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今日ボクが見た風景

NHKの大罪【台湾】JAPANデビュー アジアの一等国【台湾】2

Category: 報道  



――台湾領有から三年後、一人の官僚が台湾に着任し、統治の改革に乗り出します。総督府ナンバー2の民生局長、後藤新平です。後藤は、台湾全土の調査を行います。臣民と位置付けられた台湾人の実態を、把握するためでした。
台湾には漢民族の他に、パイワン族をはじめ、14の先住民族が暮らしています。先住民族が暮らす山間の地域は、樟脳の産地に近いことから、治安の安定が一際重要でした。後藤は、先住民族の村々に自ら足を運びます。そして、日本からは、人類学者や法律の専門家が入り調査をします。台湾総督府文書の中に、先住民族の調査報告書が残されています。

国史館台湾文献館研究員・陳文添:
「(字幕)これは当時、台東地域で生活していた先住民族です。顔の入れ墨や使用していた武器もきめ細かく描かれています。この民族には首狩りの習慣がありました」

――後藤が語った言葉があります。

「ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。台湾人を日本人に変えることは難しい」

――風習や文化が異なる台湾人を、臣民として日本人と同じ法律で統治していくことは、困難であると判断します。後藤は、台湾のみに適用される法律、特別法を駆使していきます。先ず手を着けたのは、住民の抵抗運動を抑えることでした。後藤が考え出した条令、匪徒刑罰令です。日本内地ではあり得ない厳しいものでした。略奪、殺傷のみならず、建物や標識、田畑を破壊した者は死刑。未遂であっても同罪とする。総督府警察が、匪徒、犯罪者と見倣せば、たとえ未遂でも死刑に処せられました。

――匪徒刑罰令によって死刑になった台湾の人々です。条令施行後の五年間で、三千人に達しました。日本統治への抵抗を根絶させるため、後藤は台湾人の協力者を取り込んでいきます。柯(か)徳三さん、87歳。柯さんの祖父は、日本の統治に協力した一人でした。祖父・秋潔さんです。一家は中国福建省から移り住んで来た漢民族でした。秋潔さんは逸早く日本語を学び、日本の統治下で生きていく決意をします。

柯徳三(日本語で語る):
「金の無い貧乏の農民として、私たちの祖先ですね。渡って来たその祖先達はね、この土地で経営して、田畑を植えて生活しているのに、いまさら大陸に戻ったら何も出来ない。びた一文無い。だから結局、帰れない」

――地区のまとめ役だった秋潔さんは、住民を監視し総督府に報告する役割を担わされました。後藤は、秋潔さんのような人物を組織化していきました。

柯徳三(日本語で語る):
「あの住んでいる住民達をね、一人でも漏らさないようにコントロール出来る訳だ」

NHKスタッフの声:「周りの人達からどう思われていたんですかね?」

「周りの人達は恐らく、僕ら少年の時は、ああいうこと、分かりません。大人になってから後で考えたらね、恐らくあんたは、日本人の走狗(手先)だ、日本人の人に使われとった奴隷だ、そういう考え方やっとったかもしれませんね、ああ」

――後藤は、日本人児童が通う小学校とは別に、台湾人児童が通う公学校を開設、統治に必要な日本語の初等教育を始めます。柯秋潔さんは、公学校の日本語教師も務めます。日本の統治に協力してきた秋潔さんは、息子の文徳さんを、日本人が通う小学校に入学させます。それまでの功績から、通学が認められると考えたのです。しかし、このことが総督府で大問題となります。台湾総督府文書に、小学校校長の報告書が残されていました。

「台湾人子弟在席の事件、柯文徳という台湾人が、学校内にいることを発見しました。
誠に恐縮なことでありまして、直ちに退学を命じました」

――後藤は全ての学校に通達を出します。

「台湾人の児童と日本人の児童は教育の目的が異なる。こうした規則が徹底されなければ、統治の目的は永久に達せられない」

――退学させられた、柯文徳さんは、徳三さんの父親です。

柯徳三(日本語で語る):
「もしこれを許せば、総督府がこれを許せば、小学校にどんどん台湾人が入るかもしらんと恐れたんでしょ、つまり、化外の民である台湾人を日本語教育するために、公学校というのをこしらえたんだから、おまえらしゃべることに事欠かず、普通の生活に事欠かない程度の日本語を覚えればそれでいいんだ、そういうつもりなんでしょ」

――後藤は、統治の基礎を固めながら、台湾の宝である樟脳産業の立て直しに着手します。生産現場を管理し、労働者への指導を徹底します。

元樟脳工場労働者・許雲集(91):
「(字幕)一カ所でクスノキを切り終わったら、すぐ別の場所で働けと命じられました」

★キールンの風景

――樟脳貿易の拠点となった港、キールン(基隆)。後藤は、自ら陣頭指揮を執り、小さな入り江だったキールンを、大型船が入れる港に作り替えました。南北400キロを結ぶ縦貫鉄道を建設、樟脳の輸送ルートを確保しました。
総督府は、樟脳の販売を独占します。後藤が赴任した二年後には、樟脳の事業は赤字を解消、現在の価値で、年間およそ100億円の収入を上げるようになります。
「台湾十年間の進歩」、後藤の時代に台湾総督府が出版した欧米向けのパンフレットです。そこでは、台湾が金のなる島になったことをアピールしています。台湾を急速に発展させた日本には、一等国の資格があることを強調したのです。イギリスの商社にとって、台湾の樟脳は重要な貿易商品でした。後藤の改革により、樟脳が安定的に供給されるようになったことを、イギリスは歓迎します。

「日本の政策によって我が国にも多大な利益がもたらされることになる。今後半世紀にわたり台湾の樟脳は、世界中に供給されるであらう」

――台湾領有から15年後の1910年。日本は、統治の成果を世界に示す絶好の機会を得ます。ロンドンで開かれた日英博覧会。日本とイギリスの友好関係を祝う催しでした。近代国家として坂を駆け上ってきたジャパン。会場では日本の産業や文化が幅広く紹介されました。訪れた観客はおよそ800万人。特に人気を集めたコーナーがありました。台湾の先住民族、パイワン族。日本は、会場内にパイワンの人々の家を作り、その暮らしぶりを見せ物としたのです。

――日英博覧会のガイドブックです。そこでは、台湾の人々が、客の前で戦いの踊りをし、戦闘の真似事をすると記されています。当時、イギリスやフランスは、博覧会で植民地の人々を盛んに見せ物にしていました。人を展示する、人間動物園と呼ばれました。日本はそれを真似たのです。

フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール:
「当時、西洋列強には、文明化の使命という考え方がありました。植民地の人間は野蛮な劣った人間であり、ヨーロッパの人々は彼らを文明化させる良いことをしている、と信じていました。それを宣伝する場が、人間動物園だったという訳です。この時代、日本もまた、世界には民族の違いに基づいて、階層があると考えるようになりました。そして、自分達は階層の頂点にあり、その下にアジアの他民族がいる、そうした世界観がハッキリと根付いていったのです」

★台湾南部、高士村の風景

――台湾南部、高士村。パイワン族が暮らす村です。およそ100年前、日英博覧会に連れて行かれたのは、この村の出身者でした。

――博覧会の会場で売られていたパイワンの人々の写真です。裏には、高士村から来た、と記されていました。展示された青年の息子、許進貴(85)さん。そして娘の高許月(79)さんです。父親の名は、チャバイバイ・プリャルヤン。チャバイバイさんは生前、博覧会のことについて子供達に語ることはありませんでした。

高許月:
「(字幕)悲しいね。この出来事の重さ語りきれない」

その横から声(日本語):
「悲しいね、語りきれないそうだ。悲しい、この重さね、話しきれないそうだ」

語り・礒野佑子:
――ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。後藤新平は、独自の法律で抵抗運動を抑え、樟脳産業を立て直しました。日本は、台湾統治の成功を誇示し、世界に一等国入りをアピールしました。その後の台湾統治を象徴する一枚の写真。「台北第一中学校の生徒達」。台湾人に日本の文化を叩き込み、民族性まで奪っていった歴史が秘められています。



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