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伊奈忠順が示した被災地復興の“近道”

Category: ブログ  

伊奈忠順が示した被災地復興の“近道”


自然の力の脅威を見せつけられた東日本大震災。日本では過去にも大きな地震に見舞われ、そのたびに復興を遂げてきた。江戸時代に起きた富士山の噴火では、被害の大きさに地元の藩主が復旧を“放棄”。そんな中、幕府から復興の最高責任者として派遣されたのが関東郡代の伊奈忠順(ただのぶ)だ。被災者の底力を信じ、政治に翻弄されながらも被災地の復興に取り組んだ彼の功績を追う。(渡部圭介)


揺れ続けた日本


 江戸時代の元禄年間(1688~1703)は井原西鶴、松尾芭蕉が活躍し、「元禄文化」が花開いた時代だ。

 時の将軍・徳川綱吉は東大寺大仏殿をはじめとする寺社造営への出費は惜しまず、幕府財政は圧迫する。これを何とかしようとした経済政策が次々と失敗。そこに自然災害が追い打ちをかけ、元禄文化は終止符を打つことになる。

 元禄15年は冷夏で大凶作となり、東北地方に多くの餓死者を出した。翌年には関東地方で大地震が発生。多くの建物が倒壊したほか、津波の被害も大きく、九十九里浜では海岸から5キロ内陸まで波が達したとされ、多くの人命が失われた。

 相次ぐ自然災害に、幕府と朝廷は1704年、元号を元禄から宝永に改める。それでも自然の怒りは鎮まらず、宝永元年には全国で大洪水が発生。宝永4年には東海、南海、東南海連動型地震とされている日本史上最大級の地震となった宝永地震が列島を襲った。

 地震とともに大津波も発生し、死者は2万人を超え6万戸の家屋が倒壊。2万戸が津波で流出するという大惨事だった。




見放された民


 天災は続く。宝永地震からわずか49日後、富士山が噴火する。その様子を地元住民は「火のあめふり、大きなる石ふりくだけてみれず、(山は)すみをおこしたごとくなり候」(印野村甚助『富士山之やけた覚』)と書き記した。

 新井白石が著書『折たく柴の記』に「富士山に火出て焼ぬるによれりといふ事は聞えたりき。これよりのち、黒灰下る事やまず」と記したように、困らせたのは多大な量の降灰。山麓の東側は3尺(約1メートル)の砂に埋まったとされる。

 年末には噴火が沈静化したものの、甚大な被害が出た被災地を多く抱えたのが小田原藩(神奈川県)だ。厄介なことに小田原藩は当時借金まみれの“金欠”状態。窮状を訴える住民に米2万俵を出すのが精いっぱいだったという。被災者が1~2カ月、生きていけるほどの量に過ぎなかった。

 放っておけば一揆を誘発させかねない。小田原藩は自力復興を断念。幕府に土地を“返上”し、復興を丸投げする。




翻弄される指揮官


 幕府は復興の現場指揮者に関東郡代の伊奈半左右衛門忠順を指名する。伊奈家は治水工事や河川改修で数々の功績を上げた土木工事のプロ。忠順自身は宝永地震の復興にも携わった経験の持ち主だ。

 忠順は酒匂(さかわ)村(現小田原市)に郡代役所を開設、復興の現地拠点とした。詳細な被災調査で復旧や被災者の生活支援にかかる費用を見積もり幕府に報告書を提出するものの、幕府には財源がない。


そこで幕府は全国の諸大名に「国役金(くにやくきん)」を課す。領土の石高に応じ、100石につき2両の上納を命じるもので、集まった“義援金”は48万両。忠順はこれを財源に復興に着手する。

 忠順は住民たちの底力を信じた。田畑の火山灰は自分たちで取り除くよう指示。一方で自宅の広さや倒壊程度に応じた義援金の分配や食料の配布も行う。

 復興意欲を抱かせようと、火山灰を除去した住民には“賃金”を払い、生活支援も行った。それでも住民たちの不満は消えず忠順は可能な限り要求に応えようとするのだが、なぜか金が足りない。

 どうも、幕府の上層部に義援金に手をつけた人々がいるようだ。『折たく柴の記』によれば、48万両のうち、復興や被災地支援にあてられたのは半分にも満たない16万両。残りは流用されたという。忠順は私財をなげうって資金を工面したとも伝えられている。

 資金不足で復興も思うように進まない中、忠順は河川に積もった火山灰をめぐって悪役の汚名を着せられた。宝永5年の大雨で被災地を流れる川の堤防が決壊したとき、下流域では大きな被害が出た。忠順の指示を受けた上流域の住民たちが火山灰を川に捨てているという噂が広まった。


忠順の死の謎


 堤防の決壊をめぐり、忠順は責任を取らされ切腹したとする伝承がある。しかし、これを裏付ける記録はなく忠順を描いた小説『怒る富士』で著者の新田次郎氏は「全くのでたらめ」と指摘している。


被災地が復興して再び小田原藩に領土が戻されるのは、忠順がこの世を去った正徳2(1712)年から35年もかかっている。不思議なことに、この間の記録をひもとくと忠順の死後から復興の動きが速まり、しかも住民たちは自力で成し遂げた。無理な要求も止まる。彼の死を機に政治が動き、民が動いたことだけは間違いがないようだ。

 一体、彼の死で何が起きたのか。新田次郎氏は地元の古老の話として、こんな逸話を書き残している。  「幕府の要職たちは伊奈半左右衛門様が切腹したことによって心を改め、その後お扶持米を下されるようになった。被災地の農民たちは、伊奈さまの死をいたんで、しばらくはなにも言わず砂除けに精出そうと申し合わせたそうだ」

 富士山麓には、忠順をまつった小さなほこらが相次いで建てられた。幕府の目を盗み、参拝はこっそり行われたという。忠順の死には何かいわくがありそうだが、噂のたぐいは残るものの真相を語る史料はない。

 こんな話もある。住民の窮状を見るに見かねた忠順は、禁を破って勝手に代官屋敷の米蔵を開けて住民に分け与え、その罪を問われて指揮官の職を解かれ、切腹したという逸話だ。記録上は証拠がなく、これもまた「でたらめ」だ。

 忠順自身が被災者に迷惑をかけないよう、あるいは住民たちがその気持ちをくみ、一切の記録を残さなかったのかもしれない-新田次郎氏はそう推理する。

 忠順が誰よりも被災地のことを思い、被災者に寄り添い続けたことは間違いない。その思いに応えて動いた住民がいて、住民たちを見捨てなかった政府があった。忠順は死をもって、被災地復興の“近道”を示したのかもしれない。

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