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今日ボクが見た風景

連合赤軍リンチ事件2

Category: ブログ  
【総括! ―リンチ事件―】

 「共産主義化」の名の下に革命戦士に鍛える武闘訓練の間、自覚にかけたり、執行部に不満を持つ者が総括の対象となった。また男女がいちゃいちゃしているのを森・永田許さなかった。革命左派時代から恋愛は自由だったが、永田は組織内での男女関係に神経を尖らせていた

 「囚人狂時代」(見沢知廉・著)の千葉刑務所での吉野の発言によると、「報道はされなかったが、公安のスパイがもぐりこんでいた」というものがあり、メンバーは「スパイ探し」に疑心暗鬼になっていたことも考えられる。(毎日新聞は事件発覚直後、山田スパイ説をとった)
 また鈴木邦男氏の著書「公安警察の手口」によれば、公安部が意図的に「内部に公安のスパイがいる」との情報を流すことで、内部分裂をおこさせ、また他派への牽制を行なっていたという説もある。

 リンチ事件の発端は、合同前の共同訓練の際の水筒からだった。

◆リンチ事件の経過

―1971年10月24日―
 ・メンバー脱走を受けて、永田は「丹沢も危ない」と感じ、4組にわけて、ベース候補地の調査に向かわせた。この結果、榛名山中にベースを作ることを決定した。ベースから道路に出るのは、大久保清事件 の被害者の墓を目印にした。永田は大久保清事件に異常な関心を示していた。


―11月12日―
・坂東率いる坂東隊が南アルプス・新倉ベース(山梨県早川町)に到着。


―12月1日―
・赤軍派メンバー・遠山美枝子、行方正時、青砥の3人が、迎えにきた植垣康博と新倉鉄橋で合流。


―12月2日― 
・革命左派の永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前田、石田、金子みちよの7名が、迎えにきた植垣と合流。植垣が「水筒を持ってきましたか」と聞くが、誰も持って来ていない。植垣、トランシーバーでベースに水を持ってくるように依頼。


―12月3日―
・新倉ベースに水や食料を持っていく進藤隆三郎と青砥らに、森が革命左派を批判するように指示。

・両派の訓練部隊は水を持ってきた赤軍派の山崎と進藤に合流。進藤は革命左派メンバーと初対面だったが、「何で水筒を持ってこなかったんだ」と批判。山崎も加勢し、気まずい雰囲気になる。昼頃には青砥が食料を運んできたが、彼も水筒問題を非難した。やって来た森らも批判し、永田が自己批判するまで気まずい雰囲気は続いた。

・坂口はこの水筒問題批判を森ら赤軍派が訓練の主導権を握りたいためのものだろうと推測。 

・永田は赤軍派の女性兵士だった遠山美枝子に目をつけ始める。赤軍派の紅一点だった遠山は重信房子と並び賞されていたほどの美人であったことや、他人の発言中に髪をブラシでとかしたり、リップクリームを塗っていること、森にぴったり寄り添っていたことが永田には気に入らなかったらしい。独自の「女性論」を持つ永田は、それに当てはまらない大部分の女性に敵愾心を持っていたと見られる。


―12月4日―
・銃の使用訓練。森と永田は2人で会議。森は銃の譲渡を要請するが、永田は保留。

・また永田は遠山の革命戦士としての資質に疑問を投げかける。それは合法時代と同じ指輪をしていたことや、メンバーから特別扱いされていることだった。特に遠山は赤軍派幹部・高原浩之の夫人であったので、意見しにくいのではないかと見た。後に殺害される山崎順や行方は遠山の味方をしたが、日頃から遠山に使われがちだった植垣は永田に加勢した。この場は森の「今夜のところはこれくらいにしよう」という言葉でおさまった。


―12月5日―
・実弾訓練の最中、遠山が自分の銃の発射反動で腰を強打してしまい小屋に戻ろうとした。そこに好意を寄せていた行方正時が「大丈夫?送っていってあげますよ」と声をかけた。これを見た永田はひどく激怒したという。

・腰を打った遠山は生理がとまらないようになり、元京浜安保の女性に「生理用品持ってないか」と尋ねた。これを永田は「女性兵士になろうという自覚に欠ける」と見た。


―12月6日―
・永田は「遠山さん問題が決着がつかないうちは、赤軍派との共同作戦なんてとてもできない」と主張し、その日から4日間行なわれた森とのトップ会談で「赤軍派の中の遅れた分子を徹底的にしごきあげよう」と要求した。


―12月7日―
・共同訓練最終日。両派の代表による射撃競争の後、全員が決意表明。森は生い立ちから第2次ブントの総括までを話すうちに感極まって泣き出す。最後に革命左派が赤軍派に猟銃1丁を渡す。


―12月8日―
・革左の永田と坂口はとどまり、森・山田と指導部会議を行なう。


―12月9日―
・森の行方・遠山・進藤に対する批判は続いた。この3人は4日に永田に反論したメンバーである。「雑談はするが討論には加わらない。自主的な判断に欠ける」(行方)、「愛人の女の逃亡問題に組織の責任を云々するが、自身の問題として総括していない。個人主義的な行動が多い」(進藤)といったもので、彼らは水汲み、炊事、洗濯をやらされるようになった。


―12月10日―
・永田と坂口は新倉ベースから引き上げて行く。


―12月12日―
・永田、坂口は榛名ベースに戻る。山本順一が入山。


―12月15日―
・ベースに小屋が完成。簡易的な建物にしてはなかなかのものだった。


―12月16日―
・森、坂東、山田は一足先に榛名ベースの京浜安保と合流するため、新倉ベースを出発した。森は途中まで送っていった植垣と青砥に「遠山はまだ重信房子と連絡を取っているらしい。いったい何をたくらんでいるのか。厳しく追及して欲しい」と言った。

・植垣がアジトに戻ると、行方がストーブのそばで座っていた。植垣は「おまえ、幹部がいないと思ってなめるんじゃないよ」と、再び銃を持たせて小屋の外に放り出した。次に遠山にも重信のことや、過去の活動を持ち出して責めたてた。


―12月20日―
・森と坂東が榛名ベースにやって来る。指導部会議で、森が革命左派メンバー・小嶋らを批判。


―12月21日―
・指導部会議。永田が森の路線に歩み寄った形で新党結成が決まる。
 
・逮捕されていた加藤が不起訴となり、ベースに戻る。加藤は取り調べで刑事と雑談していたことについて自己批判を求められる。尾崎も合法部に銃の隠し場所を教えたことを批判される。
 
・山本が妻・保子と生後18日の長女を連れてやって来る。


―12月22日―
・森と永田、「これまでの各自の活動を総点検し、根底的な総括をする必要がある」と説く。

・夕食後の全体会議で、森が加藤に対して逮捕前後の行動を問い詰めて批判。


―12月23日―
・赤軍派・山田孝が榛名ベースに来る。
 
・夜、指導部会議。このときから、森、山田、坂東(赤軍派)と永田、坂口、寺岡、吉野(革命左派)の7人体制となる。


―12月24日―
・指導部会議で永田は「1969年の4・28沖縄デー闘争に参加すらできなかった自派は遅れている」と話す。

・森、革命左派の川島豪と決別。


―12月25日―
・批判を受けていた加藤能敬と小嶋が作業から排除され話し合う。


―12月26日―
・指導部会議中、中座した永田に小嶋が「加藤が夜、変なことをする」と話す。永田はこれを聞いて2人に腹を立て、会議で報告。森は「総括要求されている加藤がそれを隠しているのだから、もっと聞き出すために殴ろう」と提案。永田も同調した。

・山本順一は妻の保子と生後18日の長女を連れて榛名アジトにやって来たが、この異常なリンチを見て驚いた。山本は保子のリュックサックの中に赤ん坊のオシメを入れるのを手伝っているのを永田に見られ、「夫婦気取りで革命ができるかい」と目をつけられる。保子は目の前で夫がリンチを皆からリンチを受けているのを目撃。


―12月27日―
・未明、加藤の周りを取り囲み、森が「何か隠していることがあるだろう!それを言え!」と殴り、他のメンバーも「総括しろ!」と同調した。永田は坂口と坂東に小嶋を殴るように指示。暴行は朝まで続き、加藤はそのまま縛られた。

・総括要求のなかで、2人は様々な告白を行う。永田は加藤の2人の弟が手を出していないことに気づき、「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな」と語りかけた。上の弟は泣きながら兄を殴った。暴行は明るくなった頃に終わったが、加藤はそのまま縛られることとなった。

・昼頃、大槻節子ら3人が榛名ベース入り。

・午後の指導者会議で、森は永田らに「川島との訣別-分派闘争」を再び迫る。永田は分派に同意。その時に手が震えたが、坂口がいつものようにそれを握った。森は新党を宣言。


―12月28日―
・森、小嶋を縛るように指示。

・夜の全体会議では、全員が自分の問題点を提起。森の尾崎に「日和見主義は敗北主義・投降主義に転ずる」と厳しく批判。


―12月29日―
・「敗北主義を克服させるため」として、尾崎は警官役の坂口と格闘させられる。尾崎が参加しなかった12・18闘争(上赤塚交番襲撃闘争)の再現である。縛られていた加藤、小嶋も「頑張れ!頑張れ!」「警官を殺すのよ!」と声をかけた。1時間の格闘後、尾崎が大槻に「ちり紙とってくれ」と言ったのを、永田は「甘えのあらわれ」とし、逆エビに縛られる。金子はこうした暴力的総括に対して批判的で、これ以後森は金子に批判的となる。

・指導部会議で、森は尾崎の「ありがとう発言」などを批判。総括要求が終わったと誤解している尾崎をシュラフで休ませず、「立ったまま総括しろ」と命令した。夜になって、尾崎は森に「休ませてください」と懇願したが、森は聞き入れず、吉野を見張りにつけて徹夜での総括を命令した。

・夜の全体会議で、杉崎ミサ子が「自立した革命戦士になるため」と、寺岡との離婚を表明。金子みちよも吉野との離婚を表明したが、永田はそれを認めなかった。


―12月30日―
・夜、中村愛子が入山。


―12月31日―
・東京に資金集めに行っていた山田が迦葉山ベースに到着。
 
・森、「すいとん、すいとん」という発言を行なった尾崎の腹部を思いきり殴る。指導部による暴行が続いた。その後、尾崎は縛られた。

・坂東と山本順一は、赤軍派の遠山、行方、進藤の3人を連れて戻ってきた。この時、加藤は座ったまま、小嶋は寝かされて逆エビ状に、尾崎は立ったまま柱にそれぞれ縛られた。

・夕方、尾崎が死亡しているのが確認される。ベースでの最初の犠牲者である。森は「尾崎はわれわれが殺したのではない。敗北主義を総括しきれなかったために自ら死を選んだのである」と説明した。さらに永田の「加藤、小嶋の2人を必ず総括させよう」という呼びかけに、メンバー全員が「異議なし!」と答えた。


―1月1日―
・未明、森は新倉ベースから到着したばかりの進藤に対する批判を行なうが、反論したため総括要求。「赤軍派への加入はM作戦の金が目的だった」「逃亡を考えている」と邪推したもの。森の提案で全員が進藤を殴りつける。進藤と一緒にベースに来たばかりの行方と遠山は初めて見る暴行の場面だった。行方は弱々しく殴り、遠山は当初殴ることを拒んだ。進藤はこの時点で肋骨を6本骨折、肝臓破裂という重傷を負っていた。

・暴行後、進藤を外に縛った。会議中、進藤は「もうダメだ!」と絶叫して死亡。見張っていた石田が目撃した。2人目の犠牲者。森は彼の死を「敗北死」と説明した。
 
・続いて降雨のため床下に入れられていた小嶋の容体が急変、森や山田が人工呼吸を行なうが死亡した。3人目の犠牲者。森は「敗北して死んだから醜い顔をしている。死者に対する礼など必要としない」と言い捨てた。


―1月2日―
・午後、植垣と山崎順が榛名ベースに到着。これで旧赤軍派の全メンバーが揃った。

▽旧赤軍派中央委員
森、坂東、山田

▽同被指導部
青砥、遠山、行方、植垣、山崎

▽旧革命左派中央委員
永田、坂口、寺岡、吉野

▽同被指導部
前田広造、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、伊籐和子、寺村雅子、石田源太、加藤能敬、加藤倫教 加藤M、山本順一と保子、中村愛子

・夜の全体会議で、植垣が「大槻を好きになったので結婚したい」と話す。森は大槻の美人であることや頭が良いことからの高いプライドを指摘した。

・引き続いて、森の遠山批判。「小嶋の死体を埋めさせることで・・・総括させよう」と提言した。遠山が立ち上がると、行方は「俺もやる」と表明した。


―1月3日―
・行方と遠山は小嶋の死体を所定の場所まで運び、穴を掘って埋めた。この時、寺岡が「こいつが党の発展を妨げてきたんだ」と遺体を殴るように命令。森はその報告を受けて、「敗北死と反革命の死は違う」と寺岡を批判。寺岡は新倉ベースに行った後、東京をまわっていたので、敗北死の規定は聞いていなかったのだが、それは考慮されなかった。

・戻ってきた遠山に森は再び総括を求める。「今までは殴って総括を援助してきたが、自分で総括すると言うなら自分で自分を殴れ」と命令した。遠山は小屋の中央に立たされ、自分で顔を殴らされた。動きが止まると、まわりのメンバーが罵声を浴びせた。”自分殴り”は30分ほど続き、顔は腫れあがっていた。その後、遠山は縛られる。
 
・夜の指導部会議で「C・C(Central Commitee =中央委員会)」が結成される。序列は森、永田、坂口、寺岡、坂東、山田、吉野の順。会議は翌3時頃まで続き、行方を縛りつけることを決めた。


―1月4日―
・未明、行方が縛られる。

・朝、森は加藤に「逃げようとしていたのだろう?」と追及。しばらくして土間に縛られた加藤は死亡した。4人目の犠牲者。永田は加藤の2人の弟たちに「今は泣きたいだけ泣いて良い。兄さんの死を乗り越えて、兄さんの分まで頑張って革命戦士になっていこうよ」と声をかけたが、三男は「こんなことをやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と泣きながら飛び出していった。二男は永田の肩に顔をうずめて泣いた。

・中央委員会で、すでに死亡した4人を別の場所に埋め直すこととし、地図で選定した。森は前田、石田、寺村、植垣、青砥を党員候補に考えていると表明した。


―1月5日―
・山田、寺岡ら6人が死体を遺棄する場所の調査に出発。

・夜、死体を掘り出す作業。死体を車に積み、山田ら6人が埋め直しに出発。戻ってきたのは朝方。


―1月6日―
・森、行方を殴るとように指示。中央委員の他、植垣、山崎も殴った。寺岡は薪で殴っている。この間、縛られていた遠山は暴行を見て、「お母さん、美枝子は革命戦士になって頑張るわ」「お母さんを幸せにするから待っててね」と繰り返していた。

・夕方、男女関係を追及された遠山が「森を好きだった」と漏らし、森が激怒する。全員で遠山を殴打。縛り直しの時、寺岡は「男と寝た時のように股を開け」と遠山に指示。メンバーから笑い声が起こると、永田は「そういうのは矮小よ」と叫んだ。遠山は逆エビに緊縛される。

・石田、前田、寺村が党員となる。なぜか植垣は外されていた。


―1月7日―
・夕方、遠山が死亡。この死を受けても、気にせず立ち去る永田に対して坂口は「薄情だ」と言う。坂口は永田に謝罪を求められ、それに従う。


―1月8日―
・行方の衰弱が激しく、童謡を歌い始める。
 
・C・Cで新ベース設営の候補地について話し合いがされる。


―1月9日―
・行方の死亡が確認される。

・山田ら4人が遠山と行方の遺体を埋めに行く。


―1月11日―
・植垣らが迦葉山にベース調査に向かう。


―1月12日―
・坂東、寺岡によるベース調査。「結局、日光には候補地はなかった」という結果。なお森は寺岡について「政治的傾向が官僚主義的スターリン主義である」と調査中に総括を指示していた。


―1月13日―
・森と山田の話し合い。山田は妻と子どもを山に呼ばない森に批判を強めた。


―1月14日―
・森は電話連絡のため下山。戻った後、車の運転にミスし、連絡に間に合わなくさせたとして山本を非難。山本は激しく反論した。

・青砥と金子が改造弾造りをしていた際に鼻歌を唄っていると、森は「それが総括を求められている者の態度か」と咎めた。

・夜は寺岡の問題が議題とされる。森は永田に彼の活動歴を聞き、「分派主義だ!」と断定した。


―1月15日―
・山田、ベースに戻る。


―1月17日―
・寺岡と坂東がベースに戻ってくる。

・森は寺岡が杉崎ミサ子につきまとっていたことや、自分たちをなめたような陰口を叩いていたことを問題にする。CCである寺岡は抗弁しても殺されると考え、「お前等がリーダーなんて、ちゃんちゃらおかしいや!」と叫ぶ。森は「寺岡を死刑にする」と言い、全員が「異議なし!」と答える。坂東が寺岡の左肩をナイフで突き刺す。森も「お前はスターリンと同じだ。死ね」と、アイスピックで寺岡の胸を刺す。続いて肩を支えていた他のメンバーも心臓や首めがけて突き刺すが絶命せず、4人がかりでタオルで首を絞め殺害した。アイスピックを刺したのはすべて赤軍派の人間だった。


―1月18日―
・森は寺岡処刑の時、山崎順が輪に加わらなかったのを問題とする。
 
・名古屋まで小嶋の妹を連れ出しに言った女性メンバーが戻り、永田に恐れをなした岩田平治(当時22歳)が逃亡したことが知らされる。「もはや榛名はやばい」ということになり、迦葉山に新アジトをつけることを決める。


―1月19日―
・森、山崎に死刑を宣告する。山崎は「死刑にされて当然です」と涙を流しながら言うと、森は様子を見ることにして縛らせた。

・夜、坂口ら4人が寺岡の遺体を埋めに行く。


―1月20日―
・森はあらためて「逃げるつもりだった」と言う山崎に死刑を宣告。寺岡殺害の時にアイスピックで刺さなかった坂口を非難し、坂口はアイスピックで山崎の左太ももを刺す。続いて坂東、植垣、青砥が刺した。そして坂東と吉野がロープで首を絞めて殺害した。

・森、永田は「森に取り入ろうとしている」「主婦のように自分の権威を守る」などという理由で、金子・大槻らを批判。吉野も「僕の方から離婚する。もう金子さんに足を引っ張られたりはしない」と発言。

・夜、山田を奥沢が連れてくる。


―1月22日―
・9人が釈迦山にベース建設のため出発。出発する吉野の世話を焼く金子を見て、森は「あれは女房の態度」と言う。


―1月23日―
・夜、坂口は山崎の遺体を埋めに行く。坂口はこの後、ベース建設の応援へ。


―1月25日―
・夜、森は金子と大槻を追及。大槻へは60年安保闘争に関する「敗北」の文字を好んでいたこと、金子へは安易に離婚を宣言したこと、尾崎の格闘について批判したことを問題とした。金子は反論した。翌未明、2人の緊縛が決定される。


―1月26日―
・夜、坂口、吉野、坂東が山本を囲んで総括要求。無抵抗の山本に暴行が加えられた。終わると逆エビに縛られた。


―1月27日―
・森は「金子が子どもを私物化することを許してはならず、子どもを(腹から)取り出すことも考えておかねばならない」と発言。


―1月28日―
・金子への暴行が始まる。金子は「私は山へ来るべきではなかった」と洩らした。

・午後7時頃、青砥を残して新ベースに移動。

・奥沢の落とした運転免許証を地元の漁師が届けに来た。その際、小屋の建設を見られた。この頃、丹沢ベースが発見されたニュースが報じられていたので、危機感が芽生える。


―1月29日―
・新ベースの小屋はそこそこ完成していたので、テントを引き払い小屋に移る。縛られている山本、金子、大槻は皆で運び、床下の柱につないだ。山本夫人は「総括してよ、総括してよ」と夫の胸に顔を埋めて泣いた。

・山本、「C・Cの方が論理矛盾している」と反発し、舌を噛み切って自殺を図り、猿ぐつわをされる。


―1月30日―
・午前1時ごろ、山本死亡。9人目の死者。

・森、植垣に「新倉ベースで大槻とキスしただろう」と総括要求。植垣を含む全員で大槻殴打を提起し、床下に行くと大槻はすでに死んでいた。10人目の犠牲者。


―1月31日―
・東京から山田が戻ってくる。

・金子の子どもの様子を看護学生だった中村、伊藤、それに医学部の青砥が見る。


―2月1日―
・坂口、坂東らは山本と大槻の遺体を埋めに出かけるが、警官を目撃し、森・永田・坂口の手配ポスターがあるのを見つけ、延期した。

・中央委員会で森が山田に総括要求。「一兵士としてマイナスの地平からやり直すべき」と通告した。


―2月2日―
・山田、雪の上に正座させられる。「C・Cを辞めたい」という山田に対する追及が前夜から続いていた。森は彼に食事抜きでマキ拾いをするように命令した。


―2月3日―
・山田、マキ拾いへ。しかし、慣れた植垣と違い手間取り、結局皆に殴打され、逆エビに縛られた。


―2月4日―
・朝、金子の死亡が確認される。11人目の死者。

・夜、活動資金と車のカンパ要請のために森と永田が上京。ベースでは坂口が責任者となった。

・夜、坂東らが金子の遺体を埋めに行く。


―2月5日―
・榛名ベース解体のため坂口、坂東、吉野、植垣、青砥が出発。
 
・赤ん坊を取り上げられ、夫も殺された山本保子が逃亡。これを受けて坂口は中村愛子に「妙義山にアジトを移すから、山本の赤ん坊を連れて、尾道まで連絡に行ってくれ」と命じた。


―2月7日―
・坂東隊は榛名の小屋を焼き払い、湖畔から伊香保温泉までバスで行き、そこから渋川までバスに乗って下山した。ところがバスで1万円札を出して運転手に怒鳴りつけられ、また身なりや匂いから不審に思われ始めたため、沼田行きのバスを停留所で待とうとした。そしてこの時、前沢が突然駆け出して逃亡した。市街で前沢追えば大事になってしまうので坂東達はただ見送るだけだった。

・100万円を持たされ榛名ベースに向かわされていた中村愛子、山本の長女を連れてそのまま逃亡。タクシー運転手に自殺志願者に間違われ、いったん警察署に保護された。


―2月8日―
・榛名ベースが発見される。だが坂東隊はすでに焼き払い、引き揚げていた。

―2月12日―
・未明、衰弱が激しかった山田が死亡。12人目の死亡者。


―2月13日―
・永田、「坂口と離婚し、森と結婚する」と言う。


―2月15日―
・朝刊で「榛名ベース発見」と報道される。
・榛名ベースから20kmほど離れたところにある迦葉山ベースも発見される。こちらはあわてて逃げたのか解体されていなかった。


―2月16日―
・榛名ベース発見を受けて、第三のアジトである洞窟を放棄、茨城県袋田の滝方面にレンタカー(セドリックのワゴン車)で移動途中だったメンバーが警察の車とばったり会う。坂口、植垣、青砥の3人は奥沢と杉崎ミサ子に「お前ら、時間を稼いでろ」と言って洞窟に戻り、坂東、吉野らにも緊急を知らせて逃亡した。奥沢と杉崎は車の中に篭城した後逮捕された。坂口らは群馬から長野に向かって脱出行を続けた。

・夜、森と長田が妙義山に到着。暗闇だったため、雪の中で一夜を過ごした。


―2月17日―
・妙義湖近くで森と永田が逮捕される。


―2月19日―
・午前8時頃、小諸に向かっていた植垣、青砥、寺林真喜江、伊藤和子の4人が軽井沢駅で逮捕される。この4人は佐久方面に出て、衣類や食料などを買ったのち再び合流することになっていた。坂口ら他の半分は雪の洞窟で待機していた。
 
・坂口、坂東、吉野、加藤兄弟の5人が警察に発見され、「あさま山荘」に逃げ込む。


―3月10~14日―
・逃げていた山本保子、中村愛子、岩田、前沢が相次いで自首。


【裁判】

 1972年10月13日、中村愛子に懲役7年の判決。
 
 同10月31日、奥沢修一に懲役6年判決。

 同12月6日、前沢虎義に懲役17年判決。

 1973年、東京地裁での統一公判開始。永田、坂口、植垣、吉野、加藤(二男)が初出廷。1年ぶりに顔を合わせた。

 1974年4月3日、寺林真喜江に懲役9年の判決。

 1974年7月、永田は革命左派から離党。塩見孝也が結成した赤軍派(プロレタリア革命派)に植垣や坂東とともに加わった。

 1975年8月4日、日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館を占拠、52人の人質とひきかえに坂東ら7人の釈放を要求(クアラルンプール事件)。日本政府は「超法規的措置」として条件を飲み、坂東らはアラブへと飛び立っていった。坂口は辞退している。
 坂東はアラブで重信房子と会った時、「自分は同志殺害という誤りを犯した。査問委員会で裁いて欲しい」と申し出たという。坂東の行方は今もわかっていない。彼についての裁判は停止したままである。

 1977年8月9日、他の3人の対立のため吉野と加藤(二男)は統一被告団を離脱、分離裁判を選択。

 同9月28日、日本赤軍がダッカで日航機をハイジャック(ダッカ事件)。人質とひきかえに植垣ら9人の釈放を求めた。しかし、植垣は自分たちの問題を「総括」するため出国を拒否。

 1979年3月29日、東京地裁・石丸俊彦裁判長は、吉野に無期懲役、罰金4万円の判決。加藤(二男)は懲役13年が言い渡された。

 1980年7月、永田と植垣は、塩見と訣別。

 1982年6月18日、永田と坂口に死刑、植垣に懲役20年の判決。
 この死刑判決に関して、殺された12人の遺族は「当然」という心境を語ったが、ただ1人、向山の弟は複雑な胸中をのぞかせている。
「私は(極刑をのぞんでいる)父とは違い、兄は組織の一員として活動して、ああいう結果になったのだから、被告には死刑でなく、生きて事件をかえりみ、償いをしてほしいと思う」
 
 1983年2月2日、吉野、二審でも無期判決。3月に千葉刑務所に移った。

 1984年6月11日、永田、控訴審中に気を失って失禁。脳に腫瘍が発見され、7月に手術が行なわれた。

 1986年9月26日、東京高裁、植垣に一審と同じく懲役20年。永田、坂口についても控訴を棄却した。

 1989年5月、坂口の歌が朝日歌壇に初めて掲載される。坂口はそれから精力的に歌作にはげみ、1993年には「坂口弘歌稿」を出版。

 1993年2月19日、最高裁で永田と坂口の死刑が確定。植垣も懲役20年で確定した。ただしこれまで時点で20年間拘置所暮らしだったため、残刑は5年半となる。

 1998年10月、植垣、刑期を終え甲府刑務所を出所。

 2000年6月、坂口、再審請求。

 2001年6月、永田、再審請求。

 2006年11月28日、東京地裁、2人の再審請求を棄却。

 2011年2月5日、永田病死。享年65。


【トピックス 「人々が見た連合赤軍事件」】

 この大事件を、当時の識者達はどう見たのだろうか。「週刊現代増刊 連合赤軍事件 緊急特集号」によると、次のようなものだ。「青年たちをこうしたことに駈りたてた政治が悪い」「いや、煽ったマスコミや、そういった思想を植えつけた教育者が悪い」「極刑も当然」といった意見が挙がっている(肩書は当時)

◆外務大臣・福田赳夫
「『泥棒にも三分の言い分』と言われるが、三分の言い分があると言って泥棒は許されない。この度の連合赤軍には三分の言い分も成り立たない」

◆通産大臣・田中角栄
「犯人達に情状酌量の余地はない。法により厳正な処分を受けるべきである。ただ犯人たちと、その家族は別である。家族に対する心無い非難、中傷はするべきではない。家族は加害者ではなく、被害者だからである」

◆自民党総務会長・中曾根康弘
「公害だ、交通地獄だ、円切り上げだ、そんななかで若い純情な青年達が感情的になるのは分かる。しかし彼らを迷信的信仰に陥らせ、凶暴な行動に駆り立てた教育に携わる人の責任は大きい。その意味で、一番の犠牲者は、自殺された坂東国男の父親だったと思う」

◆参議院議員・石原慎太郎
「戦後日本の教育は歴史や伝統に愛着をもたせることを放棄し悪い面だけを階級的視点でとらえることばかりやってきた。その結果が赤軍派や連合赤軍を生ませることとなったと言っていい」

◆日本共産党書記局長・不破哲三
「わが党は国民とともに、各種の暴力集団の策動を根絶するために、引き続き闘っていくものである」

◆総評議長・市川誠
「暴力的な行為は断じて認めることはできない。しかし、青年学生をあそこまで追いこんでしまった政治を問題にしなければならない。とくに佐藤内閣の反動政治を強く追及しなければならない」

◆作家・山口瞳
土田夫人殺し新宿のクリスマスツリー爆弾 、それに今回の事件を見ると、彼らが主張している『貧しい人民のために』という言葉と矛盾する行動じゃないかと考える。単純で幼稚な行動では、人民を味方につけることはできませんよ」

◆読売巨人軍・王貞治
「赤軍派の連中の無法ぶりは目にあまる。国家も警察も、決断した以上、徹底的にやるべきだと思います」

◆作家・大藪春彦
「あれだけ抵抗してみせたのだから、持っていた手製爆弾で自爆するのかと思っていたら、そうでもない。逆に捕まったときは、うずくまってブルブルふるえていたというから、まったく拍子抜けだ。どうにもカッコ悪いというほかない」

◆東大教授・寺沢一
「犯人はあれだけ銃撃戦を展開していながら、それでいて最後には逮捕されてしまった。これは我々戦中派には理解できないことです」

◆作曲家・団伊玖磨
「僕らは現実主義者だから、”根回し”のないことはしない。理想主義に走るのもいいが、もっと”根回し”のできる考え、行動をしろと言いたい。どうして中国の革命を見習って、気長に勉強することをしないのでしょうね」


【トピックス 爆弾の時代と赤軍派・梅内恒夫】

 植垣や青砥の欄で名前が出た赤軍派・梅内恒夫についてふれたい。


 1971年6月17日夜、明治公園で行われた新左翼各派の沖縄返還協定の調印実力阻止闘争が終わった後、警察部隊に投げられた鉄パイプ爆弾により隊員37人が負傷した。左翼過激派の爆弾により、多数の警官が負傷した初めてのケースであり、これ以後、土田邸爆破 、クリスマスツリー爆弾、連続企業爆破 などが起こり、新左翼の闘争は火炎瓶にかわって「爆弾の時代」を迎えていくことになる。

 デモで初めて爆弾を使用し、こうした流れを作ったのは梅内であったと言われる。自身で作った爆弾は「梅内爆弾」と呼ばれた。
 梅内の作る爆弾はすべて手作りだった。塩素酸カリウム、フェロシアン化カリウム、砂糖を調合した爆薬を鉄パイプに詰め、起爆装置として試験管に入れた濃硫酸を入れた。この鉄パイプを投げると、その衝撃で試験管が割れ、化学変化を起こして爆発するというものである。


 梅内は青森県八戸市生まれ。家はもともと薪炭商だったが、父親の代から海産物問屋も始めるようになった。梅内は両親にとって初めての子であり、何不自由なく大切に育てられた。わんぱくな子が多い漁村にしては、おとなしく礼儀正しい子どもだったという。
 小学校時代、体が弱く体育は苦手だが、それ以外の教科については抜群の成績を修めた。常に学年トップで、学年委員長、児童会長にも選ばれた。
 中学は市立第2中学校に越境入学。2年の時に美術が4だったほかは、3年間オール5であった。そして名門である県立八戸高校を経て、福島県立医科大学に進んだ。脳外科を専攻したいという希望があったからだった。梅内は弘前大学にも受かっていたのだが、もしこちらに進んでいたなら、過激派のメンバーにはなっていなかった可能性が高い。

 梅内は大学に入ると空手部に入った。この空手部にはKという2年上の男がいた。Kはもともと民青の活動家だったが、途中で社学同―共産同に転身、この大学の学生運動のリーダーであった。そしてKが空手部を辞めて社会思想研究会に入ると、梅内もそのあとを追った。森恒夫が先輩の田宮高麿に強く影響を受けたように、梅内もこの先輩と出会ったことで、学生生活は政治的な色を強めた。梅内は次第に講義に出席しなくなったが、研究会でのマルクス、レーニン読書会にはすべて参加した。

 1968年10月20日、梅内は仲間二十数人と一緒に、角材と赤いヘルメットを身に付け、霞ヶ関の防衛庁へ乱入、一号館の中央基地通信隊事務室をめちゃくちゃに破壊した。
 逮捕された梅内は翌年1月に保釈され、父とともに大学に呼ばれ、注意を受けたが、全国の医大で改革の火の手が上がり、福島医大にも波及したことなどで、彼の信念は変わることなく、理論ではKの上を行くようになった。梅内はしゃべるうちに興奮してしまうので演説は苦手だったが、高校生や労働者をオルグすることは得意だった。梅内に引き入れられた高校生の何人かは後の大菩薩峠事件で検挙されている。彼らは梅内の作った爆弾を、東京へ、山梨へ運搬する役割を持っていた。

 1969年10月21日、福島医大の封鎖は大学当局の手で解かれたが、バリケード生活のなかで梅内は逮捕されたKに代わって指導者となった。この後、梅内の姿は大学から消えた。彼は赤軍派が結成されると、運動の行き詰まりから赤軍派に参加、「みちのく赤軍」のリーダーにもなった。ただ地方にいたため、赤軍派幹部ではなく、一兵士であったという。

 赤軍派は大阪、東京戦争という名の武器強奪を展開していたが、思うような結果は得られなかった。そこで「殲滅戦が必要」と、より強い武器の入手が当面の目標だった。
 当時、爆弾づくりにおいては、ろくな教本はなく、梅内は失敗を重ねていた。そこで同じ大学の男に「東京へ行けば、もう少しましな本があるはずだが…」と依頼し、入手した火薬品取り扱いの本を読みながら、大学の産婦人科教室で実験を続けた。そしてついに梅内爆弾は完成した。
 大学を去った梅内は青森市内で借家で、仲間数人と爆弾を作っていた。この「爆弾学校」では、連合赤軍事件で逮捕された植垣康博、青砥幹夫に爆弾製造の技術を託していた。

 福島医大のバリケードが解かれたのと同じ日、赤軍派は国際反戦デーのために、拠点である東京薬科大学に鉄パイプ爆弾を準備をしたが、大学側がロックアウトしてそれらは押収された。
 その翌月、赤軍派の主要メンバーが検挙されるという大菩薩峠事件があったが、現場に残された爆弾からも、東薬大の時と同じようにやはり梅内の名が浮上した。これにより梅内は爆発物取締罰則第三条(製造、所持)違反で指名手配された。だが梅内はその直後、地下に潜行した。

 その後に起こったよど号事件のメンバーにも、あさま山荘事件の時も、「メンバーの中に梅内がいる」と噂されたが、いなかった。リンチ事件発覚時も、殺害されたメンバーの中にはいなかった。

 1972年5月10日、梅内は新左翼系映画雑誌「映画批評」に、「共産同赤軍派より、日帝打倒を志すすべての人々」と題する手記を寄稿。山陰地方からの郵送だった。
 梅内はこの手記のなかで当時「世界革命浪人ゲバリスタ」」を名乗っていた太田竜、竹中労、平岡正明についてラブコールを送っており、太田は「同志として公然と確認しよう」と答えたが、それに対する返答はなかった。そしてこれが梅内の判明している最後の動きとなる。

 1978年1月10日、時効成立。(同じ爆弾魔である草加次郎 の事件もこの年に時効を迎えている)それからも梅内は姿を現すことはなかった。死亡説、海外逃亡説があるが、確かな情報はない。


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