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今日ボクが見た風景

南京と731部隊の真実をUPすると・・・消されてるw

Category: 中国  

と、言うわけで見ずらくなってなってますが

史実なので負けずに頑張りますwww


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「レイプ・オブ・ナンキン 」の写真

Category: 中国  



今日ボクが見た風景


中国系アメリカ人女史アイリス・チャンの著書

レイプ・オブ・ナンキン 」の写真




【撮影者】 不明
【撮影場所】 済南病院
【撮影時期】 1928年(昭和3年)5月
【正確な出典】 『山東省動乱記念写真帖』昭和3年青島新報(株)



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731石井部隊記念館で展示されている蝋人形

Category: 中国  

今日ボクが見た風景

731石井部隊記念館で展示されている蝋人形






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中国の歴史教科書(日本語に翻訳したもの)

Category: 中国  


今日ボクが見た風景


中国の歴史教科書(日本語に翻訳したもの)

日本女性が陵辱されて殺された写真が、

石井部隊の細菌戦の人体実験にされた中国人として紹介されています


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惨殺された日本女性を司法解剖

Category: 中国  

今日ボクが見た風景

写真は惨殺された日本女性を司法解剖したもの

西條キン  (二十四歳) 西條八太郎養女とされる


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中国兵による【日本人略奪陵辱暴行殺人事件

Category: 中国  
写真は惨殺された日本女性を司法解剖したもの

西條キン  (二十四歳) 西條八太郎養女とされる


今日ボクが見た風景
【済南事件 昭和3年(1928)】

中国兵による【日本人略奪陵辱暴行殺人事件】
以下は、中国側も立ち会った、済南医院での【日本人被害者の検死結果】


済南事件の日本女性犠牲者が

石井(細菌戦)部隊による中国人犠牲者にでっちあげられた写真


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731石井部隊?実は中国人によって虐殺された日本女性

Category: 中国  
《付録》「…死体は済南病院に運び、我軍隊、警察側と支那側との立会いの上検死を遂げたが済南病院の検視の結果は左の如くである。

 
西條八太郎 (二十八歳) 原籍 大阪府大阪市此花区
一、全部に亙り皮下出血、上唇全部挫創、両手を縛り地上に引摺し形跡あり
二、右上瞼左頬、前頭部に擦過傷あり、左眼は死後鬱血のため多少眼球突出す
三、右腕関節の脱臼及複雑骨折あり、死因は腰部より腹部に向ふ銃創のため


西條キン  (二十四歳) 西條八太郎養女 
一、全顔面及腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離、口喉、前頚部に長き二模指幅一糎

(※センチ)の刺創あり、右乳房にも上同様刺創あり
二、左下胸部に長き三模指幅二模指の刺創あり、肋骨々折を伴ふ、腹部の出血甚し
三、○○に約二糎平方の木片深さ二十七糎(約九寸)突刺しあり
主なる死因は左胸部の刺創による、顔面軟部の剥離は、

周囲の皮膚に出血なき事よりして死後に行はれたる如し、

○○の木片挿入も同部に出血なきは、死後行はれたるが如し、

両手は腕節に於て同人の腰紐によって縛せられ同部の脱臼関骨折なし、

左前×に肘関節に近く、挫創あり、右足外側には刺創あり、

後者の二創も絶命後に行はれたるものの如し (後略)


(小川雄三『済南事件を中心として』昭和3年)



東条弥太郎
両手を縛られて地上を引きずられた形跡。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出

鍋田銀次郎
左脇腹から右脇に貫通銃創

井上国太郎
顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる

宮本直八
胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創。陰茎切除

多比良貞一
頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。腹部を切り裂かれて小腸露出

中里重太郎
顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創

高熊うめ
助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。

右脚の白足袋で婦人と判明した

藤井小次郎
頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除

斎藤辰雄
顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創







日本軍が中国人を虐殺した

悪魔のような人体実験の証拠写真として

中国が主張するこの写真・・・


だが真実は

中国人によって虐殺された日本女性だ


このようにして

戦後、捏造を重ねた結果を史実と認識する事は

私には出来ない...そして


歴史を歪曲する人間を私は軽蔑する


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731石井部隊?いいえ済南事件です 昭和3年(1928)

Category: 中国  
【済南事件 昭和3年(1928)】

中国兵による【日本人略奪陵辱暴行殺人事件】
以下は、中国側も立ち会った、済南医院での【日本人被害者の検死結果】


済南事件の日本女性犠牲者が

石井(細菌戦)部隊による中国人犠牲者にでっちあげられた写真

今日ボクが見た風景


写真は惨殺された日本女性を司法解剖したもの

西條キン  (二十四歳) 西條八太郎養女とされる








今日ボクが見た風景


犠牲者の検死写真2

この女性は足袋を履いている 済南病院で1928年5月に撮影(山東省動乱記念写真帖)





今日ボクが見た風景

中国の歴史教科書(日本語に翻訳したもの)

日本女性が陵辱されて殺された写真が、

石井部隊の細菌戦の人体実験にされた中国人として紹介されています


今日ボクが見た風景

731石井部隊記念館で展示されている蝋人形






今日ボクが見た風景

中国系アメリカ人女史アイリス・チャンの著書

レイプ・オブ・ナンキン 」の写真



【撮影者】 不明
【撮影場所】 済南病院
【撮影時期】 1928年(昭和3年)5月
【正確な出典】 『山東省動乱記念写真帖』昭和3年青島新報(株)



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731石井部隊?いいえ豚より安い日本女性です

Category: 中国  

中国が南京大虐殺において語る日本兵の残虐さ

聞けば聞くほど、見れば見るほど確信できることがある


あれは正しく 中国史に於ける典型的な虐殺方法だ


日本人は所謂、四足のものでさえ解体するのを忌み嫌う民族であり

死者や死体にさえも尊厳を認めそれを尊ぶ


つまり、必要が無ければ死体の原型が無くなるほどいたぶることはしない

死者の臓物をかき出したり、人間の弱点とも云える箇所への変質的な攻撃は

武士道を持つ者には到底出来る仕業では無いのだ


それを知らない当時の、否、現代の中国人は自分を基準とし

自分らがすることは日本人もする・・・とお考えのようだ


例えばそれは文化や民族性の問題であるように思う


鯉の活き造りやシラウオの踊り食い

私達日本人には文化であるが故に然程残酷には思えない

鯨に関してもその通り


それが民族性


では、通州事件で日本の民間人がどんな殺され方をしたか・・・

南京に向かう路に切り取られたサオ部を口に突っ込まれた日本兵の首が並んでいた


これが中国の民族性


正確には国民党の戦法、これは周知の事実

もちろん自国民に対してもである



当時の中国語の新聞に

『豚より安い日本女性。豚は1匹3000円だが日本人はタダ同然』

といという記事が掲載され話題になった。


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中国の文化や習慣②

Category: 中国  

ついでに支那人の 「食.人.習.慣」について述べよう。
 「有名な『三国志』の中で、曹操に敗れ、味方にはぐれた玄徳をかくまった若い主人が、新妻を殺して『狼の肉です、召し上がって下さい』と言って歓待し、玄徳は知らずにこれを食べたが、翌朝別れを告げ発つとき妻がいないことに気づき台所へ行くと妻の死体が横たわっていた。『ああ、これほどまでに我を大切にしてくれたか、ありがたい。』という話がある。このくだりは、三国志の中で最高の美談として中国人が愛読し、語り継いでいる。


 しかも、昔の中国の城は都市そのものだったから、強敵が攻めてきたときは、軍隊も市民もすべて籠城する。そして、戦争が長引き食糧が無くなると軍隊が市民を食べ始める。
 あの、孔子でさえ、人.肉.の醢.(シシビシオ、ただの塩ずけでなく、干して麹を混ぜ上 等の酒に漬けて密封して100日で出来上がり)が好物だったことはあまりにも有名。


 とても、日本人の想像の及ぶ所ではない。(「体験的慰安婦の生態」全貌社 鈴木博雄著より)下段2枚の写真はあるHPでは「おつまみとして食べた」なんて解説している。


 この支那人(中国人)による食.人.習.慣は文化大革命時の内容を書いた本にも当時の中国(支那)人の「食.人」をどうやったか度々良く出てくる。


 いかにも、日本兵がやったように錯覚しそうな表現を用いているが以下は全て中国人によるものである。


 ついでにこういったニセモノ写真を用いようとする「虐.殺.派」の中心人物達の本、「南京大虐.殺の現場へ」という「洞富雄、藤原彰、本多勝一」著がありそれら写真について述べている。


 本著221ページ掲載の呉氏が拾ったという写真7枚について述べると、「呉さんが断定した7点の写真は即「南京事件の証拠」とすることには大きな危険があると言わざるを得ない」と言ったのち、「南京事件の写真であるかどうか「不明」ということが南京事件の写真でないということにはならない、だから南京事件の写真だと言ってもさしつかえないとする論法もなくはないらしい」との事。


 つまり、「虐.殺.派」でさえも写真を証拠として用いることは余りにもずさんだが使ってもいいじゃない。
 と言いたいらしい。(笑)
 以前、インターネット上で否定論を展開していたNと言う人物が「洞富雄等の本を読む義務があなたにはある」と言ったので読んでみたが、よく「虐.殺.派」はこれらで「南京事件はあった」と言い切れるもんだ。(笑)
 いや、感心するね。


 たしかに、「南京大虐 殺」について全く知識のない者にとっては信じやすいと思うが、われわれ「研究者」にとって「バカにするな」と言いたくなるような資料ばかりである。
 先日「南京の真実」講談社が出版されたが、その本の中にも「20万の非戦闘員」(63ページ)と南京の人口を書いているし、虐殺数は「およそ5~6万とみています」(317ページ)と書いている。


 どこかのHPでは「南京では34万人が虐殺されている」とか主張しながら、一方では、「南京の真実」がその証明だ!なんて主張を行っている。


 はっきり言って矛盾している。


 「虐殺派」はとにかく矛盾していようが何だろうがとにかく「虐殺」はあったと証明出来そうなものは何でも宣伝し、検証は一切行わない。


 「無かった証拠」は無視し、黙殺する。


 「ビデオ (平成7年に発見された当時の南京城のドキュメント)」が良い証拠。


 以前、田中正明氏が一橋大学に招待されたとき藤原彰は討論会から逃げた。


 笠原十九司藤岡信勝教授との討論日にあえて討論を行う事を避けた。


 なぜか?実は以前田中先生と奴らの大ボスである洞富雄が直接討論した時に洞(「ほら」と読 む)がこてんぱんにやられたのを見ていたのでこれら「虐.殺.派」は絶対に「否定派」とは直接討論はやらない。
 しかも、全然論理的に証明はしない(そりや、そうだ。無かったモノをあったと言っている訳だから)。




戦前、憲兵学校で中国語を学び、天津特務機関に着任していた人の回想録に、

着任後の語学能力向上と、中国の文化生活風俗に慣れるための河北・山東省の

旅行をしたときのことが書いてある。

ある町で、中国の軍閥に捕まった強盗匪賊の処刑場面に出くわした。
捕まった匪賊が縄で縛られ、首を切り落とされ、

そこから鮮血が噴出したまでは何の感情もなく見ていたが、

次の瞬間に目にしたものは衝撃だった。

処刑を見ていた婦女子たちが、首が切り落とされると同時に、
手にした竹棒の先端につけたマントウを鮮血のほとぼしる首に近づけ、

マントウを血に浸し、嬉しそうに頬張るのであった。

衝撃を受け、傍らにいた中国人に訳を聞くと、河北地方では
人間の血をすすると、健康と美が維持されると考えられているとのこと。


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Category: 中国  

ついでに支那人の 「食人習慣」について述べよう。
 「有名な『三国志』の中で、曹操に敗れ、味方にはぐれた玄徳をかくまった若い主人が、新妻を殺して『狼の肉です、召し上がって下さい』と言って歓待し、玄徳は知らずにこれを食べたが、翌朝別れを告げ発つとき妻がいないことに気づき台所へ行くと妻の死体が横たわっていた。『ああ、これほどまでに我を大切にしてくれたか、ありがたい。』という話がある。このくだりは、三国志の中で最高の美談として中国人が愛読し、語り継いでいる。
 しかも、昔の中国の城は都市そのものだったから、強敵が攻めてきたときは、軍隊も市民もすべて籠城する。そして、戦争が長引き食糧が無くなると軍隊が市民を食べ始める。
 あの、孔子でさえ、人肉の醢(シシビシオ、ただの塩ずけでなく、干して麹を混ぜ上 等の酒に漬けて密封して100日で出来上がり)が好物だったことはあまりにも有名。
 とても、日本人の想像の及ぶ所ではない。(「体験的慰安婦の生態」全貌社 鈴木博雄著より)下段2枚の写真はあるHPでは「おつまみとして食べた」なんて解説している。
 この支那人(中国人)による食人習慣は文化大革命時の内容を書いた本にも当時の中国(支那)人の「食人」をどうやったか度々良く出てくる。
 いかにも、日本兵がやったように錯覚しそうな表現を用いているが以下は全て中国人によるものである。
 ついでにこういったニセモノ写真を用いようとする「虐殺派」の中心人物達の本、「南京大虐殺の現場へ」という「洞富雄、藤原彰、本多勝一」著がありそれら写真について述べている。
 本著221ページ掲載の呉氏が拾ったという写真7枚について述べると、「呉さんが断定した7点の写真は即「南京事件の証拠」とすることには大きな危険があると言わざるを得ない」と言ったのち、「南京事件の写真であるかどうか「不明」ということが南京事件の写真でないということにはならない、だから南京事件の写真だと言ってもさしつかえないとする論法もなくはないらしい」との事。
 つまり、「虐殺派」でさえも写真を証拠として用いることは余りにもずさんだが使ってもいいじゃない。
 と言いたいらしい。(笑)
 以前、インターネット上で否定論を展開していたNと言う人物が「洞富雄等の本を読む義務があなたにはある」と言ったので読んでみたが、よく「虐殺派」はこれらで「南京事件はあった」と言い切れるもんだ。(笑)
 いや、感心するね。
 たしかに、「南京大虐 殺」について全く知識のない者にとっては信じやすいと思うが、われわれ「研究者」にとって「バカにするな」と言いたくなるような資料ばかりである。
 先日「南京の真実」講談社が出版されたが、その本の中にも「20万の非戦闘員」(63ページ)と南京の人口を書いているし、虐殺数は「およそ5~6万とみています」(317ページ)と書いている。
 どこかのHPでは「南京では34万人が虐殺されている」とか主張しながら、一方では、「南京の真実」がその証明だ!なんて主張を行っている。
 はっきり言って矛盾している。
 「虐殺派」はとにかく矛盾していようが何だろうがとにかく「虐殺」はあったと証明出来そうなものは何でも宣伝し、検証は一切行わない。
 「無かった証拠」は無視し、黙殺する。
 「ビデオ (平成7年に発見された当時の南京城のドキュメント)」が良い証拠。
 以前、田中正明氏が一橋大学に招待されたとき藤原彰は討論会から逃げた。
 笠原十九司藤岡信勝教授との討論日にあえて討論を行う事を避けた。
 なぜか?実は以前田中先生と奴らの大ボスである洞富雄が直接討論した時に洞(「ほら」と読 む)がこてんぱんにやられたのを見ていたのでこれら「虐殺派」は絶対に「否定派」とは直接討論はやらない。
 しかも、全然論理的に証明はしない(そりや、そうだ。無かったモノをあったと言っている訳だから)。




戦前、憲兵学校で中国語を学び、天津特務機関に着任していた人の回想録に、

着任後の語学能力向上と、中国の文化生活風俗に慣れるための河北・山東省の

旅行をしたときのことが書いてある。

ある町で、中国の軍閥に捕まった強盗匪賊の処刑場面に出くわした。
捕まった匪賊が縄で縛られ、首を切り落とされ、

東部から鮮血が噴出したまでは何の感情もなく見ていたが、

次の瞬間に目にしたものは衝撃だった。

処刑を見ていた婦女子たちが、首が切り落とされると同時に、
手にした竹棒の先端につけたマントウを鮮血のほとぼしる首に近づけ、

マントウを血に浸し、嬉しそうに頬張るのであった。

衝撃を受け、傍らにいた中国人に訳を聞くと、河北地方では
人間の血をすすると、健康と美が維持されると考えられているとのこと。


今日ボクが見た風景


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中国の文化や習慣①

Category: 中国  
中国人漢民族 食人習慣カニパリズム


 「虐殺派」の人々は中国の文化や習慣について全く知らない、と言っても間違い無い。
 例えば日本では「大虐殺」と言うが中国では「大屠殺」と言う、なぜか? これこそ、日本と中国との文化の違いを端的に物語っている。
 
 処刑一つにしてもその国の文化があるのだ。


 例えば世界広しと言えども「切腹」{すかさず「介錯」(断頭)するのは日本人だけである

日本では成るべく痛みが無い処刑方法を取り、身体的に苦痛を避ける手段を取りたがる。


 それでは中国人ではどうか?
 ここで「通州事件」昭和12(1937)年7月29日の事件について述べてみよう。

(通州事件の詳細はこちら)


 親日的な方針をとっていた黄東政府が南京のラジオ放送(ウソをつく事で有名だった)の謀略により、

突如として日本人を襲い260名もの日本人民間人を虐殺した通州事件を例にしてみる。


 通州にいた通州の日本人居留民に中国保安隊と暴民が襲いかかり、略奪、暴行のあげく、

婦人・子供を含む日本人2百余名が虐殺された事件である。


 事件は真夜中に起きた。
 中国の保安隊はまず日本の特務機関を襲い、応戦した細木中佐と甲斐少佐を銃殺し、

喊声をあげて日本人街になだれ込んだ。
 日本人住宅を襲い、略奪・暴行をほしいままにして、婦女子を含む260人の日本人を

城壁のところに連行し、そこで皆殺しにした。


 見るも無惨な殺し方であった。
 街の中央にある日本人旅館近水楼を襲った中国兵は、銃声を放って闖入(ちんにゅう)し、

数十人の日本人客や女中を惨殺した。


 ある者は耳や鼻を削がれ、乳房を削がれ、ある者は鉄線で数珠つなぎにされて池に投げ込まれた。


 中国人の言う「屠城」による「屠殺」そのままであった

(「日本人が虐殺された現代史<新人物往来社刊>参照)。



日本における屠畜、屠殺(とさつ)の歴史 [編集 ]

1867年(慶応3年)5月、外国人に牛肉を供給していた中川屋嘉兵衛が、江戸荏原郡 白金村に屠牛場を設立したが、これが日本における近代的屠場の最初であろうという。明治 以降、屠場を設立する者の数は増え、日露戦争の時には全国で約1500を算えた。しかしその設備の不完全、また衛生上、保安上改善を要する点が多く、1906年(明治39年)に屠場法 が制定された。

日本国内における牛馬の屠殺は、その歴史的な経緯から不浄な行いというイメージも付きまとい、そこには食用家畜を単なる消費という、他の肉食文化では日常の延長に存在した行為として位置づけられず、専ら被差別階級の人々が行ってきたことという解釈がなされることが多い。(ウィキペディアより)


 


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