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今日ボクが見た風景

連合赤軍リンチ事件1

Category: ブログ  

連合赤軍リンチ事件




【事件概要】

 「あさま山荘事件」の後、連合赤軍が12人もの同志を殺害する「総括」を行なっていたことが判明した。 ←SIDE-A 「あさま山荘事件」


森恒夫
永田洋子
坂口弘
植垣康博



【「馬鹿な・・・・」】

 森と永田が逮捕された時、妙義山中のアジトに切り裂かれた衣類が見つかった。衣類には大量の糞尿がこびりついていた。この時、群馬県警・中山和夫警備二課長は誰かが殺されているものと見た。これは人が死ぬ時には大量の糞尿が排泄されるが、遺体から着衣を剥ぎ取る時にそういう風に切って脱がせるからだった。

 森や永田は頑として何も話さなかったが、3月に入ると、奥沢修一やあさま山荘に立てこもったMが同志殺しを自供し始めた。

 3月7日、群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、約1mほどの深さの穴に埋められた男性の遺体を発見した。赤軍メンバー・山田孝(元京大生 27歳)のものである。遺体は手足が縛られており、死因は凍死だった。衣類はナイフで切り裂かれており、このことを先に逮捕されていた森恒夫と永田洋子らに示すと、異様な反応を示した。
 さらに追及した結果、自供から「総括」と呼ばれるリンチの実態が浮かんできた。榛名山に集結していたメンバー29人のうち、12人が死刑、または総括で死亡していたのである。12人がすでに殺されていたという報告を受けた警察庁長官・後藤田正晴は「君、そんな馬鹿な・・・」と絶句したという。

 また亡くなっていた山本順一の妻・保子が10日に名古屋・中村署に出頭、その長女・Rちゃん(当時3ヶ月)は千葉・市川署に保護され、Rちゃんを連れ出していた中村愛子も出頭した。他にも岩田平治(当時22歳)、前沢虎義(当時24歳)も逮捕され、リンチ事件に関わったとされる17人が全員逮捕された。

 そして凍てつく土の中から続々と11人のメンバーの遺体が掘り起こされた。遺体には凄惨な暴力や衰弱の跡があり、男女の区別がつかないほどだった。金子みちよ(24歳)にいたっては妊娠8ヶ月で、胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。死因は凍死、胃の中は空っぽだった。


◆山岳ベースで死亡したメンバーと死亡日

▽1971年12月31日  尾崎充男   (22歳・革命左派)
▽1972年1月1日    進藤隆三郎  (21歳・赤軍派)
▽1972年1月1日   小嶋和子   (22歳・革命左派)
▽1972年1月4日   加藤能敬   (22歳・革命左派) 
▽1972年1月7日   遠山美枝子  (25歳・赤軍派)
▽1972年1月9日   行方正時    (25歳・赤軍派)
▽1972年1月17日  寺岡恒一   (24歳・革命左派)
▽1972年1月19日  山崎順     (21歳・赤軍派)  
▽1972年1月30日  山本順一   (28歳・革命左派)
▽1972年1月30日  大槻節子   (23歳・革命左派)
▽1972年2月4日   金子みちよ   (24歳・革命左派) 
▽1972年2月12日  山田孝     (27歳・赤軍派)


 1973年1月1日、森恒夫が東京拘置所内で自殺。
「あの時、ああいう行動をとったのは一種の狂気であり自分が狂気の世界にいたことは事実だ。私は亡き同志、他のメンバーに対し、死をもって償わなければならない」
 という自己批判書をしたためていた。同じ拘置所の永田は「森さんは卑怯だ。自分だけ死んで!」と叫んだという。


【兵士たちの軌跡】

◆森恒夫(当時27歳)
 1944年12月、大阪市大淀区生まれ。父親は市交通局の現業監督をしていた。勉強が好きな子どもで、それまでは秀才だったが名門・府立北野高校進学後の成績は平凡なものだった。当初は大阪外語大を志望していたが、大阪市立大学に変えている。高校では剣道部に所属し、主将も務めた。1963年、大阪市立大学文学部に進学。高校時代には学生運動には何の興味も示さなかったが、アルバイトを探すために生協の事務所に通ううちに田宮高麿と出会った。当時、大阪市大は日共分派の民学同が中心だったが、自治会執行部改選で、田宮率いる社学同が勝利した。この頃から、すっかり田宮の腰巾着となった。1965年11月、日韓条約批准阻止のデモを指揮して逮捕された。その後、社学同の活動家となり、田宮らと共同生活をするようになる。田宮の影武者のように振舞っていた森だが、その優柔不断な性格から「頭は良いが疑り深い小物。指導者になれる男ではない」と評されるなど、幹部からの信頼は得られなかった。一度、敵前逃亡したこともあり、組織を離れて三里塚で基地作りをしていたが、塩見孝也議長の意向により復帰、下積みからやり直した。田宮高麿が北朝鮮に飛び立った「よど号事件」や、塩見、高原浩之といった幹部が次々と検挙されると、山田孝とともに政治局員にのし上っていった。出身大学やその言動から「二流の指導者」と評されがちだった森は、京大の山田や早稲田の山崎順など、自分より上に立とうとする者につらくあたり、最終的に排除した。1971年春の一斉蜂起を目指して武装路線をとり、反論するものは次々と切り捨てた。普段から仲間に完全黙秘を強要していた森だが、逮捕後しばらく頑張った後は、すんなりと自供を始めた。だが事件の全貌を語りきることなく1973年1月1日、東京拘置所内で首吊り自殺。


◆永田洋子(当時27歳)
 1945年東京・本郷区(現・文京区)生まれ。私立調布学園中等部から高等部へ。気性が激しく、女の子にしてはお洒落などには無頓着だった。その後、共立薬科大学に進むが、ここで学生運動にこりはじめ、医療問題などについて友人に積極的に議論を吹っかけるようになった。1964年1月、「社学同ML派(マルクス・レーニン主義派)」の集会に参加。以後の人生が変わった。3年時にはバセドー氏病の症状が出始める。治療で完治したかに見えたが、「男性に好かれないのはそのためだ」と思いこむようになった。卒業後は大学病院の薬局で働くが、上司や同僚に好印象を持たれず職場を転々とする。そのうちに労組運動にも顔を出すようになった。「病院の薬の購入方法に不正がある!」という根拠なき告発を行なったことをきっかけとして病院を辞めた後は、薬剤師の仕事には見きりをつけ、革命家の顔を見せ始めた。永田は大学時代に知り合った東大生の影響で結成されたばかりの革命左派神奈川県委員会の実践組織である「京浜安保共闘」にもぐりこむようになり、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」の1人に数えられるようになった。ここでは中村愛子らもオルグした。闘いのなかで今度は川島豪から指導者に指名された坂口弘に好意を持ち、2人で行動することが多くなった。彼の気をひくために積極的な活動を行なうようになったと言われる。坂口と結婚(のちに離婚)。19
69年12月にリーダー・川島豪が逮捕されると、永田は目上だった石井功子や川島陽子を地方に追いやり、自らが組織を仕切るようになった。京浜安保は赤軍派と合同し、山岳アジトへ。同志殺害には森とともに積極的に関わる。森とは会って間もないが、すぐに坂口から乗り換えている。1972年2月、森と一緒にいたところを逮捕される。リンチ事件発覚後、永田の持病バセドー氏病を事件と結びつける報道があったりして、患者・読者らから抗議が相次いだ。その後は坂口、塩見らと対立、決別。死刑が確定していたが、2011年2月に病没。


◆坂口弘(当時25歳)
 1946年千葉県君津郡天神山村海良(現・富津市)生まれ。元々、浅草の履物卸売り業を営む家だったが、疎開でこの村にやって来た。子ども時代の坂口は日本共産党に興味を持ち出すが、両親はともにこの党に良い印象を持ってはいなかった。学校の成績は良く、兄弟たちの中では一番できた。中学1年の時に父親を病気で亡くす。60年安保闘争 の時は中学2年生だった。テレビでジグザグデモを見て興奮したという。やがて木更津高校入学。この頃、授業中に教師に指名されて文章を読む時、つっかえてうまく読めず、自信を失う。1965年、東京水産大学入学。入学時の納付金のなかに1万円「後援会費」が含まれていたのだが、後援会自体が幽霊団体であるため、この会費は不正であるとした後援会費闘争が起こっていたが、これは後に革命左派指導者となる当時4年の川島豪が指導していた。以後、坂口は同じ水泳部でもある川島を慕う。川島が卒業した後も接触を重ね、ここで永田との接点ができた。1967年7月、長兄が「我が家からでも大学生を出せた」と涙ながらに喜んでくれた大学をあっさり中退、大田区の印刷会社に就職した。1人で労働運動を始めたのである。1969年9月、愛知外相訪ソ訪米阻止闘争に参加、坂口は一般人を巻き込んでしまう可能性を指摘したが、川島から一喝された。結局、この運河を渡っての空港突入事件で坂口らは逮捕されたのだが、新左翼の若者からは賞賛する者もいた。永田と同棲をはじめたのは府中刑務所を出所した直後のことである。革命左派では心臓病の発作に苦しみながら、銃砲強奪事件に関わった。ここでは永田の補佐的な役割だった。「あさま山荘事件」では大将格。統一公判中、川島と対立。日本赤軍クアラルンプール事件 で、犯人側から出国を求められたが、「私は出て行かない」「君達は間違っている」と拒否、事件の総括にこだわった。その後死刑が確定している。


◆坂東国男(当時25歳)
 滋賀県大津市生まれ。旅館の一人息子である。地元の進学校である膳所高校を卒業後、一浪して京大農学部に入学。まもなく新左翼シンパとして政治運動に顔を出すようになった。1969年4月に赤軍派に加わる。その後の「大菩薩峠事件」 や「よど号事件」で主要リーダーを失ったため、坂東の地位も上昇した。射撃の名手とされ、「坂東隊」のリーダーとして郵便局や銀行を襲い現金を奪うなどした。また銃器、弾薬の保管についても任されていた。「あさま山荘事件」を起こした1人。先述した通り、逮捕の直前に父親が自殺している。逮捕から40日間は完黙していたが、取調官に父親の位牌を見せられ、「12人に対して間違ったことをしてしまった。父に対しても本当に申し訳ないことをした」と涙した。しかし、その後クアラルンプール事件でアラブへと飛び立ち、革命戦士として活動し続けていると思われる。


◆吉野雅邦(当時23歳)
 1948年3月生まれ。父親は東大卒の三菱地所の重役で、言わばブルジョアの育ちである。しかし吉野はそんな父親のような生き方はしたくないと考えるようになった。性格は温厚で、不得意科目のない優等生、手がかからない子だった。名門・日比谷高校から東大を目指すが、結局一浪して横浜国立大学入学。混声合唱団で金子みちよと出会う。悩みが多い性格だったのか、愛や思考のことで自宅で自殺未遂を図ったこともあった。1967年10月8日、「10・8第1次羽田闘争」に中核派シンパとして参加。機動隊に殴られ、13針を縫う大怪我。三里塚闘争 で逮捕され、千葉少年鑑別所に入所。その後、金子と生活をともにし、大学を辞めた。「真岡銃砲店襲撃事件」「印旛沼事件」 に関わる。「あさま山荘事件」に立てこもった1人。気弱で温厚そうに見えるが、京浜安保共闘の頃から重大事件には常に関与している。無期懲役が確定し、千葉刑務所で服役。


◆植垣康博(当時24歳)
 1949年、静岡県金谷町生まれ。父親は農場長で、町の有力者の1人である。地質学に興味を持ち弘前大学理学部物理学科に入学。この地方の大学は、もともと東京の新左翼運動や全共闘運動とはまったく無縁だった。大学で反日共系の活動家・青砥と出会う。また日共の下部組織・民青に加盟したが、1969年4月に脱退している。これは民青が全共闘を「暴力学生」「暴力集団」などと罵倒していたことの反発だった。1970年10月21日、「国際反戦デー」のため上京、新宿で逮捕されている。植垣は弘前大全共闘を結成してバリケード封鎖を敢行した。とは言え、行動から離れる学生が多く、福島医科大学の梅内恒夫が指導にやって来た。赤軍派の主要メンバーでもある梅内は武装闘争の必要性を主張し、植垣はそれに押される形で赤軍派に参加を決めた。1971年1月、組織づくりのため横浜・寿町でオルグ開始。この時オルグされた者には殺害された早大生・山崎順がいた。1972年2月、軽井沢駅で逮捕される。日本赤軍のハイジャック事件(ダッカ事件) で、「日本に残って、連赤問題を考えなければいけない」と拒否。98年、刑務所を出所した。現在は地元・静岡でスナックを営んでいる。


◆加藤倫教(当時19歳)
 愛知県刈谷市出身。兄・能敬と同じく愛知の名門・東海高校に入学。成績は中の中で、口数も少なく特に目立たない生徒だったという。担任教師には「俺は大学には行かない。工員になって実践と論理を一致させるんだ。労働の中にこそ何かがあるんだ」と話していた。2年生の頃に兄の影響で京浜安保共闘に入った。卒業直後、コーズマイト(粉状の爆発物)所持で逮捕される。釈放後は組織の指示で本栖湖のアジトへ。山岳ベースでの生活では、大槻節子に憧れていたという。兄が殺された時、弟Mと逃げだそうとしたが、相互の監視下のもと、兄弟といえども気軽に話せる状況ではなかった。逃亡の最中、「あさま山荘」に立てこもる。逮捕後、留置された小諸署で数ヶ月ぶりに風呂に入れられ、父親と同年代の取調官に最も早い自供を始める。1983年2月に懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放。現在は実家の農業を継ぎ、また野生動物保護、自然環境保護の団体でも理事を務めている。


◆加藤M(当時16歳)
 倫教の弟、すなわち「加藤三兄弟」の三男。県立東山工業高校に入学したが、その年の8月に父親と激しい喧嘩をして家を飛び出した。高校在学中には「社会主義研究同好会」を組織して、街頭デモを行なったりしていた。逮捕後、「遅れていた同士12人を始末しました」とあっさり自供。


◆青砥幹夫(当時22歳)
 弘前大生。同じ大学の植垣とは友人だった。爆弾作りに長けていた福島県立医科大生に指南を受け、植垣とともに手榴弾製造を教わる。その医科大生は森の妬みから追放されたが、青砥は森に可愛がられていたという。森の秘書役をつとめ、他のメンバーの発言を告げ口するなどしていた。逮捕後は遺体を埋めた場所を案内した。


◆奥沢修一(当時22歳)
 慶大生。杉崎とともに逮捕される。メンバーは運転免許証を持っている人間が少なく、彼が主に運転手役をやらされていた。そのため人や物資の運搬などは彼の仕事で、遺体を埋めた場所などもよく覚えていた。すんなり自供を始めた1人。


◆杉崎ミサ子(当時24歳)
 横浜国立大生の1人。革命左派では寺岡と夫婦仲にあった。2月16日、妙義湖畔にて奥沢とライトバンに立てこもった後に逮捕される。


◆山本保子
 中京安保共闘。殺害された山本順一の妻。2月初めに脱走し、3月に自首した。娘を奪われ、すでに殺害されたものと思っていたが、無事保護されたと知って泣き出した。


◆寺林真喜江(当時23歳)
 高卒後、女工となり組合運動に関わったのち、中京安保共闘幹部に。2月19日、軽井沢駅で逮捕。猟銃弾とピース爆弾を所持していた。懲役9年の判決を受ける。後に移監された和歌山刑務所では 150cmと小柄だが、がに股で歩くなど、男のような仕草で周囲を驚かせ、所長から「女らしくしなさい」と注意されることもあった。所内では事件のことについて聞かれてもニヤニヤして受け流していた寺林だったが、ある時「殺らなければ、殺られていた・・・」とポツリと言ったという。


◆中村愛子
 千葉県市川市の寿司屋の娘として生まれる.日大付属の高等看護学院在学時に5歳年上の永田に目をつけられ、伊藤和子、早岐やす子とともに京浜安保共闘に編入された。坂口に命じられ、山本夫妻の長女・Rちゃんを連れて榛名に向かったが、汚い身なりでタクシーの運転手に自殺志願者に思われ、高崎署に送られた。そこへ友人が迎えに来て、帰された。


◆伊藤和子(当時22歳)
 秋田県雄勝町の中学校長の娘。「日本看護学院の3人娘」の1人。名古屋へ岩田とカンパに行った時、「俺、もう逃げるよ」という岩田の言葉を、自分を試すものだと思い込み、「私は絶対逃げない」と言って山に戻っていった。2月19日に軽井沢駅で逮捕された。


◆前沢虎義(当時24歳)
 元々は東京・大田区の自動車部品メーカーに務める真面目な工員だった。だが工場に転がりこんできた坂口の影響を受け、他の工員らとともに京浜安保共闘の下部組織を結成した。2月7日に群馬県渋川市のバス停から逃亡した。3月11日に親類に付き添われて練馬署に出頭。


◆岩田平治
 向山茂徳とは高校時代の同級生で、一緒の予備校に通った。その後、東京水産大学に入学。1月12日に山を降りて、カンパのため伊藤和子とともに名古屋へ派遣された時、そのまま逃亡した。山岳ベース事件で最初の逃亡者だった。

―― 死亡したメンバー ――

◆尾崎充男
 1950年生まれ。岡山県児島市(現・倉敷市)出身。県立児島高校から東京水産大学入学。その頃、同大学では川島や坂口が京浜安保共闘を結成しており、彼も参加。その年の10月に学内闘争で逮捕されている。アキレス腱を切断して入院中だったため真岡猟銃店襲撃に加われなかったが、このことを気に病み、以前より積極的に活動するようになった。1971年9月、丹沢ベースに入山。「加藤を殴れ」と命じられた時、余計なことを口走ったことで、総括を求められる。警官役の坂口と殴り合い、敗北した後「ちり紙をとってくれ」と言ったことを永田に問題視され、縛られ暴行を受けた。最初の犠牲者。死ぬ間際に舌を噛み切った。(享年22)。


◆進藤隆三郎
 1950年生まれ。福島県郡山市出身。父親は建設会社の役員で、幼い頃は東北地方を転々とし、秋田高校を卒業後、東京・御茶ノ水のフランス語専修の日仏学院に入学した。その後、東大闘争に関わり、安田講堂事件で逮捕される。さらに地元の新潟大学のデモに加わり逮捕される。それ以後は赤軍派に加わる。ハンサムな男で、女性をオルグする役割を持った。またアジトとなるアパートを借りるのも、印象の良い彼の仕事だった。坂東部隊に所属し、M作戦にも参加。横浜のドヤ街で同棲していた元芸者の女がいたが、その女が逮捕され、メンバーのことをぺらぺら喋ってしまった。そうしたことや、組織と一定の距離を置いていたことで、森から「遅れている」と見られた。1月1日に暴行を受け死亡(享年22)。


◆小嶋和子
 1949年生まれ。愛知県知多郡八幡町出身。市邨学園短大卒業。1970年8月から日精工業に勤務。同僚で、短大の先輩でもある寺林真喜江にオルグされ、当時高校生だった妹と革命左派の川島陽子が建設した「中京安保共闘」(京浜~の地方組織)に加わる。組織では「小嶋姉妹」として知られた。運転免許を持っていたので運転手役を務めることも多かった。印旛沼の同志殺しにも関与。1971年7月、塩山ベースに入山。恋人だった加藤能敬とキスしているところを永田に見られ、怒りを買う。1月1日、死亡(享年22)。


◆加藤能敬
 1949年生まれ。愛知県刈谷市出身。東海高校から一浪して和光大学文学部入学。京浜安保共闘。あさま山荘事件で逮捕された加藤兄弟(倫教、M)は彼の弟達である。通称「加藤三兄弟」。彼らはそろって熱心な右翼思想の持ち主である父親に反発していた。父親は国語教師であり、財産持ちだが、倹約家で、質素な生活をこころがけていた。この父親は3月3日付で、勤務先の小学校を依願退職し、「息子が軽井沢にいるようなら、妻と刺し違えて死ぬ」と話していたという。能敬は1971年11月に是政アジトで逮捕され、12月に榛名ベースに入山。小嶋和子とキスしているところを永田に見られ、最初に総括を求められた。この時、森や永田は弟達にも兄を殴らせた。1月4日に死亡(享年22)。


◆遠山美枝子
 1946年横浜市生まれ。県立緑ヶ丘高校から明大二部(法学部)に入学。すらりとした美人で「お嬢さん」風に見られた遠山だったが、労組幹部だった父は早くに自殺していたため学校へはキリンビール本社で働きながら通った。在学中は重信房子と仲良くなり、揃ってブントに入る。67年佐藤訪越阻止羽田闘争、68年佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院反対闘争などに参加する。重信の恋人に高原浩之という男がいたが、重信が田宮高麿と親密になると、遠山が高原と付き合うようになった。1971年12月、新倉ベースへ。赤軍派では女王のようにふるまっていたが、早々と京浜安保共闘の永田に目をつけられる。髪を伸ばしていること、鏡を見ていたこと、化粧をしていたことなどを永田に問題とされるが、関係者の話ではもともと質素な服装を好んでおり、彼女なりの偽装だったと見られる。(享年25)。


◆行方正時
 1949年生まれ。滋賀県大津市出身。進学校である県立膳所高校から岡山大学理学部に進む。学園紛争の時には岡山大のリーダー格にかつぎあげられた。やがて暴力革命を志し、ベ平連デモや東大・安田講堂事件にも関わり逮捕される。3ヶ月後、釈放した行方は膳所高の先輩である坂東について赤軍派中央軍に参加した。森に中央委員に任命され、京都の学生のオルグを任されたが、京都ではすでに新しい風が吹いており失敗におわった(詳しくは日本赤軍事件 )。1971年12月、新倉ベースに入山するが、時計商の息子という坊ちゃん育ちをしたため、森に目をつけられることになった。(享年22)。


◆寺岡恒一
 1948年生まれ。文京区出身。私立芝高校から横浜国立大学工学部入学。この大学は新左翼系の「東のメッカ」と言われており、赤軍派にここの学生、卒業生は多かった。1969年の革命左派結成時から参加している。その年の9月には反米愛国行動隊としてソ連大使館を火炎瓶を持って襲撃、逮捕された。吉野・尾崎らとともに真岡猟銃店襲撃に関わる。1971年5月、逃亡先の北海道から東京に戻り、小袖ベースに入山。8月には脱走した同士を殺害した印旛沼事件にも関与。最終的にメンバー内でナンバー6にランクされたが、杉崎ミサ子にしつこくつきまとっていたことや、「森や永田がこけたら、俺がリーダーになる」などと陰で発言したことで総括を求められ、「俺は初めから風船ババア(永田)が大嫌いだったんだ。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」と発言したことで粛清される。寺岡の父親は「あさま山荘」に息子がいると思い、必死に呼びかけていた。(享年24)。


◆山崎順
 1950年生まれ。渋谷区出身。幼い頃、父親の仕事の関係でドイツへ。吉野と同じ都立日比谷高校から早稲田大学政経学部に入学。東大を目指していたが、その年は入試が中止となっていた。その頃から政治運動に興味を示し始め、中核派としての活動を開始した。その後、赤軍派に移り、坂東の直系の弟子となった。銀行襲撃(M作戦)にも積極的に加わる。1971年11月、新倉ベースへ。寺岡死刑の時、加わらなかったことを追及される。肋骨6本を折られるなどの暴行を受けた後、アイスピックで数回刺され、首を絞められて殺害された。森から「女性をめぐるトラブルが絶えず、組織から脱落しよう」としたとされ、死刑を宣告されたのである。(享年21)。


◆山本順一
 1943年愛知県岡崎市生まれ。県立岡崎北高校から北九州大学外国語学部へ、卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。保子と結婚。12月28日に親子3人で榛名山入りした。事件当時、生後2ヶ月だった長女は、愛知県の父親が引き取り育てた。(享年28)。


◆大槻節子
 1948年生まれ。神奈川県横須賀市出身。県立大津高校から横浜国立大学教育学部心理科入学。67年に「反帝平和青年戦線」に加入。その後「婦人解放同盟」「青年共産同盟」に加入。労働運動を目指してキャノンに入社後、71年頃からは革命左派組織部として活動。京浜安保共闘結成直後の米ソ大使館、羽田襲撃の際には、陽動作戦として都内各所で火炎瓶騒ぎを起こす役として、逮捕された。板橋区の志村警察署上赤塚派出所 を襲撃して逮捕された渡辺という男と恋人同士だった。かなりの美人だったが、暴行を受け永田に髪を刈られた。(享年24)。


◆金子みちよ
 1948年生まれ。横浜市鶴見区出身。県立鶴見高校から横浜国立大学教育学部社会学科に進学。混声合唱団で吉野と出会う。1968年頃から運動に参加し、吉野の救援活動をきっかけとして革命左派に入った。京浜安保共闘では「神奈川人民救援会」の責任者となる。1971年6月、小袖ベースに入山。永田の嫉妬から妊娠8ヶ月で殺害される。(享年24)。


◆山田孝
 1944年東京・大森区生まれ。その翌年一家は山口県に移り、県立西高校卒業後、京大法学部に進学。その後大学院に進み政治学を専攻していた。赤軍派の母体となった関西ブントの活動家、また京都府学連でも活動していた。ブントでは理論家として知られ、塩見孝也議長らの側近だったと言われる。理論に優れるということだけが良き指導者の条件ではないが、少なくとも森よりは格上の人物だった。1970年5月に結婚し、翌1971年11月に子どもが誕生した。赤軍派はやがて森が実権を握るようになるが、「一国革命論」の森とはうまく噛み合うことはなく、人民裁判にかけられ死亡(享年27)。


【印旛沼事件】

 京浜安保闘争では、山岳ベースでのリンチ事件よりも前に脱走したメンバー2人を殺害していた。

 1971年8月4日、永田は吉野に脱走した向山茂徳(20歳)と早岐やす子(21歳)を始末するよう命令した。

◆早岐やす子
 1950年生まれ。長崎県佐世保市出身。県立佐世保高校卒業後、上京して日大看護学院に進学。日大紛争をきっかけに過激派に出入りするようになり、伊藤和子、中村愛子とともに「日大看護学院の三人娘」として呼ばれた。1970年末、京浜安保共闘に。翌71年6月に小袖ベース入りするが、7月に脱走。
 
◆向山茂徳
 1951年生まれ。長野県辰野市出身で、諏訪清陵高校から新潟大学に進もうとしたが失敗した。高校の同級生に岩田平治がおり、そろって上京して早稲田ゼミナールに通った。岩田は大学に合格したが、向山はまたも失敗した。それからは新聞配達店で働きながら勉強をしていた。たまに岩田の学生寮に遊びに行くことがあったが、そこにいたのが川島や坂口で、彼も京浜安保共闘にオルグされた。小説家志望で、山岳ベースでの訓練などにはあまり興味はなかったらしい。1971年6月に小袖ベースに入山するが、4日ほどで下山している。

 やす子は7月に名古屋市の交番襲撃の下見に向かう途中の静岡県掛川市で、パンと牛乳を買うために車を停めたところ、突然運転席の小嶋和子を突き飛ばして脱走していた。永田は他にの女性兵士全員に「なんとしてでもやす子を見つけ出して来い」と命令をしていた。

 やす子は故郷の佐世保に帰ろうとも思ったが、東京行きの切符を買った。そしてしばらく板橋区の友人のアパートに同居させてもらっていたが、ここもやがてメンバーに突きとめられた。
 
 やす子が暮らすアパートに小嶋和子がやって来た。
「これぐらいのこと、詫びればすむと思うわ。みんな許してくれるわよ。向山さんも戻ってきたのよ」
 やす子はその言葉を信用して小嶋について行った。
 連れて行かれたのは永田のアジトである葛飾区新小岩のアパート。そこには中村愛子、伊藤和子、金子みちよ、杉崎ミサ子が勢ぞろいしていた。彼女たちは永田から「やす子の飲む紅茶に睡眠薬を入れろ」という命令を受けていたが、まさか殺害するとは思っていなかった。

 しかし、やす子はなかなか紅茶を飲もうとしなかった。しびれをきらした瀬木は「外に幹部が待ってるんだ」と連れ出した。
 外の車には吉野と寺岡が立っていた。やす子が車に乗りこむと、運転席に小嶋和子、助手席に瀬木政児、後部座席のやす子の両脇に吉野、寺岡が座った。

◆瀬木政児
 真岡猟銃店襲撃、早岐と向山殺害にも参加。10月、寺岡らとともに永田から交番襲撃を命じられると、会津若松市の鶴ヶ城前の交番に下見に行った。運転手であった瀬木は逃亡ルートを決めるため交番の周囲をぐるぐるまわっていたが、誤って電柱にぶつけてしまい、車を乗り捨てて他の2人を喫茶店に置いたまま逃亡した。京浜安保からは5人目の脱走者となった。

 車内での詰問や自己批判の要求に対して、やす子は「もうみんなにはついて行けない」ときっぱり言った。その時、瀬木はやす子の顔面を殴りつけ、吉野や寺岡も服をはぎ取って、胸や腹を殴った。
 やがて車は京葉道路の料金所にさしかかったが、ぐったりしたやす子に吉野が毛布をかけていたため係員は気づかなかった。

 車は印旛沼のほとりに入っていった。成田闘争 で、この辺には土地鑑があったからだ。男らはそこに死体を埋める穴を掘り始めたが、失神していたやす子がいつの間にか土手の方へ逃げ出していた。男達はすぐに追いつき、毛布をかぶせて暴行を加え、ビニール紐で首を絞めて殺害し、全裸にして埋めた。


 8月10日、向山のアパートに大槻節子が訪ねてきた。この日は弟が上京してくる日で、新宿駅まで迎えに行く予定があったが、大槻に飲みに誘われてついて行った。まだ学生でもなかった向山は、過激派がどんなに恐ろしいことをしているか、わかっていなかったのである。
 店では「岩田さん達と歓迎パーティーやりましょうよ」ともちかえられ、府中市の岩田のアパートに一緒に向かった。しかし、中にいたのは寺岡、吉野、瀬木の3人で、岩田の姿はどこにもなかった。3人は「なんで逃げたんだ」と向山を殴りつけた。血まみれで失神した向山は、やす子と同じくやはり小嶋和子の運転で印旛沼に連れていかれることになったが、途中で意識を取り戻したため、車内で首を絞められ殺害された。向山はやす子のいる場所から少し離れたところに埋められた。


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