターネットメディア「環球網」のコメント欄には、台湾に対する「罵声」が殺到した。

  書き込み欄には「台湾の雑種野郎め。こんな“賊”は見たことない」、「ゴミめ。クソでも食っていろ」、「歴史を忘れ、先祖を忘れる犬ども」、「台湾野郎は友好ということを分かっていない。大災難に遭遇した時、お前らを救えるのは中国しかない。ばか者め」など、口汚い言葉が並んだ。

  インターネットの書き込み欄に極端な意見が並ぶのは今回だけではなく、中国だけに見られる現象でもないが、台湾で回答者の多くが「中国大陸は最も非友好的」「最も友好的なのは日本」との見方を示したことに、中国大陸のユーザーは衝撃を受けたとみられる。ちなみに、「非友好的」の第2位は韓国だったが、選んだ回答者は33.3%と、中国大陸の半分以下の数字だった。

  中国大陸で「台湾人罵倒」の書き込みが殺到したことで、台湾側の「中国大陸は非友好的」との見方を、図らずも裏づける結果になった。(編集担当:如月隼人)






【中国ブログ】台湾の親日には歴史的なワケがある


日本に対し「何日君再来」と感じる台湾人

  中国人ブロガー「耗子的窩(ハンドルネーム)」はこのほど、自らのページに「何日君再来―台湾親日情節的根源(何日君再来―台湾親日感情の根源)」と題する文章を発表した(写真)。台湾では対日感情がかなり良好だ。一方、中国大陸では台湾の親日感情を「媚日」とする批判が強い。「耗子的窩」さんは、日本の台湾統治は中国で伝えられているように「残虐な抑圧」に満ちていたものではなく、住民のために尽くした日本人がいたことが、台湾にある親日感の「歴史的理由」と主張した。長大な文章なので、複数回に分けて紹介する。

  タイトル中にある「何日君再来(いつの日に、君、ふたたび来る)」は、1937年に上海で製作された映画『三星伴月』の挿入歌。発表直後から大ヒットし、現在でも歌い継がれている。日中戦争期、日本占領下の北平(現・北京)で、民衆が蒋介石が日本軍を追い払い、再び北京に戻ることを願う「抵抗歌」として歌ったとの記録がある。

  しかし「耗子的窩」さんは、多くの台湾人の親日感を表わすために、「何日君再来」の言葉を使った。

住民に尽くした台湾統治の日本警察

  日本は日清戦争の賠償の一部としての清朝から台湾の割譲を受けた。当初は抗日運動が盛んだったが、1902年ごろまでに、ほぼ治まった。

  「耗子的窩」さんは全文を通じて、筆者は日本の台湾統治には見事な面が多かったと主張した。まず、大陸では多くの人が日本統治下の台湾は、極端な「警察国家」体制だったと思っているが「誤解だ」と指摘。日本がまず派遣したのは憲兵3400人と警察官3000人だったという。

  その後の人口増で計1万人程度に増員されたが、「こんなに少ない警察力で、台湾では『落し物を着服する人もなく、夜も家に施錠の必要がない』ほど治安がよくなり、しかも社会は急速に現代化した」、「この事実に、われわれが学ぶ点は実に多い」と主張した。

  清朝時代の中国には衙役と呼ばれる現代の警察官に相当する役職があったが、住民保護などを根本的な目的とする現在の警察とはほど遠い存在だった。「治安維持」や「犯罪取り締まり」も支配層のためだったので、庶民にとっては「抑圧の道具」にしか過ぎなかった。しかも、私服を肥やそうと住民に金品などを要求することが日常茶飯事だった。

  「耗子的窩」さんは「日本の警察官は、正反対だった。厳しい試験を通じて採用し、山間部や離島で勤務する場合には、住民の医療問題も手がけた」と紹介した。

ペスト患者を守り、殉職した日本人警官

  台湾で、日本の統治に最後まで抵抗したのは、当時、「高砂族」と呼ばれた先住民だった。1920年代になっても「霧社事件」などが発生し、山間部で勤務する警察官は危険にさらされていた。いつ「首狩り」の対象になるかも分からなかった。筆者は、それでも奥地に赴任し、住民のために尽力した日本人警察官の例を挙げた。

  武冨栄蔵がタイヤル族(台湾先住民のひとつ)の集落に赴任したのは1914年。現地ではペストが流行した。武冨は私財を投じて隔離・治療施設を作った。現地が猛烈な嵐に嵐に襲われた時、不安になり帰宅を求める収容者に「今、外に出たら、かえって危ない。私は拝命して任に当たる日本の警察官だ。住民保護は放棄しない。どうしても帰るなら、私を殺してからにしろ」などと説得を続けながら、嵐の中で破損した屋根などを修理した。

  嵐が去った後も武冨は収容者の手当てを続けたが、自らもペストに感染して死亡した。

  武冨栄蔵は現地で「神」とされた。廟が立てられて参拝の対象になった。(続く)



**********

◆解説◆
  上記ブログページの記載によると、筆者は1984年生まれの女性。出身は上海市で、現在も上海在住。勤務先は政府・軍・公共サービス関係という。

  本文では、日本統治下の台湾について相当に詳しい記述が目立つ。この後に続く部分でも、中国で取り上げられることが多い「日本の残酷な統治」については触れなかった。筆者は、「台湾には日本支配への抵抗があった一面で、志願兵もいた」、「長期にわたり抑圧された面もあったが、日本に対する反感を呼び起こす目的で歴史の暗い面だけを取り上げるわけにはいかない」と主張した。

  「耗子的窩」さんはこれまでに、南京事件についても「死者30万人はありえない」、「日本では左翼系の学者が中国人研究者と協力して研究を進める動きがある。論戦には根拠が必要と考えるからだ。ところが、中国では30万という数字を前提にして論を進めるだけ」「数字は必ず増え続ける」、「中華人民共和国成立100周年には、犠牲者100万人と発表されているかもしれない」などと、厳しく批判した。同文章は、中国国内で猛反発を受けた。

  「耗子的窩」さんのブログに対しては「こんなこと、ネットで発表しちゃ危ないよ」などの意見書き込みもある。(編集担当:如月隼人)




台湾人のために尽くした日本人は、まだいる

  「耗子的窩(ハンドルネーム)」さんが、自らのページで発表した「何日君再来―台湾親日情節的根源(何日君再来―台湾親日感情の根源)」の第2回。日本の台湾統治は中国で伝えられているように「残虐な抑圧」に満ちていたものではなく、住民のために尽くした日本人がいたことが、台湾にある親日感の「歴史的理由」と主張した。長大な文章なので、複数回に分けて紹介する。

  1895年から始まった日本の統治時代、台湾人のために尽くした日本人のエピソードは、まだ続く。「耗子的窩」さんが次に紹介したのは、台湾志願兵2000人の命を救った日本人の話だ。

自らは自決し、2000人の台湾人志願兵を救う

  広枝音右衛門は1905年生まれ。1943年に日本海軍巡査隊隊長になり、台湾人志願兵2000人を率いて、フィリピンのルソン島に赴任した。米軍の猛攻を受けたフィリピンの日本軍司令部は将兵に手榴弾を配り、玉砕を求めていた。広枝は命令に背き、米軍と交渉して投降すれば危害を加えないことを確認した上で、配下の台湾志願兵に、「台湾人は戦争とは本来無関係だ。ここで死ぬな。責任は日本人である私が負う」と言い、自決した。台湾志願兵2000人は米軍捕虜となった。

  戦後、国民党による統治が始まった台湾では、長期にわたる戒厳が敷かれ、戦前の日本との関係を語ることは難しかった。戒厳がやや緩和された1986年、広枝の元部下は広枝夫人に、音右衛門自決の地の土を送った。

総督府の課税に抗議して自殺した日本人

  森川清治朗は警察官として台湾に赴任。読み書きできる人もほとんどいない、貧しい村だった。森川は私費で教師を招き、学校を開設した。その後、台湾総督府は徴税の厳格化を進めた。たばこや塩、樟脳(しょうのう)の専売化を進め、小規模な漁業にも課税した。

  貧しい村には負担が大きすぎる。森川は行政府に免税を嘆願した。しかし、行政長官は課税に反対する村人を扇動する行為として森川を処罰。森川は抗議の遺書を残し、自殺した。1903年のことだった。

  「耗子的窩」さんはその他、日本軍の戦闘機パイロットの杉浦茂峰中尉のエピソードも紹介。1944年10月12日に米軍機迎撃のため空戦を行ったが機体に被弾。機を捨て上空から落下傘降下すれば助かったはずだが、自機を滑空させ村落の密集地帯への墜落を避けた。海に墜落して戦死したという。

  以上の逸話に登場した日本人を、現地住民は神として崇め、霊廟も作った。森川の場合には、死後20年たった1923年に現地で脳膜炎が流行した際、地域を管理する地位にあった李九の夢に警察官の姿であらわれ、「排水溝を清掃せよ。飲み水の衛生に注意せよ」と告げたとのエピソードもあるという。

  「耗子的窩」さんは台湾における日本人の行為を紹介するエピソードの次の部分で、「仲間」と「相手」を区別する基準として民族の概念が導入されたのは、人類の歴史では比較的新しいことだと主張。日本統治時代に台湾の庶民には存在しなかったと主張した。(続く)

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◆解説◆
  「耗子的窩」さんが紹介した日本人の逸話は、おおむね台湾人評論家の黄文雄氏の著作にもとづくと思われる。中国大陸で黄文雄氏は、中国侮辱を繰り返す台湾独立派として、「媚日忘祖」などと厳しく批判されている。

  「耗子的窩」さんのブログには、いわゆる「南京大虐殺」についても、中国公式発表の犠牲者30万人は「捏造(ねつぞう)」と論じるなど、中国では極めて珍しい主張が多い。

  なお、操縦が困難になっても民家などへの墜落を最後まで回避した旧日本軍パイロットの逸話は、台湾だけでなく日本国内にもある。グライダーにも似た滑空は、主翼の大きさに比べ機体全体が軽い(低翼面荷重)、当時の日本軍機ならではの技だった。もちろん、死に直面して住民保護を優先して行動するために、高い使命感と精神力、技術力の裏づけが必要であることは、言うまでもない。(編集担当:如月隼人)




「耗子的窩(ハンドルネーム)」さんが、自らのページで発表した「何日君再来―台湾親日情節的根源(何日君再来―台湾親日感情の根源)」の第3回。第2回までに紹介した「台湾のために尽くした日本人のエピソード」に続き、今回は最終回として日本統治下の台湾を「支配民族・被支配民族」の対立構図で理解するのはおかしいと主張した部分などを紹介する。

支配民族・被支配民族の対立構図は本当か

  「耗子的窩」さんはまず、日本統治下の台湾で、「支配民族に対する被支配民族の抵抗」の構図があったとする考えに反論。そもそも、民族という概念は、新しく人工的に作られたものと主張した。「以前は陝西の黄土地方を耕す農民が、万里の彼方にある台湾人に対して、同胞意識をもつことがあっただろうか」として、日本統治下の台湾住民が、民族意識に燃えて反抗したという、中国での一般的な見方を否定した。

  同胞(民族)意識については「生まれながらにあるものではなく、綿密で精細な教育の過程で生み出されるものだ。日本が台湾を統治していた時代、現地の農民や漁民が大陸の住民に対して強い同胞意識を持たなかったのは、理の当然だ」として、台湾で民族意識による抗日が発生したとの歴史観を退けた。

  また、中国政府は早い時期から「中華の美しい自然の主人はだれだろう。それは、われわれ4億の同胞だ」などと教育したが、「中国人としての意識などなかったからこそ、教育した」、「もともと存在したのは、宗族、皇帝崇拝、郷土意識だけだった。だからこそ、マスコミも動員して民族意識を形成しようとした」と論じた。

台湾籍の旧日本軍志願兵の問題

  さらに、「台湾には、日本の支配に抵抗した島民の記憶もある。一方では、日本軍に自ら志願した人々の記憶もある」として、台湾で抑圧されてきた台湾籍日本兵の問題に触れた。長い期間にわたり、「歴史の暗黒部分」として封印されてきたという。

  台湾で台湾籍日本兵の問題を議論できるようになったのは、戒厳が解かれてからだ。そして、日本による統治が終わってから大陸から来た外省人も、日本兵になったことを責める必要はないことを、おおむね受け入れた。それまでは、戦死者に参拝しようと思ったら、台湾での人目を避けて、東京の靖国神社まで行く必要があった。現在は、島内の新竹にある済化宮に参拝することができる。


  「耗子的窩」さんは、「非難する人もいない。大きな進歩と言えるだろう」と評価した。

過去の歴史を一面的な見方で切り捨ててはいけない

  「耗子的窩」さんによると、過去の事実を一面的な価値観で単純に割り切ることは、根本的に間違えている。「歴史というものは、(多様な)個人史の積み重ねから出発する。そうでないと、なぜ『同胞と外部』の違いが人により異なるか、永遠に理解できないだろう。台湾人の日本に対する感情は、極めて複雑だ。『同胞と外部』の線引きは、単純な一直線では不可能だ」と主張した。

  また、「台湾では外省人を除き、日本統治時代をすごした福建系、客家系、先住民族の人々に、今でも(日本統治時代を懐かしく思い)『何日君再来(いつの日に、君ふたたび来る)」』を歌い続けている人がいる」、「日本の軍人や警察官を神とした廟で、ぬかづく人もいる。過去の日本人を崇拝する民衆の記憶は、今も存在する」と結論づけ、大陸で一般的に言われているように、日本統治下の台湾が「支配民族と被支配民族の対立」という構図だけでは理解できないことを、改めて強調した。

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◆解説◆

  本連載が始まってから、「耗子的窩」さんは自らのブログページに日本統治下の台湾についての評論が日本で紹介されたと報告した。「私は日本人ではないかという人もいるが、違う」と述べ、「私は中国人です。ただし、大学時代に日本に行き、交流活動をしたことがあります」、「日本語は、ほとんどできません」、「文献や、香港、台湾、マカオ(澳門)の友人と接触する機会があり、中国大陸では主流ではない考えを持つようになりました」などと記した。

  本連載では、「耗子的窩」さんが紹介したエピソードが「おおむね台湾人評論家の黄文雄氏の著作にもとづくと思われる」と紹介したが、「耗子的窩」さんによると、「台湾人から聞いた話と、別の資料を見たもの」と記した。黄文雄氏の著作については「私にとって有益かもしれない。読んでみたい」という。

  日本を訪れた際には、コスプレ・グループにも参加して楽しんだという。ブログのトップページに掲載しているのは、当時、撮影したものと紹介した(写真)。

  「耗子的窩」さんによると、日本における歴史研究は中国よりもはるかに進んでいる。史料の扱いでは、「(中国人として)冷や汗が出るほど厳格だ」という。

  また、「日本の歴史教師の多くは左翼系だ」と主張。しかし、「(その主張は別にしても)歴史に反省点を求める姿勢は敬服できる」と論じた。

  「耗子的窩」さんは別の文章で、「南京大虐殺の犠牲者は30万人」とする中国側の主張に対して、「日本では左翼系の学者が中国人研究者と協力して研究を進める動きがある。論戦には根拠が必要と考えるからだ。ところが、中国では30万という数字を前提にして論を進めるだけ」「数字は必ず増え続ける」などと、自らの正しさを一方的に強調する中国の歴史研究を厳しく批判したことがある。(編集担当:如月隼人)




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