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今日ボクが見た風景

尖閣諸島に石垣市議が上陸

Category: 尖閣問題  

尖閣諸島に石垣市議が上陸 

海保が事情聴く


今日ボクが見た風景


2010.12.10 19:05

沖縄県・尖閣諸島の南小島に上陸後、石垣島の港に戻った石垣市の箕底用一市議(左)と仲間均市議=10日午後8時39分

 沖縄・尖閣諸島の行政管轄権を持つ沖縄県石垣市の市議2人が10日、尖閣諸島の南小島に上陸したことが政府関係者への取材で分かった。2人は漁船で同諸島に向かい、すでに南小島を離れたという。政府は諸島の所有者から土地の大部分を借りて上陸を禁じており、南小島も政府が借り上げている区域で、勝手に上陸すれば軽犯罪法違反にあたる。海上保安庁は2人が乗船している漁船を洋上で止め、事情を聴いている。

 今年9月の中国漁船衝突事件を受けて、石垣市議会は10月、固定資産税の評価や生態系の把握などを目的に同諸島への上陸を全会一致で可決。政府に許可を求めていたが、返答がないため上陸を強行したとみられる。

 尖閣諸島に向かったのは、石垣市議会の仲間均市議と箕底(みのそこ)用一市議。

 ヘリコプターで2人に同行したテレビ局の放送によると、漁船は9日に石垣島を出航、同日夜に南小島の近くに到着。島には接岸せず、10日午前8時50分ごろ、2人が海に飛び込んで同島のかつお節工場跡地に上陸した。周辺に海保の巡視船などの姿はなかったという。

 テレビ局の取材に対して箕底市議は


「約40分間調査した。誰が何と言おうが、尖閣諸島に上陸して調査することは、

                    中国がどうのこうのというのは関係ない」などと話した。


 海上保安庁によると、尖閣諸島周辺は漁船が漁業をすることには問題はないが、漁業者以外の人間を乗船させていた場合、航行時に必要な安全設備の基準が漁船とは変わるため、船舶安全法違反に当たる可能性があるという。

 仲間市議は平成15年にも尖閣諸島に上陸しており、第11管区海上保安本部(那覇市)に書類送検されている。








この強さが我が国の外交に欠けるものだな・・・   アッパレ!(笑)






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中華民国からの感謝状

Category: 尖閣問題  

尖閣は日本領」記述 

中華民国からの感謝状 

石垣村長あて現存



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2010.11.29 09:00



中国が戦前から沖縄・尖閣諸島の日本領有を認めていた証拠となる「感謝状」の完全版が28日、石垣市内に現存していることが分かった。

 感謝状は、1920(大正9)年5月、中華民国駐長崎領事が、前年に遭難して尖閣諸島に避難した中国・福建省の漁民31人を日本の住民が救助したことに対して贈ったもの。文中に尖閣諸島を「日本帝国沖縄県権八重郡尖閣諸島」と記述している部分があり、当時の中国が尖閣諸島を日本の領土として認識していたことが分かる。

 石垣市によると、感謝状は関係者7人に出された。このうち、1通は石垣市立八重山博物館に保管されているが、掛け軸にするため上下左右が切り取られている。今回発見されたのは、当時の石垣村長、豊川善佐氏に贈られたもの。尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をきっかけに、同博物館が豊川氏のひ孫の女性に調査を依頼したところ、今月12日、自宅で発見された。

石垣市の中山義隆市長は産経新聞の取材に「村長あての感謝状で、保存状態も非常によい。尖閣諸島が日本の領土であることの証明がより強固になった」と話している。







日本はこれを報道し、中国に抗議、すべきではないのか?



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上海万博に見る中国人気質

Category: 中国  

上海万博で日本の愛する錦鯉を毒殺した中国


 ~中国と中国人の本質が凝縮された事件~



日本人の愛する錦鯉を毒殺した中国:週間新潮コラム 櫻井よしこ


(前略)中国政府は、万博は大成功だったと自賛し、「改革開放政策を進める自信と決意を強固に、平和発展と開放を両立させる道を歩み、世界各国と連携を深める」と発表した。だが中国の威信をかけて「成功」させた万博で、中国の異質さを象徴するような事件が起きていた。10月15日深夜、新潟県長岡市が持ち込んだ山古志村の錦鯉が毒殺処分されたのだ。


 錦鯉を展示した高野国列氏が詳細を語った。氏は42歳、山古志村で60年の経験をもつ父に学び、約20年間、錦鯉を養殖、現在、長岡市錦鯉養殖組合(以下組合)の青年部長だ。

 「上海万博では生き物は展示出来ないそうですが、例外的に認められ、錦鯉を展示することになりました。今年5月頃、長岡市から話があって、準備に入りました。鯉は日本に持ち帰れないという条件でしたが、展示終了時点で中国の公共の施設か業者に贈ろうと、皆で決めました。経済的には大出費ですが、山古志と日本を代表するのですから、立派な美しい鯉を5匹選びました」

 いまは長岡市と合併した山古志村は、山古志牛の産地であると共に錦鯉発祥の地としても知られている。6年前の中越大地震のとき、底が割れて水が技けた池で多くの錦鯉が死んだ。人々はわが子を死なせてしまったように悲しみ、残された鯉を大切に育て、錦鯉養殖の伝統を守った。(中略)


■「病気があるため殺す」

 「中には食べられるかと尋ねる中国人もいましたが、美しい鯉に、皆、感嘆の声をあげていました。催事場はテニスコートー面分程しかなく、そこに15日午後8時までの2日半足らずで2万6000人が来て、身動き出来ないほどでした」 押すな押すなの2日半が過ぎ、15日の午後8時に展示が終わった。深夜までに片づけ、次に展示する京都の人々に明け渡さなければならなりそのとき、事件は起きた。「中国人数人が突然入ってきて、我々以外全員を外に出し、バタバタッと水槽を取り囲みました。物々しい雰囲気の中で鯉を指して、『病気があるため殺す」と言ったのです。私は思わず言いました。「病気なんかない。入国のときにきちんと検疫を受け、中国側も認めたでしょう』と。

 しかし、いくら言っても、『病気だ』の一点張りです」と、高野氏。 押し問答する内に全員、感情が高ぶり、高野氏が言葉を荒らげた。 「『ふざけるな、何年もかわいがって、作り上げてきた鯉を(殺すなんて)、人道的じやねえ』と言ってしまいました」と高野氏。 激しく言い募る氏を、仲間たちが止めた。「もう止せ」と言いながら、1人はボロボロと涙を流した。そのときだ、中国側が突然、水槽にドボドボドボと液体を注ぎ込んだのは。 「途端に鯉が痙攣し始めました。もう助けようがありませんでした」と高野氏。悔しさと悲しさと屈辱で呆然とし、氏はその後、何をどうしたのかよく覚えていないという。 錦鯉を上海万博で世界の人々に見て貰いたいと考え、生き物は搬入不可のルールに例外を設けるよう尽力したのは長岡市長の森民夫氏だった。(中略)

 長岡市は、上海万博出展は鯉を最終的に処分するという前提で行われ、契約書にもそう書かれていと説明する。殺処分は受け人れざるを得ない条件だったというのだ。だが、野上氏らは甫の説明を否定する。 「殺すという前提はありませんでした。契約書‥も交わしていません。ただ、日本に持ち帰れないことはわかっていましたので、中国に残して、中国の人たちに可愛いがってもらえればよいと考えていたのです」

 こう語りつつ、野上氏は言う。「かといって、私らは毒を入れた中国人を非難する気はありません。彼らは命令されたんでしょう。あとで彼らは電話をかけてきて、申しわけないと言ったそうです」


■自衛こそ合理的な解決

 謝罪の言葉を野上氏が本人たちから聞いたわけではなく、通訳から聞いたそうだ。客観的に見て、中国の官僚が政府の指示で行ったことを謝罪するとは考えにくい。だが、野上氏も高野氏も伝え聞いた言葉を額面どおりに受けとめる。

 「実は一連の様子はビデオにも写真にも撮ってあります。我々で、動画を公開するのがよいのか悪いのか、話し合いました。理事(野上氏)は公開しない方がよいとの考えでした。小さな尖閣問題みたいですね」と高野氏は苦笑する。野上氏も語った。

 「クスリを水槽に入れられた場面などを撮りました。けれど、もうそんなもの、見たくもない。思い出したくもない。大事な鯉を殺される映像を外に出して、摩擦をおこして中国と喧嘩したくない。我々は中国と親交を深めていきたいと願っているし、彼らもやがて、自分たちのやり方が相当おかしいと気づくでしょう」

 新潟の人々のこの優しさが中国人に通じる日は来るのか。評論家の加瀬英明氏が石平氏との共著、『ここまで違う日本と中国』(自由社)で指摘している。「広大な国で、第二次大戦前の中国には、上海をはじめとして、多くの大富豪がいたのに、今日にいたるまで、西洋美術館が一つもない」 彼らは洋楽は好むが、美術においてはゴッホもセザンヌもルノワールも、広重も歌麿も横山大観も捕方志功も、認めない。中国美術以外に価値を認めないと加瀬氏は喝破する。

 美しい姿で泳ぐ鯉の頭上に毒を振り撒くのは尋常ではない。この異常さは、日本人の感ずる鯉の「美しさやかわいらしさ」を感じとれないゆえではないのか。小さな生物への愛着を待ち得ないからではないのか。中国人の変化を期待して、鯉を死なせた悲劇を忘れるより、逆に未来永劫記憶して、二度と同じ目に遭わないように自衛することこそ、合理的な解決だと、私は思うのである。(後略)





そのうち この日本に中国人があふれて


「日本人は病気だ」「伝染病持ちだ」


と言って処分される日が・・・






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敵兵を救助せよ

Category: 戦争  

敵兵救助の“武士道”実践

 救助された元英国士官が恩人艦長の墓参で来日へ


 敵兵救助した工藤艦長の墓参のため再来日を検討している元英海軍士官のフォールさん 太平洋戦争緒戦のインドネシア沖海戦で艦隊が撃沈されて海上を漂流中、帝国海軍駆逐艦「雷(いかずち)」に救助された元英海軍士官が、救助を指示した艦長の墓参のため7月にも来日する。関係者は「日英間の新たな絆になる。来日実現に向け支援の輪を広げたい」と話している。

 来日するのは元英海軍中尉、サムエル・フォール卿(89)。戦後、英国外務省に勤務し、駐スウェーデン大使などを歴任。同時に、英国海軍OBの会合などで、「雷」の工藤俊作艦長(海軍中佐)をたたえる講演を続けてきた。

 ただ、工藤艦長の消息が分かったときは、すでに艦長が亡くなって数年が経過しており、それ以降も公務員のため来日する機会に恵まれなかった。平成15年、ようやく初来日を果たしたが、日本で工藤艦長の遺族の存在について答えられる関係者はいなかった。

 このため、来日時にフォール卿と知り合った元自衛官で作家の恵隆之介さん(54)が、工藤艦長の出身地の山形県などで調査。工藤艦長は妻、かよさんと2人暮らしで昭和54年に77歳で他界、2人の墓が埼玉県川口市内にあることが判明した。

 また、山形県では工藤艦長のおいが健在で、「雷」の関係者では、存命する士官でただ一人確認できた元航海長の谷川清澄さん(92)=静岡県在住=が戦後も工藤艦長と親交が続いていたことも分かった。

 長年探し求めた命の恩人の“所在”が分かったフォール卿は「元気なうちに艦長の墓に参り、関係者に礼を言いたい」と再来日を決意。66年前、自分と戦友らの救助に汗を流してくれた谷川さんとの対面も楽しみにしているという。

 恵さんは「フォール卿が話さなければ『雷』の英雄的な行動は間違いなく歴史の闇に消えていた」と指摘。「艦長や乗員の行動は日英間の新たな友情の絆となるはず」とし、乗員の慰霊・顕彰碑建立のための事務局「故海軍中佐工藤俊作顕彰会」を立ち上げ、フォール卿の来日と墓前祭の実現に向けた多方面からの協力も呼びかけている。事務局への問い合わせは(電)090・8839・3783。




【武士道】敵兵イギリス兵422名を救助した日本海軍「雷(いかづち)」 より

天皇皇后両陛下がイギリスを訪問したのは8年前の1998年5月だった。イギリス政府と国民は歓迎の意を表し、天皇陛下はエリザベス女王と馬車に乗ってロンドン市民の歓迎にこたえた。しかし、このパレードには抗議の意味でわざと背を向けた人たちがいた。彼らは、第二次世界大戦中日本の捕虜になり、その時の扱いに抗議し、日本政府に賠償と天皇陛下に謝罪を要求したのだった。


この抗議行動に、イギリス政府は「遺恨が日英関係を支配してはならない」(ブレア首相)と呼び掛けるなど、両陛下及び日本政府に異例の配慮を見せた。(読売新聞)当時、日本の財界はイギリスに積極投資するなど、日英関係は経済面で新たな親密度を見せているときだった。ブレア首相の発言は当然だったかもしれない。


しかし、イギリス国民の感情は二分された。戦時中の捕虜に対する非人道的な扱いを非難し日本政府と天皇に謝罪を要求するものから、個人的に戦争に関わっていない現在の天皇に謝罪を要求することへの疑問、さらには、元捕虜に対する賠償問題は退役軍人にちゃんと年金を払わないイギリス自体の問題だなど、様々な意見が噴出し、両陛下のイギリス訪問が反日運動を起こすきっかけになるのではないかとの不安が巻き起こった。そんな怪しい空気を一掃するような投稿がロンドンのタイムズ紙に掲載された。


その投稿は、元イギリス海軍士官からのものだった。戦後はスウェーデン大使を務めサーの称号が与えられたサムエル・フォール卿(投稿当時86歳)だった。フォール卿は、大戦中のスラバヤ沖海戦で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され漂流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだった。(産経新聞)


実は、この救助劇は歴史に隠れ続けた。日本海軍の駆逐艦「雷」が救助したイギリス海軍兵はフォール卿だけではないのだ。日本艦隊は英米欄の連合艦隊15艘と戦い11艘を撃沈した。合戦後たまたまそこを通りかかった「雷」の見張りが望遠鏡で遠方に漂流物を確認。その漂流物は敵将兵らしく、その数400以上との報告が艦長にされた。艦長の工藤俊作は、次の瞬間「潜望鏡は見えないか」確認させると、見えないとの返答に救助を命令した。


この海域では敵の潜水艦7艘が撃沈されたばかり、前日には味方の輸送船が攻撃を受けて沈没した危険海域だった。そこを「雷」の乗員220名は、全員敵兵の救助活動を行い、乗組員のほぼ倍の422名を救助したのだった。(「敵兵を救助せよ!」恵隆之介著草思社刊)


これは、壮絶な救助行動だったようで、救助活動中は敵も味方もない懸命な活動だったという。救助のため命令に背き海中に飛び込んだ日本兵もいた。「雷」の甲板は救助されたイギリス兵で埋め尽くされ、撃沈された際に流れた重油が体中をまとわるのを日本兵は丁寧にアルコールでふき取り、シャツと半ズボンと運動靴が支給され、熱いミルクと、ビール、ビスケットの接待がなされたという。


その後、イギリス海軍の21人の士官が集められ、工藤艦長が端正な挙手の敬礼をした後流暢な英語でスピーチをし、「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と伝えた。フォール卿はこれは夢ではないかと何度も手をつねったという。(同)


フォール卿は、この工藤艦長の功績をアメリカ海軍機関紙に寄稿した(1987年)。またジャカルタで行なわれたジャワ沖海戦50周年記念式典(1992年)でも称え、自分史を刊行した際も「帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と書いている(1996年)。さらに、2年後の天皇皇后両陛下イギリス訪問時にもタイムズ紙に工藤氏の実名を上げて投稿し、ずっと工藤氏の消息を探し続けたがつかむことができなかった。心臓病を患いながら、3年前に「人生の締めくくりに」と来日し工藤氏の墓参と家族への感謝の気持を伝えたかったようだが、分らず離日した。その際、「敵兵を救助せよ!」著者の恵隆之介氏(元海上自衛隊)に墓と遺族を探してくれるように依頼したようだ。恵氏はその約束を果たし丹念に工藤氏の足跡を辿った。


しかし、この救助劇は工藤氏の夫人にも話されていなかったことで、知る人はまわりにいなかった。たどるうちに「雷」の乗組員のうち2名が存命であることが分り、このときの様子が再現された。




尚、この話は記事中にもある恵隆之介氏が「敵兵を救助せよ!」という書籍で詳細をまとめられているほか、たけしの「奇跡体験アンビリーバボー」というテレビ番組でも過去に取り上げられています。

奇跡体験アンビリーバボーより

戦場のラストサムライ

1:http://jp.youtube.com/watch?v=wRcOmYgdp4E
2:http://jp.youtube.com/watch?v=QByCyliKXcI
3:http://jp.youtube.com/watch?v=Q_SbowJUWV4


 上記記事中にもあるとおり、フォール卿は、戦後に日本海軍と工藤艦長をたたえる講演活動を精力的に行ってくれています。それは英国での日本理解に少なからず役立っているはずです。フォール卿にはお礼を申し上げたいと思います。

 そしてフォール卿がいなければ歴史の闇に消えていたであろう、日本の武士道を体現したこの美談、我々日本人も知っておくべきです。







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通化事件/中国では二・三事件

Category: 戦争  

通化事件(つうかじけん)とは1946年 2月3日中国共産党 に占領されたかつての満州国 通化省 通化市中華民国政府 の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた中国共産党軍朝鮮人民義勇軍南満 支隊(李紅光支隊)による日本人 及び中国人 に対する虐殺 事件。日本人3000人が虐殺されたとされている。中国では二・三事件とも呼ばれる。


当時の中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍

当時は、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍と延安からの正規の中国共産党軍を中共軍または八路軍 と包括的に呼称した。ただし、中ソ友好同盟条約 によって満州 で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍 などと称していた。元朝鮮人日本兵 や現地の朝鮮人などで構成されていた朝鮮人民義勇軍は新八路軍や朝鮮八路とも呼称され、「(日帝支配)36年の恨」を口にしながら暴行・略奪・強姦などを繰り返した。



当時の通化の状況

通化は終戦時に中華民国 政府の統治下に置かれ、満洲国 通化省 王道院院長を務めた孫耕暁 が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって統治されていた。交通の要所である通化には大勢の避難民が集まっており、1945年8月18日 には通化国民学校に避難民収容所が設置された。また1945年8月13日に発生した小山克事件 (武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され約100名が集団自決した)に巻き込まれた避難民も到着しており、通化にもともと居住していた17000人の日本人居留民と、10万人以上の他の地域からの避難民が滞在していた。武装解除された元日本兵は次々とシベリアへ送られ、残留した居留民の多くが女性や老人で、略奪や強姦に遭い麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿もあった。通化の在留邦人が衣服や住居を提供するなどしていたが、多くの日本人家屋は強制的に接取されるなどして、在留邦人・難民ともに困窮していた。



ソビエト軍・中国共産党軍の進駐と暴行

1945年 8月20日通化高等女学校短機関銃 を持ったソビエト兵2名がジープ で乗り付けると校内に乱入し、女生徒の腕を掴んで引きずり出そうとした。古荘康光校長と村田研次教師が止めに入ると銃を乱射し始めたため、20代の女性教師が自ら身代わりとなって連行された。連絡を受けた通化守備隊の中村一夫 大尉は直ちに兵士40名を乗せたトラック2台とともに駆けつけ、男性教師たちと共同でソビエト兵のジープを捜索したが発見できなかった。女性教師は深夜に解放されたが、その晩自殺した。翌日、ソビエト兵は再び女学校に乱入すると女生徒か昨日の女性と金品を出すよう要求した。村田教師が「女性は自殺した」と述べると、他の女性を出すよう要求されたため、隠し持っていた拳銃で2人を射殺した。教師たちはソビエト兵を埋葬すると寄宿生を連れて通化を脱出した。

1945年 8月24日 に将校20人、兵士200人からなるソビエト軍通化 に進駐、市内の竜泉ホテルに司令部を設置した。また、ソビエト軍によって武装解除された関東軍 の兵器を譲渡された中国共産党軍も同市に進駐した。

占領下の日本人はソビエト軍による強姦暴行略奪 事件などにも脅かされていた。この段階では日本軍憲兵隊 はシベリアに連行されずに治安 活動を行っており、ソビエト軍の蛮行を傍観していたわけではなかった。原憲兵准尉 はソビエト兵が女性を襲っているとの通報を受け、現場に駆け付けると、白昼の路上でソビエト兵が日本女性を裸にして強姦していたため女性を救おうと制止したが、ソビエト兵が行為を止めないため、やむなく軍刀 で処断した。原准尉は直後に別のソビエト兵に射殺され、この事件以降は日本刀 も没収の対象となった。守る術を持たない日本人遺留民はソビエト軍司令部の命令に従って日本人女性たちを慰安婦 として供出するなどして、耐え忍ぶしかなかった。さらに、日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収されたため、外部の情勢を知ることは不可能となった。また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林 へ連行した。


中国共産党軍の単独進駐以降

ソビエト軍の撤退後、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、楊万字通化省長、超通化市長、菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した。また、中国共産党軍は「清算 運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。9月22日 には、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐した。10月23日 、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐。11月2日 、中国共産党軍劉東元 司令が着任する。11月2日 、中国共産党軍は17000名を超える遺留民に対して、収容能力5000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した。遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外は認めないとした。通化は氷点下30度になる極寒の地であり、無理な要求であった。


11月初旬、中国共産党軍は、遼東 日本人民解放連盟 通化支部(日解連)を設立し、日本人に対して中共軍の命令下達や、中国共産党で活動していた野坂参三 の著作などを使用した共産主義教育を行った。日本人民解放連盟 は中共軍の指令に従い、日本人遺留民に対し財産を全て供出し再配分するよう命じた。日本人遺留民たちが嘆願を続けると、中共軍は先に命じていた移動を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約、全財産の供出と中国共産党および日本人民解放連盟への再分配を要求した。

11月17日 、中国共産党軍は大村卓一満鉄総裁 であったことを罪状として逮捕した。また、中国共産党軍は武器捜索を名目に日本人家屋に押し入り、(後の蜂起当日まで)連日略奪をおこなったほか、男女を問わず日本人を強制的に従軍・徴用(無償の強制労働)した。



日の丸飛行隊飛来

隼(一式戦闘機)

12月10日 、通化に日章旗 を付けた飛行隊が飛来し、日本人遺留民は歓喜した。飛行隊は林弥一郎 少佐率いる関東軍第二航空軍第四錬成飛行隊であり、九九式高等練習機 を擁していた。隊員は300名以上が健在であり、全員が帝国陸軍の軍服階級章を付け軍刀を下げたままであった。また、木村大尉率いる関東軍戦車隊30名も通化に入ったが、航空隊と戦車隊の隊員は全員が中国共産党軍に編入されていた(林航空隊は東北民主連軍航空学校 として中国人民解放軍空軍 創立に尽力することになる)。

中国共産党の根拠地延安 からは、日本人民解放連盟野坂参三 に次ぐ地位にあり、当時「杉本一夫」の名で活動していた前田光繁政治委員 として派遣された。



蜂起の流言

このような状況下、「関東軍の軍人が国府と組んで八路を追い出す」というデマが飛び交った。日本人も国府系の中国人も、この噂を信じた。そしてその軍人とは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦 大佐 とされた。藤田大佐は終戦後、武装解除を待たずに師団を離れ、身を窶し、家族を連れて通化を離れ、石人に潜伏していた。藤田は、流言を耳にして、このような考えは危険だとして、若い人たちを諌めると称し、11月頃、通化へ向かった。


日本人遺留民大会

12月23日 、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」などのスローガンのもとで日本人民解放連盟 と日僑管理委員会の主催で通化日本人遺留民大会が通化劇場で開かれた。大会には劉東元 司令を始めとする中国共産党幹部、日本人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人遺留民3000人が出席した。大会に先立って、日本人遺留民たちは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦 大佐 が大会に参加すると伝え聞いており、大会の日を待ちかねていた。

大会では、元満州国官吏井手俊太郎が議長を務めた。冒頭、議長から「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」との発言がなされると、日解連通化支部の幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方を謝罪するとともに、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」などの発言がなされた。日本人遺留民たちは発言を求められると、日解連への非難や明治天皇御製 を読み上げ「日本は元来民主主義 である」などの発言が続き、山口嘉一郎老人が「宮城遥拝 し、天皇陛下 万歳三唱 をさせていただきたい」と提案すると満座の拍手が沸き起こった。議長が賛意を示す者に起立をお願いすると、ほぼ全員が起立し、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われた。次に山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体 で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」旨を述べた。最後に藤田大佐が演説を行ったが、中国共産党への謝意と協力を述べるにとどまった。後日、大会で発言した者は連行され、処刑された。


蜂起直前の状況・旧満州国幹部処刑 (一月十日事件)

  • 1946年 1月1日 、中共軍(東北民主連軍 )後方司令の朱瑞(zh )を隊長、林弥一郎 を副隊長とした東北民主連軍航空総隊が設立される。同日、中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害される。
  • 1月5日 、藤田実彦大佐は中共軍に呼び出され、竜泉ホテルにある中共軍司令部に出頭。劉東元司令は藤田に関東軍が隠している武器を出すよう要求したが、参謀職である藤田は「大隊長や中隊長ではないので知らない」と返答したため、監禁された。以降、有志からの情報は薬を渡しに来る看護婦 柴田朝江によって秘密裏に届けられることとなった。柴田は日本軍の特務出身の看護婦で、当時は赤十字病院(旧関東軍臨時第一野戦病院)に勤務していた。劉司令夫人が中共軍軍医の誤診 に悩んでいたところ、柴田が適切な診断を行ったため、劉夫妻から専属看護婦の地位を得えられ、「婦長」と呼ばれていた。信頼された柴田朝江は藤田への薬を届ける任を与えられていた。
  • 1月10日 、日本人民解放連盟通化支部幹部、高級官吏、日本人遺留民会の指導者ら140名が内海を殺害した容疑で連行され、専員公署の建物に抑留される(一月十日事件)。日本人民解放連盟通化支部は解散させられる。
  • 1月15日 午前4時、竜泉ホテルに監禁されていた藤田大佐が3階の窓から脱出し、有志の隠れ家となっていた栗林家へ隠れた(しかしこれは、蜂起に参加するためか、それとも止める為か判然としない。藤田は脱出時に怪我を負い、結局蜂起にはまったく加わらず、八路に逮捕されるまで、栗林家の押入れにずっと居た)。脱出が発覚すると、事前に知らされていなかった柴田は身の危険を感じてホテルの裏口から赤十字病院へ向かい、病院に着くと頭をバリカンで刈り上げて男になりすました。まもなく中共軍が病院の捜索を始めたため、柴田久軍医大尉の手引きを得て栗林家へ隠れることとなった。
  • 1月某日、林少佐は日本人遺留民を束ねていた桐越一二三のもとを訪れ、自らが桐越の名を彫り込んだ軍刀を桐越の妻に渡している。
  • 1月21日菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長は中国共産党軍によって市中引き回し の上で、渾江の河原で公開処刑 された。処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた。後日、日本人遺留民は通化劇場に集められ、前田光繁から「川内亮通化県副県長たちは満州国の幹部であったから処刑は仕方のないことであった」旨の説明がなされた。

前日(情報漏洩)

2月2日 、正午過ぎに林少佐は蜂起の情報を前田光繁に電話で伝えた。前田は中国人政治委員の黄乃一を通じて航空総隊隊長の朱瑞(zh )に報告した。同じ頃、藤田大佐の作戦司令書を持った中華民国政府の工作員が2名逮捕されており、劉東元 中国共産党軍司令立会いの下で尋問が行われた。工作員は拷問を加えられても口を割らなかったが、日本語の司令書は前田によって直ちに翻訳され、夕刻には中国共産党軍は緊急配備に着手した。

通化市内は午後8時に外出禁止のサイレンが鳴ることになっていたが、この日はサイレンが鳴らなかった。日本人は時計を持っていないため外出中の人々は次々に拘束された。午後8時には、蜂起に向けて会合を開いていた孫耕暁 通化国民党部 書記長 を始めとする中華民国 政府関係者数十人が朝鮮人民義勇軍によって拘束され、拷問を伴う尋問が行われた後、蜂起前に虐殺された。また、一月十日事件で連行された日本人は牢の外から機関銃を向けられた(即時殺害を可能にするための準備)。


蜂起

2月3日 、中国共産党は便衣兵や日本人協力者などからすでに情報を集めており、重火器を装備して日本人の襲撃に備えた。

柴田軍医大尉らは深夜に病院を抜け出すと変電所を占拠した。午前4時に電灯を3度点滅させたのを合図に、在留日本人は中華民国政府軍 ・林航空隊・戦車隊の支援を期待して元関東軍将校などの指揮下で蜂起した。蜂起した日本人にはわずかな小銃と刀があるのみで、大部分はこん棒やスコップなどで武装しており、蜂起成功後に敵から武器を奪うことになっていた。一方、瀋陽の遼寧政府(中華民国政府)からは「中華民国政府軍の増援の連絡がつかないから計画を延期せよ」との無線連絡がなされたが、無線機の故障で日本人には伝わらなかった。

日本人は中隊ごとに分かれて市内の中国共産党軍の拠点を襲撃した。佐藤少尉率いる第一中隊150名が専員公署めがけて突撃すると、待ち構えていた中国共産軍の機関銃や手榴弾によって次々となぎ倒された。佐藤少尉以下10名が建物に侵入し、一月十日事件で連行された日本人が監禁されている牢に到達したが、待ち構えていた機関銃によって射殺された。牢内の日本人も一斉射撃により全員が射殺され、これにより第一中隊は壊滅した。

阿部大尉率いる第二中隊100名は中共軍司令部の竜泉ホテルを襲撃したが、待ち構えていた中国共産党軍の攻撃により建物に近づく前に壊滅した。寺田少尉率いる第三中隊は元通化市公署に駐屯している県大隊を襲撃した。ここでは400名が内応するはずであったが、斬り込み隊は銃撃を受け、犠牲者を出して引き上げざるを得なかった。

中山菊松率いる遊撃隊は、公安局に監禁されている婉容 皇后浩皇弟妃 を始めとする満州国皇族の救出に向かい、一時は公安局を占拠したが、まもなく中国共産軍に包囲され、公安局目がけて機関銃や大砲による砲撃が行われた。遊撃隊は次々と倒れ、皇帝溥儀の乳母も砲撃で腕を吹き飛ばされ死亡した。中山隊長らはやむなく公安局から退いた。その他の襲撃地点でも日本人は撃退された。

林航空隊では、鈴木中尉、小林中尉を筆頭に両中尉率いる下士官たちが蜂起に参加しようとしたが、蜂起合図前に中共軍に拘束され、木村戦車隊も出発直前に包囲され、中共軍に拘束された。



連行

午前8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された。また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。中国共産軍は連行する際、日本人同士を針金でつなぎ合わせた。多くの日本人は着の身着のままで家から連れ出されたため、零下数十度になる戸外を行進するのは地獄であった。通化市郊外の二道江から連行された人々には途中で落後するものもあり、落後者はその場で射殺された。



強制収容

3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして旧通運会社の社宅などの建物の8畳ほどの部屋に120人ずつ強引に押し込められた。 拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされた。抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされた。足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった。蜂起計画に関与しなかった一般市民を含めて、民間の2千人(数千人とも)近くが殺された。また、数百人が凍傷 に罹り不具者となった


虐殺

拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。撲殺を免れたものの多くは手足を折られ、ぶらぶらとさせていた。その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われた。女性にも処刑されるものがあった。川の上には服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていた。男たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士には日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦する者もあり、凌辱された女性からは自殺者も出ている。

また事件後に蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても容赦なく銃殺された。

林少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたびに政治委員黄乃一の嘆願によって助命された。


人民裁判

処刑の決定には、「人民裁判」と称する手続きが一応、とられたが、法的な手続きとはいえないものであった。次のような証言がある。「中国共産党の本拠地である延安から派遣された若い裁判官の前で、台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した、俺達を殴った」という声が上がる。裁判長が「どうする」と問うと、「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された」。


百貨店での藤田大佐らの展示

3月10日 になると市内の百貨店 で中国共産党軍主催の2・3事件展示会が開かれ、戦利品の中央に蜂起直前の2月2日 に拘束された孫耕暁 通化 国民党部 書記長2月5日 に拘束された藤田大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられた。藤田は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪を引いているのか始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。心ある人たちは見るに忍びず、百貨店に背を向けた。3月15日に藤田が肺炎で獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされた。渾江(鴨緑江 の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいた。



事件以後

生存者は中国共産党軍への徴兵、シベリア抑留 などさまざまな運命を辿ったが、通化事件以降、中共は方針を転換し、宥和的な態度をとり、夏には帰国の許可を与えた。


関東軍第二航空軍第四錬成飛行隊のうち、航空技術をもたない100名余りの隊員は部隊から離され炭鉱 や兵器工場に送られた。

1946年末に中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われた。1947年 には中国共産党軍が通化を再び占領した。

1952年 に生存者の1人だった中山菊松が通化遺族会を設立。1954年 には川内通化県副県長夫人とともに、大野伴睦 らの仲介で川崎秀二 厚生大臣 に対し、遺族援護法を通化事件犠牲者にも適用することを嘆願し、認められた。通化遺族会は1955年 以降、毎年2月3日に靖国神社 で慰霊祭を行っている。





これは捏造ではなく史実である


 






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通州における体験談①

Category: 戦争  

通州における惨劇は、多くの人が証言しています

実際の体験者であるSさんの話を一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。



Sさんの体験談

私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。それで仕方ありません。私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。それは昭和九年の初め頃だったのです。Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。だから買う人にとってはとても便利なんです。Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。そして安重根という人の話を語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。


こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。でもそんなことを日本の軍隊 や日本人は全然知らないのです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人

だけになりました。日本の兵隊さん達もだんだん内地 に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府軍隊 が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。大体この軍隊 は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊 と申しておったのです。この町の保安隊は日本軍 ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石共産 軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産 軍が支那 を立派にするのだ、蒋介石 というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人 が「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人 達に言うのです。最初の頃は支那人 達も朝鮮人 達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人 がこんなことを繰り返して言うと、支那人 達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人 と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。私はあまり心配だからあるときTさんにこんな町の空気を日本軍 に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。それで私はとうとう日本軍 の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人 達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。それは支那 のあちこちに日本軍 が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。私はTさんには悪かったけれど、紙一杯に委しくこうした支那人 達の動き、朝鮮人 達の動きがあることを書きました。そして最後に用心して下さいということを書いておきました。この紙を日本軍 の兵舎の中に投げ込みました。これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍 が知ることが出来ると思ったからです。こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍 の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍 に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。でも何も変わったことはありません。これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海日本軍 が敗れた、済南で日本軍 が敗れた、徳州でも日本軍 は敗れた、支那 軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人 達の間で「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論 が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉に「日本時は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那 だ」という言葉でした。私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。支那 の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那 が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。私はびっくりしました。それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那 という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。しかし日本に帰るべくT山河にほんの状況をいろいろ調べてみると、日本では支那 撃つべし、支那人 は敵だという声が充満していたそうです。そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津 へ移ろう」と言い出しました。それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津 に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。来年は天津 に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。でもTさんはそれを許しません。それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語 で話さなくてはならないのです。支那語 で話していると日本の人はやはり私を支那人 として扱うのです。このときはとても悲しかったのです。それと支那人 として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人 に対して優越感を持っているのです。ということは支那人 に対して侮蔑感を持っていたということです。相手が支那人 だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人 が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人 に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊 がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。こうした日本人の傲りと支那人 の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。それだけにこの通州の支那人 の日本人に対しての反日 的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、「困った、困った、こんなに日本人と支那人 の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」と言うのです。そして支那人 の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人 があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人 の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人 達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人 で日本の軍隊 に入隊して日本兵 になっているものもあるので、朝鮮人 達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。そして「危ない」「危ない」と申すのです。それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人 が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。だからといって逃げ出すわけにもまいりません。そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那 の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。それが七月になると「日本人皆殺し」「日本時は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。支那人 達が大騒ぎをしているのです。何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京 の近くで日本軍支那 軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人 達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。私はびっくりしました。そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。でも二、三日すると北京 の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍 が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。この頃でした。上海 で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。蒋介石 が二百万の大軍をもって日本軍 を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮 を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。この頃通州にいつもいた日本軍 の軍人達は殆どいなくなっていたのです。どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。突然私はTさんに烈しく起こされました。大変なことが起こったようだ。早く外に出ようと言うので、私は風呂敷 二つを持って外に飛び出しました。Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。町には一杯人が出ておりました。そして日本軍 の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。でもまだ辺りは薄暗いのです。何がどうなっているやらさっぱりわかりません。只、日本軍 兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。私はTさんと一緒に逃げながら「きっと日本軍 は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。私はきっと日本軍 が勝ったのだと思っていました。それが八時を過ぎる頃になると、支那人 達が「日本軍 が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。最近はあまり日本軍 兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍 兵舎です。私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。そして「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」と私を抱きしめるのです。それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。私はTさんと結婚して支那人 になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍 兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。それは日本人の血といか、九州 人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。


八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。それは先程銃撃戦があった日本軍 兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。何か生臭い匂いがするのです。血の匂いです。人間の血の匂いがして来るのです。しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。沢山の支那人 が道路の傍らに立っております。そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。その娘さんを引き出して来たのは学生でした。そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。体はぶるぶると震えておりました。その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。支那 でも七月と言えば夏です。暑いです。薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。そして下着を取ってしまいました。娘さんは「助けてー」と叫びました。

と、そのときです。一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。何かグシャッというような音が聞こえたように思います。頭が割られたのです。でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。服が破けます。肌が出ます。血が流れます。そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。血がパーッと飛び散ります。その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。又腹を突きます。胸を突きます。何回も何回も突き刺すのです。沢山の支那人 が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。暴虐無惨と申しましょうか。あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

この娘さんは既に全裸になされております。そして恐怖のために動くことが出来ないのです。その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。そして陵辱をはじめようとするのです。支那人 とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。どうしても陵辱がうまく行かないのです。すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人 がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。目をしっかりつぶっておりました。するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。私は思わずびっくりして目を開きました。するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。見てはいけない。見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。それから剣で首を切り落としたのです。その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。そして身体は何か不動の金縛り にされたようで動くことが出来ません。この残虐行為をじっと見つめていたのです。腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。そしてその首はないのです。何とも異様な光景です。想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。私はハッと自分にかえりました。すると何か私の胃が急に痛み出しました。吐き気を催したのです。道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。しかし支那人 のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。とても人間のすることではありません。悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那 の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人 にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人 の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。支那 では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那 の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。そしてそれだけではなかったのです。学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。そして勿論裸足にしております。その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。そしてその男の人の男根 を切り取ってしまったのです。この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根 を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。でも倒れることは出来ません。外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。私は思わずTさんにしがみつきました。Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。そして私の耳元でそっと囁くのです。「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。



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通州における体験談②

Category: 戦争  

そして私とTさんの周囲には何人もの支那人 達がいました。そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般の支那人 は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。しかしようもまあこんなに沢山支那人 が集まったものだなあと思いました。そして沢山集まった支那人 達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人 ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。これも又異様のこととしか言いようがありません。こんな沢山集まっている支那人 達が少しづつ移動しているのです。この沢山の人の中には男もいます。女もいます。私もその支那人 達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。旭軒という食堂と遊郭 を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。二人とも真っ青な顔色でした。一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。どうしてやることも出来ないのです。言葉すらかけてやることが出来ないのです。二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。いやその一部からは出血さえしております。髪はバラバラに乱れているのです。とてもまともには見られないような可哀想な姿です。その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。そしてそこにバッタリ倒れたのです。すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。それが支那 の悪獣どもが充分満足したのでしょう。何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。さすがに見ていた多くの支那人 達がウォーという唸るような声を出しました。この多くの支那人 の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。しかしこれを見ていた支那人 達はどうすることも出来ないのです。私もTさんもどうすることも出来ないのです。もうこんなところにはいたくない。家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。沢山の日本人が殺されています。いやまだ殺され続けているのです。あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。耳を覆ってみても聞こえるのです。又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れました。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。誰も見ていません。私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。そして「くやしい」と申すのです。「かたきをとって」とも言うのです。私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました「いちぞう、いちぞう」と人の名を呼びます。きっと息子さんかお孫さんに違いありません。私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです。私が西本願寺別府 の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。すると支那人 も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。そこに保安隊でない国民政府 軍の兵隊も何名かいました。それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。何とその女の人はお腹が大きいのです。七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。学生と保安隊の兵隊、それに国民政府 軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。この女の人は何もしゃべれないのです。恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人 達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。これで事態が一変しました。若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。すると今度はそこにいた支那 国民政府 軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。七名も八名もの支那 の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。ところが後ろに回っていた国民政府 軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。するとどうでしょう。この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。この国民政府 軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。日本の男の人はぐったりなって横たわりました。それでも支那 の兵隊や学生達は乱暴を続けております。そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。


それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。私はあんな残酷な光景は見たことはありません。これはもう人間の行為ではありません。悪魔の行為です。悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。私はTさんにすがりついたままです。何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけではありません。別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。残った腸の細切れを見物していた支那人 の方へ二つか三つ投げて来ました。そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。しかし見ていた支那人 の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人 達は同調することは出来ませんでした。まだ見物している支那人 達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。フラフラと立ち上がりました。そして一生懸命逃げようとしたのです。見ていた支那人 達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。妊婦はバッタリ倒れたのです。すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。国民政府 軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。私は何をするのだろうかと思いました。そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。だが支那人 の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。赤い血がパーッと飛び散りました。私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。あまりの無惨さに集まっていた支那人 達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人 が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。「日本人が処刑されるぞー」と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。しかしそれは支那 の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人 であったということです。そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人 の嫁さんだから私も支那人 だと思い込んでいたのです。そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人 だと思うようになっていました。そして早く本当の支那人 になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。そしてこの一、二年の間は支那語 も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人 だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人 としか見ていないのです。それで支那 のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人 によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人 です。私の心は通じておりません。そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人 ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

そこには兵隊や学生でない支那人 が既に何十名か集まっていました。そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。ここには国民政府 軍の兵隊が沢山おりました。保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。恐らく国民政府 軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。そのうち国民政府 軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。すると国民政府 軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。するとそこには二挺の機関銃 が備えつけられております。私には初めて国民政府 軍の意図するところがわかったのです。五十数名の日本の人達もこの機関銃 を見たときすべての事情がわかったのでしょう。みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。そして誰も何も言えないうちに機関銃 の前に国民政府 軍の兵隊が座ったのです。引き金に手をかけたらそれが最期です。何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。日本人の中から誰かが「大日本帝国 万歳」と叫んだのです。するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国 万歳」を叫びました。その叫び声が終わらぬうちに機関銃 が火を噴いたのです。バタバタと日本の人が倒れて行きます。機関銃 の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。只呆然と眺めているうちに機関銃 の音が止みました。五十数名の日本人は皆倒れているのです。その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。何をするのだろうかと見ていると、機関銃 の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。保安隊の兵隊達は日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府 軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。見物しておった支那人 達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。これは一体どういうことでしょう。私には全然わかりません。只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

その近水槽の近くに池がありました。その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人 がいるのでそれは出来ません。若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人 達はおかしく思うに違いありません。国民政府 軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産 軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人 が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人 達からあの人はおかしいではないかと思われる。Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。国民政府 軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府 軍の将校 と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。そして首を前の方に突き出させたのです。そこにこの国民政府 軍の将校 と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。これを見て国民政府 軍の将校 はニヤリと笑ったのです。この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。この国民政府 軍の将校 の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。二人の日本の男の人を殺したこの国民政府 軍の将校 は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。合図を受けた政府 軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。そして見たくはなかったけど池を見ました。真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人 だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍 が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音 が聞こえて来ました。それは日本軍 が来たというもので、国民政府 軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍 が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍 が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍 が来たのは翌日でした。でも日本軍 が来たというだけで逃げ出す支那 兵。とても戦争したら太刀打ち出来ない支那 兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍 の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。このとき支那人 に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。私は今回の事件を通して支那人 がいよいよ嫌いになりました。私は支那人 の嫁になっているけど支那人 が嫌いになりました。こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

(終わり)


通州事件 の惨劇 -日本人皆殺しの地獄絵-は、財団法人 慧燈財団、前理事長であられた、調 寛雅(しらべ かんが)氏著作『天皇 さまが泣いてござった』より、氏のご子息様のご許可を頂き、引用掲載させて頂いております。

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参考書籍

天皇 さまが泣いてござった」

著者:しらべ かんが

教育社発行 定価1800円



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1937年通州事变 (中華版)

Category: 中国  

1937年通州事变:一场起义伪军对日军民的杀戮

2007-06-25 09:12:24  网友评论 1 进入论坛

1937年7.7事变后7月下旬,日军从华北撤侨的列车经过通州时被当地军阀部队(应该是一支土匪部队,先被日军收编为伪军,后来又出奇不意“反正”抗日,袭击日本的后勤部队)攻击死伤严重,上百日军士兵被杀后肢解,女人被先奸后杀。后被日军中国驻屯军的部队营救出少数几人。

日本将此消息返回国内,全国“群情激愤”,一致要求“增兵华北,惩罚暴支”在几本日本人写的替南京大屠杀翻案的书中,对此事进行报复也是他们进行屠杀的“原因”之一。

通州事件是什么时候?7月29日,这时候日本早已调兵完毕,北平都要沦陷了,看过时间会倒转的,冀东保安队虽是伪军,出身土匪还真的不多。我看过日本人在战时写的关于通州事件的资料,认为责任应当由空军(陆航)来负,因为引起通州事件的最主要原因是日本空军轰炸了保安队(日人称为误炸),当时通州约有日军300人(绝非什么后勤部队),连同日侨、浪人等约六七百人,一小部突围成功(也不是什么驻屯军救出来的),被杀者约五百人,至于“对此事进行报复也是他们进行屠杀的‘原因’之”云云更是胡说八道,日军人向来是“南京大屠杀之虚构”。就我以前看到的英国人的资料,据说在通州事件中被杀的日本人没有一个是全尸的。

在北京文史资料上查到的:

通州伪保安队起义

日本人被杀得很惨,士兵被杀后肢解,日本侨民妇女被先奸后杀,有的被肢解

1937年7月27日,日军向驻通州附近的中国部队二十九军发动突然袭击。埋伏在通州旧城南门外的伪军保安队没有执行日军的部署,按兵不动。残忍的日军轰炸了保安队的驻地,激怒了本不甘心事敌,早有起义准备的保安队,在张庆余等领导下,于1937年7月29日发动起义。他们捣毁了日伪机关,逮捕了殷汝耕(起义部队转移时殷逃跑)等一批汉奸,处死了500多个日本顾问、官兵和日韩浪人。下午,起义部队在指挥部驻地北关吕祖祠集结,向京西转移。这次起义不仅给侵略者以沉重打击,也宣告了“冀东防共自治政府“彻底垮台。

l937年7月7日,侵华日军悍然向宛平县城发动进攻,中国守军第29军奋起抵抗,于是爆发了全国抗日民族战争。7月27日凌晨三时许,侵华日军和通县日军守备队突然向驻守在通县新城南门外(今通州粮食加工厂址)29军143师的一个营发动进攻,这个营的官兵奋力反击,杀伤日军百人,然而,埋伏在旧城南门及东总屯担任截击任务的伪政府保安队,并没有截击突围转移的29军部队,只是对空鸣枪,打炮,佯装阻击撤退的29军,同时在双方激战中也没有给日军任何支援。狡猾的日本特务机关长细木繁对保安队产生了怀疑。

27日上午9时左右,日军实施报复行动,派飞机12架狂轰烂炸旧城南门外保安队营地,致使保安队10余人伤亡。保安队广大官兵愤愤不平,难咽这口屈辱气,保安队第一总队队长张庆余立即把第二总队队长张砚田及教导总队沈维干找来密谈:“城南的战斗和日机轰炸教导总队营地,已经激起保安队官兵的义愤,我们怎么办”张庆余首先征求二人的意见。沈维干说:“不是鱼死就是网破。依我看,现在就可以动手。”张砚田有些顾虑:“我们的行动已经暴露了,日本人已有了准备,动手以后再同29军接应不上,全军就要覆没。”沈维干对形势又进行了分析:“现在官兵的抗日义愤实难抑制,与其抑制,不如顺水推舟就此起义。”张庆余说:“先观察一下日本人的动态再定,你们看怎样“28日下午,张庆余在“自强社”门口遇上了细木繁。细木繁质问道:“张队长你怎么槁的,为什么没有把29军截住?”张庆余觉得一个堂堂的中国人被日本人如此训斥,是奇耻大辱,他再也忍不住内心的愤怒,说:“我保安队是维持治安的,不是打仗的,我管不着!”“我撤了你!”“我是中国人任命的,你细木繁算个什么东西。”两个人互不相让,同时拔出手枪,怒目对视,直到有人上来阻拦劝解,两人才不欢而散。

事后张庆余,张砚田。沈维干秘密集合,认为事己至此,不能坐以待毙,应该尽快采取行动。于是,决定28日夜12时举行保安队武装起义。起义指挥机关设在县城北关,规定以午夜进攻日军兵营的枪声为起义信号,兵分三路同时行动。午夜,起义的信号枪声大作。起义部队迅速占领了长官公署和其他重要机关。殷汝耕听到枪声,连忙呼唤卫队长,卫队长早已被起义部队架到了指挥部。殷汝耕听无人应声,便藏身柜顶。起义部队官兵迅速扑进殷汝耕的卧室。但见被单。衣服散落在地,不见人。厕所、壁厨、立柜都搜尽,还是找不到人。从厢房搜出一个仆役,逼迫他交待殷汝耕的去处,仆役不情愿地指向柜顶:“长官您出来吧!”此时,殷汝耕吓得屁滚尿流,浑身筛起糠来,哪里还能动弹?几个保安队士兵上去就粑殷汝耕拽了下来。随后,将他押解到北关吕祖词指挥部监禁起来。

主攻日本守备队和特务机关的一路起义官兵,以装备精良。200多人的敢死队为前导,乘敌不备解决了敌岗哨,然后摸迸了日本特务机关和守备队住所。细木繁听到动静,率队冲了出来。他持短枪高声喊道:“你们速回本队,勿随好人捣乱,否则皇军一到,你们休想活命!”起义官兵哪听他的嚎叫,一勾枪板机将他击毙在地。

激战进行6小时,直打得东方的太阳火样红,共歼灭日军官兵500余人。第一总队日本顾问渡边少佐,教育厅顾问竹腾茂。宪兵队长何田。通县顾问申茂及冀东银行行长等均得到了与细木繁同样的下场。同时,捣毁日伪组织各机关,烧毁了日军守备队火药库。当夜,驻顺义保安队苏连章团根据张庆余指令,举行起义,歼灭日军200余人,于29日上午10时开进通县,与通州起义队伍汇合。时近中午,日军派飞机20余架轮番对通州城轰炸,起义部队伤亡甚重。张庆余得知形势危急,当机立断,命令部队分成两路向平西方向转移与29军汇合。当起义部队行至北平安定门与德胜门之间时,突然遭到日军截击,押解汉好殷汝耕的士兵被日军冲散,殷汝耕乘机脱逃,被日军劫走。随后,有装甲车20余辆掩护日军截击起义部队,保安队教导总队长沈维干、区队长张会明困带队突围相继阵亡。危难中张庆余下令化整为零,分头突围,经门头沟奔保定集合。

“当行至中途,竟被孙殿英部(国民党军)截击缴械……待余剩4000官兵徒手步行到保定集合时,仍请求向孙殿英索还武器,仍要开赴前线,力国杀敌。”

8月10日,因通州保安队起义,殷汝耕被迫“引咎辞职”,经他一手策划成立的卖国政府也被迫迁往唐山。

注:殷汝耕(1885---1947〕,浙江平阳人,日本早稻田大学毕业,1927年即代表蒋介石与日本官方往来勾结。1931年后参加签订丧权辱国的《淞沪停战协定》及《塘沽协定》,1935年12月26日至1937年月29日充任伪冀东防共自治政府政务长官,堕为彻底民族败类,1947年12月1日因汉奸罪被处决于南京。

张庆余(1895---1963),字贺轩,河北沧县申家庄人,1916年毕业于北京陆军模范团步兵科。厉任直隶军连、营、团、旅长等职,1933年任冀东特种警察队第一总队队长。1935年11月改任伪冀东保安队第一总队队长,1937年7月率部起义,转保定、洛阳、西安,于1938年隐居四川金堂县什坊镇。后被委任为国民党军委会中将参议。1946年夏,退役与家人定居天津,直到病逝。

关于 通州事变 的新闻


1937年の7.7の事変以後7月下旬、現地軍閥部隊に日の軍が華北から居留民を引き揚げる汽車は通州時を経過する (1曲の馬賊部隊であることが当然に、先に日の軍が傀儡軍集めて編集してなられて、以後でまた思いがけなく奇抜である“反正”抗日、日本の後方勤務部隊を襲撃して)死傷を攻撃することは厳しくて、上がって百日下士官の兵は殺される後肢は解いて、女は先にされて奸以後は殺す。後は日の軍中国に軍の部隊が何人か少数を救援し出すことを駐屯させられる。

日本はこのニュースに帰国内に戻って、全国“大衆感情は憤激している”、一致して“兵華北を増えて、を要求する激しい支”幾本日本人の書いた替わった南京に大きく決定を覆した書を屠殺する、を懲罰するこれの仕えた報復することの同様に彼らが屠殺することである“原因”の一つに対する。

通州事件は何時ですか?7月29日、このときの日本は早くからすでに兵完了を調整して、北平は全部陥落して、時間の会を見落として逆転で、冀東治安部隊はしかし傀儡軍で、滅多に身元馬賊は還す真のもの。私は日本人を見落として戦時の書いた通州事件に関した資料にいて、責任が空軍(陸航)から負で来なければいけないことと考えて、通州事件を引き起こすによった最要因は日本空軍が治安部隊(日人称は誤爆とする)を爆撃したことで、当時通州は約束する有日軍の300人の(絶はどんな後方勤務部隊でない)、日と一緒に外国に居留して、浪人などは6、7百人を約束して、1の部さんは突く成功(同様にそうでなく何という軍を駐屯させて来ていたことを救出する)、殺されて者は五百人を約束して、つきましては“これの仕えた報復することの同様に彼らが屠殺することである‘原因’これに対する”などはさらにでたらめを言うことで、日軍人の向来は“南京の大きい屠殺した虚構”です。私以前の見えたイギリス人の資料に就いて、言うところによれば通州事件の殺された日本人に1個がなかったことは死体をそろえる。


北京歴史文献・資料に到を調べる:

通州の偽治安部隊は蜂起する

日本人は悲惨であり殺されて、下士官兵は殺されて後肢は解いて、日本華僑婦女は先にされて奸以後は殺して、あるは解体される

1937年7月27日、日の軍は向かって止めて通州付近の中国部隊は二十九の軍は急襲を起こす。通州の古い城南ドア外の傀儡軍治安部隊に日の軍を執行する陣容がなかったことを埋没させて、兵をとどめて進まない。残忍な日の軍は治安部隊の駐屯地を爆撃して、冊が敵に仕えることに甘んじないことを怒らせて、早く蜂起することの準備の治安部隊があって、張慶余などの幹部下にいて、1937年7月29日に蜂起することを起こす。彼らは日の偽機関を粉々にたたき壊して、殷汝耕(蜂起して部隊は時殷を転移させて逃走する)などのワンセット売国奴を逮捕して、500の何人かの日本助言者を死刑に処して、士官と兵士と日の韓浪人。午後、蜂起して部隊は司令部駐屯地北関呂祖祠に結集して、向京西は転移する。侵略者に重くその上攻撃することによって今回蜂起して、同様に“冀東防の共は自治する政府“徹底的に崩れる。を宣告した


l 937年7月7日、侵す華日軍は横暴で向宛平県人民政府が置かれている町は侵攻することを起こして、中国は守って軍は第29の軍は反抗することに決起して、そこで全国抗日民族戦争が勃発した。7月27日夜明け方の3時に許して、華日軍と通県日の軍守備隊は急に駐屯することに侵して通って県新城南門外(今通州糧食は工場所在地を加工する)は29の軍の143師の1個は侵攻することを起こすことを営んでいて、これが営む士官と兵士懸命な反撃、100人日の軍を殺傷して、但し、古い城南ドアと東の総の屯に任務を迎撃する偽政府治安部隊を担当することを埋没させて、ともに迎撃した突くことの転移した29の軍部の隊がなくて、ただ空いて鳴る銃に対して、砲弾を発射して、撤退した29の軍を阻止するふりをして、同時に双方激戦中也に日の軍の何でもになかったことは援助する。狡猾な日本特務機関は細木の繁が治安部隊に懐疑することを生じたことを生やす。

27日午前9時左右、日の軍は行為に報復することを実施して、派遣して飛行機は12機の狂の轟は腐って古い城南ドア外治安部隊兵舎を設営する場所を揚げて、状態に至って治安部隊は10あまりの人は死傷する。治安部隊広大な士官と兵士は憤りのために心が穏やかでなくて、難しくこの口が屈辱的に怒ることを飲んで、治安部隊屋敷は全部隊キャプテンの張慶余は即刻で第2の総の隊キャプテンの張のすずりの田を総の隊の瀋維に教えて密談を捜して来ることをして:“城南の戦闘と日器は総の隊兵舎を設営する場所を教えることを爆撃して、すでに治安部隊士官と兵士の義憤を引き起こして、私たちはどんなにする”張慶余は真っ先に2人の意見を募る。瀋維は説をする:“手落ちの魚の死はすぐ網が壊れることです。私によって見る、現在、すぐ手を下すことができる。”張のすずりの田は少し気兼ねする:“私たちの行為はすでに暴露された、日本人はすでに準備することを持っていて、手を下す以後は再び29の軍と応援不能だ、全軍はまもなく全滅する。”瀋維は情勢に対することがまた分析したことをする:“現在士官と兵士の抗日義の憤実際は難しく抑制して、それと抑制して、成り行きに従って進めてこれで蜂起することに及ばない。”張慶余は話す:“先にちょっと日本人の動きが再び定を観察して、あなたたちはどんなか“28日午後、を見る張慶余のある“強社から”門口は細木の繁を遇した。細木の繁は通りを詰問する:“張キャプテンはあなたはどんなかの槁で、なぜ29の軍の截を止めることがなかったか?”張慶余は1人の堂々とした中国人が日本人にこのようであり叱咤すると感じて、珍しい恥の大きい恥で、彼はこれ以上内心の憤怒を我慢不能に、話す:“私治安部隊は治安を維持して、そうでなく戦をしていて、私は管理不能です!”“は私はあなたを引き揚げた!”“は私は中国人が任命することで、あなたの細木の繁は個のどんな品を計算する。”両私的な互は譲歩しなくて、同時に拳銃を抜き出して、怒った目付きは見ることに対する、有人に至るまで宥めることを阻止することに上がって来る、両氏はやっとけんか別れになる。


事後の張慶余、張のすずりの田。瀋維は秘密で集うことをして、己に仕えてこれに至ることと考えて、座して死を待つことができなくて、行為をなるべく早くとることが当然です。そこで、28日の夜の12時が治安部隊を行なって武装蜂起しようと決定する。蜂起することは機関を指揮することは県人民政府が置かれている町北関にいることを設ける、規定してもって真夜中として日の軍兵営に侵攻する銃声は蜂起する信号、兵は3の道同時行為を分ける。真夜中、蜂起した信号銃声大著。蜂起して部隊は俊速に長官公署とその他重要な機関を占領した。殷汝耕は銃声を聞いて、あわてることは護衛隊に呼びかけて生えて、護衛隊は生やして早くからすでに蜂起されることは部隊の棚は司令部に到達した。殷汝耕は無人が返事することを聴いて、すでに身を隠す戸棚の頂き。蜂起する部隊士官と兵士俊速に殷汝耕を打ち入る寝間。ただ見敷布。服は半端に在で生まれて、会わない人。便所、壁の厨、洋服ダンスは全部すべてで捜して、依然として人に捜すことができない。母屋の前方の両側の棟から1人の婢僕を捜し出して、彼に殷汝耕の行き場を説明するように迫って、婢僕は戸棚の頂きを指向不本意に:“長官は貴方は出て来る!”今、殷汝耕は屁が転げ回って小便をして流れるほど驚かして、渾身は糠をふるい上がって来て、どこはまだ動的であり弾くか?何人かの治安部隊下士官兵は餅殷汝耕について下りることを引っ張ったことに上がって行く。あとで、彼に北関呂祖の語司令部監禁した起きることを護送可能でした。

主攻撃日本守備隊と特務機関の道中は蜂起する士官と兵士、装備によってすぐれてよい。200の何人かの決死隊は先導として、敵不具が敵番兵を解決したことに乗って、後程噴き出した日本特務機関と守備隊住所に触る。細木の繁は気配を聞いて、率の隊は出て来ることに突き進んだ。彼の持短銃声高の喊の通り:“あなたたちの速いは本隊へ帰って、善玉と騒動を起こしてはいけない、でなければ皇軍一は到達して、あなたたちは生きると考えてはいけない!”蜂起する士官と兵士はどれかは彼の怒号することを聴いて、1の勾の銃板器は彼に地に射殺させる。

激戦は6時間をして、しきりに東方の太陽の火の形が紅であるほど壊れて、共は殲滅する日将校の兵の500あまりの人。屋敷全部隊日の本助言者渡辺少佐、教育庁助言者の竹騰茂。憲兵キャプテンの何田。県助言者の申茂と冀東銀行行長などを通って全部細木の繁同様の出場と獲得した。同時、日傀儡政権のそれぞれの機関を粉々にたたき壊して、日の軍守備隊火薬庫を焼いた。当夜、順義治安部隊の蘇連章団が張慶余に基づいて指令することを止めて、蜂起することを行なって、殲滅する日の軍の200あまりの人、29日午前10時に県を通ることを開き入る、通州と蜂起して戦列は合流する。時は昼ごろに近くて、日軍派飛行機は20あまりの棚は通州城爆撃に順番に対して、蜂起して部隊は死傷して甚だ重い。張慶余は情勢危急を知ることができて、即決して、部隊を分配して転移することと29の軍に向かって合流するように命令する。蜂起するときに部隊の行は北平に至ってドアと徳景勝ドア間を安定させて、急に日の軍が迎撃することに遭って、漢のよい殷汝耕タクシーの兵が日の軍が半端に突き進まれることを護送して、殷汝耕は脱するを機に乗じて、日の軍の劫が歩かれる。あとで、装甲自動車の20あまりの輌は日の軍を援護して蜂起することを迎撃する部隊はあって、治安部隊は総キャプテンの瀋維が干に教えて、キャプテンの張会明の眠たい帯の隊が突いて前後して陣没を分ける。危難中の張慶余は細分化するように訓令して、分散して突いて、門頭溝を経って走って保定は集う。


“当行は中途に至って、竟は孫殿英部(国民党の軍)が武装解除を迎撃される……4000の士官と兵士を余して丸腰で徒歩で保定集に到達して時代にマッチしていることを扱って、依然として向孫殿の英索に武器を還すように要請して、依然として前線行きにしなければいけなくて、力国は敵を殺す。”

8月10日、通州治安部隊のため蜂起して、殷汝耕は強いられる“責任をとって辞職する”、彼を経って一手に成立しようと画策する売国政府は同様に強いられて唐山へ転出する。

注ぐ:殷汝耕 (1885の---1947〕、浙江平陽の人、日本早稲田大学は卒業して、1927年は即ち蒋介石と日本政府筋の行き来が結託することを代表する。1931年以後は仮に恥を失うことに調印することの国の《淞の滬は休戦する協定》と《塘沽協定》に参加して、1935年12月26日、至って1937年の月球は29日は偽の冀東防の共自治政府政府業務長官に充当して、堕は徹底的民族腐敗分子として、1947年12月1日、売国奴の罪のためカ所の決に南京に。

張慶余(1895の---1963)、字の賀軒、河北滄県申家庄の人、1916年は北京陸軍模範的な団歩兵科を卒業する。厲任直の隷の軍の連、営んで、団、旅団長などの職、1933年の任冀東特殊な警察の隊屋敷全部隊キャプテン。全部1935年11月、異動する偽の冀東治安部隊屋敷の隊キャプテン、1937年7月率部は蜂起して、保定を変えて、洛陽、西安、1938年の隠居四川金堂県雑多な坊鎮に。後は委任が国民党軍事委員会の会中将のために相談事に加わられる。1946年の夏、退役して身内と定住する天津、病死に至る。





是假话(高兴)很喜欢捏造





多分ここでも

数々の蛮行は日本によって行われ

我々は被害を顧みず勇敢に戦った・・・だろな





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通州事件(つうしゅうじけん)

Category: 歴史  

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年 (昭和12年)7月29日 に発生した事件で、「冀東防共自治政府 」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。


事件の概要

通州事件の生存者

通州とは、北平(現在の北京市 )の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区 北部)の中心都市である。当時ここには、冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、突如約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。

冀東防共自治政府保安隊が通州事件を起こした原因としては以下の3つの説が存在している。

  1. 日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復で起こったとする説(しかし誤爆の事後処理は通州事件以前には終わっている事実も存在している) 。
  2. 中国国民党 軍が冀東防共自治政府保安隊を寝返らせるために「日本が大敗した」と嘘のラジオ放送をおこなったが、冀東保安隊がそれに踊らされたという説。
  3. 1986年に冀東保安隊長であった張慶餘 の回想録が公表され、また中国で出版された『盧溝橋事変風雲篇』によると、張慶餘、張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触しており、「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されていることから、中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとする説。

主犯の張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している。

なお、中国側では「抗日蜂起」とも言われる。


影響等

通州虐殺事件」、「第二の尼港事件 」とも言われる。

女性は強姦 されて陰部にほうきを刺されて殺害されている者、喫茶店の女子店員の生首がテーブルの上に綺麗にならべられていた、斬首した女性に対する死姦、腹から腸を出されて殺害されている者、針金 で鼻輪を通された子供など、日本人の平均的倫理観から見て殺され方が極めて異常かつ残虐であったため、この様子が同盟通信を通じて日本全国に報道されると日本の対支感情は著しく悪化した。 これは、既に7月7日生じたあと現地で解決されていた日本軍と国民党の武力衝突につき、感情論に任せたなし崩し的戦線拡大を招いた。 その後1937年12月24日、冀東政府と日本側との間で交渉が成立、冀東政府は日本側に正式陳謝の上、120万円の賠償金を支払い、事件は解決した。

近年ではこの事件に対する報道は日中両国で皆無であり、歴史の闇に埋もれようとしている。中国政府公式対外宣伝刊行物の『南京大虐殺写真集』の目次では『盧溝橋にて「北支事変」勃発、日本は華北を侵略する。日本軍は第二次上海事変を起こし、上海へ出兵する。』と述べており、この事件については一切触れられていない。小林よしのり戦争論 では細かく扱われている。

戦後、極東国際軍事裁判 (東京裁判)において、弁護団は通州事件について、外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ 裁判長によって却下された。



犠牲者家族の記述

吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された者が、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという。外部リンクには家族の実名が出ている。


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