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【日米開戦 70年目の検証】

Category: 歴史  

和平の光遮る三国同盟 昭和16年初頭、蘇峰演説


「日本が東亜新秩序建設途上に横たわる一大障害はアングロサクソンである」

 日本の運命を決めた昭和16(1941)年が明けたばかりの1月5日。言論界の長老、徳富蘇峰がラジオを通じ国民に演説した。

 「米国は日本が積極的に進んでいけば、無論衝突する。しかしぼんやりしていても、米国とは衝突する」と訴え、「私どもは日本の運命を信じて、一大躍進を遂げねばなりませぬ」と締めくくった。

 盧溝橋事件に端を発した支那事変(日中戦争)は、「1カ月くらいで片づける」という軍部の想定から大きく外れ、4年目に突入、泥沼の様相を呈していた。

 蒋介石率いる中国国民政府を援助する米との関係は悪化の一途。日本が資源獲得と援蒋ルートの断絶を狙い15年9月、北部フランス領インドシナ(仏印)に進駐すると、米国は時を置かず屑(くず)鉄、鉄鋼の輸出禁止を決定した。経済封鎖を強化させていく米国に対し、国民の反感は日を追うごとに高まっていた。



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昭和13(1938)年の中国戦線、麦畑のなか徐州に進軍する日本軍兵士



時を同じくして、前年9月以降英仏と開戦していた独伊との間で米国を仮想敵国とした三国同盟も成立し、駐日大使グルーは「今や東西の2つの戦争は区別できないものとなった」と反発した。だが高まる緊張とは裏腹に政府は開戦回避を「至上命令」として外交を展開した。米国の生産力は鋼材で11倍、石油で500倍以上。国力の圧倒的な差は明らかだった。外相の松岡洋右の狙いは三国同盟をソ連を加えた4国の提携に発展させることで米国を牽制(けんせい)し、交渉を優位に進めることにあった。

 一方、民間ルートでの対米交渉も開始。15年11月、神父のウォルシュとドラウトが来日した。駐米財務官だった井川忠雄を通じ、松岡や陸軍省軍務局長の武藤章と相次いで会談、日米交渉の端緒を開いた。

 「圧力と対話」で開戦回避をもくろむ日本。だが、その思惑をよそに世界情勢は移ろい始める。ルーマニアなどの勢力範囲をめぐり、ドイツとソ連は15(40)年11月の首脳会談を経て関係が悪化した。ドイツのヒトラーは「対英戦の終結前においても、ソ連を打倒する準備にあたらねばならない」として、同盟国の日本への通告なしに対ソ戦準備を指令した。対米強硬戦略は根本から瓦解しようとしていた。

 米国も国務長官ハルが「ナチと日本との協同は頑固な逃れぬ事実」と述べ、三国同盟を契機に対日姿勢を硬化させた。グルーは12月、「日本は公然とまた恥じることなく侵略国の一部となり、米国がよって立つあらゆるものを破壊せんとする組織の一部になった」と本国に報告した。

 そして2月。ヒトラーが「独ソ関係は何時悪化するか分からない、将来ソ連を敵とする場合もあるやも知れず」と駐独大使の来栖三郎に伝えた数日後、日米交渉の窓口役として駐米大使の野村吉三郎がワシントンに着任した。暗雲垂れ込める中、本格的に日米交渉が幕を開けようとしていた。



                  ◇

 ≪if≫

 ■独ソ開戦で三国同盟から離脱していたら

 昭和16年6月22日、300万のドイツ軍がソ連に侵攻を開始。4月に日ソ中立条約を結んだばかりで、日独伊三国同盟と合わせ対米圧力を強めていた日本に、大きな衝撃が走った。

 この時点で取り得た選択肢の一つが、三国同盟からの離脱である。対米政策を転換して日米交渉を加速させ、欧州戦線への不介入と日中戦争の早期収拾に舵(かじ)を切ることができた。ドイツがソ連との不可侵条約を破るという情勢の変化に伴うもので、国際的非難を浴びることもない。

 実際に、企画院総裁の鈴木貞一らの進言を受け、首相の近衛は陸相の東条らに「脱退すべし」の意見を伝えている。しかし、本格的議論に発展することはなく、代わりに軍部から台頭したのは対ソ参戦の「北進論」と、北方の脅威減退に乗じ南方の資源獲得を目指す「南進論」だった。結局は目前の対ソ戦を避けるため、「多少代償的な意味」(近衛)で、南進論が選択され、米国との決裂を決定づける南部フランス領インドシナ進駐に向かう。

 近衛は後に、内大臣・木戸にこう漏らした。「独ソ開戦の時に、三国同盟を解消してしまえばよかったな」-。

                   ◇

 ■主な参考文献 「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」(防衛庁防衛研修所戦史室著、朝雲新聞社)▽「陸海軍年表」(同戦史部著、同)▽「日米関係史 開戦に至る十年」(細谷千博ほか編、東京大学出版会)▽「日米開戦への道」(大杉一雄著、講談社学術文庫)など。



■皇紀2600年 鬱憤晴らし 式典熱狂

 昭和15(1940)年の元旦、ラジオが奈良の橿原(かしはら)神宮での初詣を生中継し、連合艦隊の「皇礼砲」で「皇紀2600年」が幕を開けた。

 「日本書紀」の記載からこの年が神武(じんむ)天皇の橿原神宮の即位から2600年に当たるとされた。政府は10年から準備に当たったが、この間、予定していた東京五輪や万国博覧会も中止になった上、12年に支那事変も勃発し、国民の不満鬱憤を晴らす催しにする必要があった。

 政府の思惑をよそに国民は熱狂した。人々は高千穂や伊勢神宮など天皇ゆかりの観光地に大挙押し寄せ、朝鮮や満州の日清、日露戦争の激戦地を訪れた。

 最高潮は皇居前広場での式典に始まった11月10日から14日までの5日間。「祝へ!元気に朗らかに」のポスターが張られ、全国各地でちょうちん行列や旗行列、みこしや山車(だし)が繰り出された。東京では花電車が走り、昼酒も許された。

 「窮民(きゅうみん)の暴動を起さんことを恐れしが為(ため)にて、来春に至らば政府の専横(せんおう)いよいよ甚だしくなるべし」。永井荷風は日記に記したが、喝破できたのはごく一部に過ぎず、国民は異様な盛り上がりを見せた。

 15日にはポスターが変わった。「祝ひは終つた さあ働かう!」。踊らせる政府が悪いのか、踊る国民が悪いのか。国民一体化のまま16年に突入した。



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皇紀2600年記念の祝賀行列で東京・銀座に繰り出された山車


                  ◇

 ≪昭和16年4月、日ソ中立条約調印≫

 ■「諒解案は悪意七分善意三分」

 昭和16年4月13日。1カ月余りに及んだ訪欧を終え、モスクワ近郊のヤロスラブリ駅で列車の出発を待っていた外相、松岡洋右(ようすけ)にサプライズが用意されていた。近づいてきたのはソ連最高指導者、スターリン。賓客を見送るのは前代未聞で、2人はロシア式の熊のような抱擁を交わした。

 --我々(われわれ)は両国民族を新しい友好の道に向かわせた

 シベリア鉄道の車中からソ連側に電報を打ち、松岡は電撃締結された日ソ中立条約の余韻に浸る。

 わずか1週間の交渉で締結した背景には東欧の勢力範囲をめぐり衝突が続いてきた独ソ関係の悪化がある。松岡がベルリンでヒトラーとの会談を4月4日に終え、7日にモスクワ入りするまでの間、ソ連はユーゴスラビアと不可侵条約を締結、ドイツは対抗しユーゴに進駐を開始する。日ソ中立条約締結はソ連が軍を西方に集中でき、後に「クレムリン(ソ連)が漁夫の利を得る巧妙の芸当」と評される。独ソの思惑をよそに条約締結で松岡は外交問題を一挙に片づける大構想の実現に近づいたと上機嫌だった。


 --日独伊三国同盟にソ連を加えた4国の連携で、米国を威嚇した上でルーズベルトに斡旋(あっせん)を依頼し、松岡・蒋介石会談を実現。満州国承認と支那撤兵で中国問題に決着をつけ、日米、日中不可侵条約を結ぶ。

 スターリン宛ての電報には「生涯における最も幸せな瞬間」ともあったが、松岡に独ソ開戦の現実が突きつけられるのは、2カ月後の話だ。

                   ◇

 国内でも事態は急変する。帰国前4月18日に開かれた政府統帥部連絡会議で、陸相、東条英機ら軍部を含む出席者が「大変なはしゃぎ方」(富田賢治内閣書記官長)で喜び、「まれに見る和やかな空気」(大橋忠一外務次官)に包まれた。それはこの日、駐米大使、野村吉三郎から届いた日米開戦を避ける「日米諒解(りょうかい)案」にあった。日米通商関係の復帰、満州国の承認、蒋政権への和平勧告-。諒解案には中国撤退と引き換えに待望の字句が並べられていた。「政府の意見をまとめるのに好都合だろう」と、カトリック神父らの民間試案が米国政府案であるかのように改変された事情は伝えられず松岡の帰国次第、「オーケー プリンシパル(原則賛成)」の返電を送ることで出席者の意見は一致した。

                   ◇

 しかし東京に帰着後、松岡は途端に不機嫌になった。日米諒解案は米国を標的にした三国同盟の実質無効化が含まれ、威嚇牽制(けんせい)で対米交渉を進める松岡構想と相反する。帰着当日の22日夜。酩酊(めいてい)して連絡会議に出席した松岡は機嫌を損ねないように立川飛行場(東京)に出迎えた首相、近衛文麿に「本提案は米国の悪意七分善意三分」と言い放ち、「2週間くらいは熟考しなければ所見を述べるわけにいかぬ」と席を立った。



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昭和16年4月13日、日ソ中立条約に調印する松岡洋右外相。右端がスターリン、

その左がモロトフ人民委員会議議長=写真はいずれも「昭和」(講談社)


外相不在の二重外交。怒り心頭の松岡はその言葉通り、面会を断絶する。「送った魚ですが、至急料理しないと腐敗するおそれがあります。召し上がった感想を一日千秋の思いで待っております」。米国に滞在している交渉陣の懇願も松岡には届かない。空費される日々が続く。政府と軍部、松岡の日米開戦回避という思いは同じだが、半月前の高揚感が急速にしぼんでいった。

                   ◇

 ≪if≫

 ■“幻の東京五輪”が開催されていたら

 「前畑わずかにリード、前畑がんばれ、日本前畑がんばれ、あっ前畑リード、勝った勝った勝った」。日本中が興奮した女子水泳200メートル平泳ぎ、前畑秀子が日本人女性初の金メダルを獲得した昭和11(1936)年のベルリン五輪。その4年後の開催地は皇紀2600年を迎える東京だった。

 招致活動が本格化したのは昭和5年で、イタリア首相、ムッソリーニの協力を得て11年7月の票決でヘルシンキに競り勝ち、アジア初の開催が決まった。

 独伊だけでなく英米の支持も獲得した東京大会。実現すれば、欧米のスターと日本選手の対決を国民が目の当たりにする初めての機会となり、英米に対する悪感情が緩和され、外国人観光客受け入れや外国語教育を通し、国際社会に理解が深まったに違いない。後に開戦の契機となる南部仏印進駐に強く反対する外相、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)らの国際協調外交路線が存在感を高めたかもしれない。

 しかし、12年7月に支那事変が勃発し、「中国の公平な出場機会が失われる」と各国から東京開催への反対論が噴出する。鋼材、木材の流通も制限され事態は窮まり、近衛内閣は14年7月、開催中止を決定した。


日本中が熱狂する「平和の祭典」。その実現には、それから四半世紀の歳月を要する。

                   ◇

 ■時代の流れ

 昭和14(1939)年9月の第二次世界大戦勃発後、欧州を席巻したドイツだったが、対英戦線は停滞。米国も英国を支援する武器貸与法を成立(41年3月)させ攻勢を強めるなか、独は東方の対ソ戦準備を進める。一方、日中戦争の解決を図る日本と、参戦までに一定の猶予を求める米国は、日米交渉のたたき台となる「日米諒解案」を作成していた。

                   ◇


国民の本音 やり場ない不満、キブンの時代



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昭和16年6月、東京・四谷の配給所。「タマゴ少々入荷に付き配給」などの表示がある 

=いずれも「明治100年の歴史 大正昭和編」(講談社)



統制経済による物資不足と4年目に突入した日中戦争で、国民は疲弊し、やり場のない不満が募っていた。

 一方で、明治以後、一般国民にも「武士道とは死ぬことと見つけたり」の精神が深く根付き、特に軍部が国の主導権を握ってからは「死中に活を求める」という考え方が浸透していた。

 さらに日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)と相次いで勝利し、安易な「日本不敗神話」の認識が一般的で、開戦を急ぐ声が国民からも上がり、それを背景に軍部が推し進める構図になっていた。

 現代からは考えられないが、日本の国自体が幕末から他国との衝突で成長、国民が「戦争慣れ」していたこともある。

 このため、12月8日の真珠湾攻撃では国民は今後の不安よりも、緒戦大勝の報に「ついにやったか」と欣喜雀躍(きんきじゃくやく)し、国民の閉塞感を打ち破った。この雰囲気は子供にいたるまで同様で、後先を考えない現代に通じる「キブンの時代」だった。



「仮想敵国の実情」把握できず


太平洋に戦火のくすぶりもない大正時代の話である。海軍兵学校卒業生は練習艦隊での遠洋航海の際、米シアトルに寄港。歓迎式典の後、だれからともなく、散歩をするふりをしながら歩数でドックの大きさを測った。「いつかこの国と戦争をする」という若き思い込みがそうさせた。

 仮想敵国が正式に米国とロシアになったのは「帝国国防方針」と「帝国軍用兵綱領」が定められた明治40(1907)年。海軍にとって米国は実際の敵ではなく、目標とする敵にすぎなかったが、以来、海軍は米国海軍を研究し続けた。陸軍の仮想敵国はロシアだった。

 しかし、日本は米国海軍を研究していたが、米国という仮想敵国を把握していただろうか。

                ☆ ★ ☆

 昭和16年1月6日の年頭教書で、米大統領ルーズベルトはドイツと交戦中の英国に対する物資援助継続を発表。さらに独裁者の恐喝にひるむことはないとして、言論と表現の自由、すべての個人がそれぞれの方法で神を礼拝する自由、欠乏からの自由、そして恐怖からの自由の「4つの自由」の確保を誓った。これは欧州を席巻していたドイツを指していた。

 それ以前、ルーズベルトは「非戦」を公約に掲げ、前年11月に異例の3選を果たす。選挙戦大詰めの9月には「われわれは外国の戦争に参加しない。攻撃された場合を除き、米国領以外の土地で戦うため、軍隊を派遣することはない」と演説した。米大統領が最大の選挙公約を反故(ほご)にし、戦争を仕掛けることが可能だっただろうか。

 米国の民主主義を理解していれば容易に想像できるが、当時の日本では英国や中国支援の軍需産業増産を「戦争準備を始めた」ととらえた。これは日本の外交が時として過ちを犯す「相手国を日本と同質とみなす」ことにあったのではないだろうか。昭和初期の国民が選挙公約を理解することは難しいが、政府や軍の中枢は知る必要があったのではないだろうか。


               ☆ ★ ☆

 ルーズベルトは参戦したくて、日本に無理難題を押し付け、やむなく開戦に踏み切ったという意見がある。だが、日本が参戦の大義名分を与えなければ、選挙公約と世論がある米国からは戦争を仕掛けることができなかったのも事実である。その結果、多大な犠牲者を出すことになり、挑発に乗る必要はなかった。

 同時に米国も日本を把握していなかった。日本は中国戦線で疲弊しており、どんな厳しい要求でものむだろうという認識しかなかった。「日本は米国とことを構えるリスクを冒さずに、マレーやシンガポール、蘭印に手を出すことができる」とルーズベルトは語り、日本参戦に懐疑的だった。

                ☆ ★ ☆

 同じことが現代にもいえる。昨年9月の尖閣衝突事件で、当時の仙谷由人官房長官が船長以外の船員と漁船を中国に戻す際、「14人と船がお帰りになれば、違った状況が開けてくるのではないか」と述べ、軟化を予想した。しかし、逆に中国が強硬姿勢を強めたため、今度は「随分変わってきていると認識していたが、あまりお変わりになっていなかった」と話す始末だった。

 この対応は中国と領土問題を抱えるベトナムなどの東南アジア諸国を失望させ、日本の権威を失墜させた。さらに11月にはロシアのメドベージェフ大統領が北方領土の国後島を訪問した。

 中国政府、中国人を理解していなかったことで、日本が中国よりも格下であると世界にさらしてしまった。政府中枢が仮想敵国の実情を把握できていないのが、いまの日本の外交である。歴史の分岐点から何も学んでいないのではないだろうか。



国民の本音 隣組登場 閉塞感一段と


昭和15年9月。内務省は「部落会町内会等整備要領」を都道府県に通達した。市町村行政の下請け機関として約10世帯からなる「隣組」が組織された。隣組は江戸時代の「五人組」の流れをくみ、当初はお互いに助け合う親睦共済団体だったが、出征兵士の見送りや遺族の面倒に加え、「配給」の割り当ての役目を受け持ち、様相が一変する。

 同年発行の「婦人倶楽部12月号」の座談会で、東京・杉並の組長が道路清掃の出席率が悪かったことを取り上げ、「そこで配給の切符にはんこを押してあげることにしたんです」と話し、出席率が飛躍的に向上したとある。隣組が個人生活の領域まで拘束するようになり、17年には全国で133万以上が組織された。

 16年4月には、6大都市でコメの配給も始まった。経済統制の締め付けにより闇価格が暴騰、横流しや闇売買が横行した。

 「お金を払って買っているのに、まるでおほどこしでもするような顔をしているのですから、不愉快な話なのです」(『開戦からの日記』高橋愛子著)と、庶民は不満の持って行き場も失っていた。終着点が見えない中国戦線の長期化は生活物資の不足と物価高騰をもたらした。それに加え、隣組の監視が強化され、国民の閉塞感が一段と強まっていった。

 ABCD包囲網の打破こそ日本が生き残る道という報道が増えるようになり、2月には「日米戦(たたか)はゞ」(新潮社)が発行された。2月1日付の朝日新聞には「今日は最早(もはや)架空小説的の日米戦争論を繰り返すべき時ではない。国民はこれによって米国恐るべきか恐るゝに足らざるかを明らかにし、不動の信念をもってこの超非常時局に対応すべきである」という刺激的な広告が掲載された。同書は5万3千部のベストセラーとなり、国民全体を取り巻く雰囲気が閉塞社会の打開策として「対米戦争」に向かおうとしていた。



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昭和14年7月、パーマネントを警官にとがめられている女性。

子供にまで「パーマネントはやめましょう」と連呼され、生活は風俗や習慣まで統制されていった 

=「日本の記録 明治百年」(世界出版社)



陸海軍 現代に通じる官僚支配


二手に分かれ石合戦に駆け回り、木を削っては軍艦作りに熱中する。将来の希望を尋ねる小学校教諭への返答は「陸軍大将」だった。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文(ともゆき)の幼少時のエピソードである。「末は大臣、大将か」と高級将校にあこがれた多くの少年を象徴している。

 昭和16年当時、人口7160万の3%以上に当たる総数240万人を誇った巨大組織「陸海軍」。陸軍の中心には江戸時代の貨幣、天保銭(てんぽうせん)に似た卒業徽章(きしょう)を胸につけた陸軍大学校卒業者である「天保銭組」がいた。

 全国からわれこそはという文武両道に秀でた逸材がこぞって受験した陸軍士官学校の卒業生の中から、さらに1割程度に絞られた精鋭。将来の将官の地位が約束されていた。

 軍令を担当する参謀本部第一部(作戦部)には、陸大出の中でも恩賜の軍刀を与えられた優等卒業生「軍刀組」だけを配属することを規定。徹底した学歴主義は東大学閥が支配する現代の財務官僚にも通じている。

 陸軍は陸士-陸大、海軍は海軍兵学校-海軍大学校と、作戦指揮教育に特化し、「純粋培養」されるエリート軍人。自らの組織を至上とする集団が形成されるのは当然の帰結だった。そこには政治家が介入できる余地はなかったといえる。


政治主導を掲げていた現在の民主党政権は官僚の激しい抵抗に次々とマニフェストの見直しを強いられ、看板に掲げた「事業仕分け」では省庁の巻き返しに屈し、官僚組織に対する政治家の無力さをさらし、政権全体に対する失望感を決定付けた。

                ☆ ★ ☆

 関東軍が引き起こした6(1931)年の柳条湖事件に始まる満州事変以降、軍部は政府の方針と乖離(かいり)した行動とともに、組織の強大化を進める。軍の作戦行動に政府が介入できない「統帥権の独立」に加え、11年には大臣の現役武官制を復活させ政治権力を確立した。

 12年の支那事変勃発以降は臨時軍事費を獲得し、開戦の16年には軍事予算(125億円)が国家予算(165億4千万円)の4分の3を超えるまでに膨れあがった。

 巨大な人員と予算。政府を圧倒する権力を盾に、陸軍は自らの親独枢軸路線に沿わない米内光政(よない・みつまさ)内閣に対する倒閣運動などを通じ、人事への影響力を行使するようになっていった。

                ☆ ★ ☆

 海軍も、開戦へのターニングポイントを迎えるたびに組織内に視線を向けた。太平洋が主戦場となる対米戦では陸軍以上に強い危機意識を持ちながらも、日独伊三国同盟交渉では資材の優先割り当て獲得の内約を受け、推進派に妥協する。

 開戦直前にも陸軍の主戦論に対し「戦争するか否かは政治家・政府が決めること」(及川古志郎(おいかわ・こしろう)海相)と原則論に終始し、予算配分への影響を恐れ、「避戦言明」を避けた。


「国益より省益」の立場のまま戦争に突入した陸海軍。開戦後の17年3月の大本営政府連絡会議で決定された「今後採るべき戦争指導の大綱」には「長期不敗の政戦略態勢を整えつつ、機を見て積極的の方策を講ず」と記された。長期持久戦の態勢確立を目指す陸軍と、短期積極攻勢を主張する海軍の妥協の産物であった。

 「これでは意味が通らぬではないか」-。ため息をついたのは官僚組織の象徴「天保銭組」の陸軍大将である東条英機首相。開戦後も続く省益優先の組織対立の証左だった。

                ☆ ★ ☆

 現代の官僚組織も何ら変わっていない。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加問題では推進派の経済産業省が輸出部門での損害額をより大きく見せる「仕掛け」を施し試算する一方で、慎重な立場をとる農林水産省は政府が農業支援策を一切講じない極端なケースを想定し、農業分野の損害を強調する。

 経産省試算に乗る政治家と、農水省試算に乗る政治家が省益を代表して対立し、そこには政治的リーダーの存在感はなく、省益優先で議論が進んでいる構図は70年前と変わらない。

 財政再建など、多くの問題を抱え、ただ時が流れているような現代の日本。強大強固な官僚組織を打ち崩せないままの政治の無力さは当時もいまも国民に無力感を与え続けている。






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