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今日ボクが見た風景

刺客の凶刃

Category: 政治  

●浅沼の心底には有事の備えがあったのか

 刺されて、死亡するまでの時間が非常に短いのは、凶器が刃渡り34cmの脇指であった事である。
 一部の報道では、報道関係者の無知から、事件に遣(つか)われた「34cmの脇指」を、「34cmの短刀」と報道しているメディアがあったが、これは正しくは、短刀ではなく、「脇指」である。

 この辺の報道陣の、報道内容も、実にいい加減なところがある。
 かつて、朝日新聞の某記者は、犯罪に遣われた拳銃の「S&W」という表示のメーカー社名を、「スミス・アンド・ウエスタン」と記事に掲載して大恥をかいた事があった。

 こうした感覚はそれぐらい、日本人が武器から遠ざけられ、武器を遠ざけ、研究する機会を国民に与えなければ、それだけ平和になると考えた、平和主義の顕(あら)われである。
 だから、似非的(えせてき)な平和主義者達は、脇指を短刀に書き間違おうと、「S&W」(SMITH&WESSON)を「スミス・アンド・ウエスタン」と訳そうと、どうでもいいことなのである。無知といえば無知である。

 さて、銃刀法の既定からすると、短刀と脇指の区別は、刃渡り15cm以上30cm未満を短刀(俗にいう匕首(あいくち)などの九寸五分の物を指す)と言い、30cm以上60cm未満を「脇指」と定義している。したがって、「刃物の長さ」というのが大いに問題になるわけである。
 短刀と脇差の形や長さの違いは、次の通りである。



今日ボクが見た風景

短刀は形が「平造り」で、銃刀法では刃渡り15cmから30cm未満のものを言う。


(写真提供:大東美術商会)




今日ボクが見た風景

脇差は形が「鎬造り」で、銃刀法では刃渡り30cmから60cm未満のものを言う。

(写真提供:大東美術商会)



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刺客の凶刃に斃れた浅沼稲次郎と、「朝鮮戦争」と「日米安保」

Category: 政治  

●社会党右派と労働組合

 浅沼刺殺事件は、当時の時代背景と無関係ではない。当時は岸信介内閣から池田勇人内閣に政権が移る頃で、高度経済成長政策の推進と、60年安保闘争の真っ只中にあった。


 日本人はこの頃から、経済繁栄と共に、金銭を物神化する動きへと傾き、金を崇拝する風潮が社会全体を支配し始めた。


 金を儲ける為に何でもする。金儲けであるならば、何でも許されるという、倫理観の欠如が生まれ、この低俗な考え方は、政治にも企業にも、また国民の一個人ににも、広く蔓延(まんえん)することになる。


 これまでの日本の近代史を見てみると、日本人が精神的な支柱にしてきたものは、江戸時代では幕藩体制の権威であり、その中には、武士道を中核とする儒教的な思想が日本人を代表していた。


 そして、時代が明治を迎えると、維新以降、天皇は唯一の絶対神となり、日本国民は皇国史観を基盤とした富国強兵の国家論が打ち立てられ、やがてこの思想と共に、日本は太平洋戦争に突入する。


 先の大戦により大敗北を帰した日本は、戦後、天皇に代わりマッカーサーを崇拝する思想が植えつけられた。つまり、「人間崇拝論」が横行し、その後の吉田茂内閣以降は、経済至上主義が猛威を奮い、日本人に経済神話を植えつけた。そして日本人は、ひたすら「経済」を信仰するようになる。


 その経済信仰は、池田勇人内閣の「所得倍増計画」によって一段と強固な形に作り変えられ、これ以降日本人は、経済大国の道を歩み始める。


 しかし、それは倫理観を墜落させ、「拝金主義」と共に、経済至上主義へと墜落していく日本人の姿であった。日本の戦後は、この傾向が強くなり、多くの日本人は政治離れして、政治は他人の如しであった。経済を優先させて、儲ける為には、何をやろうと構わないという風潮が生まれた。言論の自由を楯に取り、特に共産主義は、戦後の日本の知識層に支持され、巨大な反体制的勢力となっていった。


 その一方で、右翼の活動が活発化していた。

 また、右翼の活動を活発にする要因は、中央公論に連載された、深沢七郎の小説『風流夢譚』や、同社の『思想の科学』など、天皇を愚弄(ぐろう)する掲載であった。


 特に『風流夢譚』の中には、天皇一家が処刑される場面が描写され得ており、これが右翼を憤激(ふんげき)させる材料になった。


 また、天皇制を批判する『思想の科学』は、天皇の批判だけの止まらず、天皇を侮蔑(ぶべつ)する内容を露骨にした雑誌であった。その内容は、今日の韓国の盧武鉉(ノ‐ムヒョン)体制や、同国の大学教授などや進歩的文化人が、日本国天皇に対し、「日王」と蔑視する以上に酷かった。


 当時、敗戦直後から中道を逸(いっ)して、赤化の方向に傾き始めた『朝日新聞』は、浅沼刺殺事件後、中央公論の嶋中社長の談話を載せ、『風流夢譚』を掲載した事は誤りであるとし、中央公論編集長を解任する旨を伝え、記者会見で次のコメントを載せた。


 「失礼(天皇陛下に対し)は失礼とし、年端(としは)も行かない人を、殺人行為におもむかせような風潮と言論を激しく憎む」と、自らの考え方を発表し、同氏の言は、昭和36年2月2日付の朝日新聞に掲載された。

 また、この中央公論の嶋中社長の談話を受けて、言論界では、大きな動揺が起った。


 それは評論家・河盛好蔵(かわもり‐こうぞう)らの言に見られ、「右翼の悪口を言うには、いまや生命の危険を覚悟しなければならない」(『朝日新聞』昭和36年2月2日付)と、今度は傍観者(ぼうかんしゃ)の立場で記事を掲載している。


 更に当時、政治漫談で売り出し中の漫才師コロンビアトップ・ライトは、「知人がおかしなメモを手に入れましてね。日教組の小林委員長、社会党の浅沼委員長、ほら、おまえさんたちは七番目にねらわれているというんです。まさかと笑っていたら、その三日後に浅沼事件だ、青ざめちゃったな」(『朝日新聞』昭和36年2月11日付)とコメントを掲載している。


 事実、警察の取調に対し、元大日本愛国党党員・山口二矢は次のように自供した。


 一つ、右翼の運動は結局、直接行動に訴え、自分の場合は、「一人一殺主義」しかないと考えたという。


その内容によると、


 一つ、浅沼の他に、日本共産党の野坂参三や、日教組委員長の小林武も暗殺目標にした。


 一つ、以上の直接行動は、自らの単独行動である。


 これらから考えると、浅沼を「日和見主義者」と観(み)て、労組に寄生する輩(やから)と観(み)ていた節があるようだ。これは山口二矢自身が革新していたのか、誰かの差し金であったのかは知らないが、今から振り返れば、的を得た見解であろう。


 そして、浅沼は何故刺されたのか?となる。


 まず、浅沼の日和見主義が挙げられるだろう。確かにこの時期、浅沼は時機(とき)の形成を窺(うかが)い、二股をかけた観(かん)があった。買国奴的な所も目に付いた。訪中の際、自らが中国訪問使節団団長として中国に赴(おもむ)き、また毛沢東と会見し、革命の情熱を露(あらわ)にしたことであった


 この時、浅沼自身、自分の都合のよい方に解釈し、「日和見主義」で、一方に於いて、不満層(具体的は農組連や炭労やタクシー組合。それを雄弁に物語るのは、炭鉱合理化で、北海道芦別炭鉱のスト支援の浅沼の揮った熱弁は不満層を大いに沸き立たせた)の受け皿として、特に日本の労働者を取り込む形で動いていた観があった。


 これは、政治運動や労働運動で巧妙に用いられることが多いのだが、今でもこの手法が、労働組合運動などにも見られる。


 組合幹部が権力の頂点に立ち、「労働貴族」と称されるのは、この為だ。

 要するに、組合運動をすると、組合員から集めた組合費から、使途不明金を派生させて、高利貸し以上に、暴利を貪(むさぼ)る事が出来るからである。また、戦前・戦中の政治家や軍人が、国民の血税を湯水の如く使い、その金で、東京赤坂の高級料亭で、タダで芸者を抱くというような、「役分」というものもあろう。つまり、組織というものは、「役分」という甘い汁に群(むら)がる輩(やから)が、必ず居るというものである。


 これは今日の革新政治家や、かつての全共闘や労働組合などを、影で誘導し、指導した、ブルジョワ路線をひた走る、進歩的文化人らに見られる、「二股をかける手法」だ。最初から二足の草鞋(わらじ)を履いているのである。

 例えば、日教組(日本教職員組合のことで、全国の国公私立の幼稚園から大学までの教職員で組織する労働組合で、1947年結成)の組合員が、現場教師の代表として、日教組幹部や役員となり、衆参両議員の何(いず)れかに立候補して、国会議員になっていく、この構図である。この構図こそ、戦前は聖職と言われた教師が、戦後は労働者の名を語り、国会議員に変身する、あの欺瞞(ぎまん)の構図である。


 つまり日教組は、組合の幹部や役員が、組合を私物化し、末端の教師である組合員を利用して、県代表となって県会議員や、国の代表となって国会議員に栄達するまでの踏み台であり、一個人の野望を達成する為の道具に、組合が利用されているに過ぎないのである。ここにどうして、庶民を代表とする民主主義の原理が働いているのであろうか。これでは、底辺の労働者を喰(く)い物にする、まさに資本家の、あの露骨な野望、そのものではないか。


 また、連合(全日本民間労働組合連合会の略)も似たようなもので、ここの幹部員や役員は組合員を利用し、個人的な野望達成の為に、組織を踏み台にして、国会議員に打って出る時機(とき)を、ひたすら待つのである。
 もう一方、連合と称した、日本労働組合総連合会なるものがある。これは1989年に、官公労組が加わり、発足したナショナル・センターである。何(いず)れも幹部は、己一人の野心・野望の為に組織を踏み台にし、組合員を酷使し、徹底的に利用する。


 以上の、こうした組合運動に、社会党右派が関与し、オルグとして、組合活動の組織者として、これを喰い物にする為に活動したとしても、何の不思議もないだろう。


 その為に、一時金闘争を仕組んだり、また、共産党系の組合幹部を排除する為に、組織者は、その排除の為に躍起(やっき)になるのだ。


 ここで再び、アメリカの労働組合組織を思い出して頂きたい。アメリカでは組織者(オルグ)が年俸で働くと既に述べた。日本では、各政党が労働組合運動に肩入れし、労組から某(なにがし)かの政治資金を受け取っていることは、あまり報じないが、少なくとも、当時の社会党は、浅沼が行動的に全国を飛び回り、炭労などのスト支援に出向いている。これは社会党自らの、無料奉仕であったのだろうか。


 小学生でも知っている事だが、民主主義体制を維持する為に、その政治システムの運営に「一円も金が懸らない」と思っている御仁(ごじん)は、一人も居るまい。

 

●二股をかけた進歩的文化人の思惑

 さて、進歩的文化人の論は、「大衆は無知である」と定義する。
 また、「無知ではないけれど、知識はあり、しかし、無知の自覚症状がない」とも言う。それに大衆は、自分の事は棚(たな)に上げ、他人の欠点ばかりを言う。それはあたかも、「新聞の投書」のようにと……、大衆をこき下ろす。

 大衆の無知は、何処に見られるかと言うと、地球温暖化や環境汚染の目から、環境を、地球を汚す人間が絶対に赦(ゆる)せないと言いながら、実は、自分はヘア-・スプレーなどの噴霧器を、しょっちゅう遣(つか)い、また洗濯廃水や台所洗剤廃水をバンバン流す。これこそ、大衆の「無知の最たるものではないか」と言うのである。

 また一方、選挙で金を集め、その金をバラ撒(ま)いて、票を集める自民党や公明党に投票しておきながら、これを「金権選挙だ」と罵(ののし)り、他人の悪を徹底的に批判する。こうした大衆こそ、羞恥心のない人間の集まりで、これを正しく教導しなければならないとするのが、進歩的文化人の大方の意見である。そして彼等は「デモクラシーの厳守」を訴える。


 しかし、この言にも矛盾はある。


 それはデモクラシーそのものが、「大衆」を指しているからだ。大衆とは、「デモス」の事であり、「大多数」を指す。また、多数支配の事である。民主主義のルールから行けば、多数支配によって、票を集めた自民党や公明党に落ち度はない。


 何故ならば、国民に大多数の意見で、かの政党が選ばれたからだ。
 デモクラシー民主主義が、最も問題にしなければならい事は、大多数の大衆が、どう考え、どうこう行動するかという一点のみである。これを抜きにして、デモクラシーの存在はあり得ない。


 ところが、進歩的文化人は、これを「デモクラシーの冒涜(ぼうとく)」と決めつける。そして問題の所在がボケて、大衆は当惑する。その大衆を当惑させる手段に用いられるのが、一見、労働者や革命家の味方のようなポーズをする進歩的文化人やシンパサイダーの態度である。


 今日の進歩的文化人の矛盾したポーズを追うと、昭和35年(1960)10月12日、三党首大演説会の日比谷公会堂での演説中に、社会党の浅沼委員長が何故刺されたのか、明白になって来る。


 進歩的文化人は、デモクラシーの根元に、「エゴイズムの社会化」(あるいは悪しき個人主義の大衆化)という実体が横たわっている事を見逃している。しかし、進歩的文化人は、デモクラシーの根拠に、エゴイズムが働くことは原則的に否定する。


 彼等の言うデモクラシーは、最終票の「一票」に還元される大多数者の原理でなく、知識や真理を把握し、それに基づいて行動する、知的選挙民の総括の元に置かれた時のみ、このデモクラシーは正しく機能するとして、したがって選挙民である大衆を、自分達の知識をもって、自分達が彼等を正しく誘導しなければならないと自負している。彼等の言う「知的人間」の根拠は、ここに由来する。何と、大衆を馬鹿にした、横柄な論理ではあるまいか。


 こうした自負が、大衆を更に混乱させる。


 それは進歩的文化人達が、赤化に走る『朝日新聞』や、『岩波書店』の学術的な権威を借りて、大衆誘導している事である。その大衆誘導の事実に、彼等の掲げるマルクス・レーニン主義がある。そして不思議な事は、社会主義が一種の全体主義的な思想でありながら、デモクラシーの名を語り、「民主主義共人民和国」などという、空想的国家の政治理念を、国名にする国が、戦後、中国大陸と朝鮮半島に登場した事である。


 こうした国家の登場を許したのは、フリーメーソン社員だった蒋介石が、赤軍との内戦に敗れ、台湾に逃亡したからである。


 戦後の日本には、社会主義性善説や社会主義正義説、あるいはマルクシズム絶対視に凝(こ)り固まった大学教授(立命館はその巣窟であった)や文化人が多く居た。彼等はソ連を尊敬して止まなかった。


 また中国に、異常なまでに親しみを覚え、北朝鮮に親愛のアピールを送り、この社会主義国家が、これまでの並みの国家より、一段も二段も上の政治体制だと信じ、特に、ソ連に至っては「ソ同盟」と、敬愛の念を寄せて居た者が少なくなかった。


 例えば『前衛』に、これを見ることができ、また『朝日ジャーナル』などにも、これを見ることができる。事実『前衛』は、1958年初頭まで、戦後から十年間、一貫して「ソ同盟」を敬称している。また『朝日ジャーナル』も、似たような表現で、マルクシズムを絶賛し、現場のマルクシストとは一線を画(かく)しつつも、良心的なポーズを取り、学生を、労働者を、貧農を、末端分子を、暴力革命へと煽(あお)り立てた。


 そして、社会主義国家とソ連礼賛に明け暮れ、特に『朝日ジャーナル』は、70年安保闘争(1970年にも条約の延長をめぐって反対運動が行われた)の時、学生や労働者に社会主義性善説や社会主義正義説を大いにアピールした。


 そして今、あの当時の『朝日ジャーナル』の編集長は、今どうしているか。あるいは、これに追随した当時の進歩的文化人の暮らしぶりはどうか。


 まさに彼等が最も毛嫌いし、卑しいとしていたブルジョアに籍を置き、彼等自身は晩年の、「わが世の春」を謳歌(おうか)しているではないか。名誉と金を手にしたではないか。


 二股かけた、進歩的文化人やシンパサイダー達は、いまNHKの解説員になったり、民放のニューキャスターなどになり、「知的人間」と評されて、取り巻きから傅(かすず)かれて、その羽振りは、まさに拝金主義者の、それではないか。


 では、かくも進歩的文化人が、何故デモクラシーに入れ揚げるのか。


 それは、日本の戦前・戦中にあった「神を敬(うやま)う」ことを止めて、人間を敬う「人間崇拝」の思想が横たわっているからだ。


 例えば、これは芸能界と陸続きになっている、スポーツの世界を見れば一目瞭然(りょうぜん)であろう。つまり、デモクラシーは、野球のうまい奴、ゴルフのうまい奴、サッカーのうまい奴、相撲の強い奴がプロ選手になり、また柔道の強い奴や、その他のスポーツ競技で話題性のある選手や、オリンピック入賞選手を、「芸能人並み」に扱って、大スタートして崇(あが)める事である。


 崇める対象は、あくまで人間である。スタートして祭り上げられた有名人を崇めるのであって、神の崇めるのではない。これ則(すなわ)ち、アメリカの持ち込んだデモクラシー。


 人間の作り出した、スポーツ競技や格闘技競技において、また芸術や芸能において、音楽や娯楽において、その頂点の座に着く人間を作り出し、ひと握りのエリートを英雄として崇(あが)める、こうした原理が働く世の中を、「デモクラシー」という。スターが誕生し、大衆の頭上に輝くことだ。


 その点においては、碁や将棋のプロ棋士も同様であり、その証拠として、NHKの教育テレビやBS2では、毎日ように、組織の底辺の裾野(すその)を広げる為に、名勝負が企てられ、解説が行われている。つまり、背後のは政治的な駆け引きと圧力が掛かっているのである。


 いわゆる、娯楽としてのプロスポーツ競技や、碁や将棋の名勝負は、どうすれば決勝戦を華々しく競い、ファンを喜ばし、満喫させる、ここには芸能に通じるものが横たわっている。


 このように、デモクラシーの背後には、芸能界と地続きになった社会システムが確立しているのである。

 また、顔のいい奴、スタイルのいい奴、あるいは容姿端麗(ようしたんれい)で、その他の庶民とは、ケタ違いに群の抜いて演技のうまい奴を舞台俳優か、映画スターに押し上げ、あるいは歌のうまい奴を、かつての戦前・戦中の国家神道的神主主義に成り変わって、スターに祭り上げて、「国民の英雄」として崇め、彼等人間を拝む事を言うのである


 民主主義の本場であるアメリカでは、映画スターが大統領になったり、州知事になったりする現実は、要するにデモクラシーが、芸能界と地続きになりうるシステムが出来上がった政治体制が、その背後で働いているということだ。それは俳優出身の大スターが、政治能力があるかないか、それは二の次である。


 要するに、被選挙人は政治的経済的な能力の関係なしに「お飾り的な存在」なのである。大衆に名の知れた、有名人であればよいのである。有名人の学力的かつ知力的な能力の不足分は、その下に控えている官僚が行うからだ。ここにデモクラシーと官僚の結びつく要素がある。俳優出身の大スターは無能でも、官僚の作った作文を議会で朗読すれば、それでよいのである。


 事実、芸能界やスポーツ界出身の国会議員や、府知事、県知事の中には、高校レベルの基礎解析は愚か、数学では基礎的な中学レベルの連立方程式や因数分解が出来ない議員も居るからである。この学力をもって、知力をもって、国際政治を論じ、経済学の複雑な高等数学の論理を有する経済を論ずるのである。議会制民主主義というのは、何とも奇妙な政治システムではないか。


 しかし、大衆は有名人の名前だけに眼を奪われている為、学力不足、知力不足の芸能人でも、議員候補の一人として投票してしまうのである。


 そして、デモクラシー下では、背後関係とし、て芸能界が間接的に、政界や財界に絶大な作用を及ぼして居る事である。


 この流行を日本に持ち込んだのが、アメリカのハリウッド映画であった。差し詰め、ロンドン生れのユダヤ系アメリカ人・チャップリンなどは、人間が神格化される、最初の人間であったであろう。何故なら彼は、映画『独裁者』で、ヒトラーを、彼の演技の持てる総(すべ)てを駆使して侮蔑(ぶべつ)し、徹底的にこき下ろしたからだ。


 大衆娯楽の殿堂、ハリウッドでは、ある意図をもった試みがなされ、大衆を誘導する。大衆は無自覚のまま誘導される。その誘導には一つの流脈によって、人工的に画策する企てが隠されている。しかし、日本人はこの事実に気付かない。


 アメリカ映画を見ると、必ず黒人の俳優が大活躍する場面が登場する。この傾向は、ハリウッド映画に非常に多く、時には、黒人が白人の優位に立って、物語を展開するストーリーが組み立てられている。日本人はこれを見て、アメリカは自由で平等な国だと思う。しかし、これは見せかけである。


 今日のアメリカ社会で、黒人【註】黒人であっても、白人らしく振舞う黒人は、黒人として扱われない。彼等は黒人であっても、「白人」なのである。日本人はこの区別がつかず、実際に虐げられている黒人の実像を知らない。そして黒人以下に扱われているのが、日本人などの、黄色い肌をした東洋系に有色人種である)やその他の有色人種が優遇されることは決してない。ないが故に、「映画」という虚構の世界の中で、平等に、同等に、同格に扱うという、まやかしが行われているのである。


  そして、ハリウッド映画では、世界的にユダヤ化を押し進める、ユダヤ系アメリカ人の映画監督のスティーヴン・スピルバーグと続く。彼の映画作品の多くは、「インディー・ジョーンズの冒険」などからも分かるように、ストーリーの中にナチス・ドイツを登場させ、それを徹底的に叩く場面が登場するからだ。


 子供達に人気のある、ディズニー・アニメも、この類(たぐい)だろう。ディズニー・アニメ『オズの魔法使い』は、その最たるものだった。


 また、一見反戦映画に思える、アンネ・フランクAnne Frank/1929~1945)をモデルにした『アンネの日記』である。この映画は、ナチスの迫害を逃れて、家族と共にオランダ・アムステルダムに隠れ住んだ1942年から、二年間の生活記録を題材にした『アンネの日記』である。


 多くの日本人は、『オズの魔法使い』と『アンネの日記』。更には、『ダーウィン進化論』が反ダーウィニストの宗教的偏向性が問題になっているか、全く知らない。


 若い親達は、こうした裏側のカラクリを知らないで、我が子に、この種の児童書を買い与えている。しかし、購入し、読み与えるならば、裏側の解釈を知った上で、その「種明かし」も、同時に聞かせるべきで、現代のアメリカの政治の裏では、キリスト教とユダヤ教の宗教戦争が起っている事も、合わせ以て、教えなければならない。


 デモクラシーとは、神が、神の座から転落し、それに代って、人間が神として崇(あが)められる政治システムなのだ。今日の日本人の意識の中に、「一億総芸能人」の感覚は、デモクラシーの持つ「エゴイズムの社会性」に由来している。そして、これこそ、進歩的文化人が指摘した、「一億総中流的な、エゴイズムの社会化の見落し」ではなかったか。


 人間は本来、利己的な生き物である。幾ら主義主張を力説しても、詰まる所は「金」である。そして「金」以上の、人間を幸福にするものは、未(いま)だに見つからないと心の中では思っている。多くの現代人は、金以外に自分の信ずる信念を貫く、意志力は存在しない。これは思想の左右に関係ないようだ。


 この、誰にでも見抜ける図式で、昭和35年(1960)10月12日の刺される、一秒前の浅沼を見た時、「何故刺されたか」という命題が、明確になるではないか。


 刺される前の浅沼は、「アメリカ帝国主義は日中の共通の敵」と断言していた。これは昭和30年3月の中国訪問の際に、中国訪問使節団団長として訪中し、毛沢東と会見して、革命の情熱を露(あらわ)にした時からだった。


 その一方、浅沼は労働組合のストにも駆け付け、特に北海道芦別では炭鉱スト支援に熱弁を揮(ふる)い、更には、安保改正に反対する社会党議員団の先頭を切って、無産主義を大々的にアピールした。


 しかし、無産運動ならびに日本革命は、その後、一度も成就されることがなかった。


 世界情勢は、日本叩きの方向に動いている。特に東南アジアでは、日本叩きが克明になり、朝鮮半島では、反日感情が激化している。今日でも朝鮮半島では、日本を未(いま)だに、「日帝」と呼び、日本国天皇を「日王」という呼び方する実情は、これを雄弁に物語っている。この反日感情は南北両国にもある。


 特に韓国の場合、この国の文化人達は、大統領自らが先頭になって、大学教授などの文化人も巻き込んで、天皇を侮辱する発言が多く目につく言動を発している。そして、韓国の国民を大衆誘導するのは、まさに日本の進歩的文化人の如し……である。それは、大衆が、まるでヌーの群れのように誘導され、煽動される媒体であるからだ。


 さて、浅沼が社会党で辣腕(らつわん)を奮って居た時の、60年安保闘争から十年前、朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発した。1950年6月25日のことであった。


 そしてこの頃、「日本にも、どうやら革命に時期が近付きつつあるのは間違いなさそうだ」という重大情報が流布されていた。


 この時、もし朝鮮戦争に対して、アメリカの参戦がなかったならば、この時に流されていた重大情報は、単なる架空の事ではなく、仮定から現実として、転化していったのではなかろうか。


 ソ連、中国、朝鮮半島、台湾、フィリピン、インドネシアなど総(すべ)ての国が、共産化していく中で、日本だけが孤塁(こるい)を守る事が出来たか否か、非常に疑問である。


 東南アジアは問わないとしても、朝鮮半島が金日成(キム‐イルソン)の軍隊により、全半島が統一されたならば、その後の極東アジアの事態は、今日とはおおよそ懸(か)け離れたものになっていたであろう。特に、日本の変貌は、今日に見るような、物質的・経済的な発展はあり得なかったであろう。


 当時のアメリカの選択肢は、東アジアに於いて、安易な共産化は認めないことを、選択したことだった。その為の朝鮮戦争の参戦であった。


 このプロセスに於いて、1950年のアメリカの朝鮮戦争参戦、更には、60年の安保条約は、「朝鮮戦争」「日米安保」がワンセットになったものであり、これにより、日本は60有余年以上にも亙(わた)る、平和と安定と繁栄を築く事が出来たのではなかったか。


 しかし当時、「朝鮮戦争」と「日米安保」が、ワンセットという世界観を持つ政治家は、日本には、そうざらには居なかった。


 むしろ、この点の理解の欠如が甚だしく、差し詰め、社会党の浅沼などは、その世界観の欠如した人物の、第一人者に挙げる事が出来るであろう。


 浅沼は、当時の国際情勢と日本の戦後史を正しく正視していなかった。この意味で、浅沼を「人間機関車」とか、「大衆と共に歩いた政治家」と持て囃(はや)し、その後の文化人や有識者が褒(ほ)めちぎっても、この事実を抜きにして、浅沼を軽々しく、「大衆と共に歩いた英雄」とするには、あまりにも片手落ちであろう。

 

●浅沼稲次郎の生い立ち

 浅沼は明治31年、東京三宅島のある小さな村落で生まれた。父の名は半次郎と言い、神着村の村長をしていた。この半次郎と、愛妾・浅岡よしとの間に生まれたのが、稲次郎だった。
 父半次郎は稲次郎の前途を考え、中学に入学する前、稲次郎とその姉を認知した。
 やがて稲次郎は、三宅島から明治44年上京し、府立三中に入学する。

 稲次郎は演説が好きだった。三中に入学した時の秋、彼は学校の雄弁大会に出演した。その時の模様を『私の履歴書』の中に、「みんなに煽(おだ)てられて出たが、すっかり上がってしまって、やたら甲高(かんだか)い声で喋り、わが生涯初の演説は、散々なものであった」と綴(つづ)っているが、本心は満更(まんざら)でもなく、これが弁論への第一歩であった。

 大正五年、同校を卒業して早稲田予科を受験しようとするが、父親に反対され、陸軍士官学校を二回、海軍兵学校を一回、受験するが何(いず)れも失敗した。
 その後、稲次郎の進路としては、早稲田大学への志望が募るばかりだった。
 大正七年、稲次郎は早稲田予科の編入試験に合格した。父親の了解を得ずに早稲田に進んだ為、仕送りが打ち切られ、彼は東京・馬喰町(ばくろちょう)で、友人の経営する文具店で働きながら大学へと通った。

 早稲田では、まず、相撲部とボート部に入部し、更には同校の雄弁会に入った。そして、そこで頭角を顕わしたのは、相撲やボートではなく、雄弁会での弁論であり、彼が政治に興味を抱いたのも、この頃であった。

 早稲田の「雄弁会」は、東大の「新人会」が発足したのに対抗したものだった。そして、早稲田では、高橋清吾(たかはし‐せいご)、北沢新次郎(きたざわ‐しんじろう)、大山郁夫(おおやま‐いくお)らの教授陣を中心に据え、「民人同盟」を結成した。
 特にこの中でも、兵庫県生れで、大正デモクラシーの指導者として名を馳(は)せた大山郁夫は有名だった。
 大山は戦前、熱狂的な社会主義者となり、労働農民党委員長を務めた。戦時下、日本を売り渡す買国奴的社会主義者としてアメリカへ亡命し、終戦後、日本の敗戦に乗じて悠々(ゆうゆう)と帰国した。戦後は革新票を取りまとめ、参議院議員や、平和擁護日本委員会会長を歴任した。

 「民人同盟」に参加した学生は、浅沼稲次郎の他に、三宅正一(みやけ‐かずまさ)、稲村隆一(いまむら‐りゅういち)、田所輝明(たどころ‐てるあき)らであった。しかし、「民人同盟」はやがて分裂の憂き目に遭(あ)い、浅沼は、次に北沢新次郎教授を中心とした「建設者同盟」を結成し、新たな政治運動を展開した。
 浅沼の性格は、理論派と言うより行動派であり、「理論を捏(こ)ね回す者は、革命を毒する者だ」と考えていた。

 そして浅沼の行動的性格は、大正11年、日本共産党に入党した。しかし、共産党の社会科学を論拠にした論理的な体質に嫌気が差し、脱党して、自らの行動的エネルギーを農民運動へと向けはじめる。
 浅沼は日本農民組合に参加し、千葉、新潟、秋田と各地を飛び回る組織者生活をする。
 また、鉱山労働運動は、浅沼が早大在学中から行っていた運動であり、既にオルグ的な地位にあって、足尾鉱山の争議を指導した。

 その先頭に立って、大ストライキを指導した浅沼であったが、この争議には、多くの犠牲者が出た。そして検挙され、懲役五ヵ月の実刑を於けた。この事件で、浅沼を弁護したのが、片山哲(かたやま‐てつ)、麻生久(あそう‐ひさし)、三輪寿壮(みわ‐じゅそう)らであった。

 大正14年(1925)、普通選挙が成立し、ようやく男子のみ、それが実現をみた。
 この頃から浅沼は、労働運動から政治運動へと転換した。
 翌年の3月、浅沼は日本初の単一無産政党である、「農民労働党」を結党・組織した。しかし、結党間もなく、左翼の残留派、中間的な日本労農党、右翼の社会民衆党、極右の日本農民党へと分裂した。

 無産政党は分裂と結合を繰り返し、浅沼はその中で日本労農党に止まり、その後、日本労農党は、日本大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党と変化して行く。その中で、浅沼は日労系の主流を歩いた。
 昭和8年、浅沼は東京都議会議員に当選する。また、昭和11年には、東京第四区から衆議院議員に打って出て、当選し、国政に携わるようになる。

 戦後における浅沼の活動は、無産政党系の諸派が連合して結成した社会民主主義政党での、接着剤的な存在だった。昭和22年(1947)5月、初代委員長・片山哲を首班として、連立内閣により、一時政局を担当した。しかし、僅か八ヵ月にして、同じ与党の予算委員長をしていた鈴木茂三郎(すずき‐もさぶろう)の造反(ぞうはん)にあい、連立政権は敢えなく潰(つい)える。

 その後、左派と右派の対立は激しく、日本社会党は、左右の対立に於いて、異なった二つの政策がある為、「二本社会党」と蔑称で揶揄(やゆ)されるようになった。そして、左派と右派の接着剤として、対立する度に駆り出されたのが浅沼であった。

 日本の敗戦により、戦前から戦時中にかけて獄舎に囚われていた、共産党指導者や無産主義者らは、次々に解放された。特に、日本共産党の創立に参画した徳田球一(とくだ‐きゅういち)らは得意満面の笑顔で裟婆の世界に復帰した。彼等は、日本の敗戦を手放しに喜んだ。

 一方、その他の革新陣営でも、日本の敗戦を利用して貪欲な動きを見せ始め、河上丈太郎(かわかみ‐じょうたろう)、松本治一郎(まつもと‐じいちろう)、西尾末広(にしお‐すえひろ)、平野力三(ひらの‐りきぞう)、水谷長三郎(みずたに‐ちょうざぶろう)、河野密(こうの‐みつ)らが、日本社会党結成の準備を始めていた。

 また、こうした西尾、水谷、平野といった旧社会民衆党系と、鈴木茂三郎(すずき‐もさぶろう)、加藤堪十(かとう‐かんじゅう)、黒田寿男(くろだ‐ひさお)といった旧労農系の連中がおり、彼等は旧社会民衆党系の出身者と、常に論争を繰り返し、意見が合わなかった。

 そうした中で、浅沼は黙々と沈黙を保ち、組織を充実させ、体裁を形作る事務方として党造りに邁進(まいしん)した。
 こうした地味な努力が認められ、昭和23年1月には西尾末広の後を受けて、書記長に就任した。
 その時の浅沼の評価は、「まあまあ居士(こじ)」であった。その後も、党内の左右の抗争激しく、昭和26年(1951)には、遂に分裂を招くが、昭和30年(1955)には再統一をする。

 また、「闘う社会党」を標榜(ひょうぼう)し、日本を東西に駆け巡り、やがて「人間機関車」の異名を取るようになった。行動派の浅沼は、昭和35年6月の安保改定に反対する社会党議員団の街頭デモでも先頭を切って行進した。

 浅沼は日本社会党右派の領袖(りょうしゅう)として活躍し、昭和35年3月24日、党大会に於いて、鈴木派の絶大な支持を得て、西尾末広の後を受け、遂に委員長に就任した。
 しかし、社会党右派は「労働貴族」と呼ばれた、労働組合を組織したり、加入を促したりする、特権的な組織者集団であり、その背後には莫大な金が動いていた。労組を組織票にして、この時、日本社会党は「野党第一党」を企てていたからである。





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Category: 政治  

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毎日新聞社カメラマン・長尾靖(ながお‐やすし)の撮った『浅沼稲次郎(あさぬま‐いねじろう)を刺殺する山口二矢』(あるいは「浅沼委員長暗殺」とも)というのがある。
 この写真は、浅沼稲次郎社会党委員長を襲う山口二矢(やまぐち‐おとや)が、刃渡り34cmの脇指で、浅沼委員長を刺殺する瞬間を捉えた衝撃的なものである。

 浅沼委員長は、昭和35年(1960)10月12日、三党首大演説会の日比谷公会堂での演説中、演壇に駆け上がった十七歳の右翼少年の凶刃(きょうじん)に斃(たお)れた。この模様を捉(とら)えた衝撃的瞬間の写真は、即座に通信社を介して、全世界に報道された。

 凶刃に斃れた浅沼は、脇指で左胸部を二箇所刺された。そして直ぐさま、近くの日比谷病院にパトカーで担ぎ込まれたが、既に死亡しており、同日の午後3時40分、死亡と認定された。
 刺されて、死ぬまでの時間は、僅かに15分前後であったと推定される。
 この衝撃的瞬間を捉えた長尾カメラマンの写真は、当時の大特ダネとなり、1961年度の、報道部門関係者に送られる「ピュリッツアー賞」に輝いた。

 ピュリッツアー賞の創立者は、かつて新聞事業で巨額な財を築きあげた、ハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人ジョセフ・ピュリッツアー(1847~1911) が創立したものである。
 この賞は、1917年以後毎年、アメリカ合衆国のマスメディアを通じて、その年、最も優れた仕事をしたジャーナリストや作家らに贈られる賞である。

 新聞事業で巨大な財を築き上げたジョセフ・ピュリッツアーは、十九世紀末のニューヨークを舞台に、新聞王ハーストWilliam Randolph Hearst/アメリカの新聞王と呼ばれた。1903~07年下院議員となり、また二十余の新聞および多数の雑誌や放送局や通信社などを経営した。1863~1951と派手に売上を競いあった人物である。

 一方、ジョセフ・ピュリッツアーの紙面造りは、最初、愚劣と評され、然(しか)も、あまりにも煽情的な紙面づくりは、イエロー・ジャーナリズムとまで称され、悪評が高かった。
 しかし晩年、ジョセフ・ピュリッツアーはコロンビア大学新聞学科の開設に寄附金を提供し、報道の質の向上を考え、その努力に精進して、彼の死後、遺言をもとに、同大学内に表彰の為の選定委員会が設けられた。

 その表彰分野は、報道が8部門、文学が5部門、音楽が1部門の計14部門からなり、日本人の受賞者としては、60年安保当時の、浅沼委員長暗殺の瞬間を撮った、毎日新聞社カメラマン・長尾靖の『浅沼稲次郎を刺殺する山口二矢』が最初だった。
 また、それほど報道部門の中でも、非常に衝撃の大きかった写真であると言えよう。

 浅沼刺殺事件が起った時、筆者は小学校四年生であった。
 学校帰りに、いつものように通いの模型屋に立ち寄った時、その模型屋のオヤジが、ラジオ放送を聴いていて、そこに筆者も居合わせたのである。
 模型屋のオヤジは興奮気味に、筆者に何かを喚(わめ)いていた。最初は何を云っているか分からなかったが、同じ事を子供にも分かりやすいように語ってくれて、「社会党の某代議士」が刺されたことをあげ、そのオヤジ曰(いわ)く、興奮気味に「早く帰って、お父さんか、お母さんに知らせなさい」だった。
 その時は、直ぐにはピンとこなかったが、翌日、新聞の第一面に、事件の写真が大写しで掲載されたのを見て、子供ながらに、表現できない震(ふる)えるような衝撃と戦慄(せんりつ)を感じたものである。
 爾来(じらい)、筆者の頭の中には、この衝撃映像が、生涯こびりついて離れないのである。

 

●浅沼稲次郎刺殺事件の全貌

 昭和35年10月12日、東京・日比谷公会堂で、「三党首大演説会」が行われた。ここに参加した党首は、演説順に、第一番手の演説者・民主社会党の西尾末広(にしお‐すえひろ)。第二番手の演説者・日本社会党の淺沼稲次郎。第三番手の演説者・自由民主党の池田勇人(いけだ‐はやと)だった。

 この三党首大演説会は、三党首の立会演説会でNHKテレビ(ラジオでも放送)で、一部始終を放映する予定になっていた。
 そして事件が次のようにして起った。

 まず、一番手の演説者の西尾末広民社党委員長の演説が終り、二番手に社会党の浅沼稲次郎が壇上に上がった。
 会場の一部には、右翼団体の一団が占拠していて、一番手の演説者である西尾にヤジを飛ばしていたが、二番手の浅沼が壇上に上がると、ヤジは一層激しくなり、場内は騒然(そうぜん)となった。また、右翼団体の中には、壇上に飛び上がって、ビラを撒(ま)く者まで顕(あら)われる始末だった。

 浅沼が現れた時、あまりにもヤジと罵声が激しくなり、NHK司会者は、浅沼に演説の中断を促し、前列の記者席ですら、話が聞こえないからと、会場内の静粛(せいしゅく)を呼び掛けた。それでも激しい罵声(ばせい)は収まらず、事件は、浅沼が再び演説を開始した時に起った。

 浅沼が演説を開始した直後、山口二矢は、舞台に向かって右側から駆け上り、更に、演壇に駆け上がって、短刀を構えて、一回、二回と体当たりし、遂に二回目の体当たりで刺殺する。
 この時の衝撃の、ピュリッツアー賞に輝いた長尾カメラマンの写真は、二回目の体当たりの瞬間を捉えたもので、浅沼はその直後、凶刃に斃(たお)れた。

 しかし、これは一瞬の出来事であり、その攻撃力の速さは、周囲の凡夫(ぼんぷ)を唖然(あぜん)とさせる行動であった。周囲の者は、いったい舞台で、いま何が起ったのか把握できないでいた。そして二回目の体当たりを遂げた直後に、少年は周囲の警備者から取り押さえられた。
 斃れた浅沼は、近くの日比谷病院に、パトカーで運ばれたが、既に車中で死亡していた。

 浅沼の略歴を簡単に紹介すると、昭和30年(1955)から35年にかけて、社会党書記長を務め、35年3月から委員長に就任した経歴を持っている。
 また、前年3月の中国訪問の際には、中国訪問使節団団長として訪中し、毛沢東と会見し、その後、革命の情熱を露(あらわ)にした。浅沼が訪中した時、中国人民は熱狂的な歓迎を行った。そして、中国革命の偉大な指導者と称される毛沢東や周恩来と会見し、浅沼はこの時、彼等二人と固い握手をしている





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毛沢東を握手をする浅沼稲次郎(『昭和史』11・研秀出版より)




浅沼は当時、毛沢東と握手を交わした事により、心の底から、革命の情熱が沸々(ふつふつ)と湧いて来たと言う。彼の描いた革命の夢は、忽(たちま)ち膨れ上がり、「そうだ、中国にはおれの求めていた革命がある。おれはいつの間にか、その革命の夢をみずからの心の扉の奥に閉じ込めてしまっていた」と反芻(はんすう)し、また浅沼は、分厚くて武骨な毛沢東の手を握り締めながら、自分の血潮が興奮しているのを感じたとも言う。


 この時、浅沼のプランに「日本革命」の焔(ほのお)が燃え上がったのかも知れない。

 また訪中時、浅沼は人民公会堂に於いて、使節団の一致した考えとして、自らの太い万年筆で書き上げた、原稿の一文を携えて壇上に上がった。そしてついに、「アメリカ帝国主義は日中の共同の敵である」と、野太いガラガラ声を発して発表した。それは熱血漢の闘志を顕すものだった。


 人民公会堂に入っていた約3000人の中国人民聴衆(恐らく選ばれた、毛沢東に近い特権階級であろうが)は、浅沼の一文の、この箇所に万雷(ばんらい)の拍手を送り、浅沼はこれに酔い痴(し)れた。その時浅沼は、アメリカこそ、悪の帝国主義の権化(ごんげ)で、日本は中国と共に、アメリカ帝国主義と戦わねばならないと確信したと言う。


 中国人民3000の聴衆を前にして、「これこそ、おれの求めていた革命の道だ。おれは中国と手を結び、アメリカ帝国主義と闘わねばならぬ」と、心に強く決意を新たにし、その余韻を残したまま日本に帰国する。また、羽田空港に降りた時は、紅い星の中共帽を被っていた。それほど中国に入れ上げての帰国だった。


 「アメリカ帝国主義は日中の共同の敵である」。こう確信した時、浅沼の運命は定まった。人民公会堂以来の演説が、その後の人生を決定していたと言える。」


 昭和34年(1959)9月、日本社会党は離党者が続出した。
 西尾派が離党し、社会党は二分裂して、翌35年19601月には、西尾末広を委員長とする民主社会党が結成した。 また、西尾は戦後、日本社会党の結成に参画し、芦田内閣(芦田均)の副総理となるが、昭電事件【註】第二次大戦後、昭和電工株式会社が復興金融金庫の融資を受けるため、多額の金品を政治家に渡し、政界・財界人の多数が、贈収賄容疑で逮捕・告訴された事件である。世に言う「昭電疑獄」であるで逮捕されて辞任した経歴を持っていた。


 そのまま社会党に居残った浅沼は、同年の3月、臨時党大会で、委員長の座を巡り、日労系の河上丈太郎(かわかみ‐じょうたろう)とその座を争い、鈴木茂三郎(すずき‐もさぶろう)の後押しで委員長に推され、日本社会党の委員長に就任した。その後、安保闘争の先頭に立って采配(さいはい)を揮(ふる)い、「人間機関車」と彼の行動ぶりは異名された。


 当時は60年安保闘争の真っ只中にあった。安保闘争に於いて、全学連主流派と警官隊が衝突して、このデモに参加していた東大生の樺美智子(かんば‐みちこ)が圧死した。この事件が、浅沼を一層強烈な革命へと駆り立てた。


 また、この樺美智子の圧死事故について、東大の茅(かや)総長は、「学生も悪いが、政治も悪い」と、当時、安保改定に動いた池田首相と、松田文相を激しく批難した。浅沼はこれに同調し、更に革命への決意を露(あらわ)にする。


 そして、この頃より右翼の動きが活発になる。
 それは「アメリカ帝国主義は日中の共同の敵である」とした、浅沼発言からであった。この頃から、浅沼は右翼に付け狙われることになる。これが起因して、昭和35年10月12日、三党首大演説会の日比谷公会堂で、右翼少年の山口二矢の凶刃に斃(たお)れるのである。


 浅沼の革命の夢は、一人の刺客の凶刃によって打ち砕かれ、爾来(じらい)、日本社会党は浅沼と云うシンボルを失い、迷走と混迷から抜けだせないまま、1994年、自民・社会が連立して村山富市(むらやま‐とみいち)委員長を首班とする内閣を組織し、更には、1996年、社会民主党と改称して今日に至る。もうこの時、野党第一党の座から、この組織は滑り落ちていた。

 

●浅沼稲次郎が属した社会党右派

 当時の時代背景について、検証してみよう。
 時代は高度成長の真っ只中で、自民党総裁が岸信介から池田勇人に代わり(昭和35年7月14日付)、池田新首相の「所得倍増計画」により、高度経済成長政策を推進した頃だった。


 この時代、皇太子御成婚(昭和34年4月10日)以来、テレビの購買率が上がり、この頃から映画に成り変わり、テレビと言う新たな映像文化が花開く事になる。
 そして国会中継なども、盛んにテレビで放映されるようになった。


 当時、政界は自由民主党が単独で政権の座につき、社会党は野党第一党の地位を占めていた。社会党の内部構成は自民党と酷似(こくじ)しており、右派と左派の派閥に分かれていた。派閥問題に於いては、自民党の政権を巡る派閥抗争と好一対であり、左派と右派は、社会党の表裏一体の関係にあった。


 自民党は戦後からの最長記録で、その後、28年間も単独政権を維持し、人事、集金力、政策は徹底していた。こうした中で、国民の不満が派生すると、自民党内では各々の派閥が、二次元に応じて、これを受け止め、派閥自体が国民の不満を柔らげるクッション代りになっていた。


 こうした自民党の類似した形で、社会党は野党第一党の座を占め、社会党内にも、自民党と同じ原理が働いていた。この原理が働くエネルギーの出所は、「政権を握る自民党」Vs「野党第一党の社会党」の図式が、自民党の派閥に対抗した社会党の派閥であり、これこそ、社会党が長らく野党第一党に君臨した原動力だった。それがれまた、極めて安定的な社会党の状況を作り出した。


 国民の要求や利益は、利益誘導の為に作用と反作用の形から、一方で作用が働けば、反対側で反作用が起るという「綱引き」構造に酷似する。


 要求や利益に不満を持つ、国民側の不満層は、権力側に立つ自民党の各派閥が、要求や利益において、自民党内の派閥で受け皿にならない場合、その不満層は社会党右派に流れた。例えば、全国タクシー組合や都道府県のタクシー組合などが、これであった。


 社会党右派は、こうした不満層を巧みに取り込み、不満層を吸収する派閥構造を持つことになる。この実体が、労働組合を取り込んだ形の「社会党右派」だった。


 社会党が、反権力体制の第一党であり続ける構造内には、様々な顔が必要であり、それが党内派閥であった。この時の社会党の派閥効能は、権力側と反権力側という「相互一党支配」であった。


 この支配体制を確立する為には、労働組合の構造からも分かるように、党内から共産主義者を一掃した存在でなければならなかった。社会党の主義主張は、共産党と一線を画(かく)していた。


 一般に労働組合と言えば、赤旗の波を思い泛(う)かべ、共産主義者や社会主義者の集団を連想する。ところが労働組合と、こうした思想は、全く関係がない。


 この集団そのものは無思想であり、共産党排斥に躍起になる体質がある。表面の顔としては、社会主義を標榜(ひょうぼう)しているが、戦後における労働組合運動は、近代的な労働組合リーダーのその殆どが、「反共」を第一のスローガンに掲げ、運動員は殆どが無思想であり、また権力指向の権化のようなものであった。


 一般的に見て労働組合は、本来、民主的な団体の組織であると言うイメージが強いが、その上層部は紛(まぎ)れもなく階級差が存在し、進歩的な民主団体の内部にこそ、階級差と、身分的な差別が蔓延(はび)こっていた。


 これは、今日の会社管理構造とは異質な特権をもって、「命令する側」と「命令される側」に分かれている。常に支配階級と被支配階級の構造がある。そして、この構造こそ、労働者に名を借りた権力の権化(ごんげ)だった。


 この構造は、かって70年代、全共闘が猛威を振るい、日本中が革命の嵐で吹き荒れた時、現場でデモる末端分子の学生や労働者と、それをひと握りのエリートで構成した支配層の頭脳が、末端の学生や労働者に命令を下す、あの構造と酷似する。


 こうした構造は、組織である以上、必ず、階級差と身分的な差別が存在するものである。労働組合と雖(いえど)も、例外ではなかった。そして、労働組合では、共産主義者の一掃が、何よりも重大であった。その後の組織の運営に、大きな影響を与えたからである。


 その意味で、社会党左派は、右派主脳にとって、まさに党運営上の元凶であった。右派は、左派に対し、「そんなに左が好きなら、脱党して共産党員になれ!」という言葉まで飛び出したと言う。


 では何故、右派は左派を嫌うのか。


 例えば、労組などの書記に採用される時、両親、兄弟・姉妹、および親戚、従兄弟・従姉妹などに共産党員が居ないか、学生時代に過激派学生分派に所属したり、極左的な思想の持ち主が居ないかと言う事を調査された挙げ句、誓約を誓わされて「念書」を一筆とられる。署名捺印した念書と、異なった事実が明るみに出た場合、「如何なる処分を受けても構わない」という条項があり、この禁に触れるようになっている。これが法的に拘束力が有るか無いかは別にしても、である。


 では、労働組合としての体質とは、いったい如何なるものか。


 日本の労働組合は、アメリカの労組によく似た部分がある。
 しかし、アメリカの労組幹部は、年俸で働く。例えば、年俸数十万ドルなどで労組と契約し、運動を指導する組織者(オルグ)が決定される。年俸数十万ドルという金額は、日本では大企業の重役並みの年俸に匹敵する。


 また、アメリカの労組は、企業を横断する産業別組合で、当初から、個々の産業利害を超えている為、労組幹部や役員は、職業的な労働組合運動家が中心になって組織者(オルグ)となり、運動を展開し、指導する。この点が、日本とは異なっている。


 そして、年俸で働く以上、労働条件や賃上げに関して、資本家側から、いったい幾ら引き出したかという実績だけが評価され、労働者側への獲得金額により、委員長としての報酬が支払われる。


 この点は、日本の場合と異なっているが、「連合」【註】日本には二つある。総評・同盟などの労働四団体の枠を越えた「全日本民間労働組合連合会」と、官公労組が加わり発足したナショナル・センターの「日本労働組合総連合会」)にしても、一方にナショナル・センターがあり、これが全国的な司令塔になって、中央組織を牛耳っている。


 また、下部組織としての個々の単位組合と、単位組合間の連合体である、単一産業労組があり、ナショナル・センターは企業内組合の連合体として存在している。つまり、会社別の労働組合ではなく、ナショナル・センター自体が、幹部や役員の個人的な野望に利用される「権力の場」にもなっているのである。


 日本の場合は、労組幹部や役員になる必須条件は、選出母体となる企業を持って居る事である。鉄鋼労連や、かつての旧国鉄の国労や動労などが、これである。


 日本の労組は、階級的にはアメリカと異なり、縦割り構造である。組合リーダーは、まず会社の労働組合から、同一業企業の連合体の役員に選出される。そして選ばれた役員は、ナショナル・センターと言う中央組織の役員に選出される形になっており、日本中に組織されている末端の組合組織から上がって来るのであるが、この構造はヒエラルキー的権力構造と同じものである。


 したがって、官公労組のナショナル・センターから、執行委員や常任執行委員を経て、労組を踏み台にして、政界に打って出る野望を持つ者も出て来る。


 また、こうした野望を持つ者は、一種のカリスマ者でなければならない。


 日本の国内には、何十万という単位の労組が存在し、その労働者の多くは、現実問題として連合幹部や役員の権力に縛られる。また執行部は、カリスマ的な人材が必要になり、このような人物に支配される事実がある。


 宗教で言えば、教祖としてのカリスマ性である。創価学会で言えば、池田大作名誉会長が、これであろう。


 そこで役員選出の際、投票が行われる。民主主義下では、一見、民主的に運営されているから、極めて当たり前であるが、日本の場合、この投票は共産圏諸国と同様、秘密投票が認められていない場合が多い。自由主義国家では、基本的な条件としてその選挙制度は、「秘密投票の自由」である。つまり、秘密投票の原則は、「誰を選ぶか」あるいは「誰を選んだか」、こうしたことは一切不問に付(ふ)され、その後明らかにされることはない。


 ところが、日本の労組リーダー選出する場合は、秘密投票を認めていない団体や組織が多い。秘密投票を保証すれば、ひと握りの役員の、特権的な独裁体制が敷けないからである。


 これは社会党も共産党も、秘密投票は絶対に認めないことに酷似する。つまり労働組合であっても、あるいは革新政党であっても同じ事である。もし秘密投票を認めれば、思い通りの独裁支配が出来ないからだ。


 選挙のタテマエは、自由立候補者が選挙される側に立ち、事実上は信任投票である。
 つまり投票は、被選出役員またはその長に対する、「信任」「不信任」を問う投票となる。
 昭和35年当時の社会党も共産党も、また労働組合リーダーまでが、信任するか否かを決するについて、こうした投票が実施された。


 特に、組合に於いては、秘密投票を認めなかった労組が多い。投票箱に投函する席上で、組合役員が立ち会う。誰が、誰を投票したか、記載の際に確認される。こうした監視の許(もと)で、組合員は記入させられる。一方、白紙投票すれば、忽(たちま)ち露見する仕組みになっていた。そして、徹底的に吊るし上げられる。


 この選挙形式は、旧ソビエトの党大会での役員選出の投票のようなもので、一党独裁に不満のある投票者は、シベリア送りになるか、粛清(せいしゅく)の対象になる、あのお決まりのコースである。対立分子を生命ごと、徹底的に排除する。つまり、この世から消してしまうのである。


 本来、民主主義下での選択権は「棄権する」か、「白紙投票する」かの、何(いず)れかも認められなければならない。ところが、こうした投票を行うと、徹底的に吊し上げを喰(く)う労組もあった。また、今日でも、口では民主主義と標榜(ひょうぼう)しながら、実際はこうした事をしている左翼政党もある。


 では、何故ここまでするのか。


 カリスマ的なリーダーが登場する、その支配体制は、独裁的かつ長期支配が重要課題となる。これこそが日本人的な談合的体質であり、また、日本では、労働組合の共産党色の排除の力も働く。


 労使と言わず、日本人全体が、社会的に強調し、一丸となって、国家の繁栄に協力するという考えに立った時、まず、共産党は必要ではない。元社会党委員長の西尾末広が、社会党右派から脱党して、1960年、民主社会党を結成したように、共産党色を強めていたのでは、国家の繁栄はあり得ないからだ。これこそ、資本家どもに一致する考えである。


 口では、革命を唱える社会党も、この考えに近かった。総じて、日和見主義的であったと言えるだろう。


 こうして社会党は、右派を組合組織者に当て、タテマエは民主的な労組指導であり、ホンネは進歩的な団体を装いながらも、階級差と身分的な差別が表面化しつつあった。


 当然ここには、特権や決定権をもって、命令する側と、ただ、上の命令に随(したが)い、奉仕を要求される側とに分かれ、末端分子は蔑視されるという関係は、どうにも救いようがなかった。末端は、ひと握りのエリートに徹底的に奉仕させられた。


 そして、当時の社会党右派が、まさにこれであった。

 

極東占領軍G・H・Qが共産主義者や社会主義者を奨励した理由

 1945年12月、日本の占領は極東委員会が設けられ、日本は「モスクワ協定」の基本政策に帰順することになる。
 「モスクワ協定」とは、敗戦後、東京に設置された対日理事会で、その政策を制定・勧告し、実施に当たらせた極東委員会が、日本の労働組合について定めた「十六原則」(1946.12制定)からなる。その主なものだけを拾ってみよう。


 第一条、モスクワ協定の目的をもって組合造ることを奨励する。平和的かつ民主的な日本を建設する為に、労働組合を団体として参加せしめ、労働組合としての利益の追求を遂行する。


 第二条、以上の目的を果たす為に、これを妨害する法律ならびに規定を直ちに廃止する。


 第六条、政治活動に加わり、また、政党を支持することを組合は許される。


 第八条、日本国政府は、出来るだけ組合の役員が海外の労働組合の情報を手に入れるよう、極力援助すべきこと。


 第十一条、警察ならびに政府のその他の機関が、労働組合のストライキ行動をスパイし、正しい組合活動を阻害することは絶対に許されない。


 第十三条、組合活動を妨げ、また、妨げる措置をとった日本政府は、その他の機関を廃止し、更にはその権限を捨てること。


  第十五条、労働組合ならびに、その他の組織についての活動、または危険思想(無政府主義者や共産主義者、あるいは社会主義者)をもって捕らえられた人物は速やかに総て釈放するべし。


 こうしたアメリカ政府の意向ならびに占領軍の意図を反映させて、日本に民主主義というイデオロギーを樹立させ、その対抗勢力として、アメリカは左翼ならびに労働組合運動を奨励し、その権利と活動を保障したのである。
 つまり、日本国内に、米ソ東西冷戦のミニチュア構造を確立させ、日本人の左右両陣営が争い、意図的に対立させて、漁夫の利を得る構造を作り上げたのである。


 戦後の日本史は、屈辱の歴史であった。しかし多くの日本人の屈辱の自覚症状はなかった。特に日本社会党と労働組合は、無自覚のまま、水面下で起こりうる実際問題には、眼も向けようとしなかった。


 終戦の1945年8月から、サンフランシスコ講和条約提携の1951年9月4日までの七年間、日本人はアメリカのフリーメーソン国家が何をしたか、全く気付かなかった。また、この間、日本政府もその実態を隠し、マスコミもこれに調子を合わせ、反対意見だけを発表し、日本国民に真相を知らせることは殆どなかった。


 そして、『朝日新聞』が左よりに傾きはじめ一貫して日本の国家と、天皇を蔑ろにしたのはこの頃からであった


 さて、ポツダム宣言はご承知のように、1945年7月26日、ポツダムにおいて、アメリカ合衆国、中華民国、イギリスならびに、後にソ連が参加した、日本に対して発した共同宣言である。この共同宣言は、戦争終結、日本の降伏条件と戦後の対日処理方針とを定めたものである。


 その主旨は、軍国主義的指導勢力の除去、戦争犯罪人の厳罰、連合国による占領、日本領土の局限、日本の徹底的民主化などを規定した。これに対し、日本は、はじめこれを無視したが、広島長崎の原子爆弾の投下、更にはソ連の参戦により、同年8月14日に受諾し、太平洋戦争がこれにより終結し、日本は事実上大敗北した。


 そして、その後の日本は「ポツダム宣言」に規定された、日本の戦後政策を見れば、どういう意図を持ったものか、明白となる。


第一条、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート、ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ


第二条、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ聯合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ


第三条、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スベシ


第四条、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ


第五条、吾等ノ条件ハ左ノ如シ吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ


 ここには、「われわれの条件は次の通りであり、これに係(かかわ)る条件は存在しない」とある。

 一種の傲慢である。


第六条、吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得     ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ


第七条、右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ

第八条、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


第九条、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ


第十条、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ


第十一条、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ


第十二条、前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ


第十三条、吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス


(1945年7月26日)



 ポツダム宣言の内容を吟味すると、第七条は、「日本の領域の中の諸地点は、ポツダム宣言に示す基本的目的を成し遂げる保障の為に占領される」とある。
 また、「日本の戦争をする能力が完全に打ち砕かれたか確証があるまでは、この基本的な目的を達成する為 に、われわれは日本を占領する」とある。


 ポツダム宣言第八条には、「カイロ宣言に盛られた条項は行われ、日本の主権は四島および、われわれの決定する幾つかの小島に限られる」とあり、国土割譲があることを示唆している。


 ポツダム宣言第十条には、「日本人民の間の民主的傾向を取り戻し、それを強める為に妨害する障害は総て取り除かなければならない。われわれは日本人を、民族としての奴隷にし、また、国民としての日本人を滅ぼす意志はないが、戦争を指導した総ての戦争犯罪人には厳しい処罰を加える。


 日本政府は、日本人民の間の民主的傾向を取り戻し、それを妨げるものは総て取り除き、言論・宗教・思想の自由、および基本的人権の尊重を確立しなければならない」とある。


 ポツダム宣言第十一条には、「これらの諸項目が果たされた場合、占領軍は直ちに撤退する。また戦争の為に、再軍備に使えるような産業は許さない」とある。


 ポツダム宣言第十二条には、「前に述べた目的が果たされ、日本人民が自由に表した意志によって平和的な傾向を保ち、責任の持てる政府が出来れば、占領軍は速やかに日本より撤兵する」とある。


 日本はポツダム宣言の意思により、戦後直ちに幣原喜重郎内閣が組閣し、その後のサンフランシスコ講和条約までの吉田茂内閣が誕生した。しかし、「ポツダム宣言第十二条」にあるように、占領軍の日本からの撤兵は、未(いま)だに成されていない


 アメリカ駐留軍に差し出された日本国内の施設や区域は、約600あまりにのぼり、そのうちの約300程は、いまもなお無期限の米軍基地となっている。これは戦後半世紀以上を超えながら、未だに約束が守られず、日本人にとっては、最たる屈辱(くつじょく)ではあるまいか。





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江田法相

Category: 売国奴  

江田法相

「人間はいつか死ぬんだから、別に死刑執行しなくてもいい気がする」

これだと、

どうせ死ぬから、殺人してもいいってことになりませんか?



法務大臣が法を守らないなら国民全員法を守らなくていいってことですよね
無法国家きたで!



死刑制度に賛成とか反対とか以前に
ここまで浅はかな考えしか持っていない知恵遅れが

法相をやっているという日本の現実にただただ絶望した



筋金入りの反日ファシスト売国奴の江田五月




江田 五月(えだ さつき、1941年昭和16年)5月22日 - )は、日本政治家民主党所属の参議院議員(4期)、法務大臣第87代)。弁護士(登録番号:15935)。

参議院議長(第27代)、科学技術庁長官第50代)、衆議院議員(4期)、社会民主連合代表、社会市民連合代表、日本新党副代表、民主党参議院議員会長、民主党最高顧問を歴任。

父は日本社会党副委員長を務めた元衆議院議員江田三郎





カンチョクトの改造内閣。民主政権下において、ろくでもないキチガイがそのイスに座ってきたのが法務大臣です。極左の痴婆に二つしか言葉を覚えられなかった柳田、それをクビにしたら鮮獄が兼任、そして今回の江田五月。 この法務大臣の人事をみて、痴婆と同じだと思いました。だって・・・江田五月はシンガンスの愉快な仲間の一員ですから!! カンチョクトも同じ! 拉致実行犯シンガンスの減刑嘆願書を南朝鮮の大統領あてに署名まで添えて提出した売国奴。法務大臣という要職に次から次にシンガンスの仲間を任命させるカンチョクト。これを見ても、法治国家としての日本を否定し、特アと同じように「人治国家」にする人鮮人選でしかありません。

江田五月は18日の記者会見でこの問題を問われ、「これはもう申し訳ない。その部分については間違いであるとおわびをするほかありません」と謝罪したわけですが、今頃何言ってんだよ、この売国奴が!!というだけです。今頃「間違いである」って、こんな醜い、拉致被害者や家族をバカにした発言はないでしょう。だったら、アンタ間違いと気付いてから今まで、拉致議連で活動したり、家族会の人達の意見を聞いたり、街宣して訴えたり、拉致被害者を救う活動の一つでもしたのかよ?? 何もしていないくせに。こいつがやるのは、痴婆と同じで、不法滞在で強制退去命令がでている不逞害人に特別在留許可を大安売りし、日本人の税金を垂れ流し、日本人の生命と財産を危機にさらし、ますます犯罪者に優しい日本を作り、特アのための国を作るだけ。


eda
  江田五月川端達夫直嶋正行松野頼久松本剛明の5人で結成するキャバクラ5の首領格であり、2009/09/30には真ん中から割れとるday報道がなされた。続く2009/10/01、毎日新聞によって韓国クラブへも支出があった事が報道された。2010/04/17、元首相である羽田を差し置いて、ポーランド大統領の弔問に。向かう事が決まった矢先にドタキャンした。

 情報が無い中で湯水のように
財源を発見できる、恐るべき心眼を持っているが、結局財源
は発見出来なかった。心眼は役に立たなかったが北朝鮮による拉致実行犯・シンガンスの釈放署名にはきちんと署名した。


真ん中から割れとるday

民主党国会議員5人の政治団体が、キャバクラやニューハーフショーパブでの支払いを
 政治活動費として計上していたことが明るみに出た。

 「ごく普通のキャバクラですよ。みなきれいに飲んでいかれますよ」
 江田五月参議院議長の資金管理団体「全国江田五月会」が2007年中に2度も訪れた東京・
 西浅草の店では、その様子をこう話す。

 総務省サイト掲載の政治資金収支報告書によると、五月会はこの年の8月17日に組織対策費と
 して6万7730円を、10月13日に交際費として6万7200円をこのキャバクラに支出している。
 店のサイトを見ると、8月17日の金曜日は、「今年最後の浴衣Day」のイベント日だった。
 江田議員はこの月の7日から議長に就任しているだけに、お祝いでもしたのだろうか。

 ごく普通とはいうものの、この店は、かなりセクシャルなサービスをしている。最近では、
 「ワイシャツのみでお出迎え」というイベントがあり、店によると、キャバ嬢が下着の上に
 ワイシャツだけを着て接客するというのだ。中には、「真ん中から割れとるday」のイベントも。
 「女の子のドレス前がパックリ開いているんですよ。もちろん、下着ではありません」だそうだ。

 いずれにせよ、十分に刺激的で、政治活動の場所に思えないが、どうなのか。
 五月会の事務担当者は、取材に対し、事実関係を認めたうえで、政治活動なのかどうかに
 ついて、「判断にお任せします」とだけ話す。このキャバクラには、江田議長は行っておらず、
 関係者や支援者、関係団体が出たという。キャバクラを選んだのは、こうした人たちの要望も
 あったからだと説明する。

 団体には税金の政党交付金が間接的に流れているが、事務担当者は、「党から寄付のない
 年度もあり、交付金を使っているとは考えていません」と言う。ただ、江田議員ホームページの
 掲示板は批判的なコメントが殺到して炎上しており、「2009年は支出を止めました。ご指摘の
 趣旨にかんがみ、今後役員と相談したい」と話している。







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しつこい江田法相、次期臨時国会への人権法案提出目指す

Category: ブログ  

script_topilog,http://jss.afpbb.com/mbsv/sdata/medianewsdelivery/msnsankei/ameba/js/utf8/110087000/2e79f569c72439b6a69a75d82535cfec_e0d54613f58abd90a3b67322eb5ed0bb.js

 

法を守る気が無い江田五月法務大臣

 前原誠司前外相が政治資金規正法で禁じられた外国人からの政治献金を受領した責任を取って辞任したことをめぐり、閣僚から8日午前の閣議後の記者会見で、禁止条項の見直しを検討すべきだとの声が相次いだ。
 江田五月法相は「(献金を)広く浅くいただくときに、在日(外国人)かどうか尋ねるのは現実的ではない。何かいい方法はないか」と提起。
野田佳彦財務相も「この問題にスポットライトを当て、よく議論した方がいい」と述べた。
 政治資金の調達に当たり、与野党ともネット献金など個人献金を重視している。ただ、外国人かどうか全てを確認するのは難しく、財務相は在日韓国人から受領した前外相のケースを踏まえ、「日本名の場合はなかなか分かりにくい」と指摘した。 
 規正法は故意に外国人から受領した場合、公民権停止などの罰則を規定している。片山善博総務相は「実態に即して罰則の対象にするのはどういう範囲かもっと明確にする必要がある」と述べた。(2011/03/08-12:17)


人権法案提出目指す前に通名禁止をめざせ愚か者

「人はどうせ死ぬんだから名前なんて一つでいいだろ」w




江田法相、次期臨時国会への人権法案提出目指す
2011.5.13 15:28

江田五月法相は13日の記者会見で、民主党が今国会の提出を見送った人権侵害救済機関設置法案について「臨時国会というイメージと日程感で立法に向けた歩みが進んでいったらいい」と述べ、次期臨時国会への提出を目指す考えを表明した。

 同法案は、自由な言論の制限・弾圧につながる危険性が指摘されている。



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ニワトリに「バリウム」中国で再び食品スキャンダル

Category: 中国  

中国で再び食品スキャンダル、ニワトリに「バリウム」

2011.5.13

中国の重慶市で、体重を重くするために鉱物を食べさせられていたニワトリ1000羽以上が当局に押収された。英字紙チャイナ・デーリーが10日報じた。中国ではこのところ、食品の安全性をめぐる問題が再び相次いでいる。

 同紙によると、重慶市の当局は、ニワトリの消化管から「未知の異物」が見つかったとの消費者からの通報を受けて調査を開始。7日にニワトリ約1000羽を積んだトラック2台を調べたところ、「重晶石」の粉を与えられていたことが分かったという。重晶石は、病院でのレントゲン撮影時などに使われる硫酸バリウムの結晶。

 中国では2008年、メラミン入りの粉ミルクを飲んだ乳幼児少なくとも6人が死亡し、約30万人が健康被害を訴えるなど大きな社会問題となっていた。

 先月には同じく重慶市のアイスクリームメーカーから、有害物質メラミンが混入した粉ミルク26トン以上が押収されていた。(ロイター)





中国で偽装食品相次ぐ 広東…ニセ牛肉、上海…防腐剤入り饅頭

2011.4.24

【上海=河崎真澄】中国で食品の衛生や安全をめぐる問題が相次ぎ浮上している。中国紙、広州日報(電子版)によると、広東省当局は、豚肉に添加物を混ぜて高級牛肉と偽り、販売していた同省仏山の男の身柄を拘束した。健康被害は伝えられていないが、安価な豚肉に昆虫駆除などに使われるホウ砂を加えることで、食感や味を偽装して高値販売する手口だった。

 同省ではこのほか、トウモロコシにインクとパラフィンを混ぜた粉を、甘藷(かんしょ)でんぷんと偽って販売した業者らも摘発されている。

 また、上海市では今月中旬、使用が禁じられている着色剤や防腐剤を添加した中華蒸しまんを製造販売したとして、食品会社の経営者ら5人の身柄が拘束された。

 今月上旬には、甘粛省で亜硝酸塩が混入した牛乳を飲んだ数十人が中毒症状を起こして乳幼児3人が死亡、36人が病院に運ばれた。

 同省では3年前にも、有害物質メラミンが混入された粉ミルクを飲んだ乳幼児に被害が出た事件があり、乳幼児が腎臓結石で死亡するなど被害が広がって社会問題化した。

 いずれの事件も中国では“氷山の一角”とみられており、中国国務院(政府)は20日、関係部門や地方政府に、許可済み食品添加物以外の化学物質を食品に加えることを厳しく取り締まるよう通達を行った。国務院は今年末までに、食品添加物の安全性に関する新たなガイダンスを策定する。






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5月30日、5つの惑星が同じ空に出現

Category: ブログ  

5月30日、5つの惑星が同じ空に出現


2011年5月13日


今月初めにNASAが発表したところによると、5月に入ってから水星・金星・火星・木星による壮大な天体ショーが繰り広げられているという。30日にはそれらの星に加えて月も同じ空に出現し、5つの惑星を同時に見ることができるのである。この惑星配列は、50~100年に1度の、非常に稀な天体現象だ。

この惑星配列は、豪州シドニーの東側の空に夜明け前に確認できるそうだ。今月8日に火星・金星・木星が一直線に並び、11日には金星と木星が最接近。13日には、水・金・木星によるトライアングルが確認でき、さらに20日には、水・金・火星による新たなトライアングルが現れるのである。

まさしく天体ショーと呼ぶに相応しい現象の連続なのだが、30日には、これらに加えて月も登場。5つの星を同じ空に同時に見られるのである。今回のような天体現象が前回豪州で確認されたのは、1910年のことだった。次回は2056年になるという。

この現象について一部の科学者から、地球に影響を与えているとの見方がある。地震や竜巻などの災害は、惑星配列の影響によるものとの説がささやかれている。しかし多くの天文学者は、この説を「あり得ない」と一蹴しているとのことだ。

いずれにしても、5つの惑星が夜空に浮かぶ様子は、素晴らしいものに違いない。

参照元:Herald Sun,Youtube / ScienceScienceAtNASA英文)



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創氏改名の本質表す教員免許状発見 民団新聞

Category: 在日・パチンコ  

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直接の資料が残ってるのに何言ってんだか↑


創氏は強制、日本の戸籍に合わせるため。

改名は任意(改名者が殺到し、後に有料)。


「金日成」って奴が居たら、


「届無かったら、金が一家の名字になるよー」 →これが創氏強制


「金日成」を「金田 日成」という日本風の名前に変えるよ! →これが改名任意


在日朝鮮人が使う「通名」という日本風の名前は改名



てかもう通名使うなよ
銀行口座には基本、通名は使えなくなったが
窓口でごねてでかい声で怒鳴り散らして

通名で口座作ってんじゃねぇーかぉまいら


     ↑

本名で固定資産を登記し、
銀行口座を通名で作ると
固定資産税滞納しても差し押さえされないからね





295 名無しさん@十一周年 2011/05/12(木) 19:31:30.85 ID:HTyJWs5u0
あの安倍晋三が従軍慰安婦の強制性を認め、アメリカまで出向いて
『日本国首相』として謝罪したという平成以降最大の売国行為を
ネトウヨが直視しない限りミンス政権は続く、ああぽむぽむ~顔文字略



331 死(略) ◆CtG./SISYA 2011/05/12(木) 19:34:53.27 ID:uGDlfLlF0
>>295
何を真逆の嘘をほざいておるのだ、此の屑朝鮮人が。
朝鮮ソースでも此れだ。

中央日報 - 【社説】従軍慰安婦を否認した安倍首相の妄言
http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=85111
安倍晋三日本首相がおととい、太平洋戦争当時、日本政府・軍隊の従軍慰安婦強制動員を否認する妄言を言った。
彼が10年前、主導して作った自民党内右翼性向議員団体もこの日、同じ主張をした。
日本政・官界でもこんな雰囲気が拡散しているという。
おとといは3.1節だった。こんな日、被害者の傷を撫でるどころか塩をまく日本指導層の非道徳性に絶望を感じる。
これでも韓日間の友情を言えるか。



もう朝鮮人のいうことは全部嘘。
戦前、「嘘を吐かない朝鮮人は死んだ朝鮮人だけ」といわれた。
悲しいことにこれは差別ではなく事実だった。

最近も韓国の政府機関の研究者が「唐辛子は日本から伝わったもの
ではなく、(コロンブスがアメリカ大陸を発見するよりはるか大昔)
数千年前から朝鮮半島の自生していたと主張している。
とにかく朝鮮人の言う事は全部嘘。信用できない。






戦前
<丶´Д`> <国として立ちゆかないウリの国の面倒を見て欲しいニダ…
戦後↓
<丶`Д´> <ウリの国は日本の植民地にされていたニダ!謝罪と賠償を(以下略)
----------------------------------------------------------------------------------
戦中
<丶´▽`> <高給ニダ!是非ともついていって体を売るニダ 追軍娼婦するニダ
戦後↓
<丶`Д´> <ウリは無理矢理連行され、従軍慰安婦にされたニダ!謝罪と賠償を(以下略)
----------------------------------------------------------------------------------
戦前
<丶´▽`> <日本に密入国して商売するニダ!
現在の在日チョン↓
<丶`Д´> <ウリは日本に強制連行されて祖国から拉致されたニダ!謝罪と賠償を(以下略)
---------------------------------------------------------------------------------
北朝鮮へ帰国した在日
<丶´▽`> <北朝鮮は地上の楽園ニダ!日本なんかとは違うニダ!さすがウリの民族ニダ!帰るニダ!
脱北した在日↓
<丶`Д´> <北は楽園じゃなかったニダ!日本に戻ったから生活の面倒見るニダ!
脱北した在日の将来↓
<丶`Д´> <ウリはだまされて北に帰ったニダ。 責任は日本政府にあるニダ。謝罪と賠償を(以下略)
---------------------------------------------------------------------------------
戦前
<丶´▽`> <満州で中国人にいじめられるニダ。日本人にしてほしいニダ…
(  ´∀`) <じゃぁ、日本に併合してあげるよ、日本の苗字を名乗ってもイイモナ
戦後↓
<丶`Д´> <日本に苗字を無理やり変えられたニダ!賠償するニダ!








なんで今更麻生氏の言葉をあげつらう?


麻生がアメリカで副国務長官と会談したというニュースが流れた途端に
朝日新聞が、ウィキリークスネタで麻生を叩き、民潭が捏造で麻生を叩くw






50年前の自国の歴史を知らない可哀想な民族だからね

捏造することで正当化しようとしているよ

自分を振り返るためにも半島に戻りなよ




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日本人=消えた10支族の話

Category: ブログ  


今日ボクが見た風景



日本では日ユ同祖論は、ただのロマンとして語られ
知名度も低く、とんでも話として、嘲笑されることすらあるが

本国イスラエルと世界のユダヤ社会では
長期に渡り、詳細な調査活動が世界的に進められていてかなり有名な話になっている。

そして、現時点においては、消えた10支族が行った先は
日本しか考えられないという意見が圧倒的な多数を占めている

最近、イスラエルが日本に異様なほど好意を寄せているのはこの為であり
日本の文化風習(特に神道)が、ユダヤのそれに異様な程似ていること
世界の先進国の中で、ユダヤ人差別がない国は日本だけであることから
アメリカがあまり当てにならず
アメリカに見切りをつけ始めたユダヤ人達が
次の足場になる国家として日本を選んだのではないかと言われている。


消えた10支族の行方探しはユダヤ人にとって、
イスラエル建国と並ぶ重要な事業だから、
彼等は今も必死になって情報収集を行なっている。

でも、世界のユダヤ社会の指導的な立場の人たちのほとんどが
それは日本でほぼ間違いなく、日本以外はあり得ないと結論を出している為
事実上の確定事実に近くなっている。
この結果、イスラエルの大学の日本語学科は、現在、一番人気であり
行きたい外国の調査でも日本の人気が飛びぬけて高くなっている。

日本人が一笑に付している、日本人=消えた10支族の話を
世界中のユダヤ人が大マジメで議論し、裏づけ調査の活動に駆け回っている。
(実際、現駐日イスラエル大使が講演で大真面目にこの話を断定的に話した
為、聞いていた日本人がビックリしたという逸話も生じている)
だから、この話は日本人が考えているような与太話では決してないし
外国では、意外なほど、メジャーな話題だったりする。

また、海外の著名人で日本をベタ誉めにしている人のほとんどが
ユダヤ人であることも、日本ではほとんど知られていない。
ただ、これを、ユダヤ人が日本人を褒め称えていると捉えるのは正確ではない。
正確に言えば、日本人を同民族と考え、ユダヤ人としての日本を褒め称えている
というのが正しい。これくらいだから、ユダヤ人は日本人と中国・朝鮮人の違いについても
意外なほどよく知っている。

尚、ユダヤ=朝鮮同祖論を言ったユダヤ人の話が、誤まって伝わっているが
実は、くだんのユダヤ人が言ったのは、消えた10支族は日本人であり
日本に行く過程で、朝鮮も通過しただろうから、朝鮮人の一部にも消えた10支族
の末裔が紛れている可能性があると主張したに過ぎず、
決して、ユダヤ=朝鮮同祖論を主張していたわけではない。
しかし、当の朝鮮人自身がユダヤ=朝鮮同祖論を誇りに思い歓迎した為
間違った情報として流布してしまった。というのが真相である。

*ところで、世界の日本に対する風当たりが強い中で、海外の日本礼賛者の
著者の多くは、ユダヤ人だといわれている。有名な『ジャパン・アズ・ナン
バーワン』の著者エズラ・ヴォーゲル、『それでも日本は成長する』の著者
ハーマン・カーン、『第五世代電算機』の著者エドワード・ファウンゲンバ
ウムなどなどは皆、ユダヤ人である。世界中集めても、たった1350万人
しかいないユダヤ人が、なぜ日本礼賛の本を書き続けるのか? 理由はどう
であれ、日本はユダヤ人のおかげで随分助かっているだろう。もしこれがな
ければ、日本に対する世界世論はもっと厳しいものになっていたにちがいな
い。今の日本人にとって、ユダヤ人は唯一の味方ともいえる存在である。

*このように、シオニズム活動(ユダヤ人のための祖国復帰運動)に見られ
るような強烈な選民意識、自民族に対する誇り高い意識を持ったユダヤ人が 、
アジアの果ての国日本に愛国心を延長したような感情を抱く有り様は、
一般人には全く異様に見えよう。


古代ユダヤ人は日本をエデンの園と考えていた?

中国神話では、東の海の果てに巨大な桑が2本生えており、これを扶桑と呼んでいる。
われわれが見る太陽は、この扶桑を伝って、天空に昇っていく。いわば扶桑は太陽の
象徴でもある。一方、雷は雷雨であり、晴天をもたらす太陽とは対極にある。いわば雷
にとって、扶桑、すなわち桑は大敵なのである。ゆえに、桑畑だけには、落雷できない
ということらしい。

ご存知のとおり、日本の異名は「扶桑」である。
つまり、中国神話において巨大な桑が2本生えている東の海の果ての国とは、
日本なのである。
トケイヤー氏によれば、古代からシルクロードの絹貿易を独占していたのは
ユダヤ人であった。ユダヤ系日本人秦氏は、機織の機=ハタであるといわれるように、
古来、養蚕業を生業としてきた殖産豪族である。秦氏が建て、三本柱鳥居がある
木島坐天照御魂神社は、一般に、蚕の社と呼ばれており京都の「太秦」にある。
桑や蚕とユダヤとは切っても切れない関係にあるのだ(桑の異字体で、又は十と書く)。

ユダヤ思想において、2本の木と言われてすぐに思い出すのは、「生命の木」と
「善悪の知識の木」である。ユダヤ教神秘思想カバラでは、奥義を「生命の樹」として
表現し、その象徴図形には、ジグザグの雷光が描かれることもある。

この2本の桑の木は、エデンの園の中央にあった「生命の木」と「善悪の知識の木」を
表しているのだろう。

つまり、この神話は、古代ユダヤ人が、日本をエデンの園と考えていたということを
象徴しているのではないか。



ロスチャイルドの当主は、昨年から日本のホテルに宿泊することが
多くなっているが、六本木の防衛庁跡地に建設中の超高層マンションに入居する
ことが決定しているらしい。

ロスチャイルド家の令嬢シャーロットはザルツブルグ音楽学校、英国王立
音楽院を卒業後、透明な声を生かし、オラトリオなどで活躍してきた。数年
来日本を訪問するうち、日本歌曲に魅かれて録音した。

【今、日本が失いかけている「感性」へのいつくしみが、歌の中にみずみずしく
生きている】と、畑中良輔氏も絶賛している。

1.遠くへ行きたい、2.宵待草、3.水色のワルツ、4.赤とんぼ、5.かんぴょう、
6.この道、7.かやの木山の、8.出船、9.待ちぼうけ、10.ちんちん千鳥、
11.早春賦、12.たあんき ぽーんき、13.野薔薇、14.花、15.さくら横ちょう、
16.たんぽぽ、17.初恋、18.九十九里浜、19.夏の思い出、20.芭蕉布、
21.浜辺の歌、22.椰子の実





<遺伝子>ユダヤとアラブの先祖は同じ 国際研究グループ

イスラエルとアラブとの対立が続いているが、遺伝子上はユダヤ人は
アラブ人と「兄弟」とも言える近い関係にあることが欧米とイスラエルの
国際研究グループの調査で判明し、9日付の米科学アカデミー誌に発表される。

 米ニューヨーク大医学校やイスラエルのテルアビブ大などのグループは、
7地域のユダヤ人を含む世界29地域の男性1371人を対象に、
男性の性染色体であるY染色体の塩基配列を調べた。

 調査の結果、ユダヤ人はパレスチナ、シリア、レバノンなど中東のアラブ人
と祖先が共通で、塩基配列に同じ特徴を持っていた。ユダヤ人とアラブ人は、
中東以外の非ユダヤ人とは塩基配列の違いが大きく、遺伝子上は離れた関係に
あった。ユダヤ人は地域ごとの塩基配列の違いが少なく、
他民族との混血があまりなかったことも分かった。

 研究グループは「ユダヤ人とアラブ人はみな、古代ヘブライ民族の始祖
アブラハムの子供たちであり、いずれも4000年以上にわたって
中東の遺伝的な特徴を保っている」と分析している。


古代中国文明を築いた人たちは、
日本の縄文人やマオリ族のような
姿をしていたのではないか、という
議論が中国歴史家の間でさえ行われています。

現在、YAP+を持つ人たちの居住区は
チベット、ブータン、雲南と四川の先住民、
東南アジア北部高地のシーサンパンナ地域、
広西チワン族自治区、浙江省と台湾にわずかに
のこる山岳先住民、沖縄、奄美、日本、アイヌ。
そして南太平洋と南北アメリカの先住民。

北方モンゴロイドの最後の膨張で
ヒマラヤから日本につながるYAP+ベルトが
断ち切られたのではないかということが議論されています。
チベットなどのYAP+と日本のYAP+、
南太平洋やアメリカの先住民のYAP+の間には差異があり、
それが北方モンゴロイドの膨張により、分断させられた
時期を表しているのではないかと疑われています。

現在、中原~南中国~北ベトナムの古人骨のYAP+調査が
中国の大学により行われています。

YAP+が見つかるのは、平野で3割、山間部で5割だから
全体で日本特有のYAP+をもつのはおそらく3割~4割か?


YAP+は、アフリカ人にも存在する。
同じ突然変移が起こる確率というのは、皆無といってよいほど少ない。
よって、ひとつの突然変移は、その子孫に受け継がれるわけだ。


それから、中央アジア経由でなく、南アジアから東南アジアを経て日本
にきている理由は、このYAPが非常に起源が古く、その当時の人の移動
はもっぱらアフリカから、アラビア半島、南アジア、東南アジアを経由
するコースしか考えられないからだ。
M174の経路をみればわかるように、東南アジアから日本に入り、そこか
ら、アジア内陸部に向かっていることもわかる。

日本人のYAP+は、基本的に、Dだ。で、これが多いのは、日本以外では、
チベットと、頻度は少ないが、スマトラ島の人達に多い。


チベットの情報がまったくないのが不思議だよな。
チベット人は、氷河時代のころから、ヒマラヤ近辺にいたかなり古い
民族で、周囲が他に囲まれて、残ったというのが実状のようだな。
さて、D,Eは、どちらも、同じ系統で、3ページめにあるように、Bから
分岐した系統だ。かなり根っ子に位置する。で、D,Eが双方ともにYAP+
であるが、それ以外の系統では、YAP+は、ないから、D,Eの共通祖先の
段階で、YAP+の突然変異が起こったわけだ。Eは、アフリカに多く、また、
ヨーロッパにも一部いる。
ということは、基本的に、D,Eの祖先は、アフリカにいたことになる。
問題は、チベットと日本とどっちが早いか、という話だな。
状況としては、日本のほうが古い可能性が高い。
よって、アフリカから、アラビア、東南アジアを経て、日本、そから、
西にむかってチベットへ、という経路を通っていることになるんだよ。
YAP+が別の系統で発生することはありえないから、共通祖先は、アフリカ
ということになる。


今日ボクが見た風景


↑これでいう、ht とかいうのの分類はD1,D2,D3に対応するようだね。
で、D1,D3には、以降の突然変異がないが、D2には、その後、多数
の変異がある、ってことは、起源としては、D2がもっとも古いことになる。
で、そうとすると、D2が古いんだから、それがたくさんいるところが、
古いわけで、それは、日本だ、ということだね。
このことから、D1のチベットや、D3の多い南部中央アジアと比べると、
日本のD2のほうが起源が古く、その結果として、日本からアジアに
ひろがったと考えるのが遺伝学的な考え方だよ。
で、このDのルートは、東南アジア回りってことになるね。


YAP+の話題からすると、日本人の中で、YAP+のタイプ、つまり、ハプログループ
が、D2なのは、おもに、琉球、アイヌ系ってことになる。つまり、日本人の
中では、先住民系になるわけだ。アイヌ系があれほど北にすんでいながら、
南方的要素が強いっていうのが面白いよね。

つまり、日本人の旧石器時代人は、考古学的にもいわれているように、
南方系なわけだ。旧石器時代人骨とされるものは、どれも東南アジアなど
のネグリトなどに近い系統だ。縄文人の平均身長が150センチ(男性)ちょい
なのも、こういう系統に近いからってことになるだろう。ただし、北方系
は大きいけど。
中国では、こういう南方系の要素の人々がどんどんおいやられて、周辺に
しか存在しないが、日本では、まだまだかなり多い。

現在のサハラ以南に住む人たちは、人類の系統樹の中の特別な、三つ
のもののひとつで特徴づけられる。遺伝学者によって、これら古い
時代の分岐は、YAPと呼ばれている。

YAPは、北西アフリカで起こって、サハラ以南の人々の三つの古代の
分岐の中ではもっとも頻繁に見受けられる。これは、Aluの挿入として
しられる突然変異によって特徴づけられる。これは、300塩基のDNAの
断片で、非常だが、細胞分裂時に、人間のゲノムの領域に挿入される。

時代とともに、この系統はふたつのグループに分岐した。
ひとつは概ねアフリカと、地中海沿岸にあって、
これは、M96というマーカーで定義され、それは、
ハプロタイプ E と呼ばれる。もう一方は、Dで、これはM174の突然変異
で定義され、アジアにある。

ハプログループDは、おそらくアフリカを出発した、
最初の大きな民族移動で、海岸氏族とされた(ハプログループC)
といっしょに移動したようだ。
海岸沿いの豊富な資源を有利に活かして、この大胆な冒険者たち
は、アフリカから南アラビア半島、インド、スリランカ、そして、
東南アジアへと海岸ぞいをおい続けた。
もっとも、そうではなくて、彼らはあとから海岸氏族の足跡をおい
かけて旅を続けたのかもしれない。この祖先の子孫の一部は周囲か
ら隔絶された中で、この古代のルートに沿っていまでも生きている。
とくに、東南アジアと、アンダマン諸島であるが、しかしインドには
いない。
この子孫はさらに後のふたつの民族移動を匂わせている。
それは、東アジアの海岸を北にむかったものたちで、それは日本に
到達した。そしてさらに最近の移動では、ここ数千年の間に、
モンゴルからチベットに入った子孫がいたということだ。

以下、この文章の感想ね。
ざくっと、アンダマン諸島あたりに痕跡があるから、東南アジア経路
であることは確定的なんだよな。アンダマン諸島の人々はかなり古い
民族であり、その場にずっと数万年前から住んでいた人々がいまでも
住んでいるところで、そのあたりは、他の遺伝子や、考古学的にも、
立証されている。
むしろ、モンゴルにからチベットに入ったのは、日本からモンゴルへ
むかったものたちの子孫ってことになるな。ようは、北方アジア人が
古代日本人の子孫の一部であり、日本人が北方アジア人から来た人達
の子孫ってのは、だいぶ後の話になるわけだ(弥生時代とかね)。

アイヌの系統と、日本列島北方の人達は、たしかに、アメリカ大陸に移住
した人々と非常に近い関係にあることは事実なんだが、そのアメリカ大陸
の人々の多くも、Y染色体ではCとかが多くて、これはアフリカから東南
アジア経由、日本列島(およびシベリア)からアメリカに入るってことだ。
もちろん、アメリカ大陸にいった人の中には、mtDNAのXとか、ヨーロッパ
系と関連する系統もいるが、日本人の中では、Xは発見されていない。
で、20世紀末ごろの日本人の研究者の文献の中には、縄文人骨のmtDNA
が、ヨーロッパ型だったとかいう話があるが、その当時はハプログループ
の定義もあいまいだし、全長配列での解析はしてない。
前にも書いたように、それで大間違いしたのが、中国山東半島の白人
系って話だったけど、全長配列解析したら、結局mtDNAのM型の亜種で、
東南アジアから北上した人達だったことが判明したりしている。
研究の日付が20世紀中で、著者が国立遺伝学研究所とかの系統だと、
宝来先生とか斉藤先生のもふくめて、ちょっといまではまったく通用しない内容になっている。

ヨーロッパ人の中にも、たしかに中央アジア系がいて、その中には、
東にいたって日本や中国までいたった人々と共通祖先だったこともあり、
それもはっきりわかっているが、(こと氷河時代末までの2万年前ごろ
までの話だと)日本列島は、北から南まで、どっぷり東南アジア系の
人々であるといえる。で、その一部がアメリカ大陸までわたったわけだ。

なお、もう少し加えると、こういう初期にアフリカから出た人々の子孫
は、2万年前ごろまで、形質的にはかなり古い特徴をもっている。
いわゆる北方系ののっぺり顔なんていなくて、髪の毛もたぶんちじれて
いて、肌もかなり黒い。このあたりは、日本の旧石器時代の人骨の特徴
でもあるし、さらには中国での旧石器時代の人骨の特徴でもある。
世界的にみて、現代人の地域ごとのいろいろな顔の特徴、肌の色などは、
ここ1万年か1万5先年ぐらいで形成されたもので、ヨーロッパ人も、
この時代、現代のヨーロッパ人と同じ顔をしていたとは思えない。

クロマニョン人一般も、骨だけからはアフリカ人と区別が付かないという。
だから、ドイツ発見のグリマルディ人が黒人の祖先とかいわれて
いるわけだ。まあ、北方東洋人ののっぺり顔が世界ではもっとも先鋭
的な顔であることも事実だわな。
あと、アフリカの黒人も黒くなったのは、ここ1万年かそこらだ。
もっと古い民族であるブッシュマンはかなり色が薄い。

日本にやってきた東南アジア系
(もちろん、アフリカ、アラビア、インドを経てってことだが)の子孫が、
断続的にきっちりと、アフリカ、アラビア、インド、スリランカ、
東南アジアに分布している。それと、関連する人々が、
オーストラリアまで移住していることもある。
逆に、アルタイ方面にその当時いたのは、それこそ、アメリカ大陸まで
移住していったmtDNAのハプログループXの人々だが、この系統は、日本
列島にも入って来てない。

数万年前の人々の移動が現在まで痕跡が残っているっていうのは不思議
に思うかもしれないが、現実には、いろいろな分析法によって、くっき
りと遺伝子密度の勾配が見えるんだよ。

とくに、日本にアフリカ、アラビア、インドを経てやってきた東南アジア系の人々の系統が
アンダマン諸島とかと関係があるとなると、
考古学的にも孤立した人々の話で、かなり信憑性が出てくる。
遺伝子勾配も、数珠状につらなるアフリカからの流れも、ひとつひとつ
はそれだけだと、根拠はうすいんだが、相互に相補的に証拠としてでて
くるので、よほどのすごい発見がないかぎり、崩れない結論だ。



日本に水田技術を伝えた人たちの移動ルートは
稲のDNA追跡から、判明している。

江蘇、浙江、福建→日本西南部→朝鮮半島の順。

稲と共にどれだけの人が渡ってきたのかはまだ不明。


日本への陸稲 8千年前に伝来
日本への水稲 3千年前に伝来

日本列島に「東南アジア方面から」「旧石器人」がやってきたのは、
「3万年以上」前のこと。
この人々が、基本的に縄文時代の日本人のベースとなっている。だから、
アイヌや、琉球の系統にこの「原日本人」の系統が多いってことだ。

日本列島から、中国北部やアメリカ大陸に向けて人口の拡散がおこって
いて、その時期は、2万年前から1万5千年前。これは日本列島とその
近隣(朝鮮半島も含む)からの「拡散」であって、日本列島への流入ではない。

3)弥生時代の始まりとともに、あきらかに大陸から日本列島に稲作文化を
ともなった大陸人の移動があったが、これは、紀元前1000年ごろである。
朝鮮半島経由か、中国南方からかはわからないが、系統は中国南方の系統だとされる。

年代をしっかり整理してくれよ。3万年前、2万年前。そして3千年前だ。

シュメール学の権威であるS・N・クレーマーによれば、
「ついこの間まで、プレアデス星団を指すシュメール語ムル・ムルと、この星々を
表す日本語「スバル」との間に、何か歴史的な、あるいは文化的なつながりを想定
するなど、だれにも夢想だにできないことだった。それが優れたオリエント学者
ロイ・ミラーが、権威あるアメリカ・オリエント学会の会長講演をもとに加筆し
“スバルの跡をたどれば、本当にシュメールの昔にまで行き着く”ことを論証した
のである」という内容の論文だった。

「スバル」=古事記、日本書紀、では「すまる、統る」とも記す。ちなみに
沖縄方言でムルブシ(星)八重山方言でムルカ星と言う。「スバル」星は「東」
の方角を指す道標。天皇(スメラミコト)も東に輝く「スバル」のミコトでは?





福岡県珍敷塚古墳壁画 6世紀後半(西暦550年以降)黄泉の国と、黄泉の国へ
向かうための船








エジプトのピラミッドの壁画、死後の世界へ旅立つ太陽の船とホルス神。



ホルス神はエジプト神話のオシリスとイシスの子。ホルスはギリシア語。
ハヤブサの頭をした男、あるいは女神イシスの膝に乗った幼児。これはキリスト教
の聖母子像の原型とされる。

両者が全く関係ないというほうが無理がある。珍敷塚壁画を描いた人々は、
どうしてエジプトの太陽の船とホルス神の構図を知っていたのか


YAP変異(挿入)はアフリカと中東と日本だけみたいね。
日本人男性の42~43%が保有。問題は多形が何時生じたかだね。
日本のYAP+変異は中東・アフリカと相似なのかな?

「YAPハプロタイプの5種類すべてと27種類のコンビネーションハプロタイプのうち21種類は、
アフリカの人類集団で観察され、他の地理 的な場所に由来する集団に比べて、
より大きなハプロタイプの多様性をもっていた。
5種類のハプロタイプの特定の組合せ(サブセット)のみがアフリカ以外の集団では観察された。
今回観察された地球規模でのY染色体DNA変異のパターンは、
現代人の複数回に渡る脱アフリカと地域拡散の仮説を支持するものである。」

新しい出エジプト集団の多形が古い変異を持つ集団の分布に上書きしていったと考えれば、
日本人の持つYAP+は初期の「出エジプト」集団に起源を持つということになる…?

ヨセフは、エジプトの祭司ポティ・フェラの娘アセナテと結婚してエフライムとマナセが生まれた。(創41:50) 
(*当時のエジプトにはまだアレクサンダー遠征によるギリシャ人の血が入っていない) 


イスラエルの調査機関アミシャブのラビ・エリヤフ・アビハイル氏は、日本人のDNAを調査すると公言した。

DNA鑑定こそ、ユダヤ人の同胞を捜す決定的方法であり、この方法をアミシャブも重要視している。 

しかし、日本への古代ユダヤ流入に関する日本人のDNAを調査は、現在、個人情報保護法により中断されているもようである←これが一番謎である


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スメラ・ミコトはヘブライ語

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スメラ・ミコトはヘブライ語

われわれはイスラエルの帰らざる十部族の探索を「アッシリアの王は、
ついにサマリアを取り、イスラエルの民を捕らえていった」という旧約聖書の一節から始めた。
それは紀元前七二二年のことであり、紀元一世紀の終わり頃、
ヨセフス・フラヴィウスが「十部族は今もユーフラテスの彼方におり……」
と書いた短い証言を除いては、彼らに関する消息は何もない。 
しかしサマリアの民が追放されて一四世紀も経ってから、
日本の天皇の公式名は、すべて『スメラ・ミコト』であるということが知れた。 
日本語では満足に説明しかねるこの照合は、
古代ヘブライ語の一方言では「サマリアの陛下」と解釈することができる

ということは、もしや日本の諸天皇はサマリア王家の子孫であったことにならないだろうか。

――ヤマトとは何なのか

日本書紀はいつ古代日本人が大和の代わりに日本という名前を用いたのか、その転換期を明示していない。
だが初期天皇たちとヘブライ王の類似性から判断して、「大和」という名の持つ意味は、
主に「出生の地」に定着していた日本人のはるか古き時代と解釈していいようだ。
その点に関しては三つの手がかりがある。 ……。(中略)
第二の手がかりは、日本書紀で述べる日本国の初期の描写は、
日本の島々に関連したものではない可能性があり、
「ヤマト」という名自体の出所並びに意味の解明に当たらねばならない。
古代ヘブライ人も同じであるが彼ら自身を「神の民」と称し、
古代日本人も、「天つ神の子」もしくは単に「ヤマトの民」と名乗った。
日本の言い伝えによれば「ヤマト」という名は創造の初期に国につけられたものであるが、
「ヤマト」という言葉は、今の日本では何の意味もない。
これに反して、ヘブライ系アラム方言で「ヤ・ウマト」という二つの言葉は、
数世紀の間には「ヤマト」と縮まったかもしれないが、
古代ヘブライ人の象徴「神の民」という意味を持つ



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ヘブライ文字使用に関する考察

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紀元前700年代に移住してきたイザヤの三人の子、ヘフジバ(天照大神)、ツァクヤム(月読尊)、スサナウェ(素戔嗚尊)は、当時としては学があって、ヘブライ文字の読み書きが出来ました。
当然、一緒にやって来たユダの民達の中にもそうした人はいたでありましょうし、その流れが一部であったとしても、文字の読み書きの習慣はそれ以後も継続されたのであります。それだからこそ、早い時期から漢字に対して関心を持ち始めたといえるからです。
或る場合には廃れてしまったとしても、書かれた物は、度々失われては口による伝承の形となる、ということが繰り返されたのでありましょう。自分達の祖先は神によって選ばれてこの地にやって来たという民族に伝わる誇りはそう簡単には消えないからです。
何故、筆者が文字使用に拘るのかと申しますと、ユダヤ教から離れたヘブライ人は、筆者の掴んだところでは、大別して最低4回の移住があります。つまり、廃れかかった文字は、新しくヘブライ人の移住者がやって来る度毎に活性化したと考えられるからです。
当然、ヘブライ人の新しい移住者達は、先住者達との意思疎通には困ることはなかったのです。
最初のエドム一族は、列島最初の統括管理者となったのでありますが、それは後にはユダに委譲されます。
イザヤの三人の子やユダの民達が列島へ移住して来た頃には、エドム(ヘブライ一掃後の出雲)は現在の出雲地方を初めとして、朝鮮半島から九州地方に跨って住み着いており、既に外部からの移住者に対する出入国管理を厳しくしていました。管理者には当然、文字が必要でありました。
スサナウェらの子孫達によって、エドムからの管理がユダに移されたのが、いつ頃であるのかはまったく不明ですが、多くの争いによって記録は失われたでありましょう。「記紀」には神話が付加された伝承が残っているのみですから。

文書のセキュリティ確保は卑弥呼以後
紀元後30年直後に、ザブダイ一族が移住してきますが、この移住によってヘブライ文字使用はまた列島に新たな活性化を促がすのであります。
ザブダイは、「魏志倭人伝」では、邪馬台と当て字されます。
「魏志倭人伝」から察するに、卑弥呼の時代には文書のやり取りが盛んに交わされていました。
江戸時代の飛脚に充たるような伝達人が盛んに飛ばされ、情報交換が繁茂に行われたのです。
バラバラになった大ユダを纏めなければならないという必要性がそうさせたともいえますが、勿論、それらの文書はヘブライ文字で書かれていたことでしょう。代々王に関する記録がしっかり管理されるようになったのは卑弥呼以後からです。
「日本書紀」から、現実的に妥当と考えられる代々天皇の生没年、在位年を割り出して見ますと、別サイトでも説明したように、初代神武天皇の誕生年は西暦199年です。
編纂者による各々の天皇の在位年の増し加えの方法は、増し加え分を差し引くと、ほぼ正確と思われる在位年、生没年が割り出せるよう工夫されています。ここには編纂者の誤魔化しはありません。
かような理由から、国や王に関する記録の文書管理が確保されるようになったのが卑弥呼以後であろうと考える根拠であります。
「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」と、「魏志倭人伝」には良く書かれていない卑弥呼ですが、彼女はヤーウェ神の霊示や啓示を出す霊媒であり、ヤーウェ神に認められて、邪馬台国の女王となった人であります。
彼女はヤーウェ神からの啓示を受け、神武天皇(当時はそう呼ばれていなかった)が、次の大ユダを統括する王であることを知らされます。
そして、彼女を通して出したヤーウェ神による直々の霊示文が、現在の九州地方に住んでいた神武天皇の許に伝えられます。神武天皇はその文書を持って、ヘブライ諸部族を纏め上げながら近畿地方へと向かいます。
その文書こそ、神武天皇がヤーウェ神によって選ばれた王であることを証明する内容のものであったからです。それぞれの長はその内容を理解しました。
しかし、近畿に着けども、卑弥呼は既に亡く、待ち構えていたのは、弟の難升米との戦闘でした。これらは、後に神武天皇の東征伝説として神話化されたのです。
さらには、ヤーウェ神が押したにも関らず、多くの民達は神武天皇に疑念を抱き、最初、服そうとはしませんでした。それは、卑弥呼が新しい王の名前を二転、三転させたことにあるのですが、これが、「魏志倭人伝」の中の、「男王立てしも、国中服せず」と記載されることになったのです。
野々井遺跡で発見された土器片のヘブライ文字ですが、その文字はザブダイ国の流れの人々によって記されたと、見ることができるのあります。




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籠目紋=ダビデの星に隠された秘密とは?

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「 わらべ唄の解釈 」


次いでながら、わらべ唄の「かごめかごめ」は、「メシア」が到来することを予言した唄だと言われています。
日本の童謡は素朴な中にも、偉大な真理と予言が秘められており、子々孫々に伝えられてきました。
偉大な真理と言うものは、物質的な文書にして残すよりも、内容を書き替えられることなく、
口伝えによって子々孫々、末代まで伝えることが一番有効な手法であるらしい。

>かごめかごめ かごの中の鳥は いついつ出やる
>夜明けの晩に ツルとカメがすべった 後ろの正面だあれ?

「かごの中の鳥」とは、かごは籠、つまり竹の下に龍が隠されている「封印されている」と言う意味
「ツルとカメがすべった」とは、ツルは空の、カメは地の生き物を代表しており、
天地の和合を意味している。すべるとは「統べる」のことで陰陽の統合・極性の和解を意味している。
ツルはで日本、カメは六芒星でイスラエルを象徴しており、日本とイスラエルが同盟を結ぶことを意味する解釈もある。
更に「鶴=霊」と「亀=物質」が統べるとは、天と地(神と人)の和合を意味するのだろうか?

「後ろの正面だあれ?」とは、誰と言っていると言う事は特定の人を意識しているらしい。
それは自分の背後にあって見えないもの、そして自分の正面を見つめることによって明らかになるものを示唆している。
高次元の自己に目覚めた人々が新世紀に光を放つのだろうか?
そもそも「かごめかごめ」はイスラエル12支族のエフライム族の子守歌であるとも言われる。
旧約聖書にはイスラエル12支族が幕屋を中心に宿営する場合の場所が定められており、
ユダ族とエフライム族は中央のレビ族を挟んで対象の位置にある。
正面をユダ族とすれば、後ろの正面はエフライム族と言うことになり、ある一説によれば、日本人はエフライム族の末裔であり、
世紀末において、日本から世界を変える流れを作る者が出現すると言うことである。
日本はある特殊な霊的磁場を有している国であり、日本人には神から課された重大な使命がある、と主張する神道家や研究者が多い。


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