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今日ボクが見た風景

ここまで腐ってる事実

Category: 創価学会  

2010/04/01(木) 07:42:19 [創価「あの事件」も ]


解任されたあの人も

20100401001
保護者と性的関係=区立小校長を更迭
 東京都江戸川区立小学校の男性校長(59)が保護者の女性と性的な関係を持ったとして、都教育委員会から解任されていたことが25日、分かった。校長は女性を同校の臨時職員として採用していた。都教委は近く懲戒処分も行う方針だ。時事通信
Web ) 3月26日付記事より参照のため抜粋引用/写真は「「創価学会員」の桃色校長」と伝える週刊新潮誌面(切り抜き)4月8日号(P47-49掲載)より参照のため引用

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おぞましいニュース

 表題には、「小学校の男性校長(59)が保護者の女性と性的な関係を持ったとして、都教育委員会から解任されていた」(要旨)、との報に、「ああ、そんなニュースがあった」、と。ご記憶に新しい方も少なくないことと思う。また、「同区教委によると、元校長は2008年に保護者の女性と知り合い、性的な関係を持った。その後、女性を同校の臨時職員として採用。女性は現在、職員を辞めている」(表題)、とある。事実とすれば、一過性の過ちではなかった、と拝察するに容易ではないか。

20100401002
時事通信Web ) 3月26日付記事
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 参照する記事(誌面)には、その驚くべき様子が記されている。同校長の人事異動の「交付」がなされたのは3月1日であり、3月24日の卒業式を目前に控えてのことであった。唐突にも映るタイミングでありながら、しかし、異動の事由が明かされておらず、「公明党や学会の強い影響下にある都が事実関係を隠そうとしたのかって。そんな風にも疑ってしまいますね(江戸川区議)」、と記されている。報道までの「タイムラグ」が、確かに、その疑問を増幅させてくれる。

 同元校長に近歴については、「小学校における国語教育の大家として知られる存在だったという。都で教職を得て、江戸川区の区立小学校で副校長をつとめ、01年に別の小学校で校長に就任。07年4月、A小学校に着任した」(誌面)、と。その概略が紹介されている。そこで、当該の保護者とのあってはならぬ関係が始まり、経歴の足を踏み外してまったとすれば、勿体ないことだ。
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熱心な創価学会員

 ごく素朴に、その人が「なぜ」、との疑問が沸いて来る。誌面によれば、私生活の面では、「同校長は夫婦ともに学会員で、奥さんは『聖教新聞とってくれ』とか、『公明党に投票して』とか、ずいぶん活動なさっていましたよ。でも、普通の近所付き合いはなかったからさ。○○さんが学校の先生だったということ以外、あの家のことはよく知らんよ(近所の住人)」と。また、「旦那さんは先生だって?学会の会合に熱心に出てるとは聞いていたけど、日頃の交流は全然なかったもんでねぇ(別の住人)」(誌面)、とある。

 表題は特異な事例に見えがちだが、しかし、カルトと対峙して来た拙き身にとっては、むしろ、こうした事例こそ有りがちなパターンに映る。たとえ、元々真面目な人柄であっても、優秀な人であっても、カルトに入り、信ずるほどに、人に正常にあるべき思考、判断が狂う。教団は異なるが、オウム真理教の林郁夫の事例が分かりやすい。元々は優秀な外科医であり、将来を嘱望されていた存在であった。しかし、オウムに入り、ついには、「地下鉄サリン事件」の実行犯となってしまった。その「人を狂わす」事例を思い出さずにおれない。
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人を狂わすカルト

 かつての、創価学会による言論出版妨害事件の被害者の1人の、内藤國夫氏(故人・創価学会の社会病理に詳しかったジャーナリスト)に話を伺ったことがあった。その際に、まさか、あの人が、と周囲が驚くような社会事件について、「先ず、カルト信者ではないか、特に、創価学会信者ではないか、と疑って調べる。結果的には、その予感がやはり現実であった、というケースが実に多い」(要旨)、としみじみ語っておられたことを思い出す。

 その話の中で、同氏は、創価学会信者の割合について、「4人に1人、いや、3人に1人は創価学会員ではないか、マスコミで隠蔽されるから一般の人は判らないと思うが」(要旨)、と。その他の「4人に3人、3人に2人」についてもまた、カルト信者やその系統の国の血筋が色濃い者が多いのではないか、との指摘をされていた。

 内藤氏の指摘は少々極端かもしれないが、事実として、仮に、これらの事件要素を差し引けば、ごく普通の日本人による社会事件、犯罪は実際は稀少である可能性すら考え得る。会員数が多い、(=イコール)事件も多い、とする屁理屈は“反論”にもなっていない。おぞましい実態こそは社会事件を生み出す病巣とも指摘でき、それらを無くすために信仰している(要旨)、とする自(おのず)の主張にすら相違しているのである。
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■ 主な関連記事:

創価「殺人事件」か 2  2007/12/09 
創価「全面敗訴」か  2007/12/02 
創価学会員の殺人・死体遺棄事件!  2007/01/20 
夜逃げした創価学会員!  2007/01/13 

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 新年度を迎え、新たな環境に進まれるみなさまには、カルト信者の勧誘に遭うこともあり得るだろう。カルトは、パチンコと同様に、広告に負け、多くのメディアがその正体を報じない国害である。人生を踏み外さない。そのためにカルトには入らない。これが最低条件になる。

 いにしへの頃より、幾多の先人が、日本人の心の証として愛(め)でて来た桜のように、堂々としていれば良い。



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この方のブログが攻撃された模様です






やっぱ・・・核心ついたら・・・やばいって事ですね・・・






と、云いながら 応援 & 支持 (爆)

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Category: 日本国民の心得  

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関連記事

GHQ証拠隠滅!焚書の「敗走千里」

Category: 歴史  
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GHQ焚書の「敗走千里」

「支那事変(日中戦争)が起きて間もない中国での中国人による実体験記」 

 著者は陳登元氏という中国人です。


 14~5歳の頃に日本に留学し、日本語の先生である別院一郎氏に出会います。

陳氏は中学から大学へと順調に進み、昭和13年の春には大学を卒業する予定でしたが

昭和12年に日支事変(支那事変)が勃発。

故郷が心配になった彼はその年の8月、一旦帰国します。

それきり何か月経っても帰って来ず、別院氏は心配します。

昭和13年1月になって、別院氏のもとに陳氏から一通の手紙とともにどっさりと原稿が届きます。

手紙によると、何と陳氏は実家にいたところを「強制徴募」により兵隊にとられてしまい、

江南の戦線に送られたとのこと。

そして砲煙弾雨の中の生活を送ること2カ月、重傷を負い病院に収容されたと。

幸いにも快癒に向かい退院できるところまでこぎつけたので病院を脱出したと。

まごまごしていたら、また戦線に送られるからです。

陳氏は上海にたどり着き、そこで原稿を書き上げた。

陳氏の手紙の一節にはこうあった。



 「僕は書きました。僕の経験し、見聞せる範囲内に於いての殆ど残らずを書きました。

別送の原稿、お忙しくはありませうが一つ読んで下さいませんか。

戦争とはこんなものです。僕は神の如き冷静さを以つて、純然たる第三者の立場から、

凡(すべ)てを客観し、描写しました



原稿を読んだ別院氏は「これは出版の価値、大あり」と判断します。

陳氏の希望に沿って、別院氏は骨子を損ねない範囲で文章を修正し

(日本語のおかしな箇所を訂正したり、中国の軍隊用語を日本の読者に理解しやすい用語に変更するなどし)

「敗走千里」は昭和13年3月20日、初版発行に至りました。


初版は4800部。その後非常に短い期間で版を重ね、西尾幹二氏によれば、
約3万5000部売れたとのことです。定価は当時で1円40銭。




主人公 陳登元氏当人
著書の中では陳子明(チエンツミン)という名前に変更されている。




 この戦争の初め頃は、誰も今程この斥候に出るのを厭やがりはしなかつた。嫌やがるどころか、古くから兵隊をやつてゐる者共はその殆(ほとん)ど全部が、その斥候を志願したのだつた。この分隊から下士斥候が出るといふ時なぞ、それの参加志願者で押すな押すなの騒ぎだつた。
 「分隊長殿、今度は儂(わし)をつれてつて下さい」
 「馬鹿! お前はこの前の時に行つたぢやないか。今度は俺だ。」
 そんな始末だから、洪傑(ホンチェ)としても斥候の人選に困るやうなことはなかつた。澤山(たくさん)の志願者の中から氣に入りの者だけを抜き出せばいゝわけだつた。
 下士斥候は大概の場合、五名か六名だ。それが揃つていざ出發といふ場合、彼等はにやりと何か意味ありげな微笑を交はす。陳子明(チエンツミン)の如き、僅か一ヶ月程前から強制徴募されて來た新兵には、その微笑が何を意味するものか、初めは全然判らなかつた。
 が、二時間程して、意氣揚々と帰つて來た彼等を見て、新兵たちは初めて、彼等が何故にあの危険極まる斥候を志願するかが解つた。彼等は実に夥(おびただ)しい種々雑多な戰利品をぶら下げてゐるのである。主に、時計とか指輪、耳飾り……と云つたやうな、小さくて金目のものだが、中には、重い程そのポケツトを銀貨でふくらまして來るものがある。
 或る一人の兵が持つてゐた耳飾りの如き、現に、たつた今まで或る女の耳にぶら下つてゐたものを無理に引きちぎつて來たからだらう、血痕が滲んでさへゐた。しかもその兵の、無智、暴戻(ぼうれい)、殘虐を象徴するかの如き、ひしやげた大きな鼻、厚く突き出た大きな唇、鈍感らしい黄色く濁つた眼……その眼が何ものをか追想するやうににたりにたりと笑ひ、厚い大きな下唇を舐(な)めづり廻してゐる顔を見てゐると、陳子明の胸には、何かしら惻々(そくそく)とした哀愁が浮んで來てならなかつた。あの血痕の滲んだ耳飾りと關聯(かんれん)して、何かしら悲惨なことが行はれたやうな氣がしてならないのだつた。
 斥候に行つた連中は、お互ひに何か探り合ふやうな視線を交して囁き合つてゐる。
 「おい、張開元(チヤンカイユアン)! 貴様それだけか?」
 ポケツトをざくざく銀貨で云はしてゐる男が云つた。
 「うん、これだけよ……でもなァ、よかつたぞう」
 唇の厚い男は、下を舐めづり舐めづり、淫(みだ)りがましい笑ひを黄色く濁つた眼に浮かべながら、大きな掌の上で翡翠の耳飾りをいぢり廻してゐる。
 「貴様ァ、相變(あいかわ)らず女一方なんだな」銀貨の男は、相手を輕蔑(けいべつ)しながらも、矢張り、張開元の自由にした女に氣を惹かれてゐるらしい。「で、その女は好かつたか? 幾つぐらゐなんだい?」
 「二十ぐらゐかな……そりゃ好い女よ」
 「ふーむ、そんな女が今時分まだこんなところに間誤々々(まごまご)してるのかな……で、そりゃ、どの家だい?」
 「そこの橋を渡つてよ、クリークについて左に行つて……」と云ひかけて、張開元は急に警戒し出した。「でもな、その女はもうゐないよ、南京に行くと云つたから…」
 銀貨の男は、さう云ふ張開元の眼を凝乎(じつ)と瞶(みつ)めてゐたが、やがて、はつとしたやうに
 「おめえ、まさか、やつちまやしめえな」と云つて、ぎゅつと、銃劍で何かを突き刺す眞似をした。
 「ううん、勿體(もったい)ねえ、そんな馬鹿なことするもんか」張開元は慌てゝ辯解(べんかい)した。「俺は只、この耳飾りを貰つて來たゞけよ」
 「ふむ、そんならいゝけど……それで、家はどこだい、何か商賣してゐる家か」
 「そんなこと、覺えちやゐねえ、滅茶苦茶に飛び込んだ家だからな……そいで、その女、年寄りの婆さんと、地下室に縮かまつてゐたのよ、婆さん、脚が悪くて、歩けねえらしいんだ」
 張開元は、さう云つて中々女の居る家を教へなかった。何か自分の所有物をでも他人の目から匿(かば)ふやうな態度だつた。
 「ふん、俺ァ女なんかどうでもいんだ」銀貨の男は、ポケツトの銀貨をざくざく云はせながら張開元の前から去つた。
 陳子明は凡(すべ)てを見た。そして、聞いた。
彼は、これだけで戰爭なるもの、更に軍隊なるものゝ本質を殘らず把握したやうに思つた。戰爭なるものが一つの掠奪(りゃくだつ)商賣であり、軍隊なるものはその最もよく訓練された匪賊(ひぞく)であるといふことである。(p.3-7)



洪傑(ホンチェ) =分隊長の名前。位は軍曹。
クリーク= 排水や灌漑 (かんがい) ・交通などのために掘られた小運河。
匪賊= 「集団をなして、掠奪(略奪)・暴行などを行う賊徒」を指す言葉。

当時の駐屯地における支那軍の実態。
中国は戦後、こういった掠奪や暴行や強姦は全部日本軍の仕業と捏造。

陳子明のいる塹壕に日本軍の空襲があった。
兵隊らは飛行機に向かって当りもしないのに銃を撃ちまくる。
なぜ無駄弾と分かっていて撃つのか?

支給されているだけの弾丸を早く消費してし、後方へ退いて休養するため。(p.25)

その後、陳子明は初めての斥候(5人1組)に出され日本軍に見つかり数発撃たれるも
幸い事なきを得る。(p.29-30)

 
 もぐらの生活も可なり久しく續(つづ)いたものである。皆んなもう飽き飽きしてゐた。この塹壕で生活する何んの興味も刺戟(しげき)もなくなつたのである。
 皆が皆、もうどこへ行つても掠奪する何物もないことをこぼしてゐるのである。女は勿論のこと、今はもう、穴倉の隅から隅まで嗅ぎ廻つても、一滴の酒を得ることさへ出來ないのである。
 「もつと、どうにかしたところへ移らなけりや駄目だ!」
 「同じ移るなら大きな町でなけりや駄目だ。こゝら近邊ぢや、もうどこへ行つても同じことだらう」
 彼等は寄ると觸(さわ)ると、そんなことを囁き合つてゐた。
 それも無理はない。
彼等の皆んなは、遂ひ最近まで奥地にゐた或る將領の私兵に過ぎなかつたのだから。戰爭を一つの商賣と心得、一戰爭終つた後の掠奪を唯一の報酬と心得てゐる彼等に取つて、掠奪する何物もないといふことは、それこそ生活の虚無を意味してゐた。一人の女をさへ見ることの出來ないといふことは、砂漠の牢獄に他ならなかつた。(p.38-39)


 掠奪は唯一の報酬であると。日本軍とは根本から違う。

その後、塹壕に司令部付きの若い将校&彼と腕を組んだ若い女性が登場。
彼女は「皆さん、しっかりやって下さい。
妾(わらわ)達は今、皆さんの労苦を慰めるため、妾達の一切を捧げようとして、
この5キロ程後方の村落にいます」と兵らを前に一演説ぶちます。
婦女慰労隊(将校らの情婦的存在で売春婦とはまた違う様子)のリーダー的存在、李芙蓉。

 それを見た張開元(斥候に出た時に女性を強姦し耳飾りを引きちぎってきた男)は
「あいつ、一切のものを捧げるって言ってたぜ。俺、あんな奴を抱いてみてえ……」
と舌なめずりをし、また周囲からも「うっふっふ……」という嫌らしい笑いの波が起こる。(p.42-44)

陳子明と同じ「強制徴募」で引っ張られてきた兵隊は他にもいる。
陳子明は自分よりやや遅れて「強制徴募」された新兵の孫成有(スンチヨンニュー)と出会うが
彼は陳子明と同郷でした。(p.65)

陳子明は自分が「強制徴募」された時のことを回想する。

陳子明が日本から実家(綿布を扱っている商家)に戻っていることが、
何者かの密告により軍に知られる。

 募兵官が町に姿を現わし、人狩りを始めたことを聞いて、陳子明は実家の地下室
(匪賊に備えて作られたもの)に妹とともに隠れます。

 探しあぐねた兵士らは、店先に縛ってある父母を激しく責め立てる。
「これ以上息子を庇うなら群衆に命じて掠奪させるぞ。お前たちを銃殺にするぞ」と。

その時、野次馬の一人(近所の事情を知る者らしい)が地下室があると兵士らに密告。
陳は発見され兵営内の牢獄に連行された。

銃殺に処せられるという立場の陳子明、ある士官に救われる。
それは同郷の王祥謙(ワンシヤンシエン)上尉。
2年ほど前、王祥謙は日本の士官学校を卒業。
その時陳も東京におり、同郷人会で催された王の帰国を見送る送別会に出席していた。
陳が彼と会ったのは、その一度きり。(p.81-84)

 陳子明と再会した王祥謙は、彼にこのようなことを語ります。

 「僕は、あの送別會の時云つたらう。中國は今は世界各國の半植民地になつてゐる。どうしても彼等の巣喰ふてゐる勢力を追つ拂(ぱ)はなければならない。別けても日本の重壓(じゅうあつ)は甚だしい。第一番にやつつけなければならないのは日本だ——と」(p.87)





現状は世界各国の半植民地状態。
だが、昔も今も彼らが責め立てるのは日本ばかり。



 ちなみに王祥謙の送別会については
「日本の官憲の監視下における会合である以上、
あまり激越なことは言えるものではなく、それが精一杯だった」と記述されている。
だが、陳子明によれば、王祥謙はその送別会で他にこのようなことも言っている。

 「中国は軍事、科学、文化、あらゆる角度から見て日本より一足遅れている。だが、それが同じ水準に達した時、日本は決して我が中国の敵ではあり得ない」
「国土、資源、人口の優越する中国は、必ず日本を倒すことができる」
「打倒日本の声は今や中国全土に起こっている」

 官憲の監視下にあったわりには相当過激だ。

 王祥謙は更に・・・

 「幸ひにして、中國は今や歐米諸外國の同情を得てゐる。
彼等をうまく誘導することに依つて吾々はやがて、自分達は手を拱(こま)ねいてゐて、
歐米諸國と日本とを戰はせるのだ。彼等は何れも野獣に過ぎない。

彼等は、我が中國を獨占しやうと思つて何れかゞ斃れるまで闘ふだらう。
それが野獣の本性だ。そして今はそこへ行くまでの過程にあるのだ。しばらくの辛抱だ」
(p.87)

情報戦に弱かった当時の日本(今も弱い)
中国のこの欧米向けプロパガンダにすっかりやられてしまいました。
しかも日本だけでなく欧米諸国も「野獣」であると。
このあたりの記述はGHQの心証を悪くしたか?

さて、陳子明は王祥謙に「兵卒として戦場に行けば銃殺刑は避けられる」と説得され、
結局それに従うこととなる。
陳は彼の部屋を出るとすぐに軍服に着せ替えられ、それから1カ月間、
猛烈な軍事教育を叩き込まれた。そして彼は王祥謙が指揮する「第十中隊」に配属された。

 ちなみに後日、王祥謙の骨折りで戦線に向かって出発する前に
陳子明が父親にだけ会うことが許された際、父親から聞いて判明したことがある。
父親は連行されていった自分を救うために、一万元近い金を要路の人にばらまいていた。
そのお金は無論、王祥謙の懐にも多少は入っているだろうということ……。
中国の賄賂社会は今も昔も変わっていない。(p.95)

「強制徴募」の回想が終わり、話はまた戦場(塹壕)へ。

 陳子明は王祥謙から大変なことを聞きます。

陳のような日本への留学経験者だけでなく、
事業に携わっていた日本からの帰国者が50何人か、漢奸(かんかん)*5の名で銃殺されたと。
しかも何の証拠もなく、ただ日本にいたというだけで……。
王は陳に「お互いに気をつけよう」と言います。(p.89)

 さらに王祥謙によれば、●勲(ホウシユイン。●=广+龍)中尉は
「救国抗日団」の回し者で、「彼にはなるべく近寄るな。
下手をすると、漢奸の名でやられるぞ」とも。(p.109)
 

*5 漢奸(かんかん)=本来漢民族の裏切者・背叛者のことを表す。

日中戦争中及び戦争終結後には日本への協力の有無に関わらず、

日本について「よく知っている」だけの中国人でも「漢奸」として直ちに処刑されたり、

裁判にかけられた。

また日本に協力する者であれば漢民族でなくても「漢奸」と呼称した。


 この後、李芙蓉が●勲中尉の愛人として再登場。
王祥謙上尉と●勲中尉はもともとしっくり行っていなかった上に、
李芙蓉の登場で、彼女をめぐりさらに反目し合うことになる。
この李芙蓉は美く聡明で度胸もある、無理もない。

 ついでに張開元もしつこく李芙蓉を狙うが、
彼女の「手を握った」ことにより(本人がそう主張しているだけで、
陳は「あの張が手を握っただけだって?」と疑問を呈している)、
兵隊や慰労隊の女たちにボコボコにされている。(p.115-117)

 張開元のこの事件が引き金となり、張や陳子明が所属する王祥謙の中隊に対し、
直ちに前線に出動せよと連隊長から命令が下る。これはほとんど「死」を意味する。
王祥謙は●勲の密告と捏造が原因だと断定し、
「自分の死ぬ前に●勲をやっつけてやろう」と決意を固めます。

 たとえ密告がなかったとしても、
欧米派の●勲と知日派の王祥謙との対立はいかんともしがたいもので
●勲はアメリカ士官学校の卒業生なのである。
 さらには●勲が中央政府からの留学生だったのに対して、
王祥謙は彼の郷里を支配する軍閥からの留学生であった。(p.123)

 大激戦を前にして、陳子明は明確に「脱走」を考え始める。
分隊長の洪傑は陳はじめ部下らに「助かるいい策戦があるんだけど」と意気込んだ調子で言います。
その策戦とは——。

 それは、敵に氣付かれないやうに、こゝの戰線をそつと引き揚げるんだ。そして、奥地の山岳地帯に敵を誘ひ込んで、こゝに現はれたかと思ふと彼方に現はれ、彼處(かしこ)に現はれたかと思ふと此方(こなた)に現はれ、敵を奔命(ほんめい)に疲らすんだ。そして、俺達は全部、便衣*6になるんだ。そして愈々(いよいよ)追ひ詰められた時には、百姓となって誤魔化してもいゝし、商人になつてもいい、兎に角良民に化けて敵の眼から脱れる工風をするんだ」(p.130)

*6 便衣=中国語で「平服」を意味する。

一般市民と同じ私服・民族服などを着用した中国兵士を「便衣兵」と言う。

特に1937年の南京陥落の際、中国国民党の兵士が便衣に着替えて逃亡したことは有名。


その直後に戦闘が始まり、彼等はもはや逃げるだの何だの言っていられない状態に。
 王祥謙上尉は督戦隊*7の攻撃により腕を負傷します。この戦闘で第十中隊は総員159名のうち16名が犠牲になる。(p.132-143)

*7 督戦隊=自軍部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに勝手に戦闘から退却或いは降伏する様な行動を採れば攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。

有名な所では支那事変における中国軍の督戦隊である。

これが暗躍したため中国軍に多数の死者が出た。南京攻略戦時にも暗躍し、これによる死者が「南京事件」の死者に数えられているという指摘もある。


 新しい塹壕へ移動し生活が始まるが、敷き藁すら無く、農家へ「徴発」に行くことになる。
 徴発志願兵の中には陳子明の姿もありました。
「神様が逃亡の好い機会を与えて下さるかも知れない」と考えた。
しかし、そこで容易く変装用具の便衣が手に入るかどうか……と思案する。

 「徴発」に向かう途中、陳は仲間の金阿貴とこのような会話を交わす。

 「陳さん、東洋軍*8に捕まつたら俺達どうなるだろう?」
 彼の傍に摺り寄つて來た一人の兵が、さう小聲(こごえ)で呟いた。金だった。
 「さァ……捕虜だね、捕虜は……多分、戰爭の終るまでどこかに監禁して置くだらうな」
 「殺さないかね?」
 「殺しやしないだらう」
 「でも、いつか、俺聞いたけど、東洋軍は片つ端から捕虜を殺すつて……よ」
 さう云はれると、彼にもはつきりしたことは解らない。が、彼は十年も東京に留學して、大抵日本人といふものを知つてゐるつもりである。彼の知つてゐる日本人は、殊に、日露戰爭に關する書物など讀んだところでは、日本軍は露西亞の捕虜を殺すどころか、非常に鄭重(ていちょう)に取り扱つてゐる。捕虜の癖に、日本娘と戀愛(れんあい)に陥って、事變(じへん)後結婚したといふローマンスまで傅(つた)へられてゐる。それ程、日本軍は敵國軍に對(たい)して寛大だつたのだ。*9(p.144)


*8 東洋軍=日本軍のこと。


*9 日露戦争における日本側による捕虜の厚遇=バルチック艦隊の戦艦「オリョール号」の水兵ノビコフ・ブリボイの名作『ツシマ』(邦訳『バルチック艦隊の潰滅』上脇進訳)にも詳しい。

プリボイはやがて熊本の収容所に入れられ、そこの通訳の妹と親しくなったりしたようだが、ほかにもロシア人捕虜と親しくなったり、結婚した例もある。


 日本軍を誉めたこの記述は、GHQにとっては都合が悪いでしょうね。
アメリカの捕虜に対する扱いは人道的云々の概念を遥かに越えた劣悪なものでしたから。


 さて、洪傑軍曹をリーダーとし「徴発」に向かった一行、どこの家も留守で
(この近辺が戦場になったと知り避難したらしい)堅く釘付けになっています。
 本来の目的である藁は庭先に大量に積まれおり、それだけ持って帰ればいいものを、
一行は「掠奪」も目的としていたため、家の戸をこじ開け始めます。
当然、誰も止める者はいません。
 「給料の満足に支給されない支那の兵隊にとっては、掠奪が依然として給料であり、
兵士となるための奨励賞である」からです。

 陳子明はこの時「逃げる」チャンスはあったのですが、
残念ながら便衣を見つけることができず、逃亡はあきらめ、部隊のいる塹壕に戻ります。(p.144-151)

 陳は逃亡を考えながらも、王祥謙上尉の怪我が気に掛かります。
王に代わって●勲中尉をやっつけてやろうということも考えます。
 王には命を救ってもらった恩義があるし、●勲を亡き者にすれば、
自分たちの中隊が激しい戦場に出される機会も薄くなると考えたからです。



 その後、また日本軍の攻撃が始まります。

 一旦攻撃が止んだ後、金阿貴は陳子明に脱走しようと誘う。
 が、金は陳がまだ便衣を用意をしていないと知って愕然。
「洪傑や他の奴らも、徴発の時に便衣を失敬してきたのに……」と。
 陳は拝み倒して、金に便衣を見つけて来てくれるよう頼み、
逃走を2~3日待って貰うことになる。

 ところがその晩、「午前0時に夜襲を決行せよ」と上からの命令。
 陳はこの時は監視哨だったため戦闘に参加せずにすんだが、
この戦闘は非常に激く、帰還できた兵士は半分。
同郷で親しかった孫成有は戦死、頼りの金阿貴も重傷を負ってしまいます。(p.156-166)

 やがて、中隊長の王祥謙上尉が戦線に復帰。

 王祥謙は怪我を負ってからこれまでのことを陳に話します。
王は軍法会議に引っ張り出され、第一線放棄の罪をみんな自分になすりつけようとしたと憤慨します。
もちろん潔白が証明されたから、復帰できたのですが。
 王はここでも「●勲には用心しろ」と言います。(p.167-180)

物語は唐突に、陳子明が所属する第十中隊についての説明がなされます。

 第十中隊の幹部を構成する士官達の内、王を除く五人の中少尉たちは何れも南京の軍官學校出身者だつた。彼等は生じつか海外を見て來ないし、それに學校では何事につけ、中國第一主義の教育を叩き込まれて來たので、非常に鼻張りの強い自信家ばかりだつた。
 中國は世界一國土が廣いんだ——
 中國は世界一國民の數が多いんだ——
 中國は世界一資源に富んでゐるんだ——
 中國の軍隊は世界一強いんだ。なぜつて、本來が勇敢な民族であるし、加ふるにこゝ數世紀の間斷へることのない國内戰爭に依つて充分に鍛へられてゐるからだ——
 それに、中國は世界一古い文化を持つてゐる。その文化は世界最高峰に位ひするものなのだ——
 彼等はそれを頭から鵜呑みにして疑ふことを知らない。だから至極樂天的である。閑(ひま)があれば、麻雀の牌をがらがら振つてゐる。
 「何もくよくよするこたァないさ」
 「大海に一滴の墨汁ぢやないか。日本なんて結局、中國に呑(の)まれちまふのさ(p.181-182)


 
 まさに中華思想の極み

 


 さて、●勲中尉はいつの間にか李芙蓉から他の女に乗り換え、
李芙蓉も●勲から王祥謙上尉に乗り換えます。

 一方、陳子明は負傷した金阿貴を見舞うが、金はもう死ぬ間際で様相もすっかり変わっていた。
 金は「俺はもう駄目だから、君に俺の便衣をやるよ」と、自分の便衣を陳に譲ります。


 後に、金阿貴はその後病院で死亡。遺体も所在不明。

 その後も戦闘および掠奪の記述が続く。

 「みんな掠奪にかけては名人ばかり揃っている。
仕事は早い、どんどん舎外に運び出して要領よく、
目の届かない建物の裏側に積み上げ、それをこそこそとコマネズミのように、
地下道を通って運び始めた」といった具合。(p.231)

 そして、みんなで食べ物の話ばかりしています。
 分隊長の洪傑軍曹は食べ物の話になると、いつも自分の出身である
 西北の奥地の話を持ち出し、ここではこんな話をする。

 戰爭はそりゃ随分あつたさ。だが、負けても勝つても、今やつてる東洋軍との戰爭みてえなこんな馬鹿なことつてねえ。命にや先づ別條ねえし、喰い物と來たらそりやふんだんにあつたもんだ。どこの家へ行つたつて御馳走は喰ひ放題だし、その上、豚だつて鶏だつて手當り次第に叩き殺して喰つたもんだ」
 彼は、昔の軍閥の部下だつた頃の生活に非常な憧憬を持つてるらしい。今でもそこへ戻つて行けば、昔のさうした生活が出來るものと思つてゐる。
 「ぢや、一層のこと、元の將領のとこへ戻つて行つたらどんなもんです?貴下なんか屹度(きっと)歡迎されるでせうに……」と、水を向けるものがあると、彼は併(しか)しぐつたりと力の拔けたやうな顔をして
 「馬鹿なこと云つちゃいかん。俺はこれでも中央軍の軍曹だ!」と、そつくり返るのだ。
 が、そんな威張り返つた口の下からそろそろと、本音を吐き始める。
 「だが、例へ行つたにしたつて、手ぶらで行つたんぢや只の兵隊にも使つちやくれめえ、ちやんとした鐵砲か、機關銃でも持つてけば格別だがな」(p.239-240)





 さて、李芙蓉は、王祥謙上尉から今度は何と陳子明に乗り換える。
 李は「金阿貴さんの遺品よ」と絹のハンカチを陳に渡しますが、
 そこには「愛する者へ」と書いてありました。
 実はこれは金の物ではなく、李の陳への求愛の品だったのです。
 (何て節操のない女)。

 その後、李芙蓉をめぐる●勲と王祥謙の争いがついに終焉を迎える。
 王祥謙の第十中隊に限定してまたしても夜襲命令が下った。
 これもまた●勲の差し金らしい。

 「今夜こそ死ぬかもしれない」
 「こんな理不尽な命令にも従わねばならないのか」と絶望します。


 「こんな戰爭なんて、一體(いったい)誰が始めたことなんだ」
 鬱憤の持つて行き場のない彼等の一人は、遂にはさうした戰爭そのものに對する疑問の言葉を投げつけた。
 「誰が始めやうとそんなことは構はんさ。戰爭そのものが民衆に取つて意義があるもんならな」誰かゞ應(おう)じた。
 と、初めの男がやり返した。
 「ぢや、この戰爭は民衆に取つて一體どんな意義があるんだ。聞かしてくれ……俺には分らん。俺は今まで何にも考へずにやつてたんだ」
 「そりや迂闊だな。そんなことなら、そこらにごろごろしてゐる兵卒だつて知つてるぜ」横から、別の男が冷笑するやうな口調で云った。「つまり、帝國主義的侵略者打倒の為めの戰爭ぢやないか」
 初めの男が、苛々(いらいら)した容子(ようす)でその聲(こえ)の主の方に膝(ひざ)を向け直した。
 「君はそんな觀念(かんねん)的な一片の訓示で、貴重な生命が投げ捨てられるのかね……ふつ、お安い生命だ精々大安賣りするがいゝせう」
 「なに、何んだつて? 君は僕を侮辱する氣なのか。君が何んにも知らんと云ふから教へてやつたんだ。それを……」
 「いや、有難ふ……ぢや、序(つい)でにもう一つ教へて頂かうか。イギリスや、アメリカや、ロシヤや、フランスや、さう云つた國は侵略者ぢやないのかね……日本一國を眼の敵にして……
 「漢奸!」叫ぶなり、その男は立ち上つた。(p.280-281)



 要するに、

「日本を侵略者と言うなら、イギリス、アメリカ、ロシア、フランスなどの欧米列強だって侵略者だろう」と。
GHQにとって、これは最大級に不都合。

張の残忍さがまたここで明らかになります。

 物語に戻って、●勲と王祥謙の決着。
 李芙蓉の立案により、王祥謙と部下らはついに●勲を襲い、殺害。
 そして夜襲開始の時刻(午前0時)が刻々と近づきます。

 


 張は予め用意してあった便衣に着替えます。
その上、死体収容の際に上手くせしめたであろう拳銃まで持っています。
 張は逃げるためなら仲間の殺害も厭わないという決心をしており、
さらに前から狙っていた李芙蓉をさらって逃げることも計画しています。

 ところが邪魔な相手が現れます。
確認するとそれは陳子明で、ちょうど李芙蓉ら慰安隊と一緒にいるところでした。
 陳とは毎日顔を合わせて家族のような親しみさえ感じていた仲なのに、
張の顔に浮かんだものは「何だ、あいつか」といった鉄のように冷たく固い表情でした。

 便衣の男に拳銃で狙われていることに気付いた陳は、それが張だと分からぬまま反撃、
殺してしまいます。
倒れた男を確認し、それが張だと知って驚く陳……
(実はこの頃には夜襲の開始時刻をとっくに過ぎていた)。(p.296-300)

 夜が明けたあと突如戦闘が始まり、激しい戦場の中、陳子明は李芙蓉の手を取り、
二人の逃避行が始まります。

 第一線からの退却兵とともに彼等は夢中で逃げます。
 督戦隊が現れて、味方をどんどん機関銃で攻撃してきます。
 見る見る間に死体の山が高くなり、敗走の激流は阻止されます。
 督戦隊も止まりますが、いったん止まっただけで、またいつ始まるかわかりません。

 日本軍の砲撃は続きます。
多くの兵が無残に死んでいきます。

 ある者は死を装い、ある者は死体の山の奥へともぐり込む。
炸裂する弾から身を守るには、それより他が方法がないのです。
 陳もそれにならいます。どんな方法を講じても生き残りたい!と。

 退却軍の渦の中に揉まれ続けた陳は、李とはぐれてしまいます。
督戦隊員らしい者4~5人が無理やり彼女を強奪していったのです。(p.306-313)

 何とか生き残った陳子明。彼はこんなことを思います。 

 陳子明は別に軍官學校の出身でもなければ、特別に軍隊生活を志望して、戰闘方法とか軍略とか云ふことに大して造詣のあるわけではない。が、最近の少しばかりの戰爭の經驗に依つて、自分達の國の軍首腦部が現在重大な過失を犯してゐるやうに思へてならないのだ。その過失と云ふのは、この戰爭の始まる前、吾々の軍隊はなぜ東洋軍と同じやうな、あの恐ろしい威力を持つところの野砲とか、野重砲のやうなものを用意しなかつたか——と云ふことである。
 敗走に次ぐに敗走を以つてする近頃になつて、自分達のちよくちよく耳にする軍首腦部のお題目は、「長期抗日戰」といふそれであり、「吾々は最初から長期抗日戰を覺悟し、日軍を奥地に誘導し、以つて彼等を奔命に疲らせ、殲滅するのは策戰に出づるのだ」と云ふそれである。
 が、それが、事實とするなら、吾々の軍隊は尚更、野砲、野重砲の如き威力ある武器を最初から用意しなければならなかつたのだ。なぜと云ふのに、奥地へ日軍を誘導すると云ふからには、最初から現在やつているやうな野戰が覺悟だつた筈だ。野戰に於て、機銃や迫撃砲が、野砲、野重砲の敵ではないことは戰はぬ前から分つてゐる筈だ。それだのにそれらのものを用意しなかつたといふことは、吾々の軍首腦部は上海の市街戰に於て日軍を撃退する——と云ふ一本立ての策戰しか立てゝゐないかつたことを暗默の裡に白状してゐるのだ。
 確かにそれに相違ない。煉瓦やコンクリートの高層建築物の密集してゐる市街戰に於ては、野砲や野重砲は確かに使ひものにならない。そんなものよりも、機關銃や迫撃砲、手榴弾の方が遙かに効果を挙げ得るからだ。
 その上海に於て、日軍を引きつけ、引きつけ、トーチカからの機銃掃射に依つって日軍を消耗し、殲滅するといふ策戰がもし成功したならば、彼等國軍首腦部は確かに先見の明ありと云つて誇つてもいゝが、その唯一の策戦が敗れ、失敗した以上、戰ひはそれを以つて打ち切りとすべきだ。戰つても絶對に勝つ見込みはないからだ。
 「長期抗日戰」——
 そんなものは、蒋介石一族、親露派、英米派の失敗の跡を誤魔化さうといふこけ威かしにしか過ぎないものだ。要するにそれは、政權に戀々(れんれん)とした、彼等の保身延命策にしか過ぎないものだ。
 彼はつくづくと、この無意味の戰爭が呪はしくなつた。全然無力の彼として、この戰爭を止めさせることは不可能だが、併(しか)し、自分個人をこの戰爭の渦中から脱出させることは、出来る、そして、それは何ものに對しても恥じることのない、許されていゝことだと思つた。(p.352-353)


 

 その後陳子明は李芙蓉を追い求めつつ、他の便衣兵ら(約15人)とともに行動します。

 彼等は完全に「匪賊」の生活に入り、挙げ句に
味方の炊事兵(5人)を襲撃、全員射殺した上で掠奪
(しかも味方を殺しておいて「他愛のねえもんだなあ」と残忍にも笑ったりしている。
陳は怖くて森の方に逃げ込んでしまった)と、もう何でもあり状態。

 そんなある朝、農家の牛小屋で目覚めると、近くで日本軍の攻撃の響きが。
 彼等は仕方なく、またそのへんの味方部隊に紛れ込みます。
 が、これが敗走の大縦列部隊でした。
 陳子明は敵の機関銃に右肩を撃たれ、意識を失います。

 そして、気がついたら陳は傷病兵の収容所にいました。
 李芙蓉と間違えて看護婦の手を握り、
 「人違いです。あんた、気がどうかしてるんです」と邪険にされてしまいます。

 敵の鉄砲の音がまた近づいてきます。天幕がびりびり震えます。
 「また退却だとよ!すぐに蘇州河を越してその対岸に引き移れっていう命令だ!」
 という誰かの声で、この物語は終わります——。



 この「敗走千里」には続編があります。「続敗走千里」
 

 

 結局、GHQはどの記述が原因でこれを「焚書」にしたのか?

 中国軍が自国で掠奪や暴行を繰り返したり、
 便衣兵になったり、とにかく野蛮だったという記述?

 欧米列強も実は侵略者だったという記述?

 日本軍がめちゃ強く、しかも人道的だったらしいという記述?

 蒋介石はじめ中国軍首脳部を批判した記述?


 おそらくどれもGHQにとっては不都合

 一番大きな理由はこれらを記したのが「加害者」である日本人ではなく、

「被害者」つまり戦勝国民である中国人(陳登元氏)だったからであろう。


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小日本

Category: 反日  

中国が日本の事を「小日本」とバカにする


日本「『小日本』という萌えキャラ作ったよー」 


中国「アイヤー!」



『日本鬼子って萌えキャラ作って中国人を萌え萌えにしてやろうぜ まとめ』という
wikiに新たなキャラクターが公開されている。そのキャラクターは『小日本』と書き
「こひのもと/こにぽん」と呼ぶキャラクター。

これは中国や台湾が日本人に対する蔑称として使う言葉。この蔑称を『日本鬼子』同様に
萌え化するプロジェクトが10月下旬から進行していたのだが、
ようやくデザインが決定されたようだ。ミニ着物を着ている『小日本』は
『日本鬼子』の妹という設定。武器は姉の薙刀(なぎなた)に対して『小日本』は
身の丈ほどの日本刀を持っている。

この『小日本』の登場により日本人の創作意欲が更に芽生えることは間違いないだろう。
今後予想できることは、『小日本のテーマソングを作ってみた』、
『小日本のテーマソングを歌ってみた』、『pixivで小日本のイラスト大集合』、
『コミケで同人誌販売』などだ。

どういう方向にメディア展開されるかわからない『日本鬼子』と『小日本』だが、
中国人よりも日本人が萌えてしまったのでは……。平和っていいよね。



名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 19:51:59 ID:srn1uTq10
中国人 「アイヤー」
韓国人 「アイゴー」
米国人 「オーマイガッ」

日本人は何よ?


名前:名無しさん@十一周年[] 投稿日:2010/11/22(月) 19:52:39 ID:0Fh7KI8c0 [2/2]
>>37
日本「ちょwww」



(笑)



名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 20:02:40 ID:/w4G3oW10
『日本鬼子』に『小日本』と来たから、
次は『東洋鬼』かな。

「あずま ひろき」で男の子と予想してみるw



(笑)



名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 20:14:30 ID:A/CL4NZE0
ついでにJAPとかチョッパリとか他言語でも上手く萌えキャラ化できないもんかな



(笑)





名前:名無しさん@十一周年[] 投稿日:2010/11/22(月) 20:14:55 ID:y+Upj0W/0
日本人って世界一創作が好きな民族だそうな
小説の賞は日本が世界最多、投稿数もケタ違い
俳句短歌のポエム系もそこらにいるおっさんおばはんが嗜んでいる
コミケに行けば何万人ものアマチュア作家がいる

日本人の創造力は恐ろしいわ



名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 21:24:02 ID:wtbv7lQ50
文化の力で敵を無力化する・・・マクロスを思い出すね

(確かに)






名前:名無しさん@十一周年[] 投稿日:2010/11/22(月) 21:38:41 ID:JV8tv5ZG0
で、中国はいつアイヤーちゃんを作ってくれるんだ?
かわいくなくちゃいやだぞ。



637 名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 21:55:43 ID:g0LHFSGB0
シャオリーベンって音がそもそも可愛げ



(強いなコイツラ)




名前:名無しさん@十一周年[] 投稿日:2010/11/22(月) 22:22:27 ID:NdDV1ocu0
これは中国共産党が、何十年もかけて定義した「日本鬼子」や「小日本」の
再定義を日本人が勝手にやり直すという意味で、一種のイデオロギー闘争だな。

非常に単純なイメージ化作業しかできなかった中国共産党の長年の努力が、
馬鹿共の一瞬の仕事で相対化されてしまったという、ある意味のギャグ。

...中国共産党が情報封鎖するのは、ある意味当然。彼らはイデオロギーを
絶対化しなければ生き残れない独裁者。だか、これは「日本=絶対悪」イデオロギーを、
滑稽なまでに相対化してしまっている




(頭いいし・・・)




名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 22:33:45 ID:oCrj2pgj0
大韓民国・中国・小日本
並べてみると色々考えされるだろw




(ぶ)





名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 22:41:26 ID:rx6hyVt10
もうはっきり、おまい中国人みたいだなっていわれる方がムカつくっておしえてやればよい



(直球)





名前:名無しさん@十一周年[] 投稿日:2010/11/22(月) 23:56:52 ID:Qd6BczUR0
「アイヤー」よりも「アル」の方が気になる。

中国人の喋る日本語ってさ 必ず語尾が「~アル」っていうじゃん?

らんまのシャンプーとか、銀魂の神楽とか・・・


なんで中国人は「アル」って語尾につくのが定着したんだ?



前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 00:08:03 ID:eEJDl0d40
>>876
知らないアル




(爆)




名前:名無しさん@十一周年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 00:03:04 ID:l/nCf2Fg0 [2/2]
ところで、支那そばが差別的な言葉づかいとか騒ぐなら、
鴨南蛮とかの方がよっぽど差別用語だと思うんだけど、
そっちで騒ぐ人はいないの?




(w)




いまどきの日本の若者・・・



引きこもりや登校拒否やニート



悪いイメージしかないかもしんないけど



こんな柔軟な思考は新しいw



もしかすると



この無駄に知識を持ったw若者たちが



一丸となった時・・・



日本は柔軟さを持った強い国に育つのかもしれない・・・と



思ってしまった





期待してます





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南京陥落の写真から・・・

Category: 歴史  

今日ボクが見た風景



日の丸の腕章をつけ


笑っている


日の丸に護られて


子供たちが笑顔を見せる


それを見て微笑む母親・・・



すべて 無かった事なのか?


中国人に心は無いのか?


人としてこの尊きを踏みにじるならば


人に非ず


未来永劫地獄の業火に焼かれよ




やさしい日本人は武士なので


裏切り者や寝返ったものには手厳しい


イザ・・・覚悟召されたし




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今も昔もインチキ日本人が大活躍

Category: 中国  




 1937年11月の南京で国際委員会(ラーベ委員長)というのが作られ、中立地帯が作られます。ここは非武装中立地帯ですが、実際は軍事施設があり、国際委員会は蒋介石に軍事施設を撤退するよう求めますが、守られず、日本軍も非武装地帯としては認めませんでした。ですが、攻撃しないように配慮し、実際に攻撃は行っていません。(安全区、難民区とかいろいろな呼び方がある)

 

ラーベ委員長

「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」

 安全区に女性子供を含む民間人は避難しており、南京陥落後も入り口には日本軍の歩哨が立ち無用のものの出入りを禁止しています。南京で民間人が大量虐殺されたなどということは全くありません。

 ところが、ラーベ委員長は支那軍の将校を匿っていました。これは本来問題です。フィッチ師も支那兵を匿っていました。(ラーベ氏の裏の顔はドイツ軍事顧問団の連絡員、フィッチ師は妻が蒋介石夫人と親友)このほかにも匿った人がいたらしく、支那軍の高級将校らは一般の兵士を見捨てて安全区にトンズラしていたのです。

 これらの潜伏した支那兵の中には掠奪、煽動、強姦を犯すものがおり、日本軍が取り締まっています。ベイツ教授(国民党のスパイ)でさえ、当初は日本の取り締まりに抗議しましたが、後にシナ兵が「ならず者」であったこと認めて抗議をやめています。中には日本軍の名をかたっていたものもいます。「皇軍の名をかたり南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕らわる」(昭和13年2月27日大阪朝日新聞)

 この国際委員会というのは国民党のスパイで固められて、支那兵を匿ったりして、ほぼ抗日組織といえるでしょう。日本兵の非行の話が日本側の外交官補の福田篤泰に連絡をいれますが、なんら検証することなく、すべてを事実として記録します。福田氏は当時を回顧してこう言っています。




当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へでかけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。

「いまどこどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している」。あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物をかっぱらっている」等。その訴えをマギー神父とかフィッチなど3,4人がぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして講義されても困る」といくども注意した。時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。




これらは国際委員会の61通の文書となりました。殺人は49件記されています。(仮に事実としても南京虐殺などとは程遠い)そしてティンパーリーの宣伝本にも使われました。しかし検証したものはありません。(国際委員会書記長スマイス博士証言)おそらく支那人に金を握らせてウソの訴えをさせて、記録して抗日宣伝に使ったのでしょう。

 南京では支那兵の悪行が日本兵の行動にすりかえられ、日本兵の悪行を捏造して宣伝していたのです。現在もこれを取り上げて”南京大虐殺”と叫ぶインチキ日本人がいることを知っておきましょう。





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朝日新聞の大罪

Category: 反日  

南京ホラ話

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 1937年の南京事件 を蒸し返したのは日本のマスコミ で、朝日新聞の本多記者の

「中国の旅」(昭和46年)が出発点となっています。

マスコミ 知識人 が「南京大虐殺 」を叫びはじめます。

東京裁判 GHQ による日本弱体計画として南京大虐殺 でっち上げ ましたが、

今度は中共 プロパガンダ として取り上げ、対日外交カードおよび愛国教育 に使われたのです。

南京大虐殺 中共 の教科書に記載されたのは1979年(昭和54年)です。

(81年とも)南京事変は1937年のことですから、62年間支那人 は知らなかったのです。

朝日新聞によってそのことを教えられたのです。

それまで国民党 が30万殺したとか教えていたそうです。


<支那の教科書変化>「日中再考」古森義久記者 ~ 「南京事件 の探究」より

 80年 日本の南京占領の残虐性を描写

 82年以降変化

 92年 「南京大虐殺 」という項目が設定される

 95年 残虐場面を描く挿絵が新たに添付


 「中国の旅」に疑問を持って鈴木明氏が「南京大虐殺 のまぼろし」(昭和48年)を出版しています。

鈴木明氏は「百人斬り」にも疑問を呈しています


 こうした中、私は南京大虐殺 はあったと疑問を持たずに育ちましたから、

GHQ の日本弱体化計画がしっかりと根付いた中、中共 情報戦 が追い討ちをかけて日本人の心に自虐意識を浸透させたのでしょう。


南京大虐殺 のまぼろし」の声を掻き消して教科書を書き換えた

中共 日本支部である大新聞の威力は強大です。


 1997年にはアイリス・チャン 「ザ・レイプ・オブ・南京」が登場し、

これで一気に南京大虐殺 ホラーが世界中に広まってしまいます。


南京虐殺 を否定する本が出版されたことがニュースになったのを覚えていますが、

「そんなことを言う人がいるんだ」ぐらいに思ったものです。

しかし、あるとき南京虐殺 の特集をTVでやっているのを見て兵士の証言が不自然なことに気がつき、

やがて南京大虐殺 はウソだったことに気づきました。


 

中共 はウソを悪いこととは思っていません。


政治にすべてが優先するのです。


歴史のウソも許されるのです。


「政治掛帥」というのだそうです。



中共 では弁偽学という学問があり、何がウソで何が正かを研究する学問です。


中共 の正史(官書)というのはすべて偽史の書であるといえます。


中共 知識人 は心の中では南京大虐殺 なんてありはしない、


あるいは虐殺の支那の歴史の中では大した話ではないと思っているはずです。


南京虐殺 」は中共 にとっては単なる政治の道具に過ぎません。






正直で生真面目でお人よしの日本人はこの人たちからすれば


「カモ」&「ネギ」な存在なわけです。






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乙未事変

Category: 韓国・朝鮮  

1885年10月、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった


閔妃 (ミンビ、びんぴ)が殺害されました。乙未事変 (いつびじへん)といいます。




 下関条約 の調印から半年がたった1985年10月、その前月に井上馨 に代わり朝鮮公使 となってソウル に入った退役中将 ・三浦梧楼が指揮をとり、早朝、日本軍 守備隊と民間の壮士たちが朝鮮王宮に乱入、王妃・明成皇后を惨殺します。政治の実権をにぎる皇后の一族がロシアに接近していたのを断ち切り、日本軍 の駐兵を引き続き確保するため、参謀本部 が密かに立案、政府も黙認して決行した。近代国家 としての恥も外聞もかなぐり捨てた恐るべき蛮行でした(詳細は金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年、高文研、参照)。




このあたりはNHK の番組「坂之上の雲」で捏造シナリオがあったので

堂々と捏造歴史を語ることができるのでしょう。テレ朝でも捏造番組を作っていました。




日本軍 守備隊と民間の壮士たちが朝鮮王宮に乱入


 うまく「日本」だけ印象づけるように「民間の壮士」と書いてごまかしていますが、

禹範善率いる朝鮮の訓練隊です。三国干渉 に日本が屈服すると閔妃 とロシアとが結託して

親日 政権 を倒し、親露派で朝鮮を支配しようとしていました。

訓練隊は「反閔妃 決起」の志を日本人志士達と通じて接近し、日韓有志の連合ができたのです。

朝鮮政府が訓練隊の解散、武装解除 を通告され、

三浦梧楼が指揮して訓練隊と日韓有志が大院君を擁して王宮に入り混乱の中、

閔妃 が殺害されました。


参謀本部 が密かに立案、政府も黙認して決行


 『朝鮮王妃殺害と日本人』を参考にしていると思われますが、

はて、こんな話は聞いたことがありません。

 WikiPediaによると「実際の暗殺の真の首謀者、実行者は誰であったかについては、

日韓外交 資料、梅泉野録、アジア歴史資料センター による公文書

ロシア参謀本部 中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされているが、

真相はいまだに明確ではない」となっており、


「殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母 ノ仇、

禹範善』となっているだけでなく、『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と

自ら犯人であることを漏らしている」とあります。


 Wikiには以下のような記述もありますが、

閔妃 を連れ去ったり殺害したところを見ているわけではありません。


 Seredin-Sabatinは以下のように記録している


「王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。

 彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。

 そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。

 …複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、

 その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。

 …私は…日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。

 二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、

 そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた…

 また、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。

 …私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校

 そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。

 しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった」


 殺害現場にいた純宗(閔妃 の息子、後大韓帝国皇帝 )の証言と禹範善の自白からいって

 禹範善が犯人といってほぼ間違いないでしょう。


 高宗も「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と証言しています。

 (1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))


 まったく、こういう史料 を無視して日本人を犯人だと決め付けるのですから、

 酷い話です。ちなみに梅田 氏は閔妃 を「明成皇后」と書いていますが、

 これは諡号 (しごう)と言って高貴な人に死後おくる美称です。


 事件の黒幕と見られる大院君は閔妃 を死後平民に格下げしましたが、

 特命全権公使井上馨 の尽力によって贈り皇族 に戻しています。


 韓国人学者はこのことを知らないそうで、

 朝鮮総督府 が明成皇后という称号を奪って閔妃 と呼んで卑しめたと思っているのだそうです。

 

 


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通化大虐殺

Category: 韓国・朝鮮  
昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党 に満州国通化省通化市は支那共産党 軍に占領されていましたが、中華民国政府の要請に呼応した日本人が蜂起しました。しかし、計画は事前に露見していました。ろくな武器を持っていなかった蜂起軍は変電所、支那共産党 司令部、公安局を襲撃しましたが、共産党 軍の重火器によりあえなく敗退しました。このとき、1月10日に日本人の有力者が逮捕され投獄されていたのを奪還にも行っていますが、軽機関銃 で撃ち殺され全員戦死したどころか、獄舎にも向けて銃撃したので、獄舎にいた140名も全員殺害されました。

 

 その後、共産党 軍は事件に関係したものだけでなく、関係しないものまで全員逮捕したので3000人にもなったといいます。零下20度近い獄舎、憲兵隊 跡、公安局、県大隊などへ死の行進をさせました。獄舎の8畳ぐらいのところに100人ぐらい詰め込み、5日間立ち尽くしになり、水も飲めません。気が狂って叫ぶ人が出ると「うるさい」と窓から弾が飛びます。

 5日目から尋問が始まりますが、尋問の前に殴りつけて白状を迫り、倒れると外に放り出されて凍死するものも出ました。死刑 になったもの、凍死したもの、拷問によって死んだものはトラックに積んで凍結している揮川に投げ捨てられました。逮捕された留守宅は女性や子供ばかりで、朝鮮人 部隊が家宅捜索 として掠奪し、女性を陵辱しました。自殺 した女性もいます。

 

 満州製鉄林業課のイイヅカ氏

「となりの教室から、調べられている人の悲鳴が聞こえてくる。板の間に正座させられて、事件のことを知っているだろうと聞かれる。知らないと答えると、木刀で容赦なく打ち据えられる。拷問に耐えかねて、二階の便所から逃げ出した人がいた。ところが、一緒に便所に行っていた人まで、お前が逃がしたのだろうといわれて僕らの見ている前で撃ち殺された」


 通化にいた上坪隆(RKB毎日放送

「男は無差別に次から次へ銃殺される。銃殺された日本人の衣服を剥ぎ取るために待ち構えていた中国人 が、ドラを鳴らしながらワーッと群がってくる。丸裸にされた遺体は凍てついた土手を滑り台のように滑って凍った川につきおとされる。川床 にはかちかちになった死体がごろごろ転がっていた」


 次のような証言もあります。

中国共産党 の本拠地である延安から派遣 された若い裁判官 の前で、台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から『俺達を酷使した、俺達を殴った』という声が上がる。裁判 長が『どうする』と問うと、『打死!打死!(殺せ殺せ)』と民衆が叫び、これで裁判 は終わり。その日本人は背中に『南無阿弥陀仏 』と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された」


 この事件の戦死者は厚生省 援護局の資料では約300名で事件後の死者は1200名となっています。大虐殺を行ったのは朝鮮人 部隊がほとんどで、共産党 軍主力は通化を離れて作戦展開しており、司令部はこの虐殺を知って銃殺中止命令を出したようです。

 通化の日本人はこの年の夏の終わりにようやく引き揚げることができました。この年(昭和21年)の暮れに中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者 の慰霊祭が行われました。昭和22年(1947年)には支那共産党 軍が通化を再び占領しました。

 通化事件の遺族は昭和27年(1952年)に遺族会 を設立し、昭和30年(1955年)以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っています。




日本人が大虐殺された歴史は抹殺されました。



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Category: 日本国民の心得  

教育勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ恕yヲ樹ツルコト深厚ナリ

我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此

レ我カ國體 ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ

兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ

修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ恕y器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開

キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無

窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス

又以テ爾祖先 ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所

之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々

服膺シテ咸其恕yヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治 二十三年十月三十日

  御名御璽


口語

 私の思い起こすことには、我が皇室祖先 たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。

我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、

世々にわたってその美をなしていきましたが、

これこそ我が国体 の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。


 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和 よく協力しあい、

友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、

学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、

世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法 を重んじ法律 に従い、

もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、

このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。

これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、

あなた方の祖先 の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。


 このような道は実に、我が皇室祖先 の御遺(のこ)しになった教訓であり、

子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、

国内だけでなく外国においても間違いなき道です。

私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、

皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。


明治 二十三年十月三十日





戦後日本の最大の禍根とも言うべき日教組 の誕生もまた、


ほかでもないアメリカ教育使節団の提言である。


報告書には「教師の権利」として「思想表現の自由 、地位の保障、


待遇の改善」を実現するため、「校長の支配を受けることなく、


自由に討議する」教員組合の「組織の自由が認められるべきである」と明記されている。


この勧告の翌年、日教組 が設立された。






結果、古事記日本書紀 神話 は現在、義務教育 課程において


「国語」でさえ教えられていない。


戦後教育を受けた日本人は天孫降臨神武 東征も教えられずに育つ。


私たちは、自分の国のそもそもの成り立ちを学ぶ権利を奪われている。



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Category: 歴史  




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