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今日ボクが見た風景

『告日本国』

Category: 日本国民の心得  

宗教は人間個人が、神道(惟神)は日本の歴史が、創造。

かんながら(神道)は宗教に非ず。

 「フランダースの犬」英国女性作家ウィーダ1872年刊。画家を志す少年ネロが、放火の濡れ衣を着せられて村を追われ、吹雪の中をさまよった挙句、一度見たかったルーベンスの絵を見る。そして誰も恨むことなく忠犬パトラッシュと共に天に召される。という日本では誰でも知っている悲運の物語だ。ところが欧州では「負け犬の死」としか映らず評価されることは無く、米国の過去5回の映画化も結末をハッピーエンドに書き換えられているという。悲しい結末の原作がなぜ日本でのみ共感を集めたのか、長く謎とされてきた。

 ベルギー人映画監督ディディエ・ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。浮かび上がったのは日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。プロデュサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は「日本人は信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見出す。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。この検証過程を「パトラッシュ」の題名で映画化、27日に大聖堂で上映される。制作のきっかけはアントワープの大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。「フランダースの犬 日本人だけが共感」の見出しで2007年12月25日読売新聞朝刊2面で報じている。

 日本は神の国である。日の神、山の神、田の神、海の神、火の神、水神、雷神、風神、荒神(かまどの神)、産土神、道祖神等々と森羅万象の自然を、生命体をつかさどる絶対神(造物主)として崇め、採り尽くさず共生してきた、唯心が日本の歴史である。巨樹を崇め今に残っているのが証し。戦いの敵将も弔うのは、敵将(人間)としてではなく、生きとし生けるもの、生命体としての観点からである。トルコ(イスラム教)、ポーランド(キリスト教)との、激動の中の100年に渡る友好は、付け焼刃に非ずを物語って余りある。(注・唯心国家の国民だから以心伝心となった、唯心無く唯物のみの凶産党や韓国や罪日では有り得ない凶産党は唯心否定で唯物のみ。民主党鳩山の友愛なんぞ、凶産や捏造が国是の韓国や罪日には、他意無しなら、鴨ネギでしかない。輩は唯物で、生命体を物扱いし、物欲のみでしか動かない、ソ連中国北朝鮮、韓国や罪日が見本であり、歴史が証拠だ。恥も外聞もなくひたすら自己中で、相手なんぞ無視は当たり前の折伏一辺倒、唯我独尊カルト教が輩の正体である)宗教は人間界の神で、生命体の神ではない。間は多種多様なので、宗教も多種多様となり、日本では信教の自由が保障され、仏教、イスラム教、キリスト教等々、よろずの宗教が存在する。日本は神国、宗教国といえる。五穀豊穣や安全祈願、成就感謝、生きるための神が八百万の神(天と地)で、いかに生きるか人間の生き方、善悪を訓え、死者を弔うのが宗教(人間界)である。八百万の神(天と地)は海の幸山の幸の狩猟採取の時代も、水稲栽培で始まった国生み時代も、海洋民のタイムラグ無き伝播で、津図浦々まで浸透した。八百万の神(天と地)への敬虔な祈願と感謝、これが日本精神で、日本の歴史である。

 戦前の神国とは多神教、八百万の神々がおわす国の意である。戦後63年経た現在も八百万の神々がおわす国で、日本は神国である。神国と発言すると、犯日団が即座に異常に反応し非難するが、騒ぐほうがおかしい。八百万の神々の社が今も現存し、国民は神として崇めている。八百万の神々が今もおわす日本を、神国呼称、何の奇異があろう。神国呼称しないほうが、不自然だ。神国日本は厳然たる日本の歴史で真実だ。日本の歴史や真実を否定する犯日団の正体は、唯心(神や宗教)否定、唯物捏造が教是の唯一神教であるカルト教、凶産と、便乗した朝鮮愚民政策侮日団や、在日工作員である事を、明白に自白している。

 唯物の毛沢東蒋介石金日成・李承晩が天皇のようになろうとして真似をしたが、しょせん猿真似でしかない、暴君となっただけである。

天皇は石原都知事やWGIPや犯日団捏造の絶対君主、独裁者、権力者ではない。“君臨すれども統治せず”使者である。日本国森羅万象八百万の神々の天理の使者(祭祀執行者)として、日本の歴史は天皇を、崇めてきたのは史実である。列強が開国を迫った国難にも、八百万の神々がいたから、中国朝鮮のように分裂もせず団結し、対処が出来た。八百万の神々の天理に基づき、サイパンの一兵士、渡辺はま子、八田与一、大島村の漁師、シベリアの孤児救出、ユダヤ人救出等々、日本人は皆行動し、天皇東条英機等も世の習いである逃亡もせず(ドイツ・イタリア皆逃亡)、皆日本と運命を粛々と供にし、兵士や国民も、終戦の詔勅一下ぴたりと矛を収めた。すさまじき戦いの動、そして静、まさに「能」で、史上比類がない。戦いに敗れても残るこの無言の団結は、日本の分断を阻止し、虐げられし世界の同胞の琴線をかき鳴らし、唯物凶産以外の戦勝国の唯心をも揺さぶり、新秩序の扉を開いた。国難に際し、八百万の神々の天理の下に、天皇を基にして団結したのであって、唯物独裁者の命令で団結したのではない。日本精神とは、始祖より続く、八百万の神々の天理である。八百万の神々の天理が、物李氏朝鮮差別教凶産破壊し、共産党を凶産党と喝破し、世界で初めて唯一の凶産の砦となり、蔓延防御、食民治主義は破壊、現代平和の礎を築いた。人間界唯物の物欲「滅びの美学」などではない、天道唯心である。三大宗教も天道を宗としていた。

 日本には、まず八百万の神がおわし、天道を宗としている。日本人とは国籍に非ず、天道が宗か否かである。民主主義の極致、海洋民民主主義国家が日本で、そして敬虔な祈願と感謝の歴史がある。日本(国)、祭祀(天皇)、国旗(日の丸)、国歌(君が代)は同一で、最上位が日本の歴史。その歴史を踏まえれば、以下の理解は容易である。日清日露大東亜戦争は、唯物(凶産・食民治主義)対唯心の戦いで、WW1WW2は唯物対唯物の戦い。

 ヨーロッパは、宗教戦争の歴史であるといっても過言ではない。そのヨーロッパフランス人の詩である、日本を喝破したこの詩を素直に読めれば、覚醒した先覚者である。詩『告日本国』東條英機が常に軍服の上衣の物入れ(ポケット)に入れて、肌身離さず持ち歩いていた手帳「修養録」にも、自記されている。

ポール・アントワーヌ・リシャール 

フランスの詩人、弁護士、キリスト教の牧師。大正5年来日(1905年日露戦争。1918年WW1。1916~1920年滞在)大正6年、1917年『告日本国』発表。彼は、東西の精神文化の融合と人種差別撤廃の生涯であった。1919年大正8年、パリ講和会議。日本が史上初めて、人種差別撤廃案を提案。日本の提案は16カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソン(民主党アメリカ大統領二人目のノーベル平和賞受賞)の「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。

 

『告日本国』

ポール・アントワーヌ・リシャール(野口薔薇・大川周明訳 真実史観訳)

 

 曙の子ら海原の子らよ、華と焔「ほむら(炎)」の国、

 力と美の国の子らよ聞け。

 涯(はて)しなき海の渚の波が、

 日出づる国の島々を褒めたたうる栄誉の歌を。

 汝(なんじ)の国に七つの栄誉あり。

 ゆえにまた七つの大業あり。

 さらば聞け

 その七つの栄誉と七つの使命とを。



 一、 独り自由を失はざりし亜細亜唯一の民よ、

   汝こそ亜細亜に自由を与うるべきものなれ。

 

 二、かねてより他国に隷属せざりし世界唯一の民よ

   この世のすべての隷属の民のために、立つは汝の使命なり。

 

 三、かねてより滅びざりし唯一の民よ、

   すべての人類幸福の敵を滅ぼすのは汝の使命なり。

 

 四、新しき科学と古き知恵と、欧羅巴(ヨーロッパ)の思想と亜細亜の思想とを、

   なる心に統一する唯一の民よ、これ等二つの世界

   来(きた)るべきこの世のこれらの二つを統合するは汝の使命なり

 

 五、流血の跡なき八百万(やおよろず)の神をもてる唯一のよ、

   すべての神々を統一して、

   更に神聖なる真理を発揮するは汝なるべし。

 

 六、建国以来一系のすめらぎ(天皇)、永遠に亘る一人のすめらぎ(天皇

   を奏戴「ほうたい(謹んでいただく)」する唯一の民よ、

   汝は地上の万邦「ばんぽう(あらゆる国)」に向かって、

   人は皆一天(造物主)の子にして天を永遠の君主とする

   一つの国を、建設すべきことを教えんがために生まれたり。

 

 七、万邦に優れて統一ある民よ、

   汝は来たるべきすべての統一に貢献せんがために生まれ、

   また汝は戦士として人類の平和を促(うなが)さんために生まれたり。

 

 曙の子ら海原の子らよ、

かくの如きは華と焔(ほむら)の国なる汝の、

七つの栄誉、七つの大業なり。

  完





 EU欧州白人連合に対し、AUアジア有色人連合では、悲惨な歴史の繰り返しとなるだけである。I(インド洋)P(太平洋)U連合(アジア・アフリカ・オーストラア・南北アメリカIP諸国)が公道。アメリカ(白人7割)の選出はその兆し。唯一アジアに残った人類の敵、唯物覇道捏造の凶産と、捏造主義国破壊が第一歩である。


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真実史観⑤

Category: 日本国民の心得  

正体自己保身洗脳者なのだが教授先生の言なので

先人以後の国民は皆洗脳された

 なぜ、いとも簡単に洗脳されたか?未曾有の復興を成し遂げるほど復興に没頭したため、戦前の教授(公)と戦後の復職教授(私利私欲)の中身が異なっているのに気付けず、戦前同様に崇めてしまったのが原因である。捏造を国是とし思想戦展開中の中国凶産ソ連韓半島罪日(同胞虐殺ベスト3)の捏造政権は、この日本真空時代に付け入り、恫喝(中国)“泣き売”(韓半島罪日)で金をせしめ分断した。

 こうして凶産を語れない丸暗記能力のみ優れた検証能力皆無の半端者が日本の仮想界(文系教授教師司法官政治家官僚役人作家評論家NHK民放新聞社出版社通信社等)を征服し、現実界から乖離した。全員ペーパードライバーの証拠は、65年間もの無検証。考えないからこうなった。国民が考えない国家は滅ぶ見本である。戦国時代凶産党邪会党を隠蔽するエセ識者がのさばり、善いとこ盗りする者(屠殺せずに焼肉食う者。日教組、宗教党、民主党、共産党、土井たか子、辻本清美等)が跋扈する世と成った。大江司馬筑紫田原鳥越平和団体のような善いとこ盗りする、(現実には役立たず)盗賊偽善者が幅を利かした。戦後65年は、国無き私欲が洗脳した真空時代と言える。


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真実史観④

Category: 日本国民の心得  

覚悟した者としない者とに分断された

 鴨志田静(1996年95歳で永眠)水戸美容専門学校初代校長は、敗戦後の1946年、夫(52歳)が国民党軍に捕まったと聞くと、当時45歳の妻静は髪を切り、顔に泥を塗り、服装も男の格好をして、ロシア人で満員の列車に単身飛び乗り助けに向かった。救出はしたが、コレラ罹病の夫は、救出2日で他界、奉天で野辺送りをし、お骨にして日本に持ち帰った。水戸の神埼寺にご夫妻は眠っている。「甘粕正彦乱心の広野・佐藤眞一著」で読んだ。すさまじい覚悟である・・・

 前述のように事実を知っている先人は洗脳されず、復興に専心し日本の隆盛を成した(トヨタホンダ松下SONY東芝日立等々)。1945年6月制定の義勇兵役法で、男子15~60歳、女子17~40歳までを国民義勇戦闘隊に編成し、本土決戦に備えたが、終戦後廃止。以後男子14歳、女子16歳以下の子供たちは皆洗脳されて、覚悟した者と洗脳された者とに分断された。当時20歳の橋田壽賀子は、青酸カリを個人的に入手、所持していたことを2010年(85歳)告白した。分断後の子供たちは、善いとこ盗りしつまみ食いする仮想界と、清濁併せ呑む現実界に分かれた。捏造に気づいても現実界には検証時間と成す術が無く、無駄な時が流れた。

ネット時代が到来し、満を持した現実界覚醒者は、資料を開示し合い、手弁当で検証に励んだ。結果、歴史はくつがえり、いまだに戦時下のロシア中国凶産韓半島罪日スパイの、戦争行動が現出した。65年後の現在、被洗脳者は80歳以下の人(考えずに洗脳された真空人間)が該当する。



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真実史観③

Category: 日本国民の心得  
屠殺せず肉食えると考える実技無き亡国奴復職教授らは、戦前戦中(祖国存亡の危機時)も戦後も、下善上善労使協調の分業を、下善上悪と差別化し言い換え、凶産を共産と、邪会を社会と捏造カルト 教を共産主義社会主義と教えた。先人が人類史上最初に凶産と喝破したWW2元凶凶産党を、邪会党を野放しにし、復興した日本を真空にし、存亡の危機に追い込んだ元凶は、東大を筆頭とする文系赤化教授だ!

 被害者赤紙で徴集玉砕死の国民(下善)、加害者極悪軍人(上悪)WGIP に、真っ先に便乗したのが戦中に非国民で追放され戦後復職の、ほんの一つまみのお坊ちゃま空論教授や出版社(岩波書店 等)の、亡国奴である。占領軍を解放軍と呼んで迎合、戦前悪軍人悪の善悪謀略史観で、自衛を侵略、軍民を一丸を国民をだました軍隊下善上悪と、職責放棄税金泥棒亡国業の、WGIP 洗脳に励んだ。戦中の追放罪、非国民を払拭出来、得意の凶産カルト で国民を折伏もできる、まさに一石二鳥で好都合であった。

 日本最高学府東大とマスコミの洗脳である、学生(白紙の吸い取り紙)や実技無き机上会(上司パージで突然の特進は、白紙の吸い取り紙)は瞬く間に洗脳された。復職教授の洗脳目的は、私欲(戦前の汚名挽回)のためのみである。岩波書店 岩波重雄は、出版人として初めて、終戦翌年の1946年、文化勲章を受けた。輩は独立後も続けたので、正真正銘の犯罪者である。

 吉田茂 は曲学阿世の輩と非難したが、正体は、亡国奴凶産スパイの可能性が高い。時は東西冷戦、万が一日本が凶産化しても自分だけは生き延びられる、国を売って二足の草鞋を履いたのだ。

 前述の「アメリカ 人の鑑・日本」は終戦3年後のホットな出版。スパイ無きまともな仮想界であったなら、7年後の日本独立には、真実史観が育まれ、蜂起戦争と総括出来、現代のような無残な日本にはならなかった。この一つまみの私利私欲の赤化教授らが現代日本転落の元凶である。戦中戦後をも総括出来得ず、日本独立後も自己保身のみに65年間も終始し、検証能力があったなら、蜂起戦争と総括は出来たマスコミも同罪。戦中の戦意高揚報道は、戦時下では万国共通の常識、非難するは、思考回路欠損者である。

小学生から洗脳された

 凶産復職教授に都合のよいWGIP 下善上悪(職業軍人悪、赤紙徴集兵善)を捏造し、学生を紅衛兵化し、凶産カルト の下善上悪思想で洗脳。修業中の学生は鵜呑み丸暗記、すぐさま洗脳され全国にばら撒かれた。その結果が愚民と化し騒いだ学生の、60年安保、赤軍、ハイジャック等々である。1962年からは、元憲兵が凶産に変身の槇枝元文が、日教組の委員長となり、小学生から洗脳、加勢した。美濃部亮吉都知事赤軍派などの凶産や、カルト 教信者や、日の丸や君が代拒否の、屠殺せず肉だけ食いたがる、つまみ食い教師が蔓延した。1966年の中国毛沢東 文化大革命 の紅衛兵と全く同じである。現代の文系仮想界は、その当時の被洗脳愚民化学生が占領したままである。被洗脳は脛の傷、なんと65年後の今でも総括出来ずにいる。復職赤化教授と同類、亡国より己が大事、唯物私欲との自白である。

戦後復職した凶産半端者私欲教授の戦後教育の結果

表音鵜呑み記憶の教授とマスコミと寄生虫と政治や

 分業と統括は社会の仕組みで、分業と統括の立場の相互理解で成立する。戦国時代の戦前戦中は皆分をわきまえ、お互いの分業を認識し合っていた。(友愛会)。職業の上下(労使)は格差差別ではなく、分業の仕組みで、統率である。統率のないものは物が出来ない。分業で物造りするのと同じで皆、分をわきまえ仕事をした。アッツ島の散華の兵も特攻兵も、苦渋の決断であることを重々知っていたから、皆逃亡もせず戦って果てた。市丸利之助硫黄島 散華直前の「ルーズベルトに与うる書」にも[我等日本人は各階級あり。各種の職業に従事すと雖(いえど)も、畢竟「ひっきょう(つまるところ)」其の職業を通じ、この皇謨「こうぼ(天皇の国家統治の方針)」、即(すなわ)ち天業「てんぎょう(天から授かった事業)」を翼賛「よくさん(たすけること)」せんとするに外ならず。我等軍人亦(また)、干戈「かんか(武器)」を以て天業「てんぎょう(国の事業)」恢弘「かいこう(押し広める)」を奉承「ほうしょう(命を受け遂行する)」するに外ならず]と、明記されている。カウラ兵の脱走自裁も同じである。戦後教育は分業を隠蔽し、上悪下善の善悪カルト 教育となった。「友愛会」に学べ!

1~2いおうとう蜂起から大統領宛の2通の手紙その一

生きて虜囚カウラ戦陣訓に非ずアサヒル朝日捏造記事が悲劇の元凶


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真実史観②

Category: 日本国民の心得  

敗軍の将は兵を語らず一つまみの迎合自称兵や拝金者のみの証言を真贋無検証で報道

 731の証言者は経歴詐称、早稲田に細菌学部など無い。南京掃討戦東史朗証言は偽中国 凶産の上げ膳据え膳に舞い上がった迎合つまみ食い証言。韓国 従軍慰安婦証言は曖昧で、背景の時代が不整合。「戦争体験出前噺」で本多立太郎は謝罪噺家となり、旅行しながら金を儲けた。朝日やNHKやピースボート(筑紫や辻本清美の金儲けのネタ)が支援した。

 自己保身目的でNHKや朝日のマスコミは、先人冒涜の帰還兵証言(本物なら下善上悪の少数意見)のつまみ食い、真贋を検証もせず垂れ した。

 針小棒大報道したため、先人以外の国民は皆洗脳された。先人の総意は団結蜂起戦争。戦犯釈放4千万人の署名が真意。

WGIP 洗脳台風の最中でも軍民一丸の日本・日本独立後の先人真っ先の行動は同胞(ABC 項目戦犯)救出

 戦後、戦犯追及を恐れたマスコミや、復職赤化東大教授らが米軍に迎合し、「虜囚の辱=降伏禁止」と捏造、先人冒涜をし続けた捏造報道の嵐の中での、日本人成人のとった行動が下記

 終戦から7年後の昭和27(1952)年に日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時の成人のほとんどいってもよい四千万人もの署名が集り、昭和28年8月3日戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議された。

 「関係各国の同意を得て、A級(項目)は昭和31年3月31日までに、B・C級(項目)は昭和33年5月30日をもって釈放された。“A級戦犯 ”とは何だ!」昭和62年11月12日神道政治連盟 発行

 同胞(はらから)を思う歌「♪モンテンルパの夜は更けて」・その歌によって目覚めた国民の同胞への思いは、日本人500万人の署名となって マニラ郊外に囚われた戦犯百数十名を救い出した。戦犯救出の署名4千万人と5百万人先人与野党議員渡辺はま子加賀尾秀忍

 ここには迎合マスコミに汚染されていない、心に日の丸を掲げた、、日本人が生きている。

 終戦から7年後の昭和27(1952)年まさしく存在した生(公)の、日本人成人。この公)の、日本人が、終戦後の日本の礎となり、奇跡の復興を成し遂げた。

 戦犯追及の恐れの無くなった独立後も、愚かなNHK等のマスコミや、戦後のパージで復職の赤化教授東大等の捏造は止まず、仮想界の正体「天道無き日和見集団」を自白した。そして、生(公)の、日本人成人以後の未成人を洗脳し続け、ここまで日本を貶めた。日本人の回帰する原点は、心に日の丸を掲げた、(公)の、日本人が生きている昭和27年(1952)だ!


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真実史観①

Category: 日本国民の心得  

真実史観

 東京裁判で、戦勝国がパール ハーバーを中心訴因から外した。戦勝国が封鎖(兵糧攻め)で宣戦布告、日本は応戦で真珠湾。つまり、正当防衛蜂起日本と、東京裁判で戦勝国が認めたのである。

 世界の戦国時代を肌で感じた兵士にとって、日本敗戦は家族滅亡、糧食確保の使命があるので命に代えてもの思いで必死に戦った。銃後の守りの国民も、外地の兵を思い必死であった。国家危機時に際し、凶産教授や凶産主義者らの団結破壊行動は非国民、排除は当然なのである。世界を相手にたった一カ国の戦いは物量が尽き敗れた。がしかし、身体を武器や筆にした比類なき戦いは、敵や同胞の琴線を揺さぶり、同胞は決然として決起し、宗主国は撤退した。そして、追随した同胞は1960年、現代平和の礎、植民地独立付与宣言を導き出した。有色人同胞の宣言に従わず近隣を侵略し続けるのが、凶産中国 や韓半島の唯物で、滞在理由(李朝差別)を捏造し、不法滞在し続けるのが唯物の罪日である。輩は世界の有色人同胞に矢を放った裏切り者である。

 偽善者石破茂 石原伸晃 小池百合子 や加藤陽子や遺族会らが、勝ち目のない戦争を引き起こした極悪軍人、下善上悪被洗脳史観で非難するが、戦争目的達成が勝敗基準なら、戦争目的の食民治利権拡大の根幹、ブロック経済は破壊され、植民地を失い、巨費を注ぎ込み支援の蒋介石 は敗退し、中国 利権もソ連に奪われ失い、兵士のみが無駄死にで、何一つ戦争目的を達成することなく撤退した欧米は、戦争目的達成の勝者と呼べるのか?弱者いじめの横車、無駄な殺し合いに勝ったに過ぎない。日本を追い詰めなければ、少なくとも一気に利権を失うことなどなかったはず。米国 視点では、ルーズベルトの飽くなき欲望(白人による世界征服)が招いた、自滅戦争である。大東亜戦争の目的、大義(ブロック経済を破壊しての自由貿易)を成就したのは、日中(汪兆銘)や大東亜同胞[裏切り者の、中(毛沢東 )、韓半島、在日以外]や世界の虐げられた同胞である。

 簡略すると、降伏拒否の先人は、戦国時代に最適者生存のため、身体を武器にしてまで戦い、人類開闢からの弱肉強食を破壊、新秩序共存共栄を創造し、凶産カルト の砦となり、共産党はカルト 教と世界に知らしめ蔓延防御(凶産偽中国等わずかに残ったが)、適者生存した。これが普通人ゼロ から検証、禍福敵味方併せ呑んだ、つまみ食い選り食い無き歴史である。普通の人が資料を基に普通に考えれば、皆ここにたどり着く。普通人検証の歴史には、世界史が、凶産が、李朝差別があるが、犯日には無い。つまみ食い選り食い善悪史観の捏造道徳論ばかりで、史学は皆無。犯日(ロシア 凶産中国 韓半島罪日や日本増すゴミ仮想界)以外の世界は、覚醒済み。少なくとも、大江(ノーベル犯日賞)以外のノーベル賞 受賞者は、先人に感謝すべきである。 



 戦前戦中の仮想界先人は俯瞰した高み「公」の、先憂後楽ゆえに尊敬され団結し存亡の危機に対処した。この復興隆盛を成した戦中派が一線を退いた後の戦後の仮想界は、復職赤化教授に洗脳され、凶産唯物捏造の拝金、先楽後楽「私欲」の権化となって現在に至る。戦後の仮想(言葉と文字)界は詐欺師とスパイの巣窟で、見識者(文化人)など皆無!

戦前戦中と戦後の言葉と文字の仮想界

 戦前派戦国時代で明日無き命の戦時下、文系も俯瞰した高み(3D)、「公」の先憂後楽実学時代で、空論は死であった。

 天道(人間視点ではなく、生命体視点)基幹の戦前の日本は、人類で最初に共産党を凶産カルト と見切り、赤狩りで排除した。存亡の危機日本唯一の術、団結のきずなを乱す凶産カルト が非国民として排除は当然なのである。東大等に巣食う、団結破壊赤化教授は皆排除された。「母べえ」の夫「父べえ」が治安維持法違反で逮捕は当然なのである。

 昭和20年8月15日終戦。蜂起軍日本に、韓半島や中国の、下克上(同胞殺し)無し。相手を間違えた(白丁の相手は追い出した李朝差別の憎き韓半島で、差別破壊の日本ではない)出自白状罪日の、下克上のみであった。日本では500年も前に終わった下克上(同胞殺し)を、中国韓半島罪日は、現在も続行中。

「平和の発見」(巣鴨の生と死の記録)2008.8.花山信勝著方丈堂

第一章 文人の感起

 ・・・都下武蔵野女子学院校長質室、恩師故高楠順次郎先生のあの一室で、同僚とともに「終戦の詔勅」をきいた私は、「富国強兵」でつらぬいてきた明治以来の武力は、今一朝にしてくずれ、文人が今こそ文を持って起つべき時、であることを直覚した。

 戦時中、一国民としてあっただけの自分に、非常に強い悔恨を感じた。国敗れた今日、今こそ、われわれは感起しなければならぬという興奮は、私をして眠りすら許さなかったのである・・・こうして、その後三年にわたってつづいた、巣鴨の一種の「志願囚」となった・・・

 花山信勝終戦時46歳東大助教授、翌年教授。自ら志願し、昭和21年2月14日、巣鴨の戦犯教誨師としてただ一人で教誨に当たった。A戦犯処刑7人に立ち会った唯一の日本人。戦後パージで復職し、私利私欲に励んだ迎合凶産教授との対比が、余りにも際立つ。スパイ以外の丸暗記語り部教授や亡国奴教授よ、煎じて飲め!

戦勝国の真逆捏造作戦下善上悪WGIP 洗脳目的のパージは日本真空時代の始まり

 「アジア征服世界征服が目的の戦争好き軍人が、戦勝国連合に侵略されると国民をだまして無辜の国民を徴集し、玉砕に追い込んだ。無辜の国民は、加害者極悪軍人に殺された被害者である。原爆や空爆は戦争を早く終わらすためのやむ得ない手段で、犠牲責任は、降伏を未練たらたらで引き伸ばした国民への加害者、極悪軍人である。国民はだまされた被害者なので、一切責任はない。戦勝国連合 はこの加害者極悪軍人を倒し、被害者の国民を極悪軍人の魔の手から救った、正義の解放者。国民への加害者、パール ハーバー奇襲攻撃の極悪軍人に戦争責任全て有りで、奇襲に応戦解放戦争の戦勝国ではない」と、戦勝国は真逆に捏造し洗脳した。WGIP である。こうして先人非難が正義となり、史学ではなく、善悪史観勧善懲悪物語となっていった。

「わらいと忘却の書」ミラン・クンデラ著(チェコ

 「一国の人々を抹殺するための最後の段階は、其の記憶を失わせることである。さらに其の歴史を消し去った上で、まったく新しい歴史を捏造し発明して押し付ければ、間もなくその国民は、国の現状についても、其の過去についても、忘れ始めることになるだろう」

 WGIP で真実の大東亜戦争を消し去り、捏造した発明の、太平洋戦争を押し付けた。NHKやマスコミは太平洋戦争呼称のみなのが証拠!半端者売国奴が占領軍に迎合し、思想戦の中国凶産、韓国 北朝鮮 、罪日が、“ゆすり・たかり”目的で便乗、65年間の謀略で、日の丸は垢一色となった。

1912年8月「友愛会」。クリスチャン鈴木文治を会長に結成された日本最初の労働団体。相愛扶助・識見開発・徳性涵養・地位改善などを掲げ、労使協調を指導精神にした団体。初めはキリスト教的人道主義に基づく修養的な組織であったが、凶産(上意下達)が入り込み、19年大日本労働総同盟友愛会(労働と同盟の凶産語が入り労使協調から対立に変化)。21年日本労働総同盟(友愛会を削除し労使対立の正体を現し、闘争的となった)。分業共産下意上達集合体日本の、健全団体(上下協調労使協調)であったが、凶産(上意下達)が入り込み、下善上悪にすり替えられ、現在の労組にいたる。現代の労組(連合 )は下善上悪(凶産)に走り、土台の勤務先(日本や会社)を破壊しかねない団体である(民主党 が証拠)。凶産(下善上悪)を排除し、分業の原点、労使協調の「友愛会」に回帰せよ!

1922年 堺利彦(記者)・山川均(キリスト教)・徳田久一(弁護士)らが日本凶産党創立。皆、言葉と文字の仮想界住人である。

1946年1月4日パージ(公職追放)。戦後のGHQ 覚書を契機として行われた戦争責任者や戦争協力者の、公職からの罷免および排除。戦前の良識者は追放され、戦前追放された空論赤化教授(不良識者)南原茂、滝川幸辰、矢内原忠雄、都留重人、大内兵衛ら東大京大等各大学に復職した。輩は占領軍を解放軍と呼んで迎合、戦前悪、軍人悪の下善上悪(凶産)でWGIP 洗脳に励んだ。ソ連に亡命(1931年)し、凶産中国の手先となって日本亡国活動の野坂参三凱旋帰国。後に凶産党議長を1997年まで40年間独裁の宮元顕治(東大経済)らも出獄し、世に放たれた。

1947年1月4日の勅令で公職追放の範囲はさらに広がり、地方政界、財界 、言論界に拡大された。

1948年5月までに追放者は20万人を越えた。

1950年レッドパージ(赤狩り。共産党員やその同調者を、公職または民間企業から追放した)。同年朝鮮戦争 勃発の時期に、GHQ の指示により、公務員労働者ジャーナリストなど一万数千名がその地位から追放された。しかし、期間が短く、大学が赤化教授に占領されており、影響はほとんどなかった。

1951年11月までに17万5千余名が追放から解除。

1952年4月28日に日本独立。サンフランシスコ講和条約発効(追放令の廃止)で全員解放。

WGIP に真っ先に飛びつき先人を貶めた、戦後復職東大赤化教授とマスコミが、真空時代の元凶。検証力皆無丸暗記能力のみで、凶産を語れない半端者が、言葉と文字界に65年間も君臨した。

 


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Category: 日本国民の心得  

1868年9月8日明治時代。日本は資源なき小国島国、幕末まで米が貨幣の自給自足で、採りり尽くさずの共存共栄の時代であった。開国で貨幣経済になり、欧米支配の、ブロック経済の一員となった。適者生存のため、自給自足の国から原料輸入し加工、そして輸出の国へ変貌したのだ。この変革(自給自足から、他国と互恵)は同時に、資源なき小国なので、資源封鎖(兵糧攻め)が急所となった。

1871~1873年岩倉使節団。岩倉具視を特命全権大使として、欧米に派遣された条約改正準備のための使節団。伊藤博文、山口尚芳が副使で、中江兆民津田梅子等が随員留学生として参加した。アメリカ との条約改正に失敗したが、欧米の先進文明摂取が、最大の収穫であった。以後の、改革の歴史に多大な影響を与えた。西郷隆盛も参加しておれば対処も大ききく変化したはず。唯物の欧米を診た唯心と診ない唯心、帰国後の対立はここが起因。日進日露大東亜戦争は、唯物(凶産・食民治主義)対唯心の戦いで、WW1WW2は唯物対唯物の戦いである。

1895年明治28年5月、日清戦争の勝利により台湾 が日本に割譲されると、日本軍は住民に2年間の国籍選択猶予期間を与え、清国を選ぶものは自由に大陸に引き上げることを認めた。蔡さん(蔡 焜燦さい・こんさい、「台湾 人と日本精神」著者)の父親はこの時、16歳。一度は祖先の地・福建省に戻ったが、そこに住んでいた叔父は、中国 社会の腐敗振りから、せっかく日本人になれる機会を掴んだ蔡さんの父親に「お前はこんなところにいるような人間ではない」と帰還を進めた。蔡さんの父親はこうして「日本人」として生きていく道を選んだ。

 以上のように日本開国時は、タイと日本だけが独立国の戦国時代であった。

 竜馬 らは世界を見て、尊皇攘夷(排除)→薩英戦争・馬関戦争(敗退で力の差を認識し、適者生存のため、積極的開国による富国強兵を目指した)→尊王(団結)→倒幕(対応不能の幕府)→転換(先進の欧米から学んだ。経済は米から貨幣に代わった)。

 当時の先人竜馬 らは世界を見ての行動なのに、現代の文系日本人にも、竜馬 放送のNHKにも、世界史や凶産が無い!凶産中国 韓半島罪日NHKや東大文系には、世界史や凶産が無い。世界史や凶産隠蔽なのだ!

 日本は資源無き小国なので国民は天皇の基に団結し、後手は、兵糧攻めは、本土決戦は、必滅なので、兵糧確保先手の布石を打つために打って出た。戦国時代(国盗り合戦)に対処した。自給自足農業国から、原料輸入し物造りの輸出国に代わった。戦国時代資源無き小国の、宿命である。

 清国の属国朝鮮は、戦国時代においては敵、南下のロシアが征服すればさらに強大な敵となる。韓半島が敵になれば資源無き小国は万事休すなので、分離独立を迫った。その結果が、日本の死活を懸けた日清戦争である。

 韓半島満州は、小国島国日本の生命線、以後の戦争すべてが、日本死活戦争。死活戦争なので台湾朝鮮は、同じ同胞として処遇し、両国民も世界史を認識し富国強兵に励んだ。統治当初に、世界史認識不足の一部の国民の反対があったが、両国識者も対処し世界史を認識した。

1912年2月12日中国 宣統帝(溥儀)退位し、清朝滅亡。中国 は、下克上群雄割拠の戦国時代となった。

1917年ソビエト社会主義共和国連邦(凶産)誕生。

1924年ソ連ウズベク。トルクメンの2カ国を侵略し凶産化。

凶産(捏造が基幹のカルト教)と共産(実事求是の真実が基幹の分業)

 産業革命(蒸気機関の発明で、有限燃料文明が始まり、分業がより細分化された)時の三大階級(資本家・土地所有者・賃金 労働者)を敵対関係(搾取者と被搾取者)で表した資本論が世に出た。単なるペーパードライバーのこの非難論を経典にした、凶産主義(邪会主義)が生まれ、下善上悪平等を掲げ、近隣諸国を次々征服、WW2を引き起こし唯一の勝者となった。がしかし正体は、不幸に忍び寄り君臨するカルト 凶産、王から独裁者(カルト 教祖)に名前が変わっただけの上楽下惨格差独裁カルト 教なので、下善上悪平等の嘘がばれ、やがて崩壊。残骸は正体を露出、二大階級[支配者(教祖)と被支配者(信者)]に逆戻り、中国 北朝鮮 凶産(搾取者と被搾取者)となって残った。下意上達の御世に、いまだに上意下達上楽下惨社会、飽くなき唯物で近隣諸国征服に励む、常時戦時下体制捏造宣伝集団である。マルクスは、解決論無き単なる反対者、現実界粗探しのペーパードライバーに過ぎなかったのである。

人類で最初に共産党正体は凶産と喝破した戦前の日本

 家族も会社も分業による共産で、その集合体、下意上達の民主主義国家が既に在る。考えれば解ること、一国全体がいまさら凶産[支配者(教祖)と被支配者(信者)]の上意下達に逆戻りする必要などさらさら無いのである。凶産や邪会主義は天道を無視した唯我独尊集団。政治ではなく、カルト 教や独裁ギャング団のたぐいで、捏造宣伝(中国北朝鮮の凶産や韓国 や罪日が生きた見本)が党是、国家扱いで対処は間違い。捏造まみれの輩は国家ではなくギャング団そのもの。人類で最初に正体を見切ったのは、天道(人間が基幹ではなく生命体が基幹)が基幹の、戦前の日本である。

 満州人侵略者清朝は腐敗し、英仏蘭米露に蚕食され滅び、英仏蘭米ソ日が後押しをする軍閥馬賊らが群雄割拠する内乱となった。漢人による新中国建設に、孫文汪兆銘蒋介石 らが日本を基点に活動した。がしかし、ガンの病に侵された親日の孫文、ソ連の甘言に乗せられ袂を分った。孫文ガン死で中国の迷走が始まり、日中戦争となった。日中戦争は毛沢東の日本への宣戦布告、八・一宣言(1935年8月1日)が始まりで、盧溝橋 (1937年7月7日)では無い。反共の蒋介石 、西安事件(1936年12月12日)以後、米英仏蘭ソの傀儡と化し、犯日となった。共産を凶産と見切った汪兆銘は、孫文の意志三民主義 )を成就すべく、中国 人民のために、再び日本と手を組んだ。日中が連合しての中国の宗主国排除に、危機感を抱いた中国 利権世界連合 (米英仏蘭等)は、欧米支配のブロック経済から排除の兵糧攻め(資源無き日本の急所、ABCD資源封鎖)を開始した。

 世界支配者連合が相手である、並みの覚悟などで出来るものではない。軍民皆共生供死、覚悟したゆえの戦争であった。サイパン も沖縄も真岡も、軍民一丸覚悟の自裁である。終戦時20歳の橋田壽賀子 も、青酸カリを個人的に入手、所持していた。

 欧米支配のブロック経済を東亜から追放し、東亜独自の経済圏、大東亜共栄権を樹立せぬ限り、この桎梏は永遠に付きまとう。日中連合 は中国の宗主国排除から、東亜の宗主国追放に拡大した。宗主国を排除し、東亜の開放で、英米仏蘭ソのブロック経済を破壊、自由経済圏樹立に懸けた。しかし、資源尽き、東亜同胞の蜂起まで持ちこたえることが出来得ずに、日中連合 は中途で敗れ去った。一足遅れたが、東亜の食民治は一斉に蜂起、宗主国を排除し皆独立、欧米支配のブロック経済を破壊、自由経済大東亜共栄圏を樹立し欧米を追放、大東亜戦争の目的を果たした。西アジアやアフリカ、弱小国も追随し独立、自由経済圏を拡大し、1960年植民地独立付与宣言を導き出し、欧米ソの白人支配から脱却、現代平和の礎を築いた。宗主国追随の蒋介石 は、凶産宗主国ソ連追随の毛沢東 に破れ、カルト 教凶産支配の中国が、火薬庫(人類の敵)として残った。

 軍の勝ち負けではなく、戦争目的達成が勝敗基準なら、戦争目的の食民治利権拡大の根幹、ブロック経済は破壊され、全ての殖民地を失い、巨費を注ぎ込み支援の蒋介石 は敗退し、中国 利権もソ連凶産に全て奪われ失い、凶産ソ連のみが凶産圏(食民治)拡大しての一人勝ちで、何一つ戦争目的を達成することなく兵士のみが無駄死にで撤退した欧米は、戦争目的達成の勝者と呼べるのか?弱者虐めの横車、無駄な殺し合いに、勝ったに過ぎない。欧米視点では、日本を追い詰めなければ、少なくとも一気に利権を失うことなど無かったはず、ルーズベルトの飽くなき欲望(白人による世界征服)が招いた、自滅戦争である。大東亜戦争の目的、大義(ブロック経済を破壊しての自由貿易)を成就したのは日中(汪兆銘)や、大東亜同胞[裏切り者の、中(毛沢東 )、韓半島、罪日は除外]や、世界の虐げられた同胞である。


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先人は共産を凶産と喝破した最初の人類①

Category: 日本国民の心得  
先人は共産を凶産と喝破した最初の人類。先人が戦後の復興と隆盛を成し、東大文系一つまみとマスコミ(スパイと丸暗記屋)が破壊した。戦後の日本は考えない人文系(洗脳が簡単)と考える人理系に分断され、理系が戦後日本を復興し隆盛をなしたが、文系が史学とは無縁の善悪論にすり替え破壊し尽くしたと言える。

 負けると解かったアジア侵略戦争をし、天皇のロボットと洗脳された皇民化国民は、戦陣訓の訓えで皆玉砕や集団自決した。先人は極悪軍人とそのロボットと、真実史観は学校で洗脳された。資源なき小国の職業が戦争の軍人が、負ければ破滅の戦争をいとも簡単に始めるものだろうか、戦陣訓の訓え如きで人間がいとも簡単に自裁するものだろうか、先人はかくも愚かだったのか、そしてその同じ先人が奇跡の戦後復興を成し遂げられるものだろうか。サミット開始(1975年)から、有色人種日本だけが、なぜただ一カ国着席しているのか。現実界の道理と教育(言葉と文字)の乖離が、長い間私には疑問だった。

 極悪軍人と単なるロボット先人に、奇跡の戦後復興を成し遂げることなど不可能。特攻も玉砕も本人に逃亡の意思があれば、皆回避できた。しかし回避は家族の滅亡、国の亡国である。葛藤の果て。自己犠牲で家族子孫を生かす高みに皆、達していたと、遺書は語っている。住民の自裁は、住民もその時はと覚悟を決めていて、そこまで追い詰められた。日本国ではなく日本城と考えれば、解かりやすい。当時は戦国時代、ましてや戦争なのに、非難の声のみが溢れている。他にどんな解決策があったのかも答えずの先人非難は間違い。ピラミッド建設は虐待事業ではなく、雇用促進救済事業であった。先人の戦争は少なくとも、ナショナリズムなどという狭小なものでないことは確かだ。最適者生存、乖離を埋める鍵は、この辺にありそうだ。

 東大文系教授加藤陽子は「日清戦争以後、日本という国はほぼ十年ごとに戦争をしてきた国・愚かな戦争・日本軍の場合兵士に強いた労苦・日本兵は想像を絶する装備を背負っていた・海没による死者が多かった」等々歴史学(なぜどうしての起因検証)とは無縁の、善悪道徳学悲惨だ論尽くしである。先に殺さなければ殺される戦国の御世に人殺しが悪とは、なんと脳天気な?正体はルーピーかスパイと、自白している。

 戦争は、始まれば先に殺さなければ殺される両者の悲惨な殺し合いで、同士討ちもある。悲惨だ話を語り継ぐのは歴史ではなく、怨念を子孫に遺し、敵討ち奨励話となるだけで、日本憎め教育の、ロシア凶産中国韓半島罪日と同じ。意図有りのNHKや加藤陽子や3H(半藤秦保阪)らは、これみよがしに極悪軍人と吊るし上げて終始するが、敵味方の悲惨だ論や加害者被害者や極悪論は平行線で、何でも有りの戦時下のことを、平和時の尺度での善悪判断は、歴史学からの完全な逸脱なので、除外。本多勝一・左高信・小田実らはスパイ。ナショナリズムで煽り、金儲けが目的のナショナリズム史観(石原慎太郎、正論、アベスル、西村慎吾、中山成彬、櫻井よしこ上坂冬子、渡部昇一、田母神、ゴーマニズム小林よしのり、WILL、平沼赳夫、立ち枯れ党、つくる会藤岡信勝、西尾幹二日本会議等)も歴史学からの逸脱なので、除外。

 現実界には、原因無き結果など無い、すべて原因あっての結果である。現実界の歴史は、より食いつまみ食い創作物ではない。5W1H、事実か否かと検証し、事実のみを積み上げ考証する、理系と同じ空論皆無の実証学だ。歴史は善悪や道徳学(日本)でもない、愛国学(日本・ロシア・凶産中国・韓半島・罪日)でも無い、実証学だ。記憶能力のみが勝れたエリート高校生修業中と、ペーパードライバーかスパイの、つまみ食い東大教授ではなく、現実界普通の人が普通に、日本をどうするか、時代時代の為政者となって、ゼロから考えてみよう。プロは中途から検証で、アマはゼロからの検証である。ゆえに、大転換発見発明はアマとなる。

年表が語る歴史

タイと日本以外は全て食民治が日本開国当時の世界

1511年マレーシアは、ポルトガル、次いでオランダが進出し、1819年イギリスが食民治経営に着手、後にイギリス領マレーとなる。

1521年フィリピンは、マゼランが来航しスペインの食民治。1899年米西戦争の結果、スペイン領からアメリカ領。

1691年モンゴルは、中国清の支配下。

1770年オーストラリアはクックが上陸し、イギリス領を宣言。

1777年インドネシアは、オランダが食民治支配。

1824年ビルマ(ミャンマー)は、1824年からの3度のビルマ戦争の結果、1886年英領インドの一部となる。

1840年ハワイは、米英仏などの列強の干渉から逃れるため、ハワイ王カメハメハ3世は、立憲君主国として国際的地位を主張した。しかし、国際社会に認められるために多くの米国人を官僚に起用したため、1898年米国に占領された。

1858年インドは、イギリスの直轄地。

1863年カンボジアは、シャム(タイ)やベトナムの圧迫で衰え、フランス領インドシナに編入。

1887年ベトナムは、1804年中国の封冊(ほうさく)を得て、カンボジア・ラオスを併合したが、19世紀半ばよりフランスに侵略され、清仏戦争後、清の宗主権放棄でフランス領インドシナに編入された。

タイ(シャム)は、19―20世紀始め、イギリスフランスに東西から侵略され、国土の一部を失ったが、イギリスとフランスの緩衝地帯として内政干渉されながらも、独立を維持した。

中国と韓半島と日本

1392年韓半島高麗34世で滅ぶ。部下の李成桂が高麗国王を倒し国号を朝鮮とした。以後宗主国明、清の属国となり、身分制度(凶産化)で愚民にした。軍隊を持つと自分が裏切ったように狙われるので、持たず、軍隊も清に依存した。朝鮮は暗黒の時代となった。

1851年1月中国太平天国とその乱。土地私有を認めず、1853年南京占領、天京と改め首都とし、太平天国を国名とした。清軍と米人ウォード(1862年戦死)、翌年から指揮英人ゴードン常勝軍(外人部隊の義勇軍)の活躍で、1864年に天京落城し滅亡。

1853年7月日本はぺりー来航で以後開国した。

1854年日米和親条約。アメリカ船の下田函館寄航、薪水食料購入など。

1854年10月日英和親条約

1855年2月日露和親条約

1856年1月日蘭和親条約

1858年5月中国愛琿(あいぐん)条約。ロシアと清朝の条約。清がイギリスフランスとの紛争や太平天国の乱に苦しんでいるのに付け込み、ネルチンスク条約(1689年アルグン川・外興安嶺を両国国境とした)を無視。黒竜江左岸をロシア領、ウスリー川以東の沿海州を共同管理地とし、黒竜江、松花江、ウスリー川の航行権を認めさせ領土を拡張した。ロシア征服南下。

1858年7月日米修好通商条約。領事裁判権を与え、関税自主権がなく、居留地を設ける、最恵国条款を認めることなどを内容とした、不平等条約。同年英仏蘭露とも同様の条約を結ぶ。安政五カ国条約。

1860年中国アロー戦争(第二次アヘン戦争)。英仏連合軍北京入場、北京条約締結。イギリスへの九竜割譲、天津開港等の条約。食民治主義の、中国食民治化加速。

1860年中国北京条約。アロー戦争の結果、英仏露との条約。ロシアは英仏仲介の代償として。ウスリー川以東の共同管理地沿海州を領土とした。王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約2つの不平等条約によって、満州地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満州地域(現在のウラジオストクを含む)は、ロシアに征服されることとなった。ロシアはウラジオストク(ロシア語の意味“東方を征服せよ”)を建設、極東侵略の拠点とした。ロシア征服さらに南下。

1861年日本2月3日~7月25日まで6ヶ月間ロシア艦隊は日本の対馬を占領した。当時ロシアの南下占領政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣してロシア軍を対馬から排除。

1862年日本倒幕の志士高杉晋作藩命で視察。上海の検分記録「中国人はほとんどが外国人の召使のようだ。英仏の人が街を歩けば、中国人の人は傍らによって道を譲る。上海は中国の領土だが、英仏の植民地ともいえる」と記されている。唯物の欧米を診た唯心高杉晋作は、以後尊王攘夷論の急先鋒となる。

1863年日本幕末の薩英戦争(英対薩摩)

1864年日本馬関戦争(英米仏蘭対長州藩)

1867年日本大政奉還。明治維新。適者成人の戦国時代対所のため、軍民一丸適者生存軍と化した。「それでも日本人は『戦争』を選んだ」の、能動ではなく、最適者生存のため已むに已まれずの選択である。


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「アメリカ人の鑑・日本」②

Category: 日本国民の心得  

第三章世界征服という脅威の正体

1捏造された脅威

 パールハーバー以前は、経済封鎖に対する日本の脆さを知っている人なら、日本が大国にとって軍事的脅威になるなどということを、誰も本気で考えたことは無い。日本は近代戦のための重要物資をすべて輸入しなければならないのだから、物資の補給が遮断(兵糧攻め)されれば、戦争機関は自動的に停止してしまう。しかも、日本は食糧も輸入しなければならないのだから、海上輸送路が遮断(兵糧攻め)されれば、通常の国内経済は麻痺する。

第九章誰のための共栄権か

3日華事変からパールハーバーへ

 ・・・日本は何を考えていたのか。中国の情勢は混沌とし、錯綜していた。しかし、日本から見れば、問題はきわめて簡単だった。つまり、(1)満州に、「合法的自衛」手段としての戦略拠点を確保し、(2)日本帝国圏(韓国台湾)と満州、華北からなる経済ブロックをつくって経済の安全保障を確立しようというのが日本の計画だった。そうすれば、これまでのように原材料物資と市場をアメリカイギリスフランス、オランダに依存しなくてすむ。日本は、一方では再び極東に進出してくる可能性のあるソ連に対する「防衛」手段として、もう一方ではイギリスの強力なポンド経済圏(貿易地域)とアメリカのドル経済圏に対抗する手段として、自分たちの計画を考えていたのである。しかし、イギリスアメリカは日本の政策に反対した。

 日本から見れば、イギリスは中国の「中央政府」を経済的、政治的に支配し続けたいから、反対しているのだ。そして、アメリカは日本がアジアで指導的地位につくことを望んでいないのだ。つまり、人種差別的、通商的、戦略的反対であると、日本は解釈した。この政策的対立が日華事変(日中戦争)の交戦国は中国と日本ではなかった。それは依然として、日本と欧米列強、とりわけイギリスアメリカとの対立だった。中国人の将軍(蒋介石)と政治家(日本と汪兆銘)がついていた。中国人民は、相も変わらず、双方の犠牲者であり、飢えるか殺されるかの役回りしか与えられていなかった。

 1935年、華北を蒋介石政権の「悪政」からほとんど「解放」していた。日本は華北三省を統治する将軍たち(軍閥)の協力でこれを達成したのだ。将軍たちはいずれも華北の「自治」確立と、満州国と日本の緊密な経済関係を支持すると宣言していた。汪精衛(兆銘)(後に南京「傀儡」政府を率いる)も日本についていた。彼は1935年当時、蒋介石が率いる「南京政権」の行政院院長だった。この政権は列強が「中華民国の」の「中央政府」として承認したものである。つまり、日本は中国の統治グループの中に緊密な協調関係をつくっていたのである。

 中国「国民政府」の中にさえ、政策の不一致があった。蒋介石はどちらかといえば親英路線、汪兆銘はどちらかといえば親日路線だった。1935年、汪は日本の協力して、蒋介石を国民党の指導的位置から外そうとしていた。

 この時点までイギリス蒋介石と日本の双方をけん制しつつ支援していたが、華北が独立を宣言し、日本と満州国が共同して関税同盟と経済ブロックを結成する可能性が強まってくると、危機感を抱くようになった。イギリスは華北に大きな「権益」を持っていたから、フレデリック・L・ロス卿を送り込み、銀の国有化計画を成功させて、蒋介石を外交的にも強化した。同じ頃、国民党大会初日の記念写真におさまろうとしていた汪精衛は、カメラに隠されていた銃で撃たれた。

 複雑極まりない情勢の中でおきた一連の事件は、日本の計画にとって大きな障害となった。日本のよき理解者は入院し、蒋介石はイギリスの財政援助で威信を高めた。このために日本は華北の「解放」計画を断念せざるを得なくなったのである。イギリスに代わって華北を包み込もうとした経済ブロック計画(日本が武力によらず「合法的」に達成寸前だった)は阻まれ、日本は一歩一歩、日華事変の泥沼にはまり込んでいった。その過程で日本は、不正義ではあったが(解放という正義が第一義ではなく、日本の自衛が第一義で、解放は自衛目的達成のための手段)、「アジア解放」(宗主国欧米に頼らない自己保存目的の大東亜共栄圏の樹立)の旗手として台頭してきた。

 日本は限定目標の中国から、欧米列強の支配から解放され、アジアの国々が共栄圏の中で共に暮らせる、アジア全域へと進撃を開始した。日本の説明によれば、それはアメリカ大陸の諸国が汎アメリカ同盟の中で協力し合っているものと同じものであった。

 ひとたび日華事変が火を噴くと、日本は残虐非道に突き進んだ。そして、東部の海岸地域を奪取し、蒋介石政権を重慶に追いやることに成功した。1940年4月、日本は汪精衛を南京に担ぎ出し、同11月汪政権を中国の正当な合法的「中央政府」として承認した。米英両国政府はただちに蒋介石政権を正統政府として承認すると発表した。アメリカは汪精衛を日本の傀儡とみなし、日本は蒋介石を米英の傀儡とみなした。

中国人の立場から見れば、両政権とも法的擬制(誤魔化し)である。蒋介石も汪精衛も外国の後押しがなければ支配的地位を握ることはできなかった。どちらも中国人の力で政権に就いたのではなかった。両政権の軍隊は外国列強(片や米英、片や日本)によって資金手当てされ、訓練されていた。両政権ともいわゆる中国「共産党」からは敵視されていた。日華事変では中国共産党は重慶(蒋介石)に協力して日本と戦ったが蒋介石軍は日本軍、共産軍双方と戦っていた。

 米国政府は蒋介石に多額の借款を与えるだけでなく、日本の厳しい経済制裁(日本最大の弱点兵糧攻め)をちらつかせることで、日華事変(事実上、1939年の世界大戦に合流する)に参画していた。[著者注7 1940年11月、汪精衛の南京政権の樹立に対抗して、アメリカは重慶(蒋介石)に一億ドルの借款を与えた。これは1935年のアメリカの対中国投資総額の半分に相当する]。1939年6月、私たちは日本との通商条約(1911年締結)を破棄した。これによって、私たちはいつでも貿易を停止(兵糧攻め)できるようになった。

 1941年7月、アメリカイギリス、オランダは共同で各統治領内の日本資産を凍結し、貿易関係を全面的に中断(兵糧攻め)した。

 ここにいたって日本は、満州事変以来脅えつづけてきた最後のとき(兵糧攻め)がついにきたことをさとった。これら諸国の物資がなければ、日本はアメリカイギリス、オランダのいう条件で中国と満州から撤退するしかない。

 近衛公が去り、東條大将が登場、凍結措置は戦争行為(兵糧攻め)であると簡潔に言った。次にくるのは必然的にパールハーバーとシンガポールの攻撃である。日本に言わせれば、これは当然の自衛行為であり、「帝国の存亡」をかけた攻撃だった。[ヘレンミアーズ注11 第2章の2「攻撃と反抗」の日本国天皇の開戦の詔書を読み返していただきたい。ここには日本の視点が明確にされている]。

第2章の2「攻撃と反抗」米英帝国に対する宣戦の詔書、1941年12月8日

 [東洋支配のあくなき野望に狂奔する米英は、重慶政権を支援しつつ、東アジアの動乱をいよいよ悪化させてきた。米英両国は他の国々に追随をそそのかし、われわれに挑戦すべく、わが帝国周辺において軍事力を増強した。彼らはあらゆる手段を用いて、わが平和通商を 妨害し、ついには経済関係断絶の挙に出るにいたった。これはわが帝国の存立を根底から脅かすものである。かくのごとき情勢にいたれば、わが帝国は実にその存立と自衛のために、武力に訴え、そのいく手にたちはだかる障害を打破するほかにとるべき道はないのである]。開戦の詔書全文赤裸な国民の総意開戦の詔書と終戦の詔勅と戦後公職追放令でのし上がった売国奴

(真実史観注・玉砕特攻集団自決の原点 ハルノートに応じたら最後、大阪城の内堀を埋めたのと同じ、立ち上がる術など皆無。応じても、保障なき戦国時代、再度資源封鎖されて完全亡国の奴隷国は明白で、滅亡あるのみ。ABCD経済封鎖は宣戦布告、座すれば確実に国民は餓死、アジア同胞覚醒追随に一縷の望みを懸け、打って出た。故国に残した国民の生存を懸けた戦いに、兵士も国民も上下の区別なく団結、滅私で戦った)。

第二章 懲罰と拘束

2攻撃と反抗

 パールハーバーはアメリカ合衆国の征服を企んでし仕掛けられた「一方的攻撃」であるというが、この論理では日本を公正に裁くことはできない。なぜなら、私たちの公式記録が、パールハーバーはアメリカが日本に仕掛けた経済戦争(兵糧攻め)への反撃だったという事実を明らかにしているからだ。パールハーバーは青天の霹靂ではなく、然るべき原因があって起きたのだ。原因は、1941年7月25日にアメリカイギリス、オランダが打ち出した「凍結令」である。三国は自国領内にある日本の全資産を凍結し、貿易、金融関係を全て断絶した。日本は輸入必需品80パーセントを「凍結」地域に頼っていたから、三国の行動は、日中戦争の泥沼化だけでなく、国内経済の窒息死を(餓死)意味するものだった。

 日本はアメリカに特使を送り、こうした厳しい措置の緩和を要請した。しかし、アメリカは両国間の対立を解決する意志を持っておらず、戦争は不可避と考えているように、日本にはみえた。会談の公式記録を読んでみると、アメリカは自国の「防衛」計画を整備するまでの時間稼ぎをしている、と日本が思ったのは、当然である。アメリカの政策(イギリス蒋介石政権を支援し、日本を経済制裁)は正しかったというのもいいだろう。しかし、私たちの政策ではなかったと、真面目な顔でいうのはおかしい。なぜなら、政府は各種の公式声明であれ「凍結(兵糧攻め)」令はアメリカの政策だったと言明しているからだ。

 日本の立場で言えば、こうである。イギリスとオランダが禁輸したインドネシアとマレーの物資(兵糧)を力で奪いに行く決意を固めた。そこでアメリカが両国の陣営に加わらないよう、奇襲によって出鼻をくじく必要があった。パールハーバーは伸るか反るかの賭けだった。

 東京裁判で日本側は「封じ込め」を逆非難し、「正当防衛」を主張した。これには強力な裏付けあったために、私たちはパールハーバーを中心訴因から外し、「少なくとも、いわゆる満州事変の発生時の1931年から」日本が企てていた「世界征服」の「陰謀」まで訴因を拡大せざるをえなくなった(国際検察局主席検事joseph keenan書簡参照

第七章鵞鳥のソース

7確立された満州の秩序

 私たちの戦争目的は、日本のアメリカ征服を阻止することではなく、日本を征服することだった。戦前戦中を通じて、日本が帝国の一部として、あるいは常任統治領として支配する地域に攻め入り、アメリカ本土からはるか遠くに広がるアジアの島と領土を占領することがアメリカの目的だった。

 雌鵞鳥(グース)のソースは雄鵞鳥(ガンダー)のソースにもなる(欧米列強の行動と、日本の行動は同じで、非難する資格など欧米列強にはない)。「アメリカ人の鑑・日本」

著者より依頼され翻訳した原百代の後書き

 「本質において、終戦後氾濫した『真相はこうだ』式のいわゆる、暴露ものと雲泥の相違があることの理由も、またこにあるのだ。 我々日本人の中に、占領中はおろか、独立後の今日に至ってもなお、決して征服者アメリカ人に対する遠慮とか、皮相的な同調からではなくて、本心から、アジアへの認識を始めとして、文化、教育、政治、百般の観念において、アメリカの、しかも正鵠「せいこく(真実)」を失したアメリカの対日観念を、そのまま鵜呑みにしている人々、換言すれば、アメリカ人の目の、しかも歪んだレンズを通した、そのままの姿で、己が祖国日本を観ている人々が、数少なくない事実、しかも自他共に、敗戦後の新日本の指導者を持って任ずる、いわゆる、文化人、知識人と称する人士の間にも、こういう人々の相当数が、現に各々の分野において、指導者として活躍している一事を思う時、この書は正に、正に、日本国民への頂門の一針(頭上に針を突き刺す)である」「アメリカの反省」1952.12. 引用終わり Ⅲに続く


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米人歴史家ヘレンミアーズの「アメリカ人の鑑・日本」①

Category: 日本国民の心得  

戦後3年1948年に書いた米人歴史家ヘレンミアーズの「アメリカ人の鑑・日本」より抜粋

 第4章は、翻訳抄訳版では省かれているが、「アメリカ人の鑑・日本」とした著者の、紛れも無く高い見識が第4章には在る。完全版を推奨する。

第4章伝統的侵略性

1神道からの解放

 日本人は近代以前に「戦争美」を創出し、「武士階級」を崇拝し、常に「軍事独裁者」に統治され、天皇を生きた「軍(いくさ)神」として崇めてきた。そして日本人の宗教である神道は日本人を優れた民族と信じさせ、神である天皇を世界に君臨させるため日本人に「世界征服」を命じている。私たちはそう教えられてきた

 私たちの戦後対日政策には、神道と「天皇制」は本質的に戦争を作り出すものであるという考え方が組み込まれている

 神道と天皇崇拝は日本人の民族感情にとって重要な文化と宗教の伝統を表すものだった。これは、他の民族が固有の文化、宗教の伝統をもっているのと同じ国民感情である。伝統の力が強ければ強いほど、国家存亡の危機には、戦時体制の、国民一丸の要となる。

 日本の学童が天皇の肖像に最敬礼をしたのは、アメリカの学童が「国家に忠誠を誓う」のと同じ国民的儀礼だが、私たちはそれを見ようとしない。

 日本人が天皇を尊敬するのは、天皇が超自然的、超人間的存在であるからではない。象徴としてのしきたりの、長い歴史と伝統文化を崇拝しているからである。日本の天皇は、アメリカの星条旗、あるいはアンクル・サムU.Sの戯言化。アメリカ政府または同国民のあだ名)のようなシンボルなのだ

 私たちの国旗は軍事的象徴ではない。それと同じように、戦争が無ければ、日本人にとって天皇軍事的象徴ではなかった

 「天皇制」と「国家神道」は、私たちが民主的と呼ぶ世界のどの国でも、国の特性に応じてさまざまに現れる現象である。神話は日本人にとって民族主義の象徴に過ぎないのだが、私たちはその事実に目を閉じてきた。私たちアメリカ人には統合の心情的象徴となる皇室は無いが、私たちの民族主義同盟であるイギリスは王室をもっている。

 もちろん、イギリス人は、国王、帝国、イギリスの血と文化に対する忠誠心を「国家神道」といいはしない。しかし、神話を別にすれば、日本人にとって「国家神道」が神社、英雄、日本国と帝国を表すシンボルに対する国民的、心情的崇拝であるのと、現実には同じなのである。

 アメリカでさえ、戦争中は多くの教会が祭壇の後ろに星条旗を掲げ、礼拝の中で国家を歌っていたのである。

 戦争中は、私たちも国家神道を絶えず(理性ではなく)感情(本能)的に表現していたのである。日本人を教育して根源的国家意識を捨てさせたいと思うなら、まず私たちの根源的国家意識を捨てるべきである。

5日本とアメリカ―その生い立ち(真実史観注・唯心と唯物)

 彼らは均質の民族的伝統を発展させた。隣国の中国は、少なくともその15世紀前から高度に発達した文化を持っていたが、日本の移住民はその文化を受け継いだのではない。彼らは中国人の後を継がなかった。この点は、私たちアメリカ人がヨーロッパ文化との関係でやってきたこととは違うのである。

 17世紀まで、彼らは中国文化借りながら自分たちの文明を発展させてゆくが、それも無制限な借用ではなかった。ある程度接触したところで必ず隔離期間が置かれ、その間に中国文化を民族状況に適合させていった。最後の隔離期間は、私たちも知っているように、2世紀以上も続き、そして、今度は日本人自身によってではなく、ペリー提督に代表される他からの力で終わったのである。

 日本人は、2世紀もの間、自分たちだけで生きてこられたし、それに満足していた。・・・彼らの文明はそれほど深く根を下ろし、彼らと一体化していたから、20世紀になって日本に流れ込んだダイナミックな西洋文明の奔流にも、毅然として立ち向かうことができた。

 私たちは、数十億エーカーの可耕地を持っていた。今日、アメリカの平均的な農家は150エーカーの土地を持っている。私たちを取り巻くすべての環境が、私たちをエネルギッシュな活動に駆り立てたのだ。

 これに反し、日本民族の土地は島の集まりで、主要4島合わせてもモンタナ州程度の大きさだった。・・・土地は一分の無駄なく耕されているが、それでもわずか1600エーカーに過ぎず、農家の平均所有地は2エーカーに満たない。

 私たちの文明は、社会と経済がある程度発達した段階から始まった。だから、私たちが発達した資本主義的商業技術を使って、機械文明に向かったのも当然である。そして、私たちの特殊状況が、発展を早めたのも当然である。

 私たちが民族となり、国家となるためには、ヨーロッパから自由を獲得する必要があった。インディアンを隷属させ、発明し、南北の隣接国と戦い、戦争や財力で、あるいは外交で領土を広げていく必要があった。

 広大な土地、富、少ない人口という私たちの条件が機械を必要とした。私たちは機械の創造に長けた民族だから、機械は兎のように増殖していった。

 前近代の日本人にとっては、事情はまったく違った。・・・彼らは環境を征服したり、変えたりするよりは、自分を環境に順応させることを選んだ。

 日本人は大部分が物々交換に固執していた。米が主たる富であり財貨だった。借財と税は、米などの生産物、あるいは労働などで決済された。物の値段は米を基準に決められていた、鋳造貨幣の使用は早くから中国に学んでいたが、それを利用していたのは、ほとんどの場合、大都市の特定集団だけだった。日本が統一国家として通貨を持ったのは近代に入ってからで、それまでは貨幣による徴税も行われていなかった。

 19世紀半ばになっても、現在東京といっている江戸は人口100万の都市で、流入する品物は、当時の記録によれば、下駄、下駄の鼻緒、木綿製品、植物油、紙、石鹸用ぬか袋のような日用品など百種類程度のものだった。もちろん、米は主要商品だった。前近代を通して、下級貴族も含むすべての人が、ぎりぎりの必需品で生活していた。

 日本の社会は米の収穫に大幅に依存していたのである。・・・だから、農業の障害のなるものはすべて経済の撹乱要因にになった。収穫物に損害を与える大地震、台風、津波は広範な不況を意味した。

 こうした災害は定期的に襲ってきた。しかし、日本の文明は、災害をいかに防ぐか、いかに小さくするかを考えることによって発達してきた。自然災害を制御するために、呪術農耕儀礼を営んだ。この自然と先祖に対する信仰の一部が神道なのだ。

 つまり、日本人は文明を発展させるにあたって、土地も富も少ない現実を受け入れ、集団化に慣れ、物が無くても耐え、もてるものを最大限利用することによって現実に適応してきた。土地は狭かったが、農作物の種類を制限し、一度に二種類の作物を栽培し、一つの土地に多くの人間を抱える集団農耕技術によってそれを克服してきた、この耐乏経済は集約農業と相互保全策を生み、それによって土地は肥沃に保たれ、島は美しい庭園になった。

 日本人は密集して生きることを受け入れ、小さな家に住み、物質欲を捨て、しきたりに順応し、家族、村、集団に従属することによって居住空間の狭さを乗り越えた。そして、個人による自己主張の欠落を、親への孝心、先祖崇拝、儀礼の徹底した形式化によって、品位あるものに高めていったのである。

真実史観注・唯物と唯心の統治の差となり、食民治と植民地になった。

6武士階級

 前近代の日本は暴力によって支配されていたのではなく、しきたり、共同体の意見、法律の力によって支配されていた。これは他の社会と同じである。職業軍人を抱合する「サムライ階級」は世襲の特権階級であった。

 徳川時代の日本の性格をいちばんよくうかがわせるものは、社会の階級性である。19世紀に行われた「国勢」調査によると、当時の人口構成は、サムライ7.2%、農民86.7%、手工業1%、商人・金融業者3.3%、その他1.8%となっている。サムライ階級には学者、医師、芸術家、事務職、行政管理者が含まれる。手工業の数が少ないのは、サムライを含めて、実際、すべての人が必要なものは自分で作ることができたからである。農民は稲藁を使って屋根を葺き、草履、敷物、その他何でも必要なものは自分で作った。

 私たちの日本人感は、支配体制を「軍事独裁」と呼んだことで混乱してしまった。支配階級は世襲官僚で、実際に国を動かしていたのは「神のサムライ」、すなわち舞台裏で仕事をする行政官(職業的知識階級ホワイトカラー)だった。

 彼らは警察権力の恐怖政策によってではなく、まことに綿密につくられた法と規制で安定を維持していた。

7間違いの歴史

 私たちは急いでいた。広大な大陸を手なずけ、収めなければならなかった。・・・私たちは形式にとらわれず、やるべき仕事を直進しなければならなかった。

 日本人の場合はまったく逆だ。性急であるより気長である事に重きを置いた。・・・彼らは形式を無視するどころか、極限の儀礼を求め、伝統的に正しいとされる行為の礼を社会制度の基本にしたのである。

 私たちは使えるものが余りにも豊富だったから、何でも惜しみなく使い、試した。日本人はそれができなかった。彼らには直ちに補充するという考え方の上に、文明を発達させてきた。日本人は節約を最大の徳とした。彼らは節約信仰を作り出し、何物も無駄にせず、持っているものはすべて完全に使い切った。

 私たちは大きいものを信じた。日本人は2エーカーの農地から、小さな家、箱庭、根付、盆栽といった独特の表現様式にいたるまで、小さなものを信じた。

 私たちは急いでいた。装飾や美的効果を考える余裕は、時間的にも精神的にも無かった。私たちが求めていたのは、物質的な快適さと便利さだった。日本人は急いではいなかった。彼らは物質的に貧しかったから、持っているものを飾ることを考えた。美は彼らの文明の大事な要素となった。

 私たちは自然を征服することを考えた。日本人は自然を敬い大切にした。

 日本人は土地に恵まれていなかったから、持っている物を崇め保存し、自然崇拝を彼らの宗教、社会、政治の主要な柱とした。伝統神道の多くの神事は、肉体的満足の対象である食べ物と、精神的満足の対象である美をもたらしてくれる自然に感謝する儀式だった。私たちは土地がありすぎたから、広大な地域を砂漠にしてしまうまで、保存の必要性を感じなかった。日本人は持っている物が少なかったから、大切にした。二千年に渡って耕してきた、今でも彼らの小さな島は肥沃であり、森や田畑はさながら手入れの行き届いた菜園である。

 日本が総じて安定した非侵略的な独自の文明を作ってきたことは記録に明らかだ。近代以前の日本は少なくとも千八百年の間、様式化され限定化された内戦の時代と、全体的混乱の一時期を除けば、平和と安定の中で文明を発展させ、人口を増やし、制度を整備し続けてきた。そして、外国を征服しなかったことは事実である。日本人を「間違い」で非難するなら、世界の大国になった近代国家で、こうした歴史を誇れる国が他に在るか、探してみるべきだ。


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済南事件の真実

Category: 歴史  

済南事件は現在の日本では、ほぼ忘却されている。そして、日本または日本軍があたかも計画的に北伐を妨害するために引き起こした、あるいは被害者は「ならず者」または「売春婦」であたかのような説明なされている。これは出鱈目な解説であって、事実ではない。

これらの出鱈目は「日本人」社会主義者と支那通軍人によってつくられた。

中国(蒋介石)による計画的な犯罪か?

本事件は蒋介石の「略奪命令」により計画的に実行された。

今日ボクが見た風景

5月3日11時ごろの済南商阜地の情況をみれば、国府第1集団軍の済南に宿営した部隊がほぼ総力あげて、商阜地の日本軍守備線内地区(青斜線内)に向っていることがわかる。


今日ボクが見た風景
白昼堂々、済南商阜地を略奪する国府中央軍兵士。明らかに集団で行われている。手前で小銃をもつ士官が見張っていることに注意。













もし、日本軍が仕掛けとするならば、戦場は城内または周辺で発生するはずであり、「原因不明」のうち両軍が「偶然戦端を開始」したなどは全くの虚偽である。蒋介石は第3次南京事件と同じく、日本軍の寡少をみてとり、部隊編制を崩してまでも「略奪可」の命令与えたのである。

さらに、日本軍は守備線内地区を東西2カ所に分けていた。領事館のある地区と居留民が集中する地区の二つを防衛しようとしたものであって、出撃して攻撃しようなどというフォーメーションでは全くない。

蒋介石は、加えて、「福田(師団長)は防衛施設を撤去するといったが、じっさには道路の阻塞は残っていた」と日本軍の「約束破り」を非難している。日本軍は警備地区の防御施設のみを撤去し、守備線内地区に通じる道路のバリケードを維持したことに驚いたものであるが、この非難の言葉こそ侵略の証拠でなくて何であろうか?

第3次南京事件とは異なり、済南の日本兵は戦ったのである。


中国の国際連盟提訴文

日本軍はさる5月3日、済南府において、なんらの理由なく国民革命軍に発砲し、かつ同地の支那市民を殺戮し、そのあと商阜地においても、砲火をもって、支那人千人以上を殺し、また負傷せしめ、とくに蔡交渉使の鼻を切るなどの残虐行為をあえてしたる上、当時他の3人の交渉員とともに、銃殺したのである。あまつさえ到底不可能と思惟せらるる軍事的要求を最後通牒の形式で国民革命軍につきつけ、しかも回答を待たずに戦闘を開始した。

日本軍側のかかる暴状にたいし、国民政府はあくまで穏忍自重して、もっとも穏当なる政策をとってきたのである。ゆえにこのさい国際連盟が日本軍にたいし、直ちに戦闘を停止して、撤兵せんことを要求し、同時に済南事件の真相を調査してこれが救済調停に尽力せられんことを希望する。




上の文は事実を捻じ曲げているとしかいいようがない。

3500人の寡兵がどうして戦闘を開始するのか?



5月5日デイリー・テレグラフ紙(ロンドン)

「支那人は内乱の起こるごとに、略奪及び殺人を天から授けられたる権利であるかのごとく、あらゆる横暴を繰り返している。これにたいし日本はイギリスの如く、干渉を避けるべくあらゆる手段をとったのだが、南方軍側の暴虐によって重大なけっかをきたし、出動日本軍は十に一の割合をもって、孤軍奮闘を続けている。昨年揚子江地域でほぼ同様な苦い辛酸をなめた我々イギリス人は日本にたいし深厚なる同情をよせる」


国際世論は圧倒的に日本に同情的であった。

この当時の日本人がなぜ英米人と共同歩調をもって中国の虚偽と出鱈目に向かわなかったのか疑問である。

また、当時でも奉天軍より、「革命的」であるという理由で国府軍(南軍)を支持する報道人や軍人は多かった。佐々木到一が国府軍支持であったことは南京政府顧問の立場から当然であったとしても、関東軍も国府軍支持が大勢であった。そして、佐々木は張作霖爆殺を河本大作に示唆し、自分の手柄であるとしている。このころから夜郎自大となり、中国内政に関与することによって、自己顕示を果たそうとする人物群が増えてきた。




 


『黒島伝冶全集』Ⅱ「済南」1970筑摩書房より


五月二日の晩だ。客がない女郎屋町はすっかり寝しずまってしまった。ほんの時たま、遠くから銃声と、機関銃のタッタッタッタがひびいて来る。空も、鼻のさきも全く暗い。夜中をすぎた。

この時、避難の用意をして三カ所に寄り集って、寝入りかけていた女達は、警戒中の歩哨に叩きおこされた。南軍が襲撃して来るというのだ。そこにはおもに、外人梅毒で、声が嗅れ、鼻がこけ落ちかけている、キタナイ女ぱかりが集っていた。はじめて内地から来た者なら、一目でヘドを吐きそうな面をしている。永年、支那をさすらい歩いた無頼の薬売りも集っていた。薬売りには、そのキタない女が美しく見えるのだった。鼻が陥没しかけているフヤフヤいう女にも魅力はあった。

灯はすっかり消されてしまった。湿気を含んだつめたい風が吹きぬけた。女郎は、こんな時こそなんにも持たない自分の身そらを安気に思った。身体一つで逃げ出せぱそれでいいのだ。毛布や花瓶まで彼女達に持てるだけ持って行って貰いたげに云っている女将をあとに放たらかしといて、鞄一っの薬売りとさきに逃げ出した。復仇してやったような気味よさがあつた。

道は暗かった。三十人もいたであろうか。男と女とがまざり合って、密着して、さぐりさぐり歩いて行っ一た。

全く、なんにも持たないということは幸福だった。が××の広場まで逃げのびた時だ。不意に、彼等は程近い右の方から、闇にかくれて、はげしく機関銃がタッタッタッタッタと降りそそいできだした。密集していた彼等は、あわてて馳せだす訳にゃ行かなかつた。

さきの方の走りだした者にも、やはり、そのさきから、機関銃が降り注いできた。間もなくそこへ銃に剣をつけた兵士が突きこんできた。

南軍がそこに待ちぶせて居つたのだろうか。それにしては、あまりに用意がよすぎるようだ。思わず、奴等のツボにはまつてしまつたのかな。

女も男も、突ツこんで来た××の×に胸をえぐられた。その兵士は、××の帽子をかむり、××の剣を持ち、××人が発する声のひびきを発しているように女郎には感じられた。殊に、多くの男に接触した経験を持っている女は兵士の体臭が、××人でなけれぱ持たない体臭を発していることを感じた。

しかし、それはホンの瞬間にすぎなかった。彼女等は、それを感じると同時に、ヒョロヒョロッとして、そこに倒されてしまった。
「おい、これやチヤンコロじゃないぜ。×××言葉を使うとるぞ。」

まっくらの闇の中で喋られる言葉は、正しく××語で兵卒のものだった。

「そうだよ。」
「なんで×××が×××を殺すんだい。」
「こいつらは、カサを持っとって、おいらにうつすといかんからだってさ。××××そう云うとった。」

「何だい、中隊長だってカサカキじやという話じやないか。」
それを云ったのは安川という一等卒だ。

翌日見ると、毛布や着物遣具を持ち逃げようとあせった金持ちの女将等が生きて居った。それらは背広を着て人種が一枚上であるようにえらばっている太っちょの商人等と一緒に守備隊に護衛されていた。

そして殺されたのは、肉体を売って稼いでいる貧乏な奴ぱかりだった。
しかし、昨夜南軍が邦人を虐殺した噂は、誰れが云い出したんか徽菌のように急速に方々に散らばっていた。密偵がはげしく、そこらに出没していた。

××は当局検閲による伏字



黒島は、この時代を代表する「プロレタリア作家」(それでも宮本顕治から「階級的でない」=「日共党員ではない」と批判されている)であったが、この文章に澱む、「女郎」「薬売り」にたいする差別感情をどう考えたらよいのだろうか?

済南事変で殺された日本人のうち女性は2名であるが、いずれも主婦であって「女郎」ではない。第2次南京事件や第3次南京事件の当局発表の日本人被害者には女郎は確かに含まれていなかったようだ。黒島はこれを批判したいのかもしれない。だが、済南における被害調査を実行したのは陸軍であって、外務省ではない。隠蔽体質のある外務省と較べて、一応信用してよいのではないか?

また、日本兵が歩行中の避難民を襲撃したように描写しているが、到底信じられない。なぜならば黒島は「肉体を売って稼いでいる貧乏な奴」が虐殺された、と書いているが軍発表の12名のリストからはそのように思えない。このプロレタリア作家の意識が、大アジア主義者の現役軍人佐々木到一と同じなのは何かの偶然であろうか。



 





佐々木到一(『ある軍人の自伝』普通社 1963)


今日ボクが見た風景
佐々木到一(1886~1955)
松山出身。広島県立一中卒。陸士18期、陸大。1937年12月、第16師団の一部「佐々木支隊」を率いて、南京城外下関に突入した。このとき2万人の国府軍将兵を「解決」したという。1941年、中将で予備役編入。戦後BC級戦犯に問われ、撫順に収容され、非転向のためか、拷問死した。江藤淳は「佐々木が中国に裏切られたというのは、中国が『他者』であるという認識に欠けていたからだ」と評した(戸部良一『日本陸軍と中国』講談社1999)。佐々木が、敗戦後も蒋介石を信頼し続けたことにたいする感想であろう。中国人は中国と交渉する外国人は、完全に中国に味方する人間でなければ承服しないのである。

ところがこの日になって重大事件が惹起されていることが明かにされた。これより先、居留民は総領事館の命令を以て老幼婦女は青島に、残留する者は限定せる警備線内引揚げを命じてあったが、それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老壮男女十六人が惨死体となってあらわれたのである。

予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。わが軍の激昂はその極に達した。

これではもはや容赦はならないのである。もっとも、右の遭難者は、わが方から言えぱ引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くがモヒ、ヘロインの密売者であり、惨殺は土民①手で行われたものと思われる節が多かったのである。

右の惨死体は直に写真に撮られ、予はこれを携えて東上することになったのである。

衝突の事情については次第に分明して来た。蒋介石は、袞州行営において、外人の生命財産の保護を命じ、また指定する部隊のほか、済南城内及び商埠地に進入することを禁ずる旨の制令を発したことは事実であったが、命令が徹底するか否かも、責任は彼れ蒋介石にあることはむろんである。

五月一日、済南落城の当日、制令にもかかわらず、各高等司令部その他の首脳部が先を争って商埠地になだれこんだ②

彼等は一斉に一カ月間の戦塵を洗い流さんことを欲したのである。日本軍の警備区域と接して開放していた商埠地には一時に支那兵が充満した観がある。

これでは蒋介石の制令も何にもならぬわけだ。そして前に述べるが如き政治部員の宣伝演舌が行われ、またある支那兵はことさらわが歩哨の前において腹を出して突けと言って揶揄し、これは小気味よくわが歩哨から突き殺されているような事件が生じているのである。

五月三日、普利門前通りの山東日報社に何故か支那兵が乱入したのをきっかけに、付近のわが警備兵が駆けつけて銃剣突撃の結果多数の支那兵を武装解除した④。

それが直に全部に波及し、商埠地に入りこんだ支郡兵が進退に迷って、無統一の射撃を始めたものである。これでは停戦命令が伝えられるはずはないのであるから、畢竟蒋介石の言い分はたんに机上の空論だけであって、彼の統帥が下級部隊まで少しも徹底しない⑤ことを暴露するだけの話だったのである。

後でわかったことであるが、蒋介石はこの衝突事件を利用して、巧みに各部隊を撤去して黄河を渡河し、北伐を継続③しているのであって、日本軍が打っ付けた期限付きの最後通牒も蒋はいなかったのである。城内には第九師だけが残っていた。後に南京で熊式輝にあった時、「済南事件のお蔭で北伐が完成したではないか」と言ったら、彼は二言なくそれを肯定した。

支那軍が都会に入ったら、膠着してなかなかそれを駆り立てることはむずかしいのである⑥



佐々木は、蒋介石の顧問であった。徐州では蒋介石と直接、北伐の作戦について意見をきかれている。5月1日に鉄道で済南にきて、ドイツ人の経営するアジアホテルに投宿した。ここまで1カ月間、革命軍(佐々木は国府軍をこう呼ぶ)と行動をともにしていた。

その日の午後、第6師団司令部を訪問、蒋介石の使者として「警備施設の撤去」を要請し、師団長は受け入れた。5月2日警備線を巡回。その日夕は料亭で会食。そのあと蒋介石の本営にいき、「警備施設の撤去」がなされたことを復命したと思われる。ここで城内の蒋介石本営に泊まった。


ーこの間は『自伝』では隠されている。後記ー

3日午後、衝突が発生したと知らされるや、蒋介石の依頼で商阜地に戻り、「停戦」を第6師団司令部に伝えた。第6師団は「日本軍はとっくに停戦している」(佐々木は日本軍が攻撃される一方であることがわからなかった)といった。佐々木は天津特務機関の車を借り、城内に戻り蒋介石に伝えた。

蒋介石は「当方も総司令部から人を出してあるから、日本軍側の希望通りになっていると考える、よってこの旨日本軍の司令部に復命してください」といった。

そのまま車でとって返すと、城内で国府軍将兵(佐々木は楊虎城の兵であるという)より暴行をうけ、また蒋介石本営に戻った。すると蒋介石や黄郛(親日派と目されていた)が見舞いにきた。ついでがあるということで、佐々木は再度、日本軍警備地区に戻され、第6師団参謀の手で済南病院に入院した。

5月6日、済南をたち青島に向かった。そのあと上海に戻ったが帰朝命令が出、陸軍省に呼び出され、白川陸相から邦人虐殺を防止できず、第6師団の作戦行動を阻害したかどで厳しく叱責された(ただし本人は前からオレは陸相に嫌われていたとケロッとしている)。

佐々木到一が厳しい任務を課せられたのは事実であるが、佐々木の回想には明らかな誤りがある。

①で被害者が麻薬密売者と書いている。実際の死亡者12名は以下の通りである(( )内年齢)。

  1. 西条八太郎(28)本籍大阪府
  2. 西条キン(24)八太郎の妻
  3. 大里重次郎(28)沖縄県
  4. 多平真市(34)長崎県
  5. 井上邦太郎(30)長崎県
  6. 藤井大次郎(40)愛知県
  7. 宮木猶八(55)熊本県
  8. 高隈むめ(50)長崎県
  9. 山下孫衛門(46)岐阜県
  10. 馬場信一(34)
  11. 安田勘三(60)大阪府
  12. 内田伊三郎(45)佐賀県


このように馬場信一以外は本籍が知られている。これは取りも直さず、領事館に滞在届けを出していたためであって、普通、「麻薬密売者」は届けは出さない。また女性は2名であり、プロレタリア作家のいう「外人梅毒で鼻が欠け落ちた」淫売という表現は被害者への冒涜であろう。

危うく逃れた民間人の談によると、急遽避難命令が出たこと、および警備施設撤去がなされ安全と思ったことの2点から、3日午前中に多数が家財を取りに戻り被害にあったのではないかとのことである。居住者は2200人と多く、守備線範囲外に出ることを完全に防止することは難しかったのであろう。

佐々木の誤解は、自らの邦人保護への意識欠如を被害者を蔑むことで代償行為としたということではないか。

そのうえ、邦人殺害が土民の犯行というが、それまで済南ではこのような集団的殺害事件は起きておらず、また②で制令を無視して国府軍将兵がなだれこんだことを認めている以上、自己撞着といわざるをえない。

本事件は第3次南京事件同様、蒋介石の命令または容認に基づいたものであろう。佐々木到一への暴行ですら、あとの時宜を得た「見舞い」を考慮すれば、蒋介石の命令である公算が強い。

蒋介石は、他の中国政治家同様、外国人の前では絶対に本音を明かさない上、日本人にたいしては平然と相反することをいうのを常としていた。佐々木到一のような陸大出の成り上がりエリートをいきなり交渉任務につけることに無理があった。

佐々木はさらに③で、衝突事件を利用して北伐を続行したというがたわ言であろう。蒋介石は済南事件以降、日記を「雪恥【恥をそそぐ】日記」と命名しているくらいで、この事件を大敗北と認識していた。

国府軍のスローガンは「帝国主義打倒」であって、日本こそが第一の敵なのである。日本人は自らが嫌われていることから目をそむけ、機嫌をとるような擬態をとる傾向がある。佐々木は一生懸命、中国人の面子がたつ理屈をいい、中国要人の歓心を買っているのである。

5、6万人の大軍が、1個連隊3500人に大敗北すれば「恥」と感じるのは万国共通である。佐々木の中国人は(大いに頭がよく)「敗北を利用してうまくやった」と感じたことは、まさしく支那通(チャイナ・スクール)メンタリティであろう。



さて④である。佐々木は隠しているが、3日朝、次のようなやりとりがあった。『昭和3年支那事変史』は「是ヨリ先午前八時頃南京駐在武官(佐々木のこと)ハ師団長ヲ宿舎ニ訪問シ南軍総司令官(蒋介石のこと)申出ノ要旨ヲ警備司令官ニ伝達セシ旨報告セシカ師団長ハ巡視ノ時刻迫レル為懇談シ得サリシモ該申出ニ就キ自己ノ意図ヲ之ニ示シ南軍総司令ノ反省ヲ促シメタリ」と書く。福田師団長は蒋介石の面会申し出を断った。

福田は蒋介石に拉致されることを怖れたのだろう。

西田済南総領事代理と思われる筆者は次のように書いている(『済南事件を中心として』)。会談の内容は『昭和3年支那事変史』に書かれているが、直後銃撃をうけたことに触れられていない。

西田済南総領事代理は、事件発生の當日(5月3日)午前九時半、佐々木中尉の案内によつて、小泉中佐、酒井少佐、河野参謀等と共に、督辮公署に蒋介石を訪問した、

席上には外交部黄郛、主席参謀熊式輝、朱培徳などの幹部も控える、

西田領事は我出兵の趣意を説明し、且濟南に於ける我派遣軍警戒の実情を詳述し、日支双方ともに克く了解し、今日まで何等の暴行又は掠奪等の不祥事の無かつた事を告げて、亙に無事を喜び合つた、

蒋介石もいと打解けた態度を以て、種々の談話を交換したが、結局司法行政は政治委員に処理をさぜ、其の委員長には蒋作賓を任命し、衛戍司令には方振武を任命すぺく内定してゐるが、軍事部は時を移さす、北伐を継続する筈であるから、日支關係の今後益々親密の度を増さん事を切望する旨を述ぺた、

政務委員蒋作賓も同席にあり、最近の機會に福田師団長と會見したき旨を述ぺ、極めて隔意なき會談を終つて、一打は帰途に就いた、

城門附近に差しかゝると、突然銃聲が各処に起つた、掠奪も亦始まつた模様である、うなりを切って飛び來る銃弾は、領事等の自動車を掠めて、危険言うばかりなき市街戦が起つたのだ、

事の意外に驚きつゝ、一行は忽皇として総領事館へ引き返すと、ソコには福田師団長の一行もゐた、

亙に鼎座、當面の対策を講じたか、兎も角事件を拡大せしめぬ方針から、総司令部、熊式輝、及商埠地内にある黄郛外交部長等に対し、双方停戦の必要を述ぺた、


『蒋介石秘録』8~国民政府の公式見解とみられる

五月三日(一九二八年"昭和三年")、済南(山東省)の朝は、さしせまった空気の中に明けた。

五月三日午前八時、済南駐在の日本の総領事(代理・西田畔一)が日本軍の憲兵司令をともない、総司令部にくると、私(蒋介石)に面会を求めた。

彼らはこういった。

「済南に進駐した国民革命軍は、軍規や風紀が非常によく、しかも秩序がきびしく守られている。そこで日本の済南派遣軍は、きょう撤退させることにした」

日本の憲兵司令は、つづけてこういった。

「きょうはとくにお別れのごあいさつにうかがいました」

日本の総領事は能弁であった。革命軍はいかに秀れた軍隊であり、これにくらべると、軍閥、張宗昌軍はお話にならない、とさんざんわが軍をほめそやしたあげく、日本人はどれほど革命を援助しようとしているかなどと、三十分問も話していった。しかし、彼らの話は、まったく心にもないことばかりだったのである。

最初の銃声は、彼らが帰ってから、十五分もしないうちにおきた。




こうまで、両者の言い分が異なっているのは苦笑を誘う。だが、ウソをついているのは中国=蒋介石側である。「日本の済南派遣軍は、きょう撤退させることにした」と西田総領事代理がいったとは、日本軍の統帥からは考えられない。それをいえるのは、参謀本部、野戦軍司令官、参謀長に限定されるのが明治憲法規定である。もし、西田がいったとすれば、日本には戻れない。

外交官が軍の統帥を左右できれば、満州事変は起きない。日本における師団長(陸軍中将)と総領事代理の地位の差がどうのようなものか、中国側にはわからなかった。

また、日本側と時間が1時間半食い違っているが、これも銃撃開始時間を誤魔化したい小細工である。中国側発表は「9時すぎに一人の中国兵が、日本軍守備区域で射殺されたことが発端になった」というものである。「最初の銃声」というのがみそであるが、衝突は相当規模で起きており、銃撃は散発的なものではなかった。

さらに、午前8時に佐々木が福田師団長と話したことは、日本側相当数が確認している。佐々木は中国側に会談を約束した手前、無理やり西田総領事代理をおしたてて督辮公署に「9時半」にいったのである。

督辮公署の会議中に城壁外の銃撃音が聞こえないはずがないので、中国側は、督辮公署における会談を8時に誤魔化したのである。いったいなぜ、銃撃開始時間を繰り上げたのか?

この事件の謎解きは簡単である。蒋介石は、佐々木のいうように、彼の統帥が下級部隊まで少レも徹底しない⑤、というほど無能ではない。国府中央軍の軍紀は峻厳であった。ただ、日本軍とは軍紀の内容が違っていた。

国府軍はこれまでにも南昌や鄭州で、軍命令による略奪を繰り返してきた。佐々木も控えめに支那軍が都会に入ったら、膠着してなかなかそれを駆り立てることはむずかしいのである⑥と書いており、国府中央軍による都市の略奪が常態化していたことを知っていた。蒋介石は敵対都市を攻略すると麾下の将兵に「自由行動3日間」と度々命令した。ソ共赤軍が赤白内戦のさいウクライナでこれをしばしばやったので、蒋介石はソ連視察時に知ったのであろう。

蒋介石は督辮公署会談を、自己が命令したのではない、というアリバイに使ったのである。

佐々木は略奪があっても、どうしてもそれが統帥者、すなわち蒋介石からの命令であることが信じられなかった。この点では、西田済南総領事代理も同じであった。公刊戦史である『昭和3年支那事変史』ですら、蒋介石の命令ではないという基調で書かれている。

蒋介石は日中友好を説くニコニコ顔の裏で、夜叉のような顔をして交渉団の殺害を命じてたのである。さもなくば、城門を出た途端、銃撃されるわけはない。また、国府軍はこれまでも略奪を常態とし、平然と次の都市に向かっており、どうして済南のみ違った態度をとるのであろうか?

この事件の翌々年の1935年の中原大戦でも、閻錫山軍と国府中央軍の間で3回ローラーがかかる激戦が済南をめぐって起きた。日本軍はいなかったが、済南において略奪は発生しなかった。両軍の司令官は済南事件の再演を怖れ、略奪禁止を厳命した結果であった。すなわち司令官が命令さえしなければ、軍隊が集団で略奪行為に走ることはまずない。

中国人のこういった複雑・残忍な交渉術に中国で長く仕事をしている人間ほど幻惑されてしまう。

参謀本部次長(総長は出張中)は、午後6時30分事件の内容を知るや、「(第3次)南京事件の行き掛かりもあり、この際、国軍の威信を傷つけざる如く考慮を望む」と福田に打電し、午後9時45分、首相と交渉したうえで、さらに「事態の発展に伴い内地より徹底的に増兵せらるべきにより、この際断乎たる処置に出るを要す」と激励した。

このときの参謀本部は事態をよく掌握していたのである。






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「闇の子供たち」

Category: 反日  


この映画は梁石日(ヤン・ソクイル、ヤン・ソギル)という
在日朝鮮人が書いた同名小説を映画化したものてある。
周知の通り、在日は朝鮮学校や韓国学校で捏造史を元にして捏造された反日教育を徹底的に教えられ洗脳されるので反日思想に凝り固まっている。
この梁石日(ヤン・ソクイル、ヤン・ソギル)という輩はウィキペディアによると在日朝鮮人の解放運動に参加している事から見て反日思想であるのはほぼ間違い無いであろう。
何故なら、在日朝鮮人の解放などという事は全くやる必要が無いからである。
何故必要で無いか、それは奴等は在日特権というものを傘にして日本人を逆差別化して日本国籍も持って無いのに日本人が納めた血税を搾り取って伸う伸うと暮らしているからだ。
この件について詳しくここで書くと長くなるので
http://www.zaitokukai.com/
http://ameblo.jp/doronpa01/
と、動画
http://jp.youtube.com/profile_videos?user=zaitokukai&p=v
あたりを参照して頂きたい。

つまり、梁石日(ヤン・ソクイル、ヤン・ソギル)という人物は反日思想に洗脳され毒されている輩であり、この「闇の子供たち」という映画はその様な輩が書いた小説を映画化した作品だという事なのだ。

そして、この「闇の子供たち」という映画を応援しているのが「日本ユニセフ」という団体なのだ。


この作品の内容はその様な事実(日本人が加害者)は根拠、証拠も無い全くのフィクションであるにも関わらず
「実際に起っている「現実」を映し出しています。」
と紹介しているのである。

更に、この作品はタイでも上映予定だったが中止になっている。



(以下、http://www.j-cast.com/2008/09/24027451.htmlより転載。)
「 タイでの人身売買を描いた日本映画「闇の子供たち」が、あたかも実話のように宣伝していることに批判が出ている。タイでは、映画そのものも「イメージがよくない」として映画祭で上映中止に。

「人身売買の現実」とうたい誤解与える
公開中の邦画「闇の子供たち」は、主人公の新聞記者男性がNGOボランティア女性と協力して、タイでの幼児人身売買・売買春の実態に迫っていくというストーリー。「亡国のイージス」などで知られる阪本順治監督の作品で、江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡といった人気俳優が出演している。
衝撃的なのは、その人身売買の中身だ。心臓手術でタイに行った日本人の少年が、タイ人の少女から生きたまま心臓の移植を受けるというのだ。

映画の原作は、梁石日の同名の小説。しかし、映画の公式サイトでは、実話のように紹介されている。「値札のついた命 これは『闇』に隠された真実の物語」「実際にタイのアンダーグラウンドで行われている幼児売買春、人身売買の現実」といったフレーズだ。また、動画サイト「ギャオ」では、「ノンフィクション映画」と、エキサイトのサイトなどでは、「ショッキングな真実」などとの解説もある。

さらに、阪本監督自身も、実話のようにインタビューに答えている。読売新聞の7月31日付記事では、「脚本化に先立つ現地調査で『フィクションではなく真実だと分かった』」としているのだ。

こうした映画の紹介に対して、2ちゃんねるなどネット上では、「事実と日本人への誤解を生む」と反発が出ている。さらに、タイでは、作品そのものも「イメージがよくない」などとして、9月23日に始まったバンコク国際映画祭で上映が中止に。「タイ国内で無許可撮影した」というのも理由だった。

「身近にある問題と感じてほしかった」

映画が「真実」「現実」なら、生きた子どもからの心臓移植に日本人が加担していることになる。
そんなことは、本当にあるのか。

これについては、映画の取材協力者が明確に否定している。
大阪大医学部付属病院の福嶌教偉医師は、日経ビジネスサイトの08年8月8、11日付連載記事で、
「タイで、日本人が心臓移植を受けた例はない」と明かす。

映画では、少年の母親が、命を金で買うことになる手術をNGOの女性から止めるよう言われ、
「あなたは息子に死ねと言うのですか」と反論する。
この言い方について、福嶌医師は、自らの体験からこう話す。

  「僕としては、ちがう言い方をしてほしかった」
  「心臓移植を受けようと思っている子供の両親が、
  よその子供を殺してまで自分の子供を助けたい、
  精神的にそう思っている人は、一人もいない」

心臓移植には少なくともエキスパートが8人必要で、リスクが高すぎて儲けることは難しいとも言う。
さらに、誤った情報を与えた結果、海外で移植を受けた子どもたちがしょく罪の意識を持つことが怖いとし、「その子供は自殺するかもしれない」との懸念も示している。」
(転載、ここまで。)


周知の通り韓国は、
韓国は日本によって占領され日本人により酷い事をされた
と言って日本と日本人を叩き貶め続けているが、それらの根拠が全くのデタラメで
捏造されたものであるというのは今や白日の下に晒されている。
韓国が捏造までしてこの様な反日活動を行う大きな理由は、

日本(政府)に圧力を加え日本から金(=我々が納めた血税)を絞り獲る為である。
しかし、本来なら、その様な捏造プロパガンダによる不当な圧力など"一笑に付せば良い"筈なのに、当の日本人も日教組による捏造史によって洗脳されてしまっている為それが出来なくなってしまってる。
その結果、日本の国益が損なわれ続けており、
この様な反日映画も際だった反対もされず上映され続けている。



つまり、今まで日本を叩くネタとして使ってきた「従軍慰安婦」や「日本による占領の被害」等といったネタが捏造だと判明してしまった為使えなくなってしまったので、
日本を叩く反日の新しいネタの一つとしてこの映画を使おうと画策しているという見方が濃い。

この問題(映画作品とそれを応援する 日本ユニセフ)に対して抗議活動が行われる事になった。

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